2010年2月16日火曜日

ラムのラブソング

小学校の時、とても仲のいい友人がいた。
しょっちゅう家に遊びにいってたし、とても楽しい時間をともにしていた。たしか小学4年の時だ。
5年、6年は別のクラスになったこともあり、次第に希薄な関係になっていたが、自分の中で彼は「友人」だと思っていた。
中学2年の時、また同じクラスになった。
しかし、彼は、あの頃と大きく変わっていた。
いわゆる「アニヲタ」になっていたのだ。
もちろん当時はそんな言葉はない。だが、今いる、アニヲタと何ら変わらない姿の彼がそこにいた。
当時は空前のガンダムブームで、自分もその波に流されていた。
が、それでも、かつての友人にはついていけなかった。
彼は彼と同じくらいの濃度を持つクラスメイトとアニメの話を続けている。自分は全然入っていけない。
というか、あまりにも濃すぎて入っていこうという気すら起こらなかった。
彼は特に「うる星やつら」がお気に入りだったらしい。もちろん彼と直接会話して得た情報ではない。彼とアニヲタ仲間との会話を、まあいや盗み聞きしたのである。
押井がどーちゃらこーちゃらとか高田なんちゃらがとか、その主立った内容は「うる星やつら」のアニメスタッフへの批評であった。
そんな中、とても耳にひっかかる言葉があった。
「うる星のエンディングは大ヘンが一番よかった」
補足する。「大ヘン」とは、何度か変わったエンディングテーマのうち、一番最初の「宇宙は大ヘンだ」のことである。
これは非常に同意できるものであった。とはいえ盗み聞きしていた自分は彼に直接同意を伝えたわけではない。

さてこの言葉を思い出したわけではないが、突然「うる星やつら」の最初のオープニングテーマソングである「ラムのラブソング」を聴きたくなった。
理由は実にしょーもない。福山雅治の物真似をする時、何を歌ったら一番面白いか、ぼやーっと考えてる時にこの曲がひらめいたのだ。
(余談だが自分はこういうくだらないことを考えるのが好きだ。前に河村隆一にプロ野球のヒッティングマーチを歌わせたら、いや、河村隆一の物真似でそれを歌ったら・・・と考え、誰に聴かせるわけでもないのに一人で練習していた)

で「ラムのラブソング」である。
リアルタイムでしかまともに聴いたことがなかったのだが、何というか、非常にきらびやかで派手なアレンジの曲、というイメージがあった。
ところが実際聴くと、何ともシンプルなアレンジなのである。宇宙を連想させるキラキラ音は入っているが、全体的に音数が少なく、実に今っぽい。

ま、それだけなら、ここに記すようなことではないのだが、非常に驚いたことがある。松谷祐子という人の歌唱だ。
けして巧い人ではない。よく聴くと音程がかなり怪しい。
しかし、何というか、ちょっと類のない声質を持っている。
とにかく声がとてもかわいい。かわいいというと、どうしても高音が、と連想されようが、しっとりした声で、どちらかといえばダークな声質である。
にも関わらず、かわいい、というのは珍しい。
必死になって類似した声質の歌手を探したが、ちょっと思いつかなかった。
元友人が絶賛したエンディングテーマの方も、彼女が歌っている。
サビがコーラスなので「ラムのラブソング」ほど良さはでていないが、やはりかなりいい。歌唱力ではなく、声の魅力だけで保たせている。

調べてみるに、この人、これ以降ほとんどレコードを出していない。声優もやってたようだが、「うる星やつら」、「めぞん一刻」と高橋留美子作品が並ぶ程度である。
もしかしたら生まれた時代が悪かったのかもしれない。今、こういう人がいたら(もちろん器量にもよるが)、歌手としてかなり人気がでたんじゃないかと思ってしまう。
もちろん「あの時代」だったからこそ、一世一代の名曲「ラムのラブソング」に出会えたのはわかってはいるのだが。

2010年2月5日金曜日

真面目と必死

長らく日本では「真面目」や「必死」という言葉は肯定的な意味で捉えられていた。
それが時代が変わり、目上からの押し付けがましい言葉に変化していった。
「真面目に勉強しなさい」
「必死に勉強しなさい」
仕事、でもいいんだけど。

それがここ20年くらいだろうか、もっと否定的な意味で使われている気がする。
「必死」に関しては、何年くらい前だろうか、松本人志が今は亡き某携帯電話のCMでの「何かもう必死でしょ」というセリフを覚えておられる方も多いと思う。
松本以外にも上方芸人が使っていたのを何度か聞いたことがあるので、「必死」の否定的使用は関西発祥なのだろう。
これは前にやっていたブログでも書いたことがあるような気がするのだが、どうにも「必死」を否定的に使うことに違和感をおぼえてしまう。
先の松本のCMのセリフを借りるなら「必死でええやん。必死の何があかんの」と思ってしまうのだ。

まあそれはいい。問題は「真面目」の方だ。
ずいぶん前になるが、友人から「真面目な人だなあ」といわれて頭にきたことがあった。
これは自分も俗世間に流されているのかもしれないが、真面目、という言葉から連想されるのは「融通のきかない、頭の固い人」みたいなイメージだ。
いや、自分のイメージはこの際どうでもいい。それよりその友人が明らかに否定的なニュアンスで「真面目」という言葉を使った。それにたいして腹が立ったのだ。

逆の例を出す。
知り合いの人で、「真面目」を全肯定的に使う人がいる。真面目であればすべて良し、みたいな感じなのである。
どうも、何というか、それはないんじゃないの、といいたくなってしまう。
たとえば誰かと軽い揉め事が起こったとする。どっちが悪いというわけでもない。ただ何となく流れで険悪なムードになってしまった。
こういう場合、相手が真面目な人だからこうなった、といわれて納得いくであろうか。自分なら到底納得いかない。
相手を許すことと、相手が真面目なことは全然関係ない。むしろ「真面目なんだから許してやれよ」とかいわれたら、余計こじれるんじゃないだろうか。
真面目は免罪符にはならない。真面目な人を否定するつもりはないが、逆にいえば不真面目な人も否定するつもりはない。
というか、今の時代、確実に不真面目な人の方が生きやすい。
もうしつこく書いているのでさらっと書くが、何人かのうつになった知り合いの人は、揃いも揃って、馬鹿正直なほど真面目な人なのだ。

そもそも・・・「自分のことをしっかり考える」とか、いや、もっと簡単なことでいえば「明日仕事だから飲みすぎないようにしよう」と考えたりするのさえ真面目になってしまう。
つまり真面目を否定的なニュアンスで使っている人ですら、実は真面目なのだ、といえなくもないのだ。
真面目に考えていいことと、考えなくていいことがあるのは当たり前の話で、それは人それぞれ違う。つまり真面目と感じるかどうかなんて価値観の違いでしかない。
それをしたり顔で「真面目な人だ」という人こそクソ真面目なんじゃないかと思ってしまう。

まあこんなことを書いている時点で自分も十分クソ真面目なんだけどね。