2011年9月30日金曜日

軽くリニューアル

全然変わってないじゃないか、と、確かに見た目は何も変わっていません。
変わったといえば、以前mixiでやってた日記をコンバートしてきたくらいです。
右カラムの「ラベル」の「mixiより」(モバイル用リンク)から見れます。mixi日記は、特に初期の頃は「友人までの公開」だったため、かなり私生活色が濃いものになっています。まあ面白いかどうかはさておきね。

さて、もうひとつ重大な変更点があります。
以前やっていた「yabuniramiJAPAN」 のログを全削除しました。同時に「ヤキウノウワゴト」も削除しました。どちらももう見れません。(しばらくはキャッシュから飛べるだろうけど)
いずれ削除する、といいながら早4年。削除しなかった理由は「面倒くさい」に決まっているわけですが、とうとう削除しました。まあいいでしょ。

アタシが元祖yabuniramiJAPAN無期限更新停止する際、つまり4年前ですな。その時、今後一部のログを再構成して発表する、と宣言しました。なんとも面倒なことをいったものです。
たしかに再構成は面倒くさい。でも過去に書いたものを「ほぼそのまま掲載」なら、いちいち書く手間も省けるし、こりゃいいわいと。
てなわけでたまーにですが「yabuniramiJAPANリターンズ」として過去ログを再掲載していきます。ただ完全にそのまま、なのはさすがにあれなので新規に前枠と後枠はつけます。
案内役はもちろん安田顕、なわけがなく、ひとりしかいないので当然アタクシ、藪似がやります。DNAならぬYNA(ヤブニラミジャパン・ナビゲーター・あんちゃん)です。

「yabuniramiJAPANリターンズ」の中には「ヤキウノウワゴト」の再掲載を含みます。ということを念頭に読み返してみたのですが、何しろネタが野球ですのでリアルタイムでないと意味がないログがほとんどなのですが、一部そうでないのもありますので、そういうのを。

そんなわけで久しぶりにモバイル環境ではなくパソコンでブログを書いてみました。

2011年9月13日火曜日

シカゴ!シカゴ!シカゴ!

藪似です。今回は舞台の話でも。

Twitterには書かなかったのですが、ロンドンに行った時に「シカゴ」というミュージカル(といっていいのかな?)を見てきました。
以前ブログにも書いたように、ロンドンではミュージカルが復権しておりミュージカル小屋(と書いた方が気分が出る)が至るところにあります。アタシはイギリスが初欧米であり、当然ブロードウェイなぞ行ったことはないのですが、せっかくだから何か一本見てやれと企んでおりました。
数多いミュージカルから一本選ぶなら、もうそれは「シカゴ」になってしまうわけです。

一部はご存じでしょうが、アタシは「CrazyBeats」なるクレージーキャッツのファンサイトもやっています(えらく長い間放置してありますが)。クレージーキャッツの大スターであった植木等が1983年の日本語版「シカゴ」に出演しています。共演は草笛光子。そして演出は日本バラエティの始祖ともいえる井原高忠。何ともすごいメンバーでの公演でした。
当時高校生のアタシが1983年版を見ているはずもなく、しかし遅れてきたファンとしてはこれほど見たかった舞台もありません。

・・・まあこのような心理的事情がありまして「シカゴ」なのです。

この「シカゴ」という舞台を説明するのは難しい。とりあえず中央に階段状のオーケストラボックスがででんと設置してあります。このオーケストラボックスの周りでといいますか、まるで演奏の邪魔にならないように役者が動きまわります。したがって舞台じかけのようなものはほぼありません。
ストーリーも、まああるのですが、感情移入が必要な体のものではなく、いや感情移入できそうな人物はひとりも登場しないんですよね。
小林信彦氏はこの舞台を「ミュージカル・ヴォードヴィル」と評してましたが、誤解を恐れずにいえば「歌とダンスがたっぷり詰まった、長いコント」みたいなものです。「歌とダンスがたっぷり詰まった、舞台じかけのない「8時だョ!全員集合」」といえなくもない。
長いコントだの全員集合だのが出てくるくらいですから、音楽とギャグがサンドイッチ状になっています。つまり「笑い」は非常に重要な要素なんですね。

ロンドンの回で書いたように、アタシはからっきし英語がダメです。ですから「せっかくだから」と繰り出した「シカゴ」を楽しめる自信はあんまりなかったんです。
もちろん細かい言葉のギャグは全然わかりませんでした。しかし・・・いやもう、なんていったらいいのか、幕が開いて演奏が始まった瞬間全身に鳥肌が立ったんです。もっといえば、もしかしたら自分はこれを観るために生まれてきたんじゃないかと思えるくらい。
アタシは商業演劇ってもん(北島三郎特別公演とかああいうの)はほとんど観たことがなく、小劇団のたぐいは学生時代にそれなりに観たのですが、長く芝居を観てなかったこともあって、とんでもない感動に包まれました。

帰国後さっそく「シカゴ」のロンドンキャスト版のサントラCDを購入し追体験に勤しんでおったのですが、そういえば映画版を観てなかったことに気がついた。
んで結構賞とか獲って評判のいい映画版を観たのですが、うーん、最初にこっちを観ておくべきだったね。アタシは舞台を先に見ちゃったんで、何か無理がありすぎるなぁと。
そもそも刑務所で歌い踊る、というのに無理がある。当たり前だけど舞台はワンセットなので「ここは刑務所です」といわれたら刑務所なんです。法廷といわれたら法廷になる。でも映画にしたらちゃんと刑務所なり法廷なりのセットの中でやらなきゃいけないわけで。そうなると無理な感じばっかり気になっちゃう。
それに・・・これは根本的な問題ですけど、さっき書いたように感情移入できる人物はいないわけですよ。これが舞台なら(いくら長いとはいえ)コントみたいなもんだから、と思えるので問題ない。でも映画だとそうはいかない。そもそもギャグと音楽を繋いで映画にするのは不可能なので、どうしてもシリアスなシーンが入ってしまう。
でもね、もともとの話が荒唐無稽なので、シリアスなシーンが浮いちゃうような、ね。

ま、映画版の話が長くなってしまいましたが、舞台を観ていっこ吹っ切れたことがありました。それは「植木等版のシカゴを観そびれたことへの後悔」です。もう、いったい何年、アタシが植木等を敬愛してると思ってるんですか。そんなアタシだからこそロンドンキャスト版を観て、植木等が演じたビリーがですね、当然目の前で演じているのは英国の役者ですよ。でも勝手に「植木等が歌っている」声と姿に脳内変換できましたからね、ええ。

2011年9月7日水曜日

ウラとオモテ

ご無沙汰しております。藪似です。ちょっと個人的な事情がありまして更新をストップしておりましたが、何とか再開できることになりました。

さてさて、更新をストップしている間に世の中いろんなことが起こりました。まああんまり小難しいことを書いてもしょうがないのですが、島田紳助引退とか某キー局へのデモとかね。
なんか今年は本当に不思議な年でして、今までの常識が崩れる年というか、完全に時代の変わり目な気がしてならないのです。
あえてあんまり書かなかったのですが、3月に未曾有の地震があったりして、その問題も到底進展しているとはいえない。いや、何がいいたいのかというと、紳助引退も某キー局デモも某東電の件もすべて同じ土俵上の話がするのですよ。
つまり今までウラだったものが、恐ろしい勢いでオモテに出てきてるというかね。ウラとオモテの境界線が非常に曖昧になってきている。それを先導しているのはインターネットの力もありますが、それだけとは思えないのも事実でして。

紳助についてアタシは今まで書くことを躊躇していた部分があります。全然書いてなかったわけじゃなくて、小出しにね。たとえば横山やすしの時とかにちょろっと触れたり、松紳を取り上げたこともあります。しかし真正面から紳助を論じたことは一度もない。
もうここ数年、紳助の番組は一切見てませんでした。はっきりいってしまえば紳助の番組が始まるとチャンネルを変える、くらいのレベルでした。
とはいうものの、これでも大昔は比較的好んで紳助の番組を見てた時分もあります。たとえば「クラブ紳助」なんて毎週欠かさず見てましたしね。
紳助の番組に不快感をおぼえだしたのは「クイズ紳助くん」くらいからでしょうか。その前の「クイズ仕事人」はちゃんと見てたんだけど。一言でいえば「鼻につきはじめた」のです。
正直紳助が引退するからといって残念でも何でもない。暴力団との付き合いが、といわれても、ああそう、としかいいようがない。

芸能人と暴力団といえばまず浮かぶのは美空ひばりのケースでしょう。
事細かに説明するつもりはさらさらありませんが、美空ひばりの成り立ちというか神戸芸能社絡み、みたいなのは子供の頃から知っていました。親や親戚からすれば、それは「当たり前」レベルの話でした。
もちろんアタシが生まれ育ったのが神戸だということもあると思います。しかしそこまでブラックボックス化していたとは到底思えない。当時、よほど無邪気な人でなければ、そういう闇の部分くらい知っていたと考えるのが自然です。(鶴田浩二の襲撃事件なんかはニュースとして大きく取り上げられましたし)

美空ひばりのデビューは昭和20年代の話です。戦後の混乱期であり、ウラとオモテの境界線がまだはっきりとしてなかったのかもしれません。それよりも、たとえば731部隊であったり、今では自虐史観といわれる大日本帝国軍の闇の部分の方が(すべてGHQとセットですが)よほどタブーだったはずです。

はっきりいえば芸能界を指して「カタギではない」というくらいなので、芸能界もヤクザの世界もたいして変わらない、と同時につながっているに決まってる、くらいに考えられていたのではないでしょうか。

それが「コンプライアンス」なんて言葉が出てきて、芸能界もお行儀よくしなきゃならない、みたいな風潮になっていきます。それは一見正しいことのようですが、実際にはそんなことは難しい。テレビだってなんのかんのいいながらすでに半世紀以上の歴史があるわけです。当然のように繋がっていた、政治団体だとか宗教団体とか、その他もろもろ「ややこしい」付き合いがあったことは想像に難くなく、それをいきなり切ることなんてできるわけはありません。
となるとどうなるか。オモテの顔を作るしかない。オモテではコンプライアンスとかなんとかいいながら、ウラではより闇を深くしていく。
ところがこれも限界があるわけです。今回インターネットが牽引してどんどんウラがオモテに出てきました。信じられない勢いで、です。

アタシは某キー局の件にしろ紳助の件にしろ、はたまた某東電の件にしろ、どっちが悪いとかはいいません。ただ最初にも申し上げました通り、ウラとオモテの境界線があいまいになってきているのは間違いないでしょう。
そんな時代において一番マズい対応は、これまで通りウラとして隠し続ける、という態度です。ウラをウラのまま温存しておこうとすればするほど疑心暗鬼をおぼえる人が増えるだけの気がします。

いくらネットを規制しようが、実際そういう法案が出ているようですが、そんなことをしてもほとんど意味がない。世の中「からくり」があるのは誰だってわかっているのですからね。