2011年3月30日水曜日

答えなしもまた答えなり、か?

藪似です。更新の間隔が開いてしまいました。まあ自粛ムードとはまったく関係ないんですが、何というか書く気にならないというかね。いや書き溜めていた分を更新してもよかったんですが、そんな気にすらならなかったという。
というわけで、またしてもケッタイなサブタイトルですが、30年ほど前にコロコロコミックを読んでおられた方ならピンときたかもしれません。
当時「とどろけ!一番」というとんでもない漫画が連載されていました。破天荒な勉強をテーマにした内容だったのに、途中からボクシング漫画になるという、さらに破天荒な展開をしたことでも有名です。
まだ勉強漫画だった時、誰も正解を導いたことがない三択問題がありまして、その時使われたセリフが「答えなしもまた答えなり」なんですけどね。

さて別に「とどろけ!一番」について語りたいわけではありません。今回はプロ野球についてです。
プロ野球の日程問題は二転三転した挙句、ようやく決着を見ました。しかしこれで本当によかったのかどうか、疑問が残るのです。
アタシはかつて「ヤキウノウワゴト」という名前で野球全般ネタを書いておりました。今も野球はアタシにとって最大の関心ごとなのには違いなく、相変わらず阪神タイガースの「支持者」です。(なぜ「ファン」ではなく「支持者」なのか、以前書きましたし長くなるんで割愛します)
ですから今回の問題も注意深く見守っていたのですが、何か納得できるようで納得できない。

といっても「電力問題が」とか「被災者の心情を考えて」とかを語るつもりはござんせん。
そんなことよりも、もっと大事なことが抜け落ちたのではないかと危惧しておるのですよ。
アタシが「ヤキウノウワゴト」を書いていた当時、一リーグ問題というものがありました。最初は近鉄とオリックスの合併問題だったのに、何時の間にか論点がすり替わったと記憶しています。
これは選手会がストライキを決行するなど、大変な騒ぎになったことを憶えておられる方も多いと思います。
この時悪役を一手に引き受けたのは、渡辺恒雄、通称ナベツネ氏です。その時アタシはナベツネ氏を評して「あまりにも型通りの悪役すぎる」と書きました。
そして今回も、ナベツネ氏に加えて滝鼻氏、清武氏といった巨人関係者が悪役を一手に引き受けることになってしまいました。

実はナベツネ氏が初めて公の場で開幕の日程について触れた時、これはマズいなと感じていたんです。今あんたがこの問題について発言しちゃダメだろ、とね。
事態はアタシが危惧した通りに動いていきました。つまり「予定通り3月25日開幕派=悪」、「開幕延期派=善」という風に。
そして案の定「世論」という名の善が全面勝利を収めたわけですが、これは約7年前の一リーグ問題の時とおんなじじゃないですか。
アタシは一リーグがいいのか、それとも二リーグがいいのか、どっちにもメリット・デメリットがあると思っていました。どちらかといえば二リーグ維持派でしたが強固なものじゃなかった。
だからキチンと議論した上で、プロ野球の未来を本当に考えた上で結論をだしてほしかった。
しかし事態はそうは進みませんでした。
ご承知の通り、ナベツネ氏の「たかが選手が」発言から世論は一気に二リーグ維持に傾いたのです。

今回もそうです。選手会側の意見が必ずしも正しいとは思わないし、巨人側の意見がすべて間違っていたとも思わない。にも関わらず巨人側の実に軽はずみな発言から一気に開幕延期に流れてしまった。
たとえば「開幕をたかだか三週間ズラしても何の解決にもならない。それなら開催可能な西日本から順次開幕して日程を消化した方が、より電力を消費する夏場に過密日程になることを防げる」という意見がありました。また「別にパ・リーグに合わせる必要はない。今までだってずっと同時開幕だったわけじゃないんだから」という意見もありました。
これはまったく正しい。電力面を考えても何の反論もできません。だけれども選手会側の意見である「こんな時だからこそセとパが歩調を揃える」というのもけして簡単に切り捨てられることではない。
個人的には延期した方がいいとは思ってはいたのですが、まあそれはどうでもいい。そんなことよりも、つまらない悪役の登場でちゃんとした議論が行われなかった。これが実は一番怖いことなんです。
どっちにもメリットとデメリットがある。それは誰が考えたってわかることです。
にも関わらず、結論だけみれば「世論に押し切られた」という形ですべてが終わってしまいました。

今回の件で一番ガッカリしたのはコミッショナーにたいしてです。結局カッコいいことをいいながら何もしなかった印象しかない。これでは一リーグ問題の時の反省が何も生かされていないといわれても仕方がないと思います。
各チームの代表が、いくら未曽有の事態だからといってプロ野球という興業である以上、エゴを出すのは、まあしょうがないのです。それを捌いていくのがコミッショナーなのにね。
なぜナベツネ氏や滝鼻氏に「今あなたたちが発言するとおかしな方向に行ってちゃんと議論できないから、ちょっとマスコミ相手にはこの問題に触れないでください」といえなかったのか。

しかし巨人側というか読売側も情けないんですけどね。
マスコミでしかも新聞社なんだから、世間の風向きなんて敏感でなければいけないのに。あまりにも読めなさすぎた。あまりにも口が軽すぎた。
ここで悪役になっても何の得のない。むしろ今回の件で怒らせた巨人ファンが相当数いると思う。巨人戦で視聴率が取れないからと地上波でやらなくなって久しいのに、さらに巨人人気を落とすようなことをする。
本当、意味が全然わかりませんよね。

ま、そんな感じでまた続けていきます。おしまい!

2011年3月14日月曜日

ホンネ

藪似です。いや、ホントにまったく、どうなってんのこりゃ。
デマについて書こうかと思うのですが、救いのないようが気がしてね。

デマというと面白半分みたいなイメージがあるのですが、どうも今回はそうじゃないぞとね。
面白半分じゃない、つまり本気なのですな。問題は何に対して本気かという部分でして。
「もうすぐ未曾有の大惨事が起こるから気をつけろ」
これなら全然いいんです。ホントはよかないけど、救いがある。
そうじゃなくて大半が「お前らそんなことも知らないのか」的なのばっかりなのが問題なんです。
お前ら何か、この事態にまだ自分の虚栄心のためにそんなことやってんのか、他人を貶めて上から目線になりたいのか。
幼稚すぎる。あまりにも幼稚すぎる。

それから娯楽禁止しろとかいってる奴、馬鹿じゃないの?
そりゃアタシもパチンコとかあんまり好きじゃないけど、あのな、人間てのはそんなに強くないんだよ。だから娯楽が必要なんだよ。
極端にいえば幸福に満たされている時、娯楽なんか必要ないんだよ。本当に辛い時こそ娯楽が必要なんだよ。
だからこの事態でパチンコに行きたくなる人の気持ちは痛いほどよくわかるんです。
戦争中だってそうで、太平洋戦争末期、禁止されてた娯楽性の高い映画や舞台が黙認という形で復活したんですよ。何故だかわかりますか?
自主的だろうが他動であろうが、縛るだけ縛っても荒む一方なんです。精神がボロボロになるだけ。だから解放してやらないといけない。
だから、そのために娯楽というものがあるんです。

今回のことでつくづく思ったこと。
自分だけ賢いと思って他人を馬鹿にしたり、正義感ぶってその実自分が嫌いなものを排除しようとしたり、そんなお利口さんにだけはなりたくない。
だってどうせ最後は死ぬんだもん。お利口さんにならずに死ねるなら、それはそれで十分な気がするのです。

2011年3月10日木曜日

ブラマヨに追いついて

藪似です。今回はブラックマヨネーズについて。
まさかまさか、ブラマヨがここまでくるとは思ってませんでした。個人的にわりと早い時期から注目してたのですが、実は面白いんだけど売れない芸人になると睨んでいたのに意外にもほどがあります。

売れないと思っていた理由は単純で、要するに見た目がテレビ向きでないからです。が、その辺はとっくに超越して、今や顔面ドアップでCMにでてるんですからねぇ。
まず小杉ですが、例えばひな壇に座っていても彼のツッコミは燦然と輝いています。それは相方にたいするものだけではなく、その場にいる芸人全員にたいしてで、彼のツッコミで流れが大きく変わっていくことがままあります。
吉田は、何というか引きボケとでもいえばいいのでしょうか。実は割って入るタイプのボケではないのですが、認知度が上がったことによって周りが間を作ってくれるようになった。
たけしが彼らを評して「保険」という言葉を使ったのは実にわかりやすい。

ブラマヨとして売れたのはもちろんM-1のおかげですが、それより自然とキャラクターが認知されたのが大きい。ふたりともテレビ向きでない見た目であり、漫才は全然漫才を知らない人から見ればただの喧嘩であり、しかも口調の柄もすこぶる悪い。
そんな彼らが認知されたのは視聴者に「心優しきチンピラ」と認識されたからでしょう。
柄の悪さの向こうにある、芸人としてではない、素の人間としての優しさがわかってもらえたんでしょうね。

「お願い!ランキング」内で毎週トークコーナーをやってますが、これを見てるとアタシはとんでもない思い違いをしてたんじゃないかと思います。
見た目で売れない程度のレベルではない、もっとデカいというか、もしかしたら天下を獲るんじゃないかという気さえします。
アタシを含む視聴者はやっとブラマヨに追いついた、だから彼らは売れた。のではなく、実は全然追いついてないのかもしれない。

今は「保険」として絶対的な地位を築きましたが、今後はとりあえず世代のリーダーになってほしい。でもそこで終わりではなく、今のテレビ界では到底無理と思われてる、アクの強い伝説になるような冠番組ができるんじゃないかと本気で期待しています。

2011年3月9日水曜日

アレで決まる

藪似です。アレというのは男性のイチモツのことです。下ネタです。苦手な方はどうぞご遠慮をば。

今衛星劇場でザ・ドリフターズが主演した映画が放送されています。ドリフターズといっても基本荒井注在籍時代のもので、志村けんに交代後、2、3本で終わってしまったので、旧来のドリフターズが好きな方には楽しめると思います。
ま、ドリフ映画に関してはずいぶん昔に書いたので大幅に割愛しますが、要約すれば社会の底辺に生きる五人の男のうち、もっとも長身の男が権力を握り、後の4人は下克上を狙ってる、みたいなシリーズです。
長身の男とはもちろんいかりや長介で、他の4人は絶対服従を強いられている。たしかに下克上を狙っているし、弱味を握られているみたいな設定の話もある。しかし、それにしても、支配されすぎなんじゃないかという気もします。
なぜ?ホワイ?いかりや長介扮する男が最も腕力があるから?いや意外とそういう設定はなかったりする。
しかしですね、五人の中で彼のアレが最もデカいと仮定すれば、わりとすんなり納得できるのです。
もちろんこっちもそんな設定はありません。しかしいかにもデカそうな雰囲気があるからね、あの人は。

男というのは本当にくだらない生き物でして、アレの大きさによって人間関係が変わってしまうのですよ。
大抵どっしり構えてる男ってのはアレがデカい。逆にどっしり構えてるようで、いざとなったら慌てふためく気の小さい男は、まずアレが小さいと思って間違いない。
何でしょうね。アレがデカいと万事心に余裕ができるのかね。
いやね、たとえば収入でもルックスでも家柄でもほぼすべてに勝ってたとしても、アレの大きさが負けたとなるとすべてにおいて負けた気になる。精神的主従関係ができるのですよ。
そう考えるとやっぱドリフ映画のいかりや長介演ずる男は、まずアレを開陳したのかね。となるとあそこまでの主従関係ができるのも止むを得ない気がするな。

で、お前はどうなんだって?そんなもんおまえ・・・

2011年3月7日月曜日

ハチのムサシは死んだのさとナオミの夢と天才バカボン

藪似です。えらく長いタイトルになってしまいました。しかも「◯◯と××と△△」という俺たちの朝式な、旧yabuniramiJAPANTiny式なタイトルですが法則を復活させたわけじゃござんせん。たまたまです。
しかしこの3つ、何となく共通点があるような気がしませんか?

以前昭和という時代の中でたった一曲をあげるなら「若いってすばらしい」じゃないかみたいなことを書きました。が、逆に「何でそこまで売れたのか、さっぱり理解できない」みたいな曲もありましてね、ええ。
アタシの中でそこに入ってくるのが「ハチのムサシは死んだのさ」になるのです。
歌詞的にいえば、まあイカロスの翼あたりをモチーフにしたんだろうけど、いろんな意味で突飛で、その割に深い突っ込み方でもなく、ただ単に変な歌詞としか思えません。
そしてアレンジ、これまた1970年代前半の、何と申しましょうか、流行りの音をとりあえず詰め込めるだけ詰め込んでおけ、みたいなね。洗練さの欠片もない。
その点「ナオミの夢」はね、まだ洗練されているのですよ。ベタさもあるんだけど、少なくとも「ハチのムサシは死んだのさ」に比べるとずっと洗練されている。
「ナオミの夢」は洗練されている分、今の時代に聴き直しても、わりと飽きないのですよ。普遍的な部分があるからね。でも「ハチのムサシは死んだのさ」はすぐ飽きます。二三度聴けば十分というか。

アタシは1960年代後半の生まれですから、この2曲は知ってるようで知らない。もちろん後年知ることになるんだけど、リアルタイムでの記憶はないに等しい。が、改めてちゃんと聴いてみると、いや、この雰囲気は幼少の頃から慣れ親しんだものだぞ、と記憶をまさぐるうちに、意外なキーワードを見出しました。
それが「天才バカボン」で、何度もアニメ化されているので説明がややこしいのですが、要するに一番最初の、1971年に放送が開始されたバージョンです。
「ハチのムサシは死んだのさ」のリリースが1972年、「ナオミの夢」が1971年。「天才バカボン」はほぼ同時期に制作されたことになります。ということは「天才バカボン」の音楽もその時代ならではの音になっているのは当然です。
主題歌の、♪にしからのぼったおひさまが~ってのは、あんまり時代性はないのですが、曲中にながれるサウンドトラックですね、これがモロこの時代っぽい音で、数多く作られたバカボンのアニメの中でも最もファミリー向けといわれる最初のバージョンですが、音楽に関しては一番尖っていたといえるのではないでしょうか。

いや尖ってはないか。時代に流されてたともいえるわけでね。「元祖天才バカボン」なんかは、音でも自らの色をつくってたし。

2011年3月6日日曜日

韓国上空から見る黒く濁る村

藪似です。何か意味深なタイトルですが、何のことはない、先日UKに行った時、飛行機の中で「黒く濁る村」という映画を観ただけのことなんですけどね。その時偶然韓国上空を飛んでたと。
最近は機内サービスも充実しているようで、海外へのフライトは初だったんで最近かどうかは怪しいのですが。とにかくアタシが乗ったのはJALでして、上映中の映画を観れるんですね。
行きに観たのは「黒く濁る村」で帰りが「ソーシャル・ネットワーク」。全然関係ないですが、何を勘違いしたかアタシ、ずっとソーシャルネットワークを「SMS」と略して書いてますね。それじゃショートメッセージだよ。もしくは昔渡辺プロがやってたレコード会社。あ、セガ・マスター・システムってのもあるか。どっちにしろ、ああはずかし。

さて「ソーシャル・ネットワーク」の方ですが、面白かったという意見が多いのですがアタシ的にはまあまあの域でした。超高速のセリフ回しによるテンポの良さや、展開の巧みさは感じたのですが、感情移入できる登場人物がひとりもいない、現在進行形の事象なのでカタルシスが何もないなどのマイナス要素を強く感じたものでね。まあハリウッド映画と思わなければ、これはこれでアリなのですが。

今回は「黒く濁る村」にスポットを当てます。
そういえば韓国映画について書くのは、かつてのyabuniramiJAPANから初めてではないでしょうか。ま、それもそのはずで、アタシは韓流モノには全く興味がないのです。けれどもこの作品は例外で、最初に情報を得た時からずっと気になっていました。
とはいいながらいつの間にか上映は終わり、こりゃいつもの通りDVDコースだなと思っていたところに、思わぬところで鑑賞することができたというわけです。
内容は、いろいろ指摘されている通り、不出来な横溝正史映画で、衝撃的といえば衝撃的ですが、ありがちといえばありがち。そういう意味では凡作です。途中途中に挟まれる暴力シーンも、日本人には悪い意味で衝撃が強く不快感が残ります。
しかしただの凡作と決め付けられないのはギャグのキレが異様にいいからで、え?ギャグ?そう、ギャグです。全体的に重く暗い作風にも関わらず、随所にギャグが散りばめられています。
ユ・ヘジン演じるドクチョンは残酷な過去を持つにも関わらずコメディリリーフの要素もあり、絶妙の間で笑わせてくれるのです。

そしてですね、こっから突然野球ネタにシフトします。
このユ・ヘジン、観てるうちに阪神タイガースの新井選手にしか見えなくなってしまったのですよ、アタシは。
まず顔が激似。まあ新井が「・・・によくある顔」なのに違いないのですが、それにしても似すぎです。そしてイジられている様もまた新井っぽい。
新井をイジるのが、いや、イジるとかという次元じゃないんですよ本当はね。だって完全に精神的に支配されてるんだから。その新井を支配しているのがアニキ、もといチョン・ジェヨン演じる村長なのですが、いややっぱりアニキだわ。
こっちは全然金本には似てないんですよ。似てないんだけど新井役が新井なもんで(注:新井役なんて本当はありません。ドクチョン役です)、村長がどんどん金本に見えてくる。

ですから横溝正史映画のパチもんとして観るか、金本と新井の物語として観るかで評価が変わってくるのです。
ということはつまり、最後には新井は・・・ってことになるのか?そして黒く濁る村とは阪神タイガースのことなのか?いやたしかに黒く濁ってる感じはするんだけどね、特に今年は。

2011年3月2日水曜日

聖おにいさんの影

藪似です。去年久しぶりに会った親戚の叔父さんに思いもかけぬことをいわれました。
いわくアタシはとにかくたこ焼きが好きで、小遣いを貰ってはたこ焼きを買いにいってた、らしい。
そんな気もするが、うーん、憶えていない。たしかに嫌いではなかったし、土地柄たこ焼き屋も珍しくない。が、そこまで好んで食べていた記憶がどうも薄いのですな。
では今、たこ焼きをよく食べるかといえば、まったく食べない。たこ焼きを食べなくなった原因ははっきり憶えてる。
ちょうど阪神大震災の年、当時アタシはたこ焼き屋でバイトしていたのです。ま、飲食店なら当然ですが売れ残りのたこ焼きを毎日毎日大量に貰って帰ってくるのです。
たこ焼きなんてものは、出来たてならまあ大抵美味しいもんなんです。逆にいえば作り置きのたこ焼きなんか食えたもんじゃない。そういうのを「もったいない」と食べ続ければ、そりゃあ嫌いになろうっていうもんです。
さすがに時間が経ちすぎたので今現在は嫌いではありませんが、好んで食べることはありませんね。

たこ焼きの場合、記憶があやふやなのでアレですが、幼少時とまでいわないまでも、ほんの少し10年ほど前と好みがかなり変わってることに我ながら驚きます。
たとえばスナック菓子やインスタントラーメンをほとんど食べなくなりました。これらは全然食べない訳ではないのですが、毎日ポテトチップスを2袋買ってた頃に比べるとあきらかに食べなくなっています。
食べ物ばかりではありません。わりと顕著なのは、極端に漫画を読まなくなりました。
元祖yabuniramiJAPANを読んでおられた方なら承知でしょうが、結構漫画に関するエントリを書いていました。たかだか5年ほど前の話です。
特に藤子不二雄関連の話はしつこく書いたので、一昨年から刊行が始まった藤子・F・不二雄全集なんか、かつてのアタシなら狂喜乱舞したでしょう。
が、実際は現在のところ「オバケのQ太郎」を一冊買っただけです。
藤子不二雄作品なんて、ある意味テリトリーに入っている作品でさえ手に取らなくなるくらいアタシの漫画離れは深刻なのです。

そんな中、例外中の例外が「聖おにいさん」なんですな。
ここ一二年は評判が評判を呼ぶというような形で各所で絶賛されてますが、アタシが初めて知ったのはまだ一巻が刊行されて間もない頃、友人に絶対面白いからと猛烈に勧められたのです。
んで実際読んでみたのですが、これはたしかに面白い。それもとてもフシギな面白さで、一回目より二回三回読み返した時の方が面白さがわかってくるというか、とにかくジワジワくるんですね。
もちろんキリスト教や仏教に精通している方が面白さが強いのでしょうが、とてもじゃないけど精通しているとはいえないアタシが読んでも面白いのは、ギャグのキレが抜群だからです。
いや、それだけじゃない。
笑って笑って何か考えさせられるわけでも、ああ面白かったで終わるわけでもない。読んでる最中が妙に幸せで、もう一回笑いたいというより、またあの幸せな感覚を味わいたいと何度も読み返してしまう。まさに極楽感覚!天国感覚!

しかしこのパターンは上手い。イエスもブッダも年齢なんかないですし、当たり前だけど恋愛要素が絡む可能性も皆無ですから無限に続けることができる。
(恋愛要素が悪いんじゃないですよ。でも恋愛要素があると必ず成就の方向に行くってことだから。つまり物語を語り終える方に向かっていくのですが、ギャグ漫画の場合は無限に続けられる方がベストだと思う)

個人的にはイエスとブッダふたりだけで何かやる話が好きなんで、そういうのをいっぱい書いてほしいなと。んでずっと続けてほしい。
まあ連載がずっと続いたとしても、アタシの「聖おにいさん」熱もいつまで続くかわかんないけど。年取ったらどんどんこうなるのかね。あーやだやだ。