2009年11月29日日曜日

どうでもいいこと

人間、年を取ると大事なことの記憶もどうでもいいことの記憶も比重が変わらなくなるというけど、本当に、自分でも何でこんなことを憶えているんだということばかり憶えている。
前にも書いたと思うけど、我ながら呆れるほど記憶力が弱い。
小学校低学年までで憶えているのは3、4シーン程度で、さすがに高学年になるともう少し増えるが、おそらく今まで生きてきた中で最も楽しかった時期といえる大学時代のことすら、かなりあやふやになってしまっている。
にも関わらず、こんなこと憶えていても、もうホントにどうしようもない、みたいなことは憶えている。
特にテレビ番組のワンシーンをかなり鮮明におぼえていたりするのはどういうわけだろう。

前に「鶴瓶・上岡パペポTV」のことを書いたが、その中でこういうシーンがあった。
上岡龍太郎が、どうも「お段」で名字がはじまる芸能人はよくない、だから自分の弟子である大空テント(という芸人がいるのだ関西に)にも「大空」を取って「テント」だけにしろといった、という話をしていた。
いぶかしく思ったのだろう。鶴瓶は必死に「お段」からはじまる大物芸能人を考え、導きだしたのが、鶴瓶とも交友の深い緒形拳だった。
しかしそこは上岡龍太郎である。驚くべき言葉で緒形拳を否定した。
「でも・・・緒形拳止まりでしょ」

この話をパペポ好きの友人にしたところ、このシーンは憶えてなかったものの、大受けして、以後この友人との会話で、芸能人に限らずスポーツ選手でも何でも大物をあげつらう時には「○○止まりでしょ」とまぜっかえすのが定番になってしまった。

しかしだ、この緒形拳止まりの話を記憶していたのは、自分がかなりパペポTVにハマりこんでいたからで、そこまで不思議はない。
ところが何故こんな番組の、こんなシーンを憶えているのだろうということもある。

例を2つほどあげる。
・昔「プロポーズ大作戦」という番組があった。同名のドラマもあったがもっと昔、やすし・きよしが司会をしていたバラエティ番組の方である。
この中でたしか素人の出演者が「好きなタイプは中森明菜」といったのだと思う。すると西川きよしが「セカンド・ラブの!」と確認した。
もちろんセカンド・ラブの中森明菜、でも間違いではないのだが、まだセカンド・ラブは発売してすぐだったはずで、一般的に中森明菜といえば「少女Aの中森明菜」だった。
きっと「なぜセカンド・ラブなんだ・・・」と思ったのだろう当時の自分は。

・もう何年もやってないが、大昔は「笑っていいとも」のテレホンショッキングの時、お決まりとして「友達の友達は皆友達だ。世界に広げよう友達の輪!」というのをスタジオの観客と必ずやっていた。
三波春夫がゲストの時があった。その時自作の、例の言葉に得意の音頭調に節をつけ、それをわざわざラジカセ持参で聴かせたことがあった。
タモリはあきらかに困惑していたが、三波春夫は動じることなく、今後これを使ってほしいと悪びれずにいいきった・・・。
ま、このシーンも憶えているのだが、三波春夫作曲の友達の輪の唄を、いまだにソラで歌えてしまえるのだ。
何度かは「笑っていいとも」内で流したことがあったのかもしれないが、そもそもこの時期を含めて毎日笑っていいともを見るという習慣が自分にはない。
だから聴いたのはせいぜい二、三度しかないはずである。にも関わらず、たまに気を抜くと鼻歌で「せ〜かい〜にぃひ〜ろげよ〜ぉ、と〜もだ〜ちのわ、わ!」と唄ってたりするから始末に悪い。

どっちもまったくどうでもいい、将来的に何か役に立つようなことは一切ない。
中森明菜も当時も今もまったく興味もないし、世界に友達の輪を広げるなんて考えただけでもまっぴらだ。
にも関わらず憶えているというのは、もしかしたら何かものすごい暗示が秘められているのだろう、と無理矢理納得するしかないのである。

2009年11月15日日曜日

もうね

何気なくニュースサイトを見てたら「オバマ氏を勝手に応援する会」が何とかオバマ大統領と面会をしようと、わざわざ福井から東京までかけつけたそうだ。
さすがにこれはヒドいとしかいいようがない。

勝手に応援する会やおばまガールズなど、地元では早くから「恥ずかしい」とか「かえってイメージダウンになる」といった声があがっていたようだが、少なくとも自分は、2ちゃんねる用語でいうなら「生暖かい目」で見ていた。
街起こしというのがどれほど大変なものかわかるし、知名度をあげようと思ってもきっかけも何もない。それは本当によくわかる。
だからこそ「生暖かい目」で見ていたのだが、それも大統領選までの話だ。
そもそもオバマと小浜、音がいっしょという程度のことから始まったわけで、大統領選で活動が終わっていたら「あくまでシャレでやっていた」というのがわかる。
しかしここまでやるとまるでシャレではすまない。
街をあげて、たとえ海外であるにせよ、特定の政党に肩入れするのはおかしい。というかこれは法的にぎりぎりの行為ではないのか。
何度もいうが、大統領選までならまだシャレで済む話だったのだ。それが変に注目されたため引き際を見失ってしまったのだろう。

知り合いに小浜出身の人がいるが、小浜出身ですというと、失笑にも似た笑みで「ああ、あのおばまガールズの・・・」といわれるといっていた。完全に見下されているわけだ。
こうなるといったい何のために「勝手に応援する会」だのおばまガールズだのをやってるんだという話になる。
たしかに知名度はあがったかもしれない。しかしその知名度はマイナスイメージの知名度のなっている。「引き際を知らない田舎モノ」という最悪のイメージ。
やってる人は地元貢献のつもりかもしれないが、関係ない小浜出身者にすれば、これほど迷惑なことはない。そんなことは考えないのだろうか。

はっきりいう。「生暖かい目」でなんか見てくれない。見下す対象にしかなっていない。それでも彼らはまだ活動を続けるというのだろうか。

2009年11月14日土曜日

自虐の大阪人

自分は神戸で生まれ・・・いや自分史を語るつもりは毛頭ないがお付き合い願いたい。
神戸は高校を卒業するまで、その後大阪にある大学へ行ったのをきっかけに約10年間大阪で過ごした。
さらに飛び飛びであるが3年ほど大阪に住んでいたことがあり、都合13年ほど大阪暮らしをしていた計算になる。
神戸といっても大阪とほぼ同じ番組が流れており、一番適度な距離で大阪をながめていたのではないかと思う。

さいきんコンビニでつい立ち読みした本に、各都道府県出身者の性格の違いを記したものがあった。はっきりいえばぞっき本に近いものであり、大阪人に関して記してあった章も、いわゆるステレオタイプなことしか書かれていない。
まあそれはいいのだ。所詮ぞっき本如きに文句をいう気にはなれないし、この本を読まずとも、関西に縁のない人々はほぼこういったイメージなのだろうなというのは想像できるからだ。
しかしこれは自分の持っている大阪人のイメージとまったく違う。
他の地方の人から見れば大阪も神戸もたいして変わらないのかもしれないが、自分からしても大阪人のある部分はまったく、ではないが多少理解できない部分もある。
さきのぞっき本でも阪神タイガースと吉本新喜劇については書かれている。吉本新喜劇というかボケとツッコミに関しては今回は省略する。

「○○(阪神が獲得した選手名)最高や!××(阪神が獲得できなかった選手名)なんか最初からいらんかったんや!」
これは2ちゃんねるの野球板でよく使われるコピペである。もちろん阪神ファンが書いた体にして貼り付けてあるのだが、なるほど、それなりによくできている。
では2ちゃんねるとは別の、ほぼ阪神ファンしかいない掲示板を覗いてみる。
「○○?あんなん獲れるわけないやん」
「××(阪神の選手の名前)なんか通用するわけない」
こんな意見のオンパレードだ。こういう掲示板に慣れてない人が見ると、アンチファンしかいないんじゃないかと思われてもしょうがないような書き込みばかりなのである。

狭義に阪神ファンとしたが、これは大阪に置き換えても同じである。
たとえば「大阪なんてヤ○ザばかりなんだろ?」と大阪人に聞いてみるといい。
すると「ホンマにヤ○ザばっかりやで。石投げたらヤ○ザに当たるくらいやから。ま、ホンマに投げたらえらいことになるけど」といった風の答えが返ってくるだろう。
さっきのコピペもそうだが、大阪人というと「大阪最高や!」みたいにいいそうなイメージがあるのはわかる。しかし実際にそういうことをいう人に出会ったことがない。
もったいぶったが、結論めいたことをいえば

大阪人は自虐の人種なのだ。

相手が振ろうが振ろうまいが、まずは自分のこと、ひいては大阪のことを自虐的に語る。
大阪にも、というか大阪人にもいいところはいっぱいある。なのにそんなことはいわない。
ひたすら大阪がどれだけ酷いかを語ろうとする。さっきの阪神ファンと一緒だ。
そこのところが他の地方の人には理解できない。ふつうは自分の住む街を貶されたら腹が立つものだ。でも大阪人は自ら率先して自虐に走る。
何も大阪人は大阪が嫌いで自虐しているのではない。まあいやお約束なのである。
それがわからない他の地方の人はどんどん大阪の悪口をいいまくる。するとどうだ、今まで自虐していたはずの大阪人が怒り出す。当たり前だ。ところが今度はそれが「突然キレる大阪人」というイメージになってしまう。

大阪人は結構複雑なのだ。今様の言葉でいえばツンデレといえるかもしれない。それをいうなら京都はデレツンだろうけど。
神戸人から見ても大阪人は難しい。それを他の地方の人が「騒がしくてヤ○ザが多くてボケとツッコミの会話しかしなくて阪神と吉本新喜劇の話さえすれば喜ぶ」みたいな単純極まる人種として認識したがるのも、何となくしょうがない気はする。
だってマジメに考えてかみ砕けるほど大阪人は単純ではないのだから。