2009年4月30日木曜日

ブラックボックス

何だか自分がとんでもなく浮き世離れしているのではないかと思うと夜も眠れない。

先日小学校の先生が児童の胸ぐらをつかんだとかで最高裁までいった裁判があった。いくら体罰は厳禁とはいえ、悪いのはあきらかに児童の方であり、いや、どっちが悪いかは置いておいたとしても、これが最高裁までいくような問題なのかと思ってしまう。
また例の、某グループの全裸事件も疑問を持たずにはいられない。仮に見せしめという要素があったにしろ(そもそも「見せしめ」が許容されていることに疑問を感じるが)、そんなに大騒ぎするほどのことなのかね、と思ってしまう。
まあ逮捕うんぬんはその時の状況がわからないので何ともいえないが、アンケートなんかを見ると「社会人として失格」みたいな意見が思いの外多いことに驚く。

もう正直にいえば世論が狂ってきてるとしか思えない。
少しでも良しとされてないこと、たとえば電車の中でのケータイの通話とか、喫煙とか、とくにネット上の糾弾の仕方が半端じゃない。
そりゃ良くはないと思うよ、全裸もケータイマナーが悪いのも路上喫煙も。でも極悪人呼ばわりして、社会から抹殺しようとする姿勢の方がはるかにコワい。
一度でも躓いた人間はこの世から消えてなくなれー。
いつからこんな意見がまかり通る世の中になったのか。人殺しとかじゃない。たとえ軽微なミスでも社会から抹殺しようとする、そしてそれが当然という顔をしている。

そんなに人間は完璧な生き物なのか。ミスもせずに、軽微な犯罪も犯さず暮らしていけるものなのか。
いったい何なんだと思ってしまう。無難にやったもん勝ち。バレないようにやったもん勝ち、の世の中なのか。

みんなネットのせいにするかもしれないが、何かあんまり関係ない気がする。何しろこれだけの不況である。昔ならデモでも何でもやって、何とかしようという声が高まっていたはずだ。
が、今は違う。政治にしろ経済にしろ、そして某芸人が抹殺されたことでもわかる通り芸能界にしろ、あまりにもブラックボックス化されすぎて、諸悪の根元がどこなのかさっぱりわからない。
だからわかりやすい、表層化された部分だけが叩かれる。
とどのつまり、社会への不安からくるフラストレーションが行きどころがなくなった結果のようにも思う。
本当は諸悪の根元をさぐるメディアとして、ネットはもっともっとがんばらなきゃいけないのだが、デモや市民運動とは違い、いかんせんまとまりがなさすぎる。

とはいえ、もうこれからは、もっとこういう傾向が顕著になるような気もする。ブラックボックス化はどんどん進み、ネット上の意見はますます拡散される。
それが当たり前になりつつある。つまりズレているのは世論ではなく自分だけなのだろうか。
うーん、本当にいったいどうなってしまうんだろう。知らないですませていいんだろうか。

2009年4月14日火曜日

こんな夢をみた

夢という奴はいったい誰がストーリーをつくっているのだろうと考えると夜も眠れない。眠れないなら夢はみないわけだが。

先日こんな夢をみた。
どうもテレビでバラエティ番組を見てるようで、自分は一切でてこない。
ブラウン管(正確には液晶だが)に映っていたのは、今、時の人である陣内智則、そして明石家さんま、Mr.オクレ。三人でトークしている。
内容はこんな感じだ。

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さんま「家に帰ったら紀香が待ってるわけや。(オクレ)兄さんやったらどうします?」
オクレ「考えただけでタってきたわ」
陣内「うわっ、めっちゃ嫌やわ、そういうの」
さんま「引いてどうするねん。想像だけやないか」
陣内「いくら想像だけでも嫌ですわ。師匠かて嫌でしょ?」
さんま「もしかして大竹さんのことかな」
陣内「もしね、ぼくが大竹さんで興奮してたら嫌でしょ」
さんま「ていうかお前かて人の嫁さんで興奮したことぐらいあるやろ」
陣内「いや・・・あんまりないですね」
さんま「何でや?」
陣内「何でやいわれましても」
さんま「想像せえへんか?」
陣内「あんまりしませんね」
さんま「もしかしてあれか、お前ビデオとか本とかないとあかんタイプか」
陣内「ふつうそうちゃいます?」
さんま「あかんわ。芸人やったら想像でいかな。ねえオクレ兄さん」
陣内「オクレさんもそうですか?」
さんま「あれ?お前知らんの。オクレ兄さんの想像力」
陣内「そんなすごいんですか」
さんま「ちょっとあの話してやってください」
オクレ「あれって何や」
さんま「ポリスマンでんがな」
陣内「ポリスマン?」
さんま「ええか、よう聞け。兄さんがあんまり売れてない・・・今もやけど。独身でおかずにするもんが何もないわけや。おかずいうたら缶詰が二個しかあらへん」
陣内「それほんまに食べるおかずですやん」
さんま「さあそこや。何とかこの缶詰があっちのおかずにならんもんか思てずっと缶詰見てたら、えらいもんやで、二個の缶詰が女の人とポリスマンのエッチに見えてきたんやから」
陣内爆笑
さんま「お前もこれくらいの想像力養わんと」
陣内「え、何で缶詰がポリスマンに見えたんですか?」
オクレ「知らんわ!・・・たぶん缶詰のめくれてるとこが(帽子の)ツバに見えてきたんやろな」
さんま・陣内爆笑

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繰り返し断っておくが、これは自分が見た夢だ。実際こんな番組があったわけでもないし、各人がこんなトークをしていたという事実はない。
シモがかった話だが、やたらよくできている。3人ともいかにも「いいそうな」セリフをいってるし、オチも実に、らしい。
問題はこの話を誰が考えたかだ。とてもじゃないけど自分には「缶詰のめくれてるとこがポリスマンのキャップのツバに見える」なんて発想はない。
もしかしたら、仮にオクレでないにしろ、テレビでこのようなネタをいってた人がいて、それが潜在意識にあって夢にでてきたのだろうか。しかしこのネタ自体、オクレがいわないと面白くない気がするし。
自分は知らない。誰がこれを考えたか。知ってたら教えてくれ。

2009年4月12日日曜日

はんなり

日本語がどうなっていくか考えると夜も眠れない。ウソです。

「言葉は生き物」という考え方に基本的には賛成している。このブログも厳密にいえば日本語として滅茶苦茶だろう。が、これでいいのである。正しい日本語よりも、相手に正しく伝わる方がよほど大切なことじゃないか。
もっともそれは日常の会話とか、こういう雑記での話。やっぱり使い方を間違っちゃいけない時があると思う。
名前を出すのも忌々しいのでこういう書き方をするが、2008年下半期の朝ドラで、しつこく「はんなり」という言葉が間違った使われ方をしていた。
最終話でも藤村志保が「祇園のおかみはもっとはんなりしとかなあきまへん」(うろ覚え)みたいなことをいってたが、これはあきらかにおかしい。
ずっと遡って1990年ごろの話。上宮高校の超高校級プレーヤーと騒がれた(いや、後の姿からは想像できませんが、たしかにそうだったんです)元木大介を評して、ドラフトで指名するのかと問われた阪神の球団社長が
「ああいうはんなりした選手がうちにきたらな」
とあいまいな返事をしたのだが、これが正しい「はんなり」の使い方。つまり「華のある」とか「華やかな」という意味の京言葉なのである。

それが某朝ドラではあきらかに「のんびり」とか「悠然と」みたいなニュアンスで使われていた。まあ語感だけだとそう受け取るのもわかる気がするし、実際間違えて覚えている人も多いのではないか。
しかしこのドラマの中で間違うのは致命的である。藤村志保の役は祇園のお茶屋を長年支えた、という設定の人なのだ。そういう人が「はんなり」の使い方を間違うなんて絶対あっちゃいけないのだ。
あのドラマの中で「はんなり」という表現が合う登場人物といえば某ほりえもんがモデルっぽいIT企業の社長だけなのだが、残念ながら彼にはそういった形容は用いられなかった。

と、ここまで書いて思ってみた。よくよく考えてみれば、先の藤村志保のセリフは2011年に発せられたことになってるのだ。
言葉は生き物だ。もしかしたら2年後には「はんなり」はそういう意味になってるのかもしれないぞ。それは誰にもわからないし知らないからな。絶対ないと思うけど。

2009年4月10日金曜日

不二夫ちゃん

タモリは何で赤塚不二夫のことを「不二夫ちゃん」と呼ぶようになったのか気になって夜も眠れない。

先日NHK教育で赤塚不二夫の特集をやってたが、結構面白かった。切り口は珍しくもないが、古谷三敏、高井研一郎、北見けんいちの鼎談は貴重なものだったと思う。
他にはみなもと太郎が「赤塚不二夫は家庭漫画の人」と言い切ってたのは面白かったし、実際そうじゃないかと思う。
番組では当然のように「天才バカボン」が中心で、それはいいのだがナレーションが「馬鹿なボンボンを主人公にした・・・」といっていたのは少しだけ違和感があった。
とはいっても自分は「バカボン」のネーミングについて、そっちの方が正しいというか、仮にダブルニーミングだったにせよ「馬鹿なボンボン」の方の意味合いが強かったんじゃないかと思っている。
というのも晩年、赤塚不二夫は「本当は「天才バガボンド」にしたかったが、編集者にわかりづらいと反対された」と語っていたからである。
たしかにパパはバガボンドそのものであるが、どうも後付け臭い。それに、あいまいな記憶だが、構想段階では馬鹿のギャグと天才のギャグ両方を描こうとしてたはずで、最初から「天才」と「馬鹿」というキーワードはあったはずなのだ。
もうひとつ、やはり番組の中で「途中で主人公が入れ替わった」とあったが、これも怪しい。
「おそ松くん」や「もーれつア太郎」などはたしかに途中で主人公が入れ替わった。しかし「天才バカボン」の場合、最初からパパとバカボン(初期の構想ではハジメちゃんも)が主人公だったような気がする。

要するに「天才バカボン」は白痴の親子の物語なのである。いや、白痴の父親VS天才の息子の構図だったといえばいいか。
設定だけを聞いていると、あんまりギャグ漫画っぽくない。ギャグ漫画にしてはあまりにも設定がもの悲しい。むしろ人情物風だし、初期はそんなニオイもあった。
(余談だが子供の頃赤塚不二夫に熱中したといわれる松本人志にその影響を見ることができる。もの悲しい雰囲気の中で展開される「トカゲのおっさん」など赤塚漫画寸前だ)

この辺が赤塚不二夫の漫画の真骨頂である。少なくとも「天才バカボン」の頃までは、ギャグ漫画には違いないのだが、扱い次第でどんな風にもなる、という懐の深さがあった。
人情物になるのは当然だし、少しピンクの方向に振れば(つまりパパの関心事をエロに向ければ)、もう十分エロ漫画にもなる。
しかしどんなジャンルで読みたいといえば、やっぱりギャグ漫画として読みたい。そう思わせるのが凄い。
つまりギャグ漫画にしかならない設定でギャグ漫画を描いてるんじゃない。でもギャグ漫画にしたからこそ、よりその設定が活きてくる。

そういうことができる、というかそんな発想があるのはこの人だけだったと思うし(松本人志はフォロワーといえるし、チャップリンの影響も見て取れるが)、鼎談の中でいってた通り、あと一本でいいから何か描いてほしかったと思う。
何だかサヨナラもいわずに去っていかれたようで。どうもそういう展開は赤塚不二夫という人には似合わないような気がするのだ。
でも・・・知っているとか知らないじゃなく、自分はこう思う。

これでいいのだ。

2009年4月9日木曜日

マチャアキ

マチャアキと順、どっちがリードタンバリンでどっちがサイドタンバリンだったか思いだそうとして夜も眠れない。

今更になるが、去年放送された「生きる」のリメイクには相当失望させられた。ネット上では何故か評判の悪かった「天国と地獄」の方がはるかにマシだった。
が、実際見るまでもないというか、大方の予想はついていた。
これはキャスティングの問題である。
佐藤浩市、阿部寛、妻夫木聡を並べたら、まあそれなりのものができると想像できる。黒澤版とのイメージのズレも少ない。
ところが「生きる」の場合、主人公が松本幸四郎だと聞いて、ああダメだと思った。
これは演技力の問題じゃない。いくら達者な演技をしようとも、あの役を演じるには松本幸四郎では二枚目すぎるのだ。しかも色気も強すぎる。
もうひとり深田恭子もおかしな配役で、あの役はただ快活な感じさえあれば誰でもいいのに、そういうのが一番似合わないフカキョンを使うのは謎すぎる。
今フカキョンといえば何しろドロンジョ様なのだ。そういう肉体をもった、しかも陰のあるフカキョンに松本幸四郎じゃ、どうみても援助交際にしか見えないし、むしろそうならない方が不自然にすら感じる。
あの役は色気のない、しかも快活な現代を象徴するような子、たとえばベッキーあたりがぴったりなのに。
ではあの主人公はといえば、まず二枚目は絶対ダメ。また病気が病気なので、あまりに頑健そうな人もアウト。
年齢的には50後半から60前半ぐらい。志村喬はもっと高齢に見えるが実際はそうでもなく(公開当時まだ47歳!)、またあの時代だからあれでいいわけで、現代が舞台なら若干若い感じの方がいいだろう。
もしいかりや長介が生きていれば、他に候補をあげる必要すらない。実際いかりやは「ザ・ドリフターズの極楽はどこだ」という映画で絶望の縁にたった男がブランコで黄昏るシーンを演じており、まさに一択状態だったと思う。
自分の考えた他の候補者は、たとえばビートたけしだ。あの役は、というかあの作品は一種の喜劇でもあり、軽やかさが要求されるのだが、たしかにビートたけしはそれに当てはまる。しかしややをもすると、たけし色が濃くなりすぎるのではないか。
大滝秀治とかもいいんだけど、ややトシを取りすぎているのと、何だか志村喬がやったののコピーになってしまいそうな気もする。

長い前フリは終わり。個人的に一番ぴったりくると思ったのは堺正章である。
まず二枚目でない。細身で適度に痩せこけている。エロキューション(発声)が独特、喜劇的演技も得意。色も強すぎない。年齢も合致する。
もちろん自分が、あまり意識することはなく近年気づいたのだが、ずっとファンだったということもある。
昨年やった主演ドラマ「無理な恋愛」はところどころ面白いシーンもあったが、全体としては凡作で、しかも責任の一端はマチャアキにもあった。
マチャアキという人は万能選手のようだが、こと演技に関しては不器用で、お涙頂戴的なシーンになると途端に見てられなくなる。
この人の本当の持ち味は、馬鹿っぽいというか奇抜なことをすればするほど行間から哀愁がにじみ出てくる。
実は「生きる」はそういう話で、志村喬の演技はあきらかにやりすぎというか、ほとんどコントなのだが、やりすぎなのが後半活きてくる、というとんでもない構成になっている。
もしマチャアキが主人公をやれば、前半をコントすれすれにしてしまっていい。ただし周りは真面目に、セットはがっちりやる前提で。その方が後半のハッピーバースデイからディスカッション部分の、目の色が変わった主人公の行動がより引き立つと思うし。

しかしまあ、こないだドラマにしたばっかりで、またすぐにリメイクはないわな。そういやハリウッドでやるって話はどうなったんだ。ま、どうなろうが知らんけど。

2009年4月7日火曜日

采配

万人が納得することなんて絶対ないと思うが、もしあるとするならどういうものなのか考えると夜も眠れない。

WBC騒動もひと息ついたようで、今なら水差しにならないだろうと思うので、一言二言書いてみよう。
阪神タイガースの岩田に肩の故障が発覚した。実にかわいそうなことだ。というのもこれは防げた怪我だからである。
岩田は阪神では先発オンリーの投手であり、中継ぎの(しかも重要な場面の)経験は皆無といっていい。
だから岩田を中継ぎで使うこと自体が間違いだ、とは思わない。しかし先発専任の投手に中継ぎをさせるのはことさら慎重にやらなければいけないのである。
第二ラウンドの韓国戦、交代の場面の直前、岩田はブルペンにいなかった。一度肩はつくっていたようだが、それでもあきらかに準備不足のままマウンドへあがった。
本来岩田は、精密機械といわれるようなコントロールはないが、連続四球や押し出しをするほどコントロールに不安のある投手ではない。事実緊急召集された合宿でも誰よりもWBC球に合い、まとまったコントロールを示していたらしい。だからこそ代表メンバーに選ばれたのである。
準備不足といえば北京五輪の涌井もそうだった。ブルペンで投げてない状態で登板させられ痛打を食らった。
これがもし中継ぎ専門の投手ならどうか?仮に交代時点でブルペンで投げてなかったとしても、岩田や涌井のようにメロメロにはならなかったはずだ。
事なきを得たが、決勝の9回のダルビッシュもそうだ。「左打者のままなら杉内続投、右の代打がでてくればダルビッシュに交代」というのはリリーフ専任でない投手にとって肩のつくり方もモチベーションのもっていき方も難しすぎるように思う。
岩田は大変なことになったが、幸い涌井やダルビッシュは何ともなかった。とはいえ点を取られたことには変わりない。

問題は原がそれをわかっていたかどうかだ。こういう大事な試合だからこそ緊急登板というのはありえるわけで、それだったらなぜ、少し力が劣っても普段から中継ぎをしている投手を選ばなかったのだろう。
正直内海や小松を選んだことに何の意味もなかった。もちろん実力はあると思うし、長いシーズンなら主戦となるのは間違いない。しかし短期決戦においては役に立つとは思えないのだ。
たとえば加藤大輔や永川の方がよほど使い勝手がよかったと思うし、左でいえば武田勝や江草、星野といったところを入れるべきだっただろう。
これらの投手は緊急登板でもある程度自分の力が出せる、そして怪我のリスクが大幅に少ないというのがある。
おそらく原は去年の日本シリーズでの西武ライオンズの継投を見ていけると思ったのだろうが、あれはこれで終わり、というのがあったからこそできた継投だ。(アジアシリーズはあったけど)
しかし今回の場合、WBCが終わってもシーズンが目の前に迫っているわけで、まあこれは開催時期そのものにも問題があるわけだが。

最初、涌井にしても岩田にしても杉内にしても、球数制限の関係から「第二先発」という位置づけだったはずである。それがいつの間にか普通の中継ぎ扱いになってしまい、終盤、それもイニングの頭からではなく、ランナーを背負った場面での登板ばかりになってしまった。
もし内海や小松の代わりに中継ぎ専任の投手を選び、涌井、岩田、杉内が第二先発という役割だったなら、今回の岩田の怪我は防げたような気がする。

しかしこれらのことは勝ったからいえることである。いわば残された唯一の課題(いかに怪我人を出さずに優勝するか)でしかない。
もう日本は「優勝を期待されるチーム」から「優勝しなきゃいけないチーム」になったのだ。それは次の大会に、仮にイチローが出なかったとしても、だ。
誰も怪我人を出さずに優勝する、こんな難しい難題をつきつけられたチームを他に知らない。

2009年4月6日月曜日

中山式

腰が痛くて夜も眠れない時がある。とストレートな書き出しにしてみた。

自分はあまり病院が好きではない。もう好きだの嫌いだのいってる年齢ではないんだが、できれば遠慮したい、と常々思っている。
2008年の末にえらく風邪をこじらせた時もギリギリまで病院には行かなかった。この話を何かあるとすぐ病院に行く友人に話すと呆れられたが、どっちもどっちな気がする。
風邪はまあ、治るもんだが、持病となるとそうもいかない。
とにかく酷い腰痛を持っている。正確には腰というより背中なのだが、痛みが酷くて立っていることすら苦痛な時があるほどだ。
整骨院には行ったことがない。マッサージはたまに行くが、とりあえずは和らぐので、まあいいかという気になって、本格的に治癒しようという気がない。
トシをとったらもっと酷いことになるぞ、というのはわかっている。でもなあ、ま、そのうちそのうち、でとうとうここまできてしまった。

毎度マッサージに行くわけにも行かないので、健康器具のたぐいにはつい手が伸びる。
マッサージチェアはずっとほしかった。電気屋に行くと具体的に買う計画があるわけでもないのに、図々しくも試用してみたりする。
どうも自分にはナショナルのやつがよかったのだが、新型になって何だかパワーがなくなった気がして、試用もやめてしまった。
あと「J」みたいな形の、先っぽが電動で動くやつも試した。これは値段が手頃なこともあり買う直前までいったが、基本的に肩用なのでやりにくく、無理な姿勢で腰に当ててるともっと腰が痛くなる、という本末転倒ぶりで、結局買うのをやめてしまった。

何かもっと、ピンポイントで腰や背中をマッサージしてくれる器具はないものだろうか・・・といろいろ探すうちに、あるキーワードにぶち当たった。
それが中山式である。
昔から薬局の片隅で売られており、いろいろ探し回った際にも目にはしていたのだが、まったくのノーマークであり、どのみちどれもダメなんだし、安いんだからいっちょう試してやろうじゃないかと一個購入してみた。
そしたらこれが超(グレート)がつく当たりだった。素晴らしい、素晴らしすぎる。何でもっと早く試さなかったんだ!と自暴自棄になるぐらい自分を責めた。それぐらい素晴らしいのである。
仕組みは簡単。先が丸くなった短い棒にバネがついているだけ。電気的な仕掛けは一切ない。
寝ころんで、こった部位の下に中山式を置く。あとは適当に身体を動かして自分でグリグリやる。これが最高に気持ちがいい。電動式のやつなんか目じゃないぐらい、ピンポイントにこった部位をマッサージしてくれるのだ。
自分が買ったのは2つ玉の方で、本当は4つ玉の方が腰・背中用なのだが、ピンときて2つ玉にしたのだが、これも正解だった。
どうも自分は一カ所ずつ、ポイントを決めてマッサージするのが好きなようで、逆にいえばこってない部位をグリグリされるのは痛いだけなので避けたい。
その点2つ玉は余計なところに当たらず、こったところだけをマッサージできるのがいい。
また4つ玉だとかなり大ぶりなのだが、2つ玉ならかばんに入れておけるサイズなので旅行にも気軽に持っていけるのも素晴らしい。
しかも腰だけじゃなく、腕にもふくらはぎにも、そして足の裏にも効く。どれもめちゃくちゃ気持ちいい。気持ちよすぎる。

ここまで絶賛すると気持ちいいどころか気持ち悪いが、まあ宣伝と思われてもしかたがない。自分とここの会社には金銭的な利害は一切ないが、たとえタダでも宣伝部長を買ってでたい気持ちなのである。
いや別に中山式の会社に大儲けしてほしいのではない。潰れられたら困るのである。簡素なつくりなので早々壊れることはないと思うが、買い換えられないのはかなりコマってしまう。だって代わりになる器具を他に知らないもん。

2009年4月2日木曜日

なんてタイトルだと天声人語みたいなもんだと思われそうで夜も眠れない。

昨年末、WOWOWで「藤子・F・不二雄のパラレル・スペース」が放送された。正直「あいつのタイムマシン」以外はどうでもいい出来で、特に「値ぶみカメラ」は酷かった。
あの監督は「誰もやってない斬新なこと」と「絶対やっちゃいけないことだから誰もやってなかったこと」の区別がついてないようだ。
漫画をカット割りも含めてすべて実写化するなんて誰でも思いつきそうなことだけど、そういう作品が今までなかったのは何でなのか、本気で考えたのだろうか。しかも放送時間に全然尺が足りず、インタビューで穴埋めするとはいったいどういうことなんだ。

そんなことは、ま、どうでもいい。ひとつだけこのドラマの取り柄を探すなら、長澤まさみの歌を流したことである。

個人的に長澤まさみにたいして何の感情もない。どっちかというと嫌いなタイプですらあるが、演技力の面で叩かれているのは気の毒だな、と思う。
「値ぶみカメラ」はああいう演出だから論外だとしても、実はそう下手でもない。(無論絶賛するほど巧くもないが)
何というか、この人は典型的な下手口調なのだ。もちろん舌っ足らずなことも大いに関係している。あの声のせいでどうしても下手っぽい感じがでてしまう。
反対に上手口調の人もいる。アリtoキリギリスの石井某は声がいいので巧いっぽいが、実は演技力はたいしたことはない。
一般認識の「演技が巧いか酷いか」なんて、たいてい上手口調か下手口調かで決まってる。でもそれは、演技力とは大して関係ないのである。

さて下手口調の代表選手のような長澤まさみだが、「値ぶみカメラ」の歌がよかったのは、地声で歌ってたからだ。
長澤まさみがCDを出しているか調べる気もないが、仮に出してたとしても、この人は女優にカテゴライズされる人であり、断じて歌手ではない。
女優が歌う、とするなら歌声は極力地声に近い方がいいのである。たとえばミュージカルを演じる時など、歌声と地声が近ければ近いほど自然に見られる。

昭和初年期、のちに「東京ブギウギ」などのヒットを飛ばした笠置シズ子が、名伯楽となった服部良一と出会った時、まずいわれたのが「地声で歌え」だったそうだ。
地声で歌うことは声帯を痛めにくいし、何より感情を込めやすい。実際笠置シズ子は、限りなく地声に近い声で歌うことにより仕事の幅を増やしたし、「買物ブギ」のようなセリフとも歌唱ともつかぬ摩訶不思議な歌詞を、聴いている人が違和感なく歌えたのである。
声の善し悪しは、まあこれは、もうどうしようもないわけで(笠置シズ子だってけして誉められた声質ではない)、問題はどれだけ地声に近い部分でセリフをいったり歌ったりできるかが重要じゃないか。

長澤まさみにはそういう開き直りは感じる。下手口調であろうが、こういう声なんだからそれを活かさない手はない、ある種のしたたかさといえばいいか、「値ぶみカメラ」のラストの歌からそういうのを猛烈に感じた。
しかし年齢を重ねて、かわいい役ができなくなった時にどうするか。もしそこでも開き直ることができれば本物だと思う。
ただ水森亜土みたいになる可能性もあるわけで、うまくいくかどうか自分は知らない。