2008年9月15日月曜日

アイちゃん



ファッショナブルタウン・神戸、なんていわれると、思わず笑ってしまう。

18歳まで、1968年から1986年まで神戸ですごした人間からいわせれば、神戸のどこがファッショナブルタウンなんだろ思ってしまう。

なるほど百万ドルの夜景はあるし、ハーバーランドあたりはデートにはもってこいだ。

しかし夜景といっても、ただ山と市街地が近いだけの話だし、ハーバーランドもただの人工的な無機質極まる街としか見えない。

自分の記憶にある神戸は震災とともに崩壊した。むろん震災がなかったとしても、神戸市自身がオシャレな街へと変貌を遂げるべく努力していたのだから、総入れ替えになるのは時間の問題だった。

自分のもつ神戸、とくに最大の繁華街のある三宮のイメージは「小便臭い街」である。

形容ではなく、本当に小便臭かった。ポートピア'81が開催された頃、たしか立ち小便を禁止する条例か何かがでたはずだ。それぐらい街中にアンモニアの臭いが立ちこめていた。

1970年代までの神戸はどこか戦後を引きずっているような部分があった。

もうだいぶ変わってしまったが、JR元町駅から神戸駅の高架下にある商店の数々は、いかがわしい商品の宝庫であった。といってもエロだけには限らない。

謎の使用済みのカセットテープから、いったいどこの会社が製造しているのか、本当に最近つくられたのかわからない、とんでもなく時代錯誤な洋服。はては一円の価値もなさそうな、ゴミ捨て場におかれてそうなコップまで、とにかくありとあらゆるものが置いてあった。

自分は高架下を歩くのが大好きだった。もちろん怖いのは怖いのだが、それでも、何かとんでもない世界に入っていく、そんな感覚を味わいたくてつい行ってしまう。「没落を淫する」とでもいうのか、とにかくあの感覚は忘れられない。

いや、高架下に限らず、1970年代までの三宮は、もっと怪しい雰囲気を持っていた。たとえば元町にある中華街(自分たちは南京街と呼んでいた)は、今のように観光客があふれておらず、日曜でも閑散としていて、何か近寄りがたい雰囲気が充満していた。

それでも祖父の家が三宮駅から徒歩10分ぐらいのところにあった関係もあって、小学校に入る前の段階で、“ひとり”で三宮の街を闊歩していた。

昼日中でも薄暗い路地や地下街が多かったのだが、臆することなくひとりで歩き回った。怖いものすらずだったからこそできたのかもしれない。

それでも、どうにも怖い場所もあった。

当時の三宮はまだ浮浪者も多くて、とくに阪急三宮から春日野道の間の高架下に寝床がいっぱいあった。

怖いのだが、この高架下をくぐらないと繁華街の方まではいけない。だから毎回勇気を振り絞るしかなかった。

ただ、子供心に、ひとりだけ気になる浮浪者がいた。

彼女は、いや彼女といっていいのか、とにかく見た目はおばあさんなのだが、なんとオカマだという。

亡くなった祖母の話によると、何でも昭和20年代からいるらしく、たしかみんなから「アイちゃん」と呼ばれていた(違うかもしれないけど、とにかくそんな名前だった)。

独特の風貌であり、しかも明るい。近所の人からもわりと親しまれていたのではないか。愛称で呼ばれていたことからもそれはうかがえる。

自分が見る限り、アイちゃんはとにかく誰かと話していた。同じ浮浪者仲間だったり、近所の人であったり。ただし声が小さいのでよく聞き取れない。

一度でいいからアイちゃんと話がしてみたいと思っていた。向こうも子供なんか相手にすまいが、もし仮にそういうチャンスがあったとしても、おそらく怖くてできなかったと思う。

なんだかんだしているうちに、アイちゃんを見かけなくなった。ちょうどポートピア'81の頃だったか。その頃から急速に浮浪者もいなくなり、街のイメージも変わりつつあった。

神戸市はやたら観光に力を入れだした。閑古鳥が鳴いていた南京町はリトル中華街風になったし、ずっと後の話だが、神戸駅の南口を大規模開発してハーバーランドなるものをつくった。

そんな自称ファッショナブルタウンに浮浪者は不必要なものだったのだろう。

しかし自分は、あの頃の三宮が懐かしい。猥雑で汚くて小便臭くて、浮浪者が街の人と気軽に話せる。でももうそんな三宮はどこにもない。

アイちゃんはどこに行ったのだろう。変わりゆく三宮に見切りをつけたのか、それとも病気にでもなったのか。

あの時点の年齢からいって、二十一世紀の今、この世にいるとは考えずらい。それにしても今になってみると、本当にアイちゃんと話をしておくべきだったと思う。オカマにして浮浪者、いったいそこにたどり着くまでに、どれだけ数奇なことがあったのだろう。そして変化していく神戸をいったいどんな目で見ていたのだろう。