2009年3月31日火曜日

紀香

たまに信じられないくらい予想が当たることがあるか、もしかしたら自分は予知能力者なのかもと思うと夜も眠れない。

「ツレがうつになりまして。」がドラマ化されるそうだ。正編と続編、ともに楽しく、というか役に立たせてもらったので、まずはめでたい。(といっても自分がうつになったわけじゃないが)
何となく、いや必ずこれはドラマ化するんじゃないかと思ってた。しかしNHK制作とは驚いた。てっきり民放の2時間枠でやるんじゃないかと思ってたんで。
んで藤原紀香である。これは全然驚かなかった。信じられないかもしれないが、もしドラマ化されるなら絶対藤原紀香が主演すると思っていたからである。
何の根拠もない。漫画のキャラクターとも細川貂々ともまったく似ていないのだが、絶対藤原紀香がやるよ、見てみな、と思ってたら案の定である。

案の定といえば藤原紀香離婚後初ドラマということでそっちばっかり取り上げられているが、このドラマに出る出ないに関わらず、もしかしたら藤原紀香は大女優になるかもしれない。
え?と思われて当然。藤原紀香に演技面ではまったく能力が見られないのはわかってる。しかし大女優=演技力の長けた、ではないのだ。実際大女優といわれてる人でも演技力が弱い人は結構いる。
しかし、何というか、この人「存在感」だけは滅茶苦茶あるのですね。
昔「クイズ!紳助くん」のアシスタントをやってた頃、全然無名の頃だったし、役割もないに等しいのに、奇妙な存在感だけはあって、何だか変に目立っていた。
だいぶ経ってから「スタアの恋」というドラマがあった。このドラマで藤原紀香はずばり大女優役だったのだが、その存在感のおかげか、大女優といわれてもあまり違和感はなかった。

何だか悪口みたいだが、それほど美人でもない、ナイスバディといわれるが実は顔が大きい、かといって色気にも乏しい、そして演技力は先ほど書いた通り、と何のプラス材料もない中で、存在感だけは突出している。
よくよく考えてみると、大女優といわれる人は、とにかく存在感が半端じゃない。スクリーン越しにググッと迫ってくるような迫力が大女優にはある。芯(主役)になれるのはこういう人たちだ。
逆にいえばどれだけ美人で演技力に長けていても、存在感が薄くては、いくら脇で重宝されても芯にはなれない。つまり大女優にはなれないのである。

もし「藤原紀香は大女優になれますか?」と問われれば「その器はありますよ」と答えるしかないのだ。
ま、今の時代、大女優になれたから何だって話もあるが。それにあくまで可能性があるだけの話で、本当にそうなれるかどうかは知らない。

2009年3月30日月曜日

若槻

ドラマなんかを見ているとプロデューサー連の頭が硬直化してるんじゃないかと考えてしまって夜も眠れない。

先日久しぶりに若槻千夏がテレビにでているのを見た。
もう最近はバラエティそのものを見なくなっており、たまたまテレビをつけたらでていたのだが、そういえば一時休養とかしてたんじゃなかったっけと思い出した。
自分は昔から若槻千夏という人を買っており、空気を読みながらも強引に押し通すところは押し通す、タレントとしての力量を持ってる人だなと見ていた。
もっとも認めているのはそういう部分だけで、いわゆるグラビアアイドルとしての若槻千夏には何の興味もない。興味がないどころか、むしろ好ましくない顔立ちである。
じゃあ目の前に若槻千夏がいても何の関心もないのかというとちょっと違う。何というか、この人、テレビ越しにも伝わってくるぐらい、独特の哀愁を感じるのだ。特に休養宣言か何かして、先日テレビで見た時の方が以前より哀愁が増しているような気がした。
見ていた番組 ーはっきりいえばぷっすまなのだがー の中でも占い師におおざっぱな考え方をする人と指摘されていたが、自分もおそらくそういう人なんじゃないかと睨んでいる。
しかし一方でやたらと繊細な部分も見え、かなり微妙なバランスの上に成り立ってる人のような気がする。

ものすごくフシギなのだが、何故こういう味をバラエティの中だけで閉じこめておくのだろう。もし自分がプロデューサーなら絶対にドラマに使ってみたくなる。
それは演技力の問題というかもしれないが、正直演技力なんかほとんど関係ない。周りに達者な人を配して、下手が目立たない、というか下手だからこそ個性が際だつような役を割り振れば、今の日本にはあまりいないユニークな女優になるんじゃないか。
とにかくこれだけ哀愁を感じる、しかも変なストイックさもない、繊細で大胆な個性を持った人はそうはいないのだから活かさない手はないと思う。

実際にそうなるかはプロデューサーの感覚次第だ。何だか昨今のドラマは「キャスティングを見ただけで見たくなくなる」作品が多いのだ。もうある種の意外性のあるキャスティングができなくなってる。
もちろん若槻千夏本人がそういう方向性を望んでいるかという問題もあるが、どれだけ成功するかは知らないまでも、まだ女優の方が可能性が広いような気がする。

2009年3月28日土曜日

脳内イメージ

たしかこんな感じだったような気がするんだけど、実際どうだったか気になって夜も眠れない、なんてことは断じてない。

話は朝の連続テレビ小説のことである。タイトルは・・・何だっけか。まあタイトルなんかどうでもいいや。
見てなかった人のために簡単に説明すると、これは島根の純朴で何の取り柄もない青年が童貞を失うまでの話である。
主人公の名前は丹波。一部からは丹波リンの愛称で親しまれている。この丹波リンが幼なじみの双子の姉妹の片割れに恋をし、やがてもうひとりの、祇園で芸妓の修行に励む双子の片割れ、さらに後輩のノッポくんを交えて4人でバンドを始める・・・。
でもこんなのはサイドストーリーでしかなく、何といっても主人公の丹波リンが童貞であることを理由に社会から理不尽な目に合う、それがメインテーマである。
特に感動的だったのが丹波リンの決めゼリフ「童貞だって人間だガ!」感情を高ぶらせて松江弁で激白するこのセリフは多くの人々の涙をさそったに違いない。
彼にアドバイスをおくるのが、能面のように無表情で、感情はすべて首の傾け方で表す男、イシバシである。
丹波リンの激白にもイシバシは顔色ひとつ変えずこう切り返す。
「いい加減目を覚ますんだ丹波!今の日本では童貞は人間扱いされないんだ!キミぐらいのトシで童貞だと、世間からは何の魅力も能力もない、そういう認識しかされないんだ!」

丹波リンは何とか童貞脱出を計ろうとする。が、それはことごとく失敗に終わる。ついに意を決して風俗に行くが、風俗嬢にこっぴどく馬鹿にされ、またしても童貞脱出は失敗に終わる。
しかしそんな丹波リンにもついに春がくることになる。初恋の相手でない方の双子の片割れ(芸妓の方)にプロポーズし、それが受け入れられたのだ。
初夜が待ちきれず、何をやっても手につかない丹波リン。そしてついに結婚式当日を迎える。
が、ここまで来て最大の問題が発生する。
今や何故か世界的なギターリストとなったかつてのバンド仲間の後輩に
「先輩、まさかとは思いますが、当然やり方は知ってますよね?」
と聞かれた丹波リン、自信満々に
「当たり前だガ!昨日もビデオで予習しただガ!まかせてゴシナイ!」
「ビ、ビデオってまさかアダル・・・」
そう、丹波リンはAVそのままのプレイをすればいいと思ってたのだ。
果たして丹波リンは無事童貞を脱出できるのか・・・・。

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・・・やっぱ面白くないな。自分の能力のせいもあるけど、骨格がここまでダメだと面白くするのは至難の業だ。
最後の方、あきらかに台本に手が入ってたけど、手を入れた人、大変だったろうな。勝手に話を変えて書いてみてつくづく思った。
おそらくあの台本をいくら変えても面白くするのは困難だろう。てか本当にできるのか。知らんけど。

2009年3月27日金曜日

正論

正論で責めてくる奴ほどタチの悪いのはないと思う。とか考えると夜も眠れない。(そろそろこの書き出しも無理がでてきたな・・・)

日本がWBCで優勝したことはまことにめでたい。自分も一野球ファンとして心から代表メンバーを祝福したい。
こんな時に大会そのものや原監督の采配についてとやかくいうのは野暮というか、水を差す行為でしかないのだが、たぶんwebや週刊誌ではそういう意見がまかり通るのだろう。
特に馬鹿騒ぎする国民を冷笑する奴らっていったい何なんだ。いいじゃねーか。テメーらが嫌いなのは勝手だが、マツリゴトを批判しだすとキリがねえよ。
「野球ごときに馬鹿騒ぎしてる時か。日本は今大変な経済的危機的状況にあるんだ」なんてわかってんだよ。自分なんか仕事柄、不況を通り越した大恐慌のせいで、実際いくつか大きな仕事が飛んで大打撃を受けてんだよ。
こういう正論(と自分は思ってる)に何の意味もない。一種のスノッブというかハシカみたいなもんだと思って、そういう輩を相手にしないのが一番だ。

さて正論といえば最近元西武ライオンズ監督の森祗晶の「野球力再生」という本を、パラパラとであるが読んだ。
森祗晶は野村克也よりよほど狡猾で、しかも慎重、迂闊なことはあまりいわないイメージだが、横浜ベイスターズにTBSが介入して無茶苦茶になった等、かなりぶっちゃけていて面白かった。
この本の中で、WBCの監督が原辰徳に決まるまでの矛盾点やプレーオフの問題点を指摘しており、これがいちいちもっともだと頷けるものばかりだった。
ただひとつ気になる点があった。中にやたら「正論」という言葉がでてくるのである。
それをいえばこの本自体が正論のカタマリである。細かい指摘まで一縷の隙も見えない。
だからか、面白いことは面白いのだが、肩がこってしまう。
まあ主張に「しつこさ」みたいなのはないので不快ではないんだけどね。てか気づいたんだけど、結局正論をいう人ほどしつこいんだな。その論理を他人に強要してくるみたいな感じになってしまうことが多い。

だから自分は正論が嫌いなんだ。正論をいうのが悪いんじゃない。正論を盾に自分の考えを押しつけてくるのが嫌なんだ。
でもそのことをあんまり主張しすぎると、今度はこっちが強要してるみたいになるし・・・難しいもんだ。
え?WBCの話はどこいったって?知らん知らんわしゃ知らんぞ!

2009年3月23日月曜日

先入観

元々記憶力が悪い方だが、最近は特に酷くなってきている。こんな調子でこの先大丈夫なのだろうかと考えると夜も眠れない。

「覚えていない」ならまだいい。問題なのは記憶違いが発生しているのである。まあいや、過去の記憶を改竄していることになる。これはマズい。
しかしそもそもその時点できちんと事態を認識していたかというと怪しい。どうも先入観というのが強くて、はじめっから間違えて記憶していた可能性すらある。

しょーもない話を書く。
昔「アタックNo1」というテレビアニメがあった。自分の年齢だとリアルタイムで見れるわけないのでおそらく再放送で見たのだろう。何故か自分の住む関西地区ではよく再放送をやってた。
このアニメの中に「みどり」というキャラクターが登場する。
自分はてっきりこの子を主人公のライバルというか、意地悪なキャラだと思いこんでいた。
ところがある程度大人になってから見返すと、これが全然違うのである。
たしかにごく初期はそういう兆候は見られる。しかしわりとすぐ主人公であるこずえと仲良くなって、以後はチーム内でもっとも信頼できるプレーヤーとして、そしてふたりは親友になっていく。
これはいったいどういうことだろう。そんなに初期のイメージが強かったのか?いや、どうもそうではなさそうだ。
みどりのキャラクターデザインは、こずえ他に比べるとかなり性格がキツい感じになっている。そう、おそらく見た目だけで「こいつはヤな奴に違いない」と思ったのだろう。

もう一本、よく「アタックNo1」と混同される「サインはV」でも同様の勘違いをしていて、中山麻里を意地悪役だと思ってた。これも中山麻里の顔のせいだ。

人間見た目じゃないとかいうのは何も異性に対してのことじゃない。フィクションでさえ、見た目で判断する、というか決めつけてる。現実世界じゃもっと見た目で判断してるに違いない。

記憶力はますます悪くなっている。だったらせめて見た目で決めつけるとか、初動の失敗を減らしていかなければ、はたからみればタチの悪い嘘をつく人間になってしまいそうだ。
はたしてうまくいくかどうか。もしできなければ30年後どういう扱いになっているか、知らない知らない知らない。

2009年3月22日日曜日

回転寿司

銀座にあるような超高級寿司店の寿司って本当にそれだけおいしいのだろうかと考えると夜も眠れない。

回転寿司なんてもんは値段もそれなりなら味もそれなりで、まあそれでも時たま行くのは、寿司というメニューが食べたいからである。
しかし季節によっては結構脂の乗ったネタなんかも廻ってきたりするし、なにより財布と相談しながら食える(それも結構腹一杯)のが助かる。
では今まで行った最高の回転寿司と問われれば、断然ア○ムボーイということになる。
と書くととんでもない味覚音痴に思われるかもしれない。ア○ムボーイといえば、正直かなり評判が悪く、個人的な記憶でもカピカピに表面が乾燥したネタかサラダの軍艦しか廻っていない、みたいな印象だった。
しかし「そこ」のア○ムボーイは違う。「そこ」とはどこなのかあえて書かない。しかも今は店名が変わってしまっている。
「そこ」は魚がうまいことで知られる某市にある。当然客は魚に関しては異様に舌の肥えた人たちばかりなのだが、そういう人が絶賛する、そういう店なのだ。
値段も回転寿司にしてはお高いが、それでもカウンターに座る店に比べるとはるかにリーズナブルで、一応財布の中身を計算しながら食うことができる。

回転寿司というからには皿が廻っているのだけれども、実際はほとんど廻っていない。だからいちいち食べたいネタを注文する。すると職人さんが握ってくれる。

これがうまいのうまくないの。どっちやねん。わからん人はほっていきますよ。義務教育やないねんからね。ツルルッツ、ギョッギョッ。

自分は冒頭に書いたような銀座の超高級寿司店にこそ行ったことはないが、年相応にそれなりの寿司屋には行ったことがある。しかもかつては二年程度ながらも某配達専門の寿司屋でバイトをしていた経験もあり、ある程度はいいネタかどうか峻別することはできるつもりだ。
でも「そこ」は特別だ。時間さえあれば東京にある、それなりのランクの寿司店に行くより、新幹線を乗り継いででも某市にある旧ア○ムボーイに行った方が価値があるような気さえする。旅費を考えてもかかる費用はあまり変わらないはずだ。

これはまさしく「価値がある」ということだろう。これほど至福を味わえる、しばらくは余韻を味わえる店を他に知らない。

2009年3月19日木曜日

クソまじめ

最近こんなタイトルのエントリを別のどっかで書いた気もするが、気にしてもしょうがないのでこのままいく。・・・・いや、これじゃ始められないので体裁で、やっぱり気になって夜も眠れない。

以前「俺たちの朝」について書いたが、小倉一郎演じるチューの姉役で日色ともゑが出ていた。
とにかくこの人、クソまじめというか、頭の固い、融通のきかなさそうな役をやらせたら天下一品である。
舞台も見に行ったことがないし、出演ドラマもチェックしているわけじゃないが、自分の知ってる限り、たいていこの人の演じる役はこれに準じている。
たとえば犯人役だったとしてもまじめが仇になって・・・みたいな感じで、心底の悪女なんて見たことがない。
もちろん達者な女優だから、もしそんな役をやってもそれなりにこなすに違いない。
でも・・・やっぱり合うとは思えない。もう根っから、沸き立つようなまじめさというか、頭の固さが全身から漂っている。
もし機会があるなら、日色ともゑと一度話してみたいと思う。あくまで役柄だけで意外とフランクな人なのだろうか。
それとも役通りに、ああいう人なのだろうか。

ここ何回か女優さんとかタレントさんについて書いてきたが、三原葉子や渥美マリ、そして楠田枝里子とも全然タイプが違う。ある意味一番遠慮したいタイプではある。
もっともブラウン管越しにそんなことを決めつけるのは無理があるに決まってる。実際の人柄と演じるキャラクターが全然違うなんてことは珍しくない。
(あの上沼恵美子がふだんは無口でほとんどしゃべらないというのは少し信じられないが。ビートたけしはまだ信じれるけど)

でもまあやっぱり醸し出す雰囲気ってのもあるわけで、もしコンパで日色ともゑのような人が来たら、そそくさと帰ってしまうだろう、自分は。本当の性格とか関係なくね。
もし目当ての子がいても、少しでも踏み外したような言動をしようものならどれだけ糾弾されるかわかったもんじゃない。
すんません、すべて不真面目な私が悪うございました、なんてあやまりたくないもん。何も悪いことしてないのに。帰るよ、マジで。残されたメンツのことなんか知ったこっちゃない。

2009年3月10日火曜日

やらしい女優

こんなタイトルで妙な期待をさせてしまったらどうしようと考えると夜も眠れない。

昔の邦画を見てると「やらしい」としか形容しようがない女優が結構でてくる。
たとえば新東宝でいえば三原葉子とか東宝でいえば北あけみとか、大映でいえば渥美マリとか。
これらの女優はたいてい話のアクセントというか、主人公を誘惑するような役ででてくる。まあ渥美マリはちょっと違うが、あれはそっち側を主役にしただけで、基本は一緒だ。
これらの女優はみんなたいして美人ではない。体型も今見るといいとは言い難く、三原葉子はかなり腹がでてるし、渥美マリは意外と胸がない。
しかし、とにかくやらしいのである。そういう役だから、ではなく、もっと本能を刺激する部分で存在そのものがやらしいのだ。
よくいえばコケティッシュ、悪くいえばオナペッ・・・いややめとく。

これはこないだ書いた楠田枝里子の反対のパターンで、絶世の美女はやらしいとか超越してしまって異性としての魅力を感じづらい。しかし先にあげた人たちは顔も美形ではなくスタイルもよくない。だからこそやらしいのだ。
そりゃ女性と生まれたからには少しでも美しくなりたいと思うのは当然だろう。(ま、楠田枝里子は行き過ぎだろうけど)
しかし男性が本能的に望んでいるのは「やらしい」女性なのだ。これは顔もスタイルもたいして関係ない。そこそこレベルで十分だ。
では何が必要かといえば、いい意味での下品さがいる。三原葉子も北あけみも渥美マリも、いっちゃ悪いが下品な香りがする。それは言葉遣いや人格の問題ではなく、醸し出す雰囲気が下品なのだ。

今こういう女優はほとんどいない。その意味で鈴木砂羽にはちょっと期待していた。
実質デビュー作である「愛の新世界」の彼女は、実に下品なやらしさを醸し出していた。
その後本格女優っぽくなって、某朝ドラで母親役とかやってるが、この人の持ち味は元来「下品なやらしさ」ではないか。

そういや松坂慶子も子役からあがってしばらくは「下品なやらしさ」を持ってたが、やっぱり本格女優っぽくなってしまった。
鈴木砂羽も松坂慶子とまではいかないまでも、そういう路線になってしまうには惜しい人材である。せっかく今の時代には唯一無二の個性があるのだからそっちをもっとやってほしい。だからといってそっちの方が売れるかは自分は知らない。

2009年3月2日月曜日

絶世の美女

が目の前にいたら、自分は一体どんな反応を示すのだろうかと考えると夜も眠れない。

先日さんまが司会をやってたバラエティ特番を見てたら、最後の方に楠田枝里子がでてきた。
もう誰もそんなことをいわないのでここで書いてしまうが、楠田枝里子こそまさに絶世の美女だと思う。
かなりの妙齢のはずだが、あまり衰えは見られず、顔的にも体型的にも若い頃と印象が変わらないのが凄い。
しかし本当に、楠田枝里子を「絶世の美女」とかいったりしてる人を見たことがない。「好きなタイプ:楠田枝里子」なんて人も知らない。
それは色気がないからだろ、という向きもあろうが、では女性の側から「憧れの女性は楠田枝里子さんです」なんてのも聞いたことがない。
十分クールビューティー(いや、キャラはともかく)と呼べるだけの美貌を持っているにも関わらず、である。

これは近年に限らず、テレビに出始めた頃から彼女はすでに「美女」的な扱いはなく、ロボット扱いだった。いや、ロボットというよりアンドロイドといった方がいいか。
特に女性の場合はそうなのかもしれないが、完璧な美人には案外美人と感じないのかもしれない。
自分だってそうだ。楠田枝里子って実は絶世の美女じゃねえの?と思う反面、たとえ30歳若かったとしても絶対に恋愛の対象に入るタイプじゃないし、異性としての興味は皆無といっていい。

あのキャラだから売れたんだといわれればそれまで。実際本当にクールビューティーなキャラで売ったとして、クレオパトラぐらいしか役どころがないだろうし。
しかしなあ、やっぱりもったいない気もする。実はあれだけの美貌で売れた女優さんって自分は知らないし。