2008年9月30日火曜日

流転



京都は嫌いだが、「祇園小唄」は好きだ。

1930年の歌だが、何というか、京都のもってるムードの、いいところだけをうまく抽出してある。80年近く経っているが、まったく古びていない。というか、未だにこの歌にすべてが集約されているよな気がする。

「祇園小唄」や「ちゃっきり節」、「東京音頭」などは厳密にいえば<新民謡>といわれる民謡を模してつくられたもので、昭和初期に量産されている。

新民謡を含めた民謡とは、いわゆるご当地ソングなのだが、長年生きながらえただけあって、どれも本当によくできている。ただ名物・名産を歌詞に織り込んでいるだけでなく、土地の持つ空気感を見事に再現してあるものが多い。

たとえば「黒田節」なんかもそうで、数年とはいえ福岡に住んでいた身としては、何というか、実に福岡っぽい。「♪さぁ~けぇはぁ~」という出だしを聴くだけで、福岡の、あの街並みを思い出してしまう。

街には歌がある。歌が記憶をつなぎ止める。時間が経っても、歌を聴くと、その時の記憶や街の空気が、頭の中にさっとよみがえる。

思えば、生まれて早40年。いろんなことがあった。いろんなことは誰にだってあるが、本当に、流転の人生だった、と思う。流転も形容ではなく、実際に何度も何度も引っ越した。成功のプロセスとしての引っ越しではない。まさに、流れ流れて、そして今に至る。

福岡に住んでいたことは、何度か書いた。生まれ育った神戸のことも、もちろん書いた。しかし住んだのはその二箇所だけではない。東京も住んだし、大阪も住んだ。他にも住んだ街はいくつかある。

どれも思い出深いところばかりである。絶望して離れた街もあるし、泣く泣く離れた街もある。

それでも、歌は偉大だ。どんなに辛い思い出しかない街でも、土地の歌を聴くと、悪い記憶が浄化されていくような気がする。良い記憶は、さらに美化されていく。

流転も悪くないな、と最近になって思い始めた。今から土地ごとの流転は、さすがにちょっとしんどいが、30代までの流転なら、やっておいてよかったと思えるようになってきた。

これが活かされるか否かは、これから次第なのはもちろんだが、しかし、思うのだ。

おそらく、もう一度人生をやり直しても、また同じような人生になるのだろうな、と。細部は異なっても、やっぱり流転の人生になるのだろう。

でもそれもいいかな、と思う。大変と退屈、二択しかないのなら、大変を選んでしまう、それが自分なんだと思う。

京都も福岡も、街の空気は、何十年、何百年経とうが変わらない、ということは歌が証明している。

人間も一緒だろう。もし子供の時に自分のテーマソングができてたとしたら、おそらく40年近く経った今でもテーマソングとして通用するはずである。

そのテーマソング、歌詞にはきっと「流転」という言葉が編み込まれているはずだ。




さて、ひと月近くがんばって日記を更新してきたが、それも今日でおしまいである。

そういうマメなことができるタイプではないのだが、自分を試す意味で、あえてやってみた。

もうひとつのチャレンジ、それは「自分について書く」ことだった。

何度か名前が出てきたEから「秘密主義」呼ばわりされているが、自分は秘密主義でもなんでもない。説明するのがめんどくさかったり、何でそんなこと聞きたがるの?と訝しがってるだけの話だ。本当に秘密にしておきたいことなら、もっと巧妙にやる。

とはいえ自分のことを書くのは、何となくイヤだった。文章にするからには過去の出来事を整理しなければならない。書いてあることは基本的に本当だが(一部に誇張と補足はあるけど)、ただ事実を書き連ねていけば冗長になりすぎるので、事象やら人物を削っていかなければいけない。その整理が面倒だった。今更、という気持ちもあった。

「過去を整理したい」という気持ちなども、さらさらなかった。そんな面倒なことはしょっちゅうやるもんじゃない。せいぜい生きているうちに一、二度やればいい方だ。

それでも、秘密主義とまでいわれたら黙っていられない。そこまでいうならチャレンジしてやろうじゃないか、という気持ちで始めた。

三年以上ブログをやってたが、このひと月の方がよほど疲れた。やはり自分のことを書くより、他人が作った作品なんかについて、うだうだ書いてる方が向いてるようだ。




2008年9月29日月曜日

最後の晩餐



母親に聞くと、子供の時の自分はわりと父親になついていたらしい。

そうなのか、と不思議な気持ちになる。今はもちろん、子供の時でさえ父親にたいして好意的な感情を持ったことなどなかったはずなのに。

中学一年の時、両親は離婚した。離婚したといっても父親だけが出て行った状態だったし、名前も変わることがなく、何一つ生活の変化はなかった。

前年ぐらいから父親が帰ってこない日が多くなった。たまに帰ってきても深夜に近い時間であり、枕元から両親の激しい口論が耳に入ってきた。

だから離婚ときいて、正直ホッとしたのをおぼえている。もうあの、子供ながらに感じる醜い言い争いを聞かなくて済むと思ったからだ。だがそれだけではない。

両親の離婚イコール、ある種の恐怖心の消滅をも意味していた。だから心の底からホッとしたのだ。

あれは小学六年の時だった。珍しく早く父親が帰ってきた。そして久しぶりに近所の店にメシでも食いにいくか、と言い始めた。

すでに父親にたいしての悪意が芽生え始めていた時期なので、別段うれしくはなかった。

しかしはっきりおぼえている。自分は必要以上にはしゃいだ。はしゃがなくてはいけない、何かそういう空気が横溢していた。

父親、母親、自分、そして妹と弟。家族五人は近所の、何て事無い中華料理屋に入った。

普段皮肉な目付きの薄ら笑いしかしない父親も、何故かこの日は上機嫌で、たしかビールかなんかを注文し、好きなものを頼め、と見せたことのないような笑顔で子供三人に促した。

そんな父親とは対照的に、母親は妙に緊張した顔をしているし、妹と弟もどことなく堅い。それは思い違いかもしれないが、小学六年の自分にはただならぬ雰囲気に思えてしかたがなかった。

自分は注文した若鶏の唐揚げをぱくつきながら「♪若鶏、若鶏、カ・ケ・フ~」と、この時をさかのぼること数年前に関西地区でかすかにヒットした、阪神タイガースの掛布雅之選手の応援ソングの替え歌を口ずさんだ。(本当の歌詞は若鶏ではなく若虎)

まったくつまらない駄洒落である。しかし必死だったのだ。何とかこの張りつめた雰囲気を和ませよう、子供の浅知恵だが、そんなことでもしないといたたまれなかった。

父親も母親も薄く笑ってみせたが、空気は変わらない。

もうどうしていいかわからなくなっていった。

少し話が横道に逸れる。

子供の頃「ウィークエンダー」という番組があった。漫画家の加藤芳郎が司会で、桂ざこばが桂朝丸という名前で出ていたのをおぼえておられる方もいると思う。自分が見始める前には横山やすしや泉ピン子もレポーターとして出ていた。

番組が中盤にさしかかった時、毎回必ず再現VTRのコーナーがあった。再現VTRとは事件をドラマ仕立てで文字通り再現する。扱うのはエロネタから悲惨な事件まで様々だが、出てくるのが無名の役者ばかりというのも手伝って、やけにリアルで、子供が見るには刺激が強すぎる代物だった。

それでも毎週見ていたのは、大人の世界の覗きみたいという好奇心からであろう。

家族で中華料理屋に行った数週間前だと思う。「ウィークエンダー」の再現VTRで一家心中を取り扱った回があった。

つまらない駄洒落もむなしく響き、身動きが取れなくなった自分の頭に、この再現VTRがよぎっていった。

一家心中・・・・?

必死で想像を打ち消そうとした。しかしいくらあがいても「一家心中」という言葉が頭から消えない。

いや、大人になった今だから余計にわかる。あの不自然な空気、まったくもって一家心中直前の家族の様子そのものではないか!

まぁ本当にそうなっていたら今こうしてこんな文章も書いてないわけで、結局何事もなかったかのように家路についた。

その日から約半年後、両親は正式に離婚した。

もう一度、最初の母親の言葉を書く。あなたは父親になついていた、と。

そしてこうも書いた。両親の離婚はある種の恐怖心の消滅だと。

そういうことだったのだ。たぶん自分は父親になつくような行為をしていたのだろう。それはけして情愛からではない。はっきりいえば怖かったのだ。

殴られるとか叱られるとか、そういう怖さとは次元が違う。適度になついたり甘えたりしなければ、自分はこの世にいられない。そう考えて、いや考えたんじゃなくて、無意識の行動だったのだろう。

あの時父親が何を考えて家族を食事に連れ出したのか、そしてあの時の出来事が現在の自分にどういう影響をもたらしているか、どちらもよくわからない。

でもひとつだけわかることがある。自分はどんなことがあっても、最後の晩餐には若鶏の唐揚げは選ばないということだ。

それはいくら今の自分が唐揚げが好きだからといっても変わることはない。




2008年9月28日日曜日

クソ真面目



どうも自分は真面目人間らしい。

友人Eからいわれたのだが、まったくピンとこない。自分ではいい加減この上ない人間だと思っている。

部屋はいつもちらかっている。ほっておいたら何日も食器を洗わない。仕事なんかしなくていいなら、一生遊んで暮らしたいと思っている。

辛いことが嫌い。疲れることが嫌い。楽なように楽なように物事を持っていこうとする。

気分が乗るとものすごいスピードで何でもやるが、乗らないとまったく何もやる気がおきない。

こんな人間のどこが真面目なのだろう。

Eが自分を真面目だと評したのは初めてではない。ちょっと考え方が合わない時に、すぐに言葉を吐く。それって真面目に考えてしかるべき問題じゃね?って思うこともしばしばだ。

Eとのつき合いもかれこれ10年になる。Eと親交を深めるきっかけは、過去ログの「変人はつらいよ」を読んでいただければわかるが、まぁEは自分のことを本当に理解してくれる人のひとりであるのは間違いない。そのEが真面目だというのだから、たぶん真面目なのだろう。

会話の続きで「では不真面目なのは誰か」とEに問うた。すると「Rじゃないか」と、Rの話をはじめた。

Rは自分とEの共通の友人である。つき合いの長さはEと似たようなもんだが、Rは自分より10歳も若い。だからいわば後輩にあたるわけだが、職種も違うし、学校や職場から発展した関係でもない。

Eが不真面目と評したRは、一見どこからどう見ても真面目人間に見える。Rが個人事務所を立ち上げる際、社名をEを含めた三人で話し合ったことがあったが、自分は「オフィス・クソ真面目」はどうか、と提案したぐらいだ。もちろんジョークで。

Eとのつき合いが10年になるということは、Rとのつき合いも10年になるわけで、その間、いろんなことがあった。

仕事の相談にものったし、恋愛の相談にものった。むろんたいしたアドバイスができるわけではないが、せめて話だけでもちゃんと聞いてあげようと思った。そういう「ちゃんとしてあげなければ」というムードを持っている男なのだ、Rは。

あれは二年ほど前だったか。様々なことが重なり、Rと険悪な雰囲気になったことがある。

Rは自分にたいしていいたいことがいっぱいあったようだった。自分もRにいいたいことがいっぱいあった。ことが終わってひと月ほど経った頃、激論を戦わせたが、物別れに終わった。というか、仲違い寸前までいった。

Eを介してRのことはちょくちょく聞いていたが、会うこともなく、電話することもなくなった。

その後、Eの仲介でRと会うことになった。

Rは深刻な問題をかかえており、自分との間にあったいざこざはどこかに吹っ飛び、「深刻な問題」の話に終始した。

いきがかりを捨て、というとオーバーだが、真剣に悩むRを目の前にして、こっちも真剣に耳を傾け、自分なりの意見をいった。

今から三ヶ月ほど前、不意にRから電話があった。

昔と変わらず明るい口調だった。あいかわらず冗談はつまらないが、それでも自分はRの気持ちがうれしかった。

いいヤツなんだよ、Rは。いろいろあったけど、何かあると心配してくれる。そういうヤツなんだ。だから自分もRが好きだし、ついかまってしまう。

時にはうっとおしく感じる時もあるだろうと思う。でも、まあ、それも含めて自分なんだ。ちょっとだけ我慢してくれないかね。

ホームパーティーをやった話はこの間書いた。Rは夫人を伴ってきてくれたのだが、ほんの少しだけど、Rとふたりで話す時間があった。

この間誕生日で、40歳になった、という話をした。するとRは「僕も30歳になったんですよ」と云った。

そうか、ちょうど10歳違うわけだから、そういうことになるのか。

「30代は早いぞ、あっという間に40になる」と実感を込めて話した。そんな何千年前からの繰り言を、Rはちゃんと聞いてくれた。

「でも僕、30代が楽しみなんですよ。ずっと30代になりたかったから」

楽しみ、か。いや、楽しめ。気楽すぎる気もするけど。

話を戻す。自分は真面目人間、そしてRは不真面目人間か、という話だ。

真面目人間といわれるとアレだが、神経質、または理屈っぽいといわれると、自分は間違いなく神経質であり理屈っぽい人間だ。

細かいところに気がつく代わりに、過剰に遠慮がちになったり、些細なことでイライラしたりする。その結果、人を遠ざけたりもする。

Rは正反対とまでいわないまでも、少なくとも神経質な人間ではないし理屈っぽい人間でもない。もちろん「深刻な問題」に直面すれば真剣に悩むが、基本はおおらかで、根っから明るい。だから誰からも好かれる。反面、かなり鈍感なところもある。

もし<真面目=神経質・理屈っぽい>、<不真面目=神経質ではない・理屈っぽくない>という意味でEが云ったとするなら、当たっているのかもしれない。

自分は真面目だ。言い切るにはまだちょっと自信がないが、とりあえず納得することにする。そしてRは不真面目だ。だからこそ、真面目な自分はRが心配だし、不真面目なRも自分を心配してくれるのではないか。

だけど、まあ、Eがこの日記を読んだら「真面目な人だなぁ」というのだろう。自分もEもどっちもどっちだと思うが。




2008年9月27日土曜日

悪魔の結託

女性は悪魔である。異論は一切認めない。
「え~、女性は天使ですよ。たとえば私」なんていうヤツは、おそらく一番タチの悪い悪魔だ。
しかし、悲しいかな、悪魔と知りつつ女性に魅せられていく。そして最後には、やっぱりヤツも悪魔だったんだ、と再認識させられることになる。
とはいえ悪魔もひとりだとかわいいものである。もちろんひとりでも酷いのはいるが、たいていの女性は、キャンディーズの歌の如き(古いね)「かわいい悪魔」なのである。
が、悪魔が本性を発揮するのはツルんだ時だ。これはコワい。
たとえばあるグループの中で、ひとりの女性と揉めたとする。別に艶っぽい話でなくてもいい。たわいのない口論で充分だ。
そうするとその女性は、同じグループの中の女性に相談する。それが広がっていく。尾ひれも背びれもいっぱい付随していきながら。
かくして自分は女性陣から総スカンを食らう、という事態に発展する。
きっと男性なら大なり小なり、そういう経験をしたことがあるのではないか。

実のところ、自分は二回もこれを経験している。いずれも場所は会社。ふたつの会社で同じようなことが起こった。
一度目は、これが不思議な会社で、内勤は自分以外すべて女性だった。まるでハーレムみたいだが、正直まったく恋愛の対象じゃない人たちばっかりで、しかも全員因循な感じであった。
最初はそれなりに順調だったが、ま、最初はたいがい順調なものだが、自分のとある仕事のミスをきっかけに、どうも空気が変わってきた。
そのミスも、詳しくは書かないが、今考えると自分のミスだとは言い難いものだったのだが、何かすべての原因がこっちにあるような態度を「全員」がしてきた。
それ以降も基本的には同じで、やりにくいこと甚だしかった。
別に悪魔たちが原因ではなく、まったく別のことが原因でその会社を辞めたが、次の会社でも同じようなことが起きた。
ここも同じく最初は順調、しかもわりとトントン拍子にそれなりの立場になることができた。
それなりの立場になったということは部下ができるというわけで、何の因果か、全員が女性であった。
面接は自分が担当していた。本当は男性がほしかったのだが、これがろくなのがこない。一度かなり無理矢理ひとり男性を入れたのだが、これが相当の問題人物で、遅刻を毎日のように繰り返し、それ以外にもあまりにも問題が多かったので、クビにするしかなかった。
面接で使えそうなのはすべて女性ばかりであった。しかも採用した女性は皆、それなりに仕事をこなした。

自分はテンパる癖があるようで、どうしようもなく忙しい時にノロノロやってる部下の女性を、かなりキツイ口調で叱った。
どうもこれがマズかったらしい。
これ以降はさっきの話の繰り返しである。

悪魔は結託する。まぁそれはしょうがない。しかし文句があるなら自分に直接いえばいい。悪魔はそれをしない。自分の上司に、いわば直談判してくる。
これをされると完全に自分の立場がなくなってしまう。向こうは「どうせ話なんか聞いてくれない」というが、話ぐらいは聞くに決まってる。話しづらい、というのがわかるが、直談判されると間の人間がどうなるか想像がつかないのだろうか。

しかしそれも悪魔の悪魔たる所以だろう。結託することによって、まるでゲッターロボ(どうも古いな)のように、どんどん巨大化した悪魔になる。
だから悪魔がいっぱいいる職場は苦手だ。しかし悪魔自体が嫌いかというと、やっぱり嫌いになれない。どうもその辺が自分の弱いところかもしれない。

2008年9月26日金曜日

隔離



もっとも酷いバイトの話を以前に書いたので、今回は「もっとも危険なバイト」というテーマで書こうと思う。

危険なバイトというと必ずでてくるのが「ホルマリン漬けの死体を洗うバイト」。やったことがあるヤツに出会ったことがないし、そもそも実際にそんなもんがあるのがどうかわからない。

もうひとつ「新薬の人体実験」というものがあるが、これは本当にやったことがある。

その時のことは口外しないように誓約書まで書かされたのだが、だいぶ時間がたってるし、詳細に触れなければ大丈夫だろう、という判断で書かせていただく。

1996年の話だ。いや、テストには1995年からいってただろうか。

新薬の人体実験といっても誰でもできるわけじゃない。どういうルートでそういう話がきたのかは忘れたが、とにかくそういうバイトがあるということで、まずはテストを受けに行った。

テストといっても難しいことをするわけではない。要するにかなり詳しい身体検査をする。実際に新薬の実験を行っても大丈夫かどうか調べるわけだ。

この身体検査、かなり厳密なもので、後年になって会社の身体検査を受けたが、あんなもん子供の手遊びみたいなもんだ。それぐらいちゃんとしていた。

おまけに身体検査を受けるだけで、わずかばかりの謝礼も発生する。これは貧乏な当時の自分にはかなり助かった。

が、なかなか本戦(人体実験ね)には入れない。どうも白血球の数がどうちゃらこうちゃらという問題があったらしい。

何度も何度もテストを受けて、あきらめかけた頃になって、二泊三日の短期間のコースに入れることになった。

入所は夕方からで、その日の夕食にはステーキがでた。さすがにステーキはその時限りだったが、食事はどれもおいしく満足できた。

が、食事は朝・昼・夜の三回のみ。間食も一切できない。ドリンクも備え付けのお茶しかダメ。途中外出はいかなる理由があろうとも厳禁だった。

起床後は何度も何度も採血と血圧を測られる。それが午前中まで続く。

こう書くと不自由きわまりないが、後は何をしようが自由である。その建物の中にいる限り、寝てようが、漫画を読んでようが、ゲームをしてようが、テレビを見てようが、かまわない。

さすがに長期コース(10日間)ともなると外出できない不便さから苦しくなるようだが、二泊三日ぐらいだと、まったくもってどうってことはない。

ここで簡単なQ&Aを。

・ギャラがいいときいたけど

よくこういうバイトはギャラがいい、というが、実はそれほどでもない。時給にすると全然たいしたことがないのだが、24時間分支払われるのでかなり大きな額になる、というわけだ。

・新薬の危険性は

実はこれがよくわからない。一応説明してくれるのだが、こっちに薬物についての知識があまりない以上、それがいったいどれほど危険なものなのかの見当がつかないのだ。

動物実験済みであるのはいうまでもないが、人体への投与は初めてなわけで、後遺症がでないとも限らない。やはりそれなりの自己責任が必要ではないか。

さて記憶力の悪い自分がはっきりと「1996年の話」と書けるのは、ちょうどアニメの「こち亀(こちら葛飾区亀有公園前派出所)」の第一回の放送を、入所中に見たからだ。

とにかく入所中はヒマなので、館内には漫画の本が山ほどおいてある。とくに「こち亀」はほぼ全巻揃っており、それまであまり読んだことがなかった「こち亀」を一気に読んだ。

この時たまたま友人も入所しており、漫画に飽きたらその友人と話をした。

「両さんの声、ラサール石井らしい」、「どんな風になるかまったく見当つかんな」と結局「こち亀」の話になる。そしてまた漫画の「こち亀」を読む、といった具合だ。

詳細を書かなければ大丈夫だろう、とは書いたが、本当のところ、細かいことはあまり覚えてないのだ。覚えているのは「こち亀」に関することだけ。何しろこの漫画を読んだのは後にも先にも、この時だけ。

だから「新薬の人体実験ってどんな感じなんですか」と聞かれれば、突然狂ったように「こち亀」のことを話す。でもそれはけして新薬の副作用ではない。

2008年9月25日木曜日

狂人ゲーム



友人のE宅に行くと、部屋にこもって遊んでいる。

40前後の男どもが何をやってるかというと、延々ウイニングイレブンというサッカーゲームをしている。

しかしそれは「ゲームをしている」といえるのかどうか。

基本的にふたりともコントローラーを握っていない。試合中はただぼーっと見ているだけ。つまりはコンピューター同士に戦わせて観戦しているのだ。

しかも「ぼーっと見ている」と書いたが、実際には熱い歓声をおくっている。下手したら本物の、日本代表の試合を見ている時より熱くなってるかもしれない。

前はウイニングイレブンではなくベストプレープロ野球であった。

ベストプレープロ野球というゲーム、自分で操作はできない。監督となりサインを送ったりはできるが、それもやらない。

このゲームの最大の特徴、それは「名前を含む選手のデータを自由に変更できる」という点にある。

それを利用して全選手のデータを書き換えた。つまり全チーム、オリジナルチームで構成されているのである。

オリジナルチームのメンツは多岐に渡る。Eと関連のある人ばかりで集めたチームや自分と関連のある人ばかりのチームはもちろん、業者の人、芸能人やスポーツ選手、文化人をカテゴリ分けしてチームを作る。

その分け方がセンスの問われるところで、「こういう括りでチームを作ればおもしろいんじゃない?」という雑談の中から新しいチームが生まれていく。

しかも一チームあたり20人以上必要なわけだから、たとえばドリフターズでチームを作ろうと思っても足りない。そこで「荒井注は当然オッケーでしょ」、「坂本九も昔ドリフにいたらしいな」みたいな感じで埋めていくのだ。

ベストプレープロ野球は簡素きわまるグラフィックなのだが、だからこそ想像力が働きやすい。「おい、今の仲本工事、片手でライト前まで運んだぞ」みたいに。もちろん画面ではそんな細かいことは一切表示されていない。

これが5年ほど続いたろうか。EがPS2を買ったのをきっかけにウイニングイレブンに変わった。

ウイニングイレブンはベストプレープロ野球と違って自分で操作できる。しかしこれまた「選手のデータを自由に変更できる」という特色を活かしてイジりにイジりまくっている。野球ゲームからサッカーゲームになっただけで、結局やってることは変わらない。

しかもこのウイニングイレブン、時代が時代なだけに美麗なグラフィックなのだが、それに合わせてモンタージュ形式で「顔」も作ることができる。

Eは完全に職人のようになっていて、パーツが用意されておらず、通常非常に難しいとされる女性の顔まで作成できるようになってしまった。

顔だけでなく当然身長なんかも設定できるわけで、デカい人はデカく作れる。さきのドリフチームでいえば「じゃキーパーはジャンボマックスだな」みたいなことも可能になった。(もちろん制限があるので本物のジャンボマックスよりはだいぶ小さいが)

楽しそうでしょ?え、楽しそうじゃない?いったい何がおもしろいのかわからない?

うーん、やっぱりそうきたか。実際こんなに理解されない遊びも珍しい。Eなんか高校生の時からこういう遊びをやってみたかったが、誰も同調してくれる人がいなかったというし。

しかし、ひとりだけわかってくれそうな人がいる。といってもリアルの知り合いではない。

130Rの板尾創路氏だ。

さすがにオリジナルチームでやってるかどうかは知らないが、この人も野球ゲームでコンピューター同士に戦わせて観戦しているという。

おそらく自分たちの「遊び」に何の抵抗もなく、ふつうに入ってきてくれそうな気がする。とはいえ板尾氏と知り合いになる術があるわけではないが。

実はもうひとりいる。これまたリアルの知り合いではなく、しかもすでに故人だが。

その人とは、作家の色川武大氏。阿佐田哲也名義で「麻雀放浪記」を書いた、といえばピンとくると思う。

この色川氏、生前に対談でこんなことを告白している。

(以下「恐怖・恐怖対談」より引用)

------------------------------------------------------------------

いつごろからか、カードをつくる癖がつきましてね。相撲でも野球でも、代議士でも、とにかく人の名前が利用できるものなら何でもいいんです。カードをつくりまして、トランプ類とかサイコロとかで一定の方式をつくって勝負をやらせたり、ゲームをやらせたりするわけです。

------------------------------------------------------------------

いわば遊戯王などのハンドメイド版か。しかしこのハンドメイドという行為が限りなく自分たちのやってる「遊び」に近い。つまり自分たちのやってることは、このカード遊びの二十一世紀版というかハイテク版なのかもしれない。

それにしても、色川氏-板尾氏というラインの延長線上に自分たちもいるのだとすると、やはり自分もEも「かなりの変人」ということになるのだろう。

板尾氏がどういう人かはおなじみだと思うが、色川氏はもっとすごい。どこがどうすごいのかは数ある著書を読んでもらうのが一番てっとり早い。自身をモデルにした「狂人日記」といった書名をみるだけでも、ふつうの人とは全然違う。

たしかに自分たちのやってることは変を通りこして「狂」の部類に入るのだろう。だからこそ誰にも理解されなくてもしょうがない。だって板尾氏や故・色川氏のような人とやすやすと知り合いになれるわけがないわけで。

しかし、ウイニングイレブンの発売元であるコナミにだけはわかってほしい。何でかって?だってコナミがわかってくれたら、もっと顔のパーツを増やしてもらえそうだから。




2008年9月24日水曜日

犬に飼われた猫



この間は個人で飼っていた猫の話を書いたから、今度は実家で飼ってる猫について書く。

震災の時、母親が犬も連れて大阪へ疎開していた、とは前回書いたが、この犬、この時点で15歳ほどだったからかなりの老犬だった。

もうだいぶ足下がおぼつかなくなっていたが、それでもそれなりに元気で食欲も旺盛だった。しかし震災で車で連れ回され、たとえ一週間とはいえ見知らぬ土地で暮らしたのがよほど堪えたと見え、これ以降急速に老け込んだ感じになってしまった。

結局震災から半年後に、この犬は死んだ。自分が中学に入る頃にもらわれてきた犬なので、思い入れも強く、たいそう悲しかった。

しかしもっと悲しんでいたのは母親だった。いわゆるペットレス症候群というヤツである。そしてそれから半年ほど経ったころ、保健所から一匹の小型犬をもらって帰ってきた。

もう自分はすでに実家に住んでいなかったし、母親が何をしようが勝手なのだが、正直この犬が好きでなかった。

もともと小型犬をあまりかわいいと思えないのもあるが、母親の溺愛が酷く、こっちが愛情を持つ隙がないのが大きかった。

この小型犬をもらってきて、さらに半年経った頃、”犬が猫を飼い”だした。

嘘でも誇張でもなく、本当に犬が猫を飼い始めた。経緯を詳しく書きたいが、あとで電話で聞いただけで、その場にいたわけではない。自分が聞いた範疇で書く。

母親が小型犬を散歩させていると、一匹の子猫が寄ってきた。どうも捨て猫らしいが、母親にではなく「犬」についてきた。

あんまりしつこく犬に寄ってくるので、まあいいか、ということで実家で飼うことになったらしい。

とはいえ餌は母親があげてるわけだし、トイレだってそう。

しかし断じて飼い主は母親ではなく、犬だった。それは実家に帰った時に嫌がうえにでも認識させられた。

とにかくこの子猫、すべて犬に右へ倣え、なのである。

後をついて行くのはもちろん、犬が喜ぶ人には自分も懐く、犬が嫌がる人は自分も逃げる、といった具合で、寝るポジションからくつろぐ場所まで、すべて犬の真似をしていた、といっても過言ではない。

挙げ句、散歩にまでついてくる。所詮猫だから行動範囲から外へは出ないが、範疇のぎりぎりまでついていって、散歩から帰ってきてもそこで待っており、一緒に帰ってくる。

だから何だか、およそ猫らしくなく、犬が二匹いるようなもんだった。

三年前、小型犬が死んでから猫の様子が変わった。何しろ飼い主が死んだのだ。おそらくどうしていいのかわからなくなったのだろう。

とにかく狷介になった。今までふつうに接してきた近所の人から逃げるようになった。大丈夫なのは母親と自分だけ。不思議なのは、この猫とまったく一緒に暮らしたことがない妹も大丈夫だったそうだ。何かわかるのかねぇ。

どうも狷介になった理由は、飼い主である犬がどこかに連れていかれたと思っているぽい。だから身内以外の人間に異様な警戒を示すようになったのではないか。

ただ狷介になったのと同時に、猫らしい行動が増えた。

全然甘えてこなかったのに、ゴロゴロいいながらすり寄ってくるようになったし、それまで家のどこかで寝ていたのが、今では母親と一緒にベッドで寝ているようだ。

おそらく今でも飼い主の犬が帰ってくるのを待っているのだろう。いくら猫らしさが出てきても、やっぱり母親を飼い主の飼い主にしか思ってないっぽい。

天気がいい日はひなたぼっこをしている。ずーっとしている。まるで何かを待っているように。

でもな、お前さんの飼い主はもうこの世にいないんだよ

見てただろ?飼い主が死ぬところを

しかしあれだ、安心しろや

誰もお前さんをどこかへ連れて行ったりはしないから

のんびりとな、身体だけは気をつけてな

何しろお前さんは病院嫌いだからな

また気が向いたら甘えてくればいいからさ

まあ、猫らしくても猫らしくなくても

飼い主が誰でも、そんなことどうでもいいや

とにかくさ、まだまだ生きてていいんだよ

お前さんがもういいって思うまでな




2008年9月23日火曜日

ホームパーティー



一度でいいからホームパーティーなるものをやってみたかった。

アチラ製のドラマを見ていると、やたらホームパーティーを開いている。てかそんな場面が多い。

いや、アチラまで行かずとも、数年前ヒデがホームパーティーを開いている体のCMがあった。ヒデはデジカメでその様子を撮影し、すぐさまプリントアウトしてやる。

ホームパーティーの定義はよく知らないが、こんなことを実際にしたらまず嫌われるだろう。後でやれよ後で。相手がヒデだからみんなあきらめているのか?まぁ日本代表の合宿で、みんなでトランプとかしてるのに、ひとりだけ参加しないヒデのことだ。この程度の行動では皆ビクともしないのだろう。

ヒデの話はどうでもいい。ホームパーティーの話だ。

先日友人のEのところへ遊びに行った際、共通の友人であるR夫妻を呼ぼうという話になった。

メンツとしてはE、Eの彼女、R、Rの奥さん、そして自分の五人。五人かぁ。

その瞬間、頭に閃光が走った。線香ではない。閃光だ。

ほーむぱーてぃーができるじゃないかびっくりまーく

とはいえEの部屋は広いとはいえ、所詮うさぎ小屋にたとえられる日本国内のマンションだ。さすがに立食パーティーは無理で、ふつうにテーブルとイスを用意した。

これじゃただの食事会と変わらないのだが、違う。断じて違う。これはホームパーティーなんだ!そう自分に言い聞かせた。ついでにEにも言い聞かせた。

言い出しっぺの責務として料理を担当することになった。メシを食う以外、パーティーっぽいイベントは何もない。メシがすべてだ。つまり最大の任務を自ら志願したのだ。

志願兵はまず買い出しに行った。近所のスーパーとは置いてあるものがかなり違い、かなり苦労したが、それなりの食材が用意できた。

R夫妻が来る30分ほど前、おもむろに調理を開始した。各料理の調理時間を計算し、30分もあれば十分だ、そう認識していた。

30分後、ほぼ時間ぴったりにR夫妻がE宅に現れた。

ところがである。まだ全然料理ができていないのだ。

いったいどういうことだ!志願兵は焦りに焦っていた。

一人暮らしが長かったせいもあって、料理には慣れているはずだった。しかしこれが落とし穴で、今まで作っていたのはほとんどひとり分、多くてもふたり分でしかない。

今回は五人分だ。しかも一応ホームパーティー風にしたかったので、最低でも五品は必要だと考えたのだ。

五品を五人分。これは完全に想像を越えていた。大変なんてもんじゃあない。尽力しても全然終わらない。すでにR夫妻が到着してから30分以上経過している。

Eがせかしにきた。当たり前だ。おそらくみんな腹ぺこだろう。だからこんなに必死のパッチでやっているのだ。でもできないものはしょうがないじゃないか!

焦りと理不尽な怒りが空気を悪くしていたのはたしかだが、志願兵にそんなことを考える余裕は一縷の隙も残ってなかった。

やっと料理が完成した。自分が料理を作るというもの珍しさと気遣いもあって、幸いみんな喜んで食べてくれたが、志願兵は作り疲れで、もうお腹いっぱいの状態であった。

とりあえず一服しよう。たばこに火をつけた瞬間、忘れていた!パンを切ってだすのを忘れていたのだ。

急いでたばこの火を消して、再びキッチンに向かう。買ってきたフランスパンを包丁でスライスする。

それは鬼気迫る姿だったようで、後で聞いた話ではキッチンから「ウー!ウー!」とうなり声が聞こえていたそうだ。

R夫妻が帰り、死ぬほどあこがれていたホームパーティーが終わった。

祭りの後のなんとやらではないが、心身ともに疲れ果てていた。

ホームパーティーってこんな大変なものだったのか。もちろん甘い計算をして調理を志願した自分が悪い。

しかし、思うのだ。ホームパーティーではないにしろ、毎日家族分の食事を用意している主婦の、なんとエラいことよ!

大人数の料理作りは肉体労働である、と改めて認識させられた。今も昔も大家族の主婦は肉体労働をしているのである。

実際にやってみたホームパーティーで学んだのは、そんなことであった。




2008年9月22日月曜日

ポピュラス



神戸出身だけあって、震災のことは何度も聞かれる。んで何度も話す。だから自分の中で完全にネタとして出来上がってしまった。

震災のことは、不謹慎だけど、ネタにするのは飽きている。もちろん思い出したくないという気持ちも存在するが。

なのであんまり人に話さないことを書こうと思う。

震災の当日、自分は実家にいた。当時大阪に住んでいた自分は、その日の夕方にかけつけたのだ。

実は家に着くまでに驚くべき体験をいくつもしたのだが、それは省く。

とにかく実家には自分、母親、弟、自分の彼女、弟の彼女、年老いた犬がいた。自分の彼女は一緒に車に乗っていったからだが、弟の彼女が何故うちの実家にいるかは不明。

前日は一睡もしてなかったので、とにかく一眠りする。目が覚めると、家に到着した時にはまだきてた電気は消えていた。そして真っ暗な中、母親が電池式のラジオを聞いていた。

まだ余震は続いていた。今後大きな余震がきたら、たぶん家は潰れるだろう。ここにいては危ない。そういう空気が流れていた。

逃げよう。しかし大きな問題があった。ガソリンがないのだ。まさか神戸がこんな状態になってると思わずのミスだが、それにしても、こんなことならもっとガソリンを入れてくるべきだったがどうしようもない。

とはいえしょうがない、では済まない。四の五のいってる状況ではないのだ。どこか開いてるスタンドがないか探しにいくことにした。とはいえ近所にあるガソリンスタンドはすべてダメだ。比較的被害の少ない北の方に向かうしかない。

どんどん北へ向かった。しかし走れば走るほど、被害が少ないのと同時に、ガソリンスタンドがない。あっても閉まってたりする。もう全然知らない場所まで走ってきてしまった。そして残りわずかのガソリンもついに底をつきはじめた。

もうダメか、と思った瞬間、一件の、営業しているガソリンスタンドを見つけた。

別にアテがあって走っていたわけではない。ただ当てずっぽうで、こっちの方にくればあるんじゃないかと思って走ってただけだ。

それが当たった。まさに奇跡の瞬間だった。

とんぼ返りで家に着くと、すでに母親他は支度を完了していた。

犬も含めて車に乗り込んだ。完璧に乗車定員数違反だが、この非常事態にそんなことをいってる場合ではない。

さっきまで自分はガソリンを入れるために車で走り回っていた。しかしわずか30分ぐらいの間に、また街の様子が変わっている。

信じられないぐらい空が赤かった。きっと夜になってあちこちで火災が発生したのだろう。それにしても赤い。

ふと祖母の言葉を思いだした。

戦時中、近くで空襲があると見に行ったそうで、とにかくキレイだった、といっていた。打ち上げ花火など問題にならないぐらいキレイだったそうだ。

なんて不謹慎な!と思う方もおられよう。しかしその時の自分もそうだった。あんなにキレイな空は見たことがない。

一週間ぐらい経った。余震もほぼおさまり、電気も復活、電車はダメなものの家も大丈夫のようだ。

この間親戚の家に世話になってた母親と弟は家に帰りたい、と言い始めた。おそらく犬も帰りたかったに違いない。

再び家族を車に乗せ、神戸へ向かった。とはいっても道路事情が壊滅的だったので、かなり大回りして神戸方面へ向かった。

途中、新興住宅地の造成中のそばを通った。

少し話はズレるが、当時、自分は「ポピュラス」というゲームに凝っていた。プレイヤーは神となり、土地を耕したり、地震などの天災を起こしたりすることができる。

なんだ、まさにポピュラスの世界じゃないか・・・。

こうやって住宅地を造成しているところもあれば、地震で築き上げた街があっという間に崩壊する。

でもこれはゲームじゃないんだ。現実なんだ。でもゲームに「神からのコマンド」があるように現実にも「神からのコマンド」があるのかもしれない・・・・。

現在。街は復興した。元通りではないが、神戸はそれなりに活況を取り戻した。

しかしそれも「神からのコマンド」がうまくいってゲームが順調に運んでいるだけなんじゃないか。神の手のひらで遊ばされてるのだろう、きっと。そしてまたいつかとんでもない「神からのコマンド」が発生するかもしれない、と思うと少しだけ恐ろしくなってくるのである。




2008年9月21日日曜日

運転



車の運転をしていると、いろんなことがある。

大学生の時の話。朝、駐車場に行くと車のフロントガラスが割れていた。なんとも悪質なイタズラだ。

とりあえずガラスの破片を拾いまくる。車のガラスが割れた経験のある方ならわかると思うが、車のガラスは普通のガラスとはかなり違う。

ひとことでいえば破片が小さいのだ。普通のガラスのような10センチ前後の不規則な形で割れるのではなく、文字通り粉々になってしまう。

ただでさえ物を拾いづらい車内、結局ほぼ全部の破片を拾い集めるのに二時間もかかってしまった。

とりあえずこの状態はマズい。世話になってる修理工場に電話をし、その工場まで持っていく、というか運転していくことになった。

当時大阪に住んでおり、工場のある神戸までは阪神高速を使っても一時間近くかかる。いつもなら何てことない距離だが、フロントガラスなしで運転するなんて初めてのことだ。さすがに高速道路は怖い。しょうがないので下道(一般道)で行くことにする。

しかしそれでも怖い。とくに鳥が低空飛行で飛んできた時の怖さは形容しがたい。

不思議なことに原チャリなら別段怖くはない。それが「フロントガラスのない車」だと怖くてたまらない。

渋滞もあって、三時間ぐらい、つまりいつもの1.5倍ぐらいかかったろうか。何とか無事、修理工場までたどり着いた。

ガラスをはめてもらう前にもう一度ガラスの破片を掃除機で吸い出してもらった。自分が拾い集めたのと同じぐらいの量の破片が見つかった。

そうだよ、掃除機で吸い出せばよかったんだよ。家から駐車場まで、いくら目の前とはいえそんな長い延長コードなんて持ってなかったけど。

27歳ぐらいの時の話。車が急に必要になった。レンタカーというわけにもいかず、久しぶりに車を買うことにした。

そうはいってもいい車はいらない。乗れれば十分、ということで、諸経費込みで一番安い軽の乗用車を買った。

総額15万円。安い。安すぎる。値段相応のポンコツだったが、動けば何でもよかった。

そのポンコツで東京-神戸間を往復しようとしたのが間違いだった。

行き、つまり神戸から東京へ向かう道中は順調そのものだった。

ところが帰り、名古屋をすぎたあたりからだろうか、突然車の調子がおかしくなった。

この状態で名神高速を走るのは怖いので、名阪国道を使うことにした。

やっぱり調子が悪い。アクセルを踏んでもスピードが出ない。それよりヘッドライトが何だか暗い。ただでさえ暗いことで有名な名阪国道だ。これは怖すぎる。

とりあえずガソリンスタンドに入った。少し調べてもらうとバッテリが空に近いという。

あれだ、つまりダイナモがイカれたのだ。ダイナモというのは発電装置みたいなもんで、ガソリンを電気に換えてくれる。電気はヘッドライトはもちろんパワステやエアコン、カーステなど、車のあらゆるところで必要になる。電気がないと車はまともに走ってくれなくなる。

しょうがない。バッテリを充電してもらう。この間約一時間。

そして一時間ほど走る。バッテリが弱ってくる。またガソリンスタンドに入って充電。これを繰り返した。

途中、全然ガソリンスタンドがない区間があって、あのときほど肝を冷やしたことはない。

あ~あ、こんなことならJAFに入っとくんだった。

ポンコツ軽で東京なんか行くんじゃなかった。

それよりもっと奮発して、まともな車を買えばよかった。

後悔先に立たずである。

車はきちんと整備してナンボである。とくに自分のような車オタクでない人間はそれを痛感する。

いや、そんなことより、痛切に感じておきながら、何度も同じ失敗をする自分の頭の中を整備する方が先かもしれない。




2008年9月20日土曜日



酒を飲める人はエラいと思っているようなところがある。

飲んで飲めないことはない。御返杯ぐらいなら大丈夫だし、特定の種類のアルコール、たとえばウォッカとかなら2、3杯はいける。

でもそれだけだ。だいいち気持ちよくならない。気分の昂揚もあるにはあるが、ほんの一瞬で終わってしまう。飲んでいる間、ほとんどの時間は気持ちが悪い。

記憶がなくなったためしがない。その前に気分が悪くなって嘔吐してしまう。

酔っぱらって女性に告白したり、なんてのもやったことがない。

その上金もかかる。酒飲みでないから、乾き物だとアテにならない。だからおかずっぽいものをアテにしてしまう。酒が進まない分、箸は進む。腹はふくれるが、結局は吐いてしまう。支払いもかさんでしまう。これ以上の無駄遣いはない。

まったく何のために酒を飲んでいるのかわからない。いつも、これなら喫茶店でコーヒーでも飲んでいた方がマシだと思ってしまう。

ところがまわりを見回すと、実に楽しそうに、皆酒を酌み交わしている。何がそんなに楽しいのだろう。自分には苦痛なだけなのに。

こんなんだから飲み会とか大嫌いだ。とくに会社の飲み会なんて最悪だ。こっちは酒なんかおごってもらっても少しもうれしくないんだよ。ましてや割り勘とか、もっと酷くなると会社の下の子を連れて行って、勘定はこっち持ちなんて地獄じゃないか。

それでもやっぱり、酒を飲める人はいいな、と思ってしまう。自分にとっては苦行でしかない時間が、至福の時間になるわけだから。エラいな、と。いやエラいか?

これでも未成年の時までは、わりと普通に飲めた。まったく自慢することじゃないが。

血族に特別アルコールに弱い人間がいるわけじゃないし、今ここまで弱くなったのは、あの日が原因としか考えられない。

大学に入学してサークルなんかに入ると、必ず新入生歓迎コンパなるものが催される。

それはいいのだが、一発芸みたいなものを要求されるのは閉口した。それを何とかクリアしてホッとしていると、新入生早飲み大会なるものが始まった。

早飲みとはもちろん酒である。それも日本酒。

こういう行事は、数年前急性アルコール中毒で倒れる、最悪の場合死に至ることもあって問題になったから、今でも行われているかどうか定かではないが、当時は当たり前のように行われていた。

要するに新入生の男子のみで、一気飲みをさせるのである。

当時の自分はさほどアルコールにたいする拒否反応がなかったから、日本酒コップ一杯ぐらいわけなかった。

しかし罠はここからである。

「うーん、どっちが早かったかな。もう一回やってみよう」と、再度一気飲みが始まる。

一度や二度ではない。結局10杯は飲まされただろうか。

それでもそこまで堪えず、その後も、わりと普通に先輩たちと談笑していた。

ところが、突然のように、猛烈な吐き気がおそってきた。

トイレに行こうと思うのだが、足下がフラついてまともに歩けない。

ボロボロになりながら、トイレにたどりつくと、神でも宿ったかのように、出るわ出るわ。

その後の記憶はおぼろだ。たしか先輩の車で家まで連れて帰ってもらい、死んだように眠った。この時点でまだ夕方だったが、目が覚めた時には翌日の午後になっていた。

これ以降、急速にアルコールにたいして恐怖心が芽生えるようになった。さらにこの年の秋、学祭でビールと日本酒、その他もろもろのチャンポンを飲まされたことが決定打になって、とうとうほとんど飲めなくなってしまった。

半分は精神的な問題だと思う。酒を飲むイコール気分が悪くなる、という図式が自分の中に染み着いてしまっている。

でも、どうしても、というシチュエーションになったら飲めるのだから、先天的に弱いわけじゃなんだろうな、とも思う。

だからといって、もう今更克服しようという気もない。一時期ひとりでいる時に、自分のペースで飲めるようになろうとチャレンジしたことがあったけど、それも頓挫した。

まぁいい。損かもしれないけど、その分他に楽しみをみつければいいや、と思えるようになった。そして酒を飲むよりも「酔える」ことも見つかった。

酔えればいいんだよ、酒なんか飲まなくても。酒の力がないと酔えないなんて悲しいねぇ!と負け惜しみをひとりごちたりするのである。




2008年9月19日金曜日

パチンコ



ギャンブルはしない。といっても真面目とか堅物とかとは一切関係がない。ただ単に興味がないだけだ。

但し競馬だけはちょっとおもしろいかな、と思っている。でも実際には馬券を買うわけでもテレビ中継を見るわけでもない。

そんな中、別格のギャンブルがある。もちろん悪い意味での別格である。正確にはギャンブルと呼べるかどうかわからないが、とにかくパチンコは好きでない。

すんごい正直にいえばパチンコをやる人自体、あまり好きでない。険悪になるに決まっているので口のは出さないけれど。

しかしだ、これだけ好きでないのに、どうもパチンコには縁がある。

数年前、とある会社にて、パチンコ店のチラシを約三年に渡ってデザインしていた。パチンコ業界というのは不景気に強いようで、次から次へと仕事が増えていった。

地域でいえば神戸・大阪と関東で、ここらへんに住んでいた方は自分の作った折り込みチラシを見ておられたのかもしれない。

とにかく毎日毎日おびただしい数のチラシを作っていた。そんなんだから自然とパチンコには詳しくなる。

「お、海物語の新機種がでるのか」

「このメーカー、ホント羽根物にこだわるよなぁ」

「あそこのメーカー、スロットはいいのにパチンコになるとダメだな」

そんなフレーズがポンポン出てくる。

東京は上野にある各メーカーのショールームとか毎週のように通っていたし、幕張でやったパチンコの見本市みたいなのもいった。

この見本市、やたらと派手なもので、自分をフューチャーした台が出ている芸能人なんかもいっぱい来ていた。

こんなんだからパチンコ店の店長なんかとも仲良くしゃべるし、ルールや規制についてだって、その辺の素人より知っている。

でも、それでも、自分はパチンコをやらなかった。

会社の人にも、それこそ毎日のように誘われた。上司からは「実地研修だと思え」とさえいわれた。それでも行かなかった。

たしかにパチンコという遊技自体、いいイメージがなかったのはたしかだが、それ以前に、自分の中で「パチンコはもう終わった」と思っていたことが大きい。

小学校低学年ぐらいまで、親戚に連れられてよくパチンコ屋にいっていた。

ただ見てるだけではつまらないので、少し玉を分けてもらい、自分でも打ってみる。

おもしろい。そして難しい。なかなかチューリップの中に入ってくれない。

そのうち親戚から小銭をもらい、自分で玉を買い、打つようになった。もちろん子供がパチンコに興じるのは、厳密にいえばアウトだが、時代的にも店的にもおおらかで、誰も気にとめなかった。

一度、恐ろしいほど馬鹿勝ちをしたことがあった。まぁせいぜい一万円ぐらいだが、子供にとって一万円は大金である。

子供の自分は何を思ったのか、全部ガムに換えた。十箱以上はあっただろうか。別にガムが好きでもなかったのに、何故そんなことをしたのか、まったく理解に苦しむが。

たしかそのガムは全部食べきれず(当たり前だ)、処分したと思う。

こんな子供時代をすごしておきながら、大人になってからはパチンコには興味が持てなかった。いや、大人になる前、小学校高学年ぐらいから興味がなくなっていた。

自分が子供の頃のパチンコといえば、レバーを指で弾くものだった。それが少しずつ、電動式の台が出回りだし、あっという間に電動式の方が主流になってしまった。ちょうど過渡期だったのだろう。

初めて電動式で遊んだ時の感覚は未だに忘れない。

「こんなんつまらない・・・・」

レバーを指で弾く、というのは、どれだけ同じ力加減のつもりでも、やっぱりズレが生じる。そこがおもしろかった。しかし電動式の場合、一度頃加減でレバーを固定すれば、まったく同じ弾道で玉が飛んでいく。

まだ規制もゆるく、みんな十円玉かなんかでレバーを固定して、あとはたばこを吸いながら台を眺めている。

何か電動式の台が出回ってからが、ゲームとしての面白さは半減してしまい、パチンコが正真正銘のギャンブルになった瞬間のような気がする。

だから自分にとって、パチンコはもう「終わったゲーム」でしかないのだ。そして今のパチンコ台がいくら進化して、でっかいディスプレイをつけて、派手なリーチ予告があったとしても、何だか退化しているような気がしてならないのである。




2008年9月18日木曜日

ひとり旅



小学生の頃、藤子不二雄A氏の「フータくん」という漫画にハマりにハマった。

内容はというと、小学生ぐらいの少年ながら、家族を持たず学校へも行かず、今様にいうならバガヴォンドとでもいうのか、まさに足の向くまま気の向くまま、気楽な旅をしている、そんな少年を主人公にした漫画だった。

面白い、というよりも、あこがれた、といった方がいいかもしれない。大人になってからも何度も読み直したが、もちろん面白いことには違いないのだが、やっぱり主人公であるフータくんの姿は何度見てもいい。

だからか、未だに「ひとり旅」という言葉にあこがれているフシがある。ひとり旅なんてとんでもなく寂しいみたいだが、自分にとってはそうではない。誰に気兼ねすることもなく、足の向くまま気の向くまま、まさにフータくんのような旅ができるかと思うだけでゾクゾクしてくる。

そういや子供の頃「もしこのままひとり旅に出るなら」という体で、ヒマさえあればリュックの中を引っかき回していた記憶がある。好きな漫画、好きなカセットテープ、ゲーム&ウォッチ・ダブルスクリーンのドンキーコング、といった遊びの道具はもちろん、とっておきの、2099年までのカレンダーが表示できる、カシオの高機能電卓なんかも詰めてある。

さらにはもし怪我をしたらどうするのか、と考え、当時日本では入手が困難だったタイガーバームを根こそぎ他の容器に移して、それがバレて、こってり絞られた記憶もある。

あの頃、リュックこそ自分にとっての、フータくんの持っているズタバッグであり、ドラえもんでいうところの四次元ポケットであった。もっともこっちは自分でアンコを詰めるのだけれども。

じゃあ実際どこに「旅」に行くか、だが、たかが小学生だからお金もないし、やっぱりちょっと怖いし、せいぜい電車に乗り継いで、神戸から大阪難波ぐらいが関の山である。どうも難波より南は大人とでさえ行ったことがなかったからか、完全に未知の世界であった。

昭和54年、小学五年の時の話だ。ついにこの禁は破られる。

この年、近鉄が初めてリーグ優勝するチャンスを迎えていた。自分は別に近鉄ファンでも何でもなかったが、藤井寺球場で行われる試合で優勝が決まる、とわかるといてもたってもいられなくなった。

この日は土曜日で、いつもなら母親が昼食として焼きそばか何かをつくってくれるのだが、何故か母親は出かけており、学校から帰るとどっかで買ってきた、パックに入ったお好み焼きが置いてあった。

よし、このお好み焼きをお弁当にして藤井寺球場に行こう。幸いお小遣いはまだ残っている。何とかなるぞ、と意気込んで、自慢のリュックにお好み焼きを詰め込んだ。

足取りは軽かった。はじめてのひとり旅である。背中のリュックを実際に持ち出したのも初めてだ。中身はさんざん練り込んだものばかり。どんなことがおこっても大丈夫だ。時間を潰すことも、怪我をしても何とかなる。たとえこの旅が二十一世紀まで続いたとしても、高機能電卓さえあればいつでも何曜日か知ることができる。

気分は高揚しきっていた。電車の中でも、自分がニヤついているのがわかるぐらいであった。

電車を乗り継ぎ、未知の土地である天王寺に着いた。ところが近鉄あべの橋駅ではあちこちにこんな張り紙がしてあった。

「本日の藤井寺球場で行われる近鉄の試合は入場券がすべて売り切れました」

自分は入場券なんて持っていない。つまり今から球場に行っても入れない、ということに他ならない。

いきなり冷や水を掛けられてしまった。もう目的がなくなった。どうしよう・・・。

とはいえ、あんだけ浮かれまくった、初めてのひとり旅だ。このまま帰るわけにはいかない。なにしろ二十一世紀になっても旅を続けられる準備をしてきたのだ。たかだか二時間ちょいで帰ってたまるか!

とりあえず、本当にとりあえず、目の前にあった天王寺公園で、家から持ってきたお好み焼きを食べることにした。もう14時をまわっている。腹が減ってるなら、まず食えばいい。そして後のことは食後に考えよう。

この天王寺公園、今は様々な事情があると思われ有料になっているが、当時は無料で誰でも入れた。ただしかなり浮浪者も多かったと思うが、まぁそういう人は三宮で見慣れているので、そこまで抵抗はない。

ベンチに腰を下ろした。リュックを広げて弁当であるお好み焼きを取り出す。

しかしそれはお好み焼きといえるのだろうか。どう見ても黒いカタマリにしか見えない。

冷めたお好み焼きほどマズいものはない。だから出発前、電子レンジでお好み焼きをこれでもか、と親の敵のように熱した。もう燃えるんじゃないかと思えるほど熱した。

家を出てからすでに二時間は経っている。当たり前だがどれだけチンチンに熱くしようが、二時間も経てば冷めるに決まっている。

しかも熱しすぎたせいで、お好み焼きはおぞましい姿に変わり果てていた。

とはいえこの物体がお好み焼きであったことは間違いないし、腹も減ってる。食って食えないことはないだろうと口に入れてみた。

食って、食って、食って・・・・・食えない・・・・こんなもん食えるか!

堅い。とにかく堅い。しかもおそろしく臭い。とてもじゃないが人間の食う代物ではない。

何か知らんが一時の情熱に突き動かされて、天王寺なんてとこまでやってきてしまった。が、よくよく考えたら、すでに何の目的もない。もしあるとするなら、このお好み焼きを食うことだけだ!

吐きそうになった。でも我慢した。気持ち悪くなった。それでも我慢した。食いきった。というか口の中に押し込んだ。

・・・どんどんむなしくなってきた。何でこんなところで、死ぬほどマズいお好み焼きを食っているんだろう。さっきまでの、ひとり旅にたいする、燃えさかるような情熱はお好み焼きの如く冷め切っていた。

帰ろう。ひとり旅?なんだそれ?だいたい目的がないんだから帰るのは当たり前じゃないか。

極端に乗り物酔いしやすい自分のことだ。もしかしたら途中で全部嘔吐してしまうかもしれない。でも、もう、帰るしかないんだ。

家に着いた。着くなり便所に駆け込んだのはいうまでもない。

そしてこの日、ご自慢のリュックのチャックを開けたのは、お好み焼きを取り出した、たった一度だけであったことも書き添えておく。




2008年9月17日水曜日

雑巾猫



猫は嫌いじゃない。というか好きだ。

昔は断然犬派だった。実家では犬ばかり飼っていたということもある。しかしとあるきっかけで猫を飼うようになってからは猫派になってしまった。

もちろん犬も好きだけど、今の時代、都心部で犬を飼うというのは並大抵のことではない。やはりある程度の広さのある一軒家で、大家族(最低でも5人以上)でないと難しい。そうでないと旅行はおろか散歩もままならない。

その点猫は楽だ。散歩の必要もないし、よほど小さいか老描か、病気でもしていない限り、一泊二泊程度なら旅行にだって行ける。引っ越せない、というかもしれないが、これまたよほど子猫か老描じゃなければ案外大丈夫だったりする。

もちろん飼いやすいから猫が好きなわけじゃない。

猫は気ままというが、そこがいい。犬は人間の顔色を伺う。それがいいところでもあるんだけど、猫はそんなことはしない。こっちが落ち込んでようが、うれしい時であろうが、いつもと同じように振る舞ってくれる。

人間というのは、自分にとって都合のいいものはいつまでも変わらないままでいてほしいという願望があると思う。たとえば遠く離れた故郷が、変に発展してほしくない、とか。他人にたいしてもそうで、久しぶりに会った友人があまり変わっていなかったりすると、何となくうれしいもんだ。

猫は日常のそれを引き受けてくれる。どんな時も、何も変わらない。落ち込んでる時にはホッとするし、浮かれている時には、いい具合に歯止めをかけてくれる。

まぁ能書きをいくら書いても意味ないんだけどね。結局はかわいいから飼いたいと思うわけで。

これだけ書いておいて何だが、今は猫は飼っていない。しかしかつては、もちろん飼っていた。

もう大学を出た頃だったろうか、友人が子猫の引き取り手に困っている、という話を聞きつけ、もらって帰ることにした。

とはいっても元は野良猫だったようで、おなかの中に虫を飼っていた。

ここから少し汚いというか気持ち悪い話になるので、苦手な人は読み飛ばしてほしい。

-----------------------------------------------------------------------

その猫、おしりから常に虫が出ていた。太さといい、色といい、ちょうどきしめんのような感じの虫だった。これがいくらでも出てくる。いっかい思い切って引っ張ってみたのだが、一メートルぐらい引っ張り出したところで切れてしまった。

病院に連れて行くと、この蟯虫、数メートルほどの長さがあるらしいのがわかった。なんでこんな蟯虫がおなかの中にいるのか。

それはおそらくカエルでも食べたんでしょうね、とドクターがおっしゃる。そんなもん食うなよ。まったく子猫の時分は何を口に入れるかわかったもんじゃない。

この件は、虫下しを飲ませることで解決した。

-----------------------------------------------------------------------

さてこの猫、そろそろ避妊手術をした方がいいかな、と思った頃、逃げて行方不明になってしまった。

三ヶ月ほど経った頃、近所の子供が猫をいじめている。浦島太郎のような光景だが、どうも逃げた猫に似ている。

ただし三ヶ月の苦労のせいか、やたらに汚い。とはいえしっぽの長さといい、顔立ちといいそっくりだ。

あわてて連れて帰って、怪我をしていたので病院に連れていくと、驚くべきことが判明した。

「前に連れてきた猫ちゃんと違いますね。これ、オスですよ」

えええええ?逃げた猫はメスだった。助けた猫はオス。つまりは人違い、いや猫違いということか。

オスかメスかぐらいちゃんと確認しなかったのが悪いし、それにこの模様は汚すぎる。逃げた猫はもっとふつうの茶虎だった。いくら苦労してもこんなに汚い模様になるはずもない。

どうしよう・・・・。しかしだ、いくら猫違い、それも驚くほど汚い雑巾猫だからといって、捨ててしまうのはどうか・・・・。

悩んだ末、この雑巾猫を飼うことにした。

ところがこの猫、驚くほど賢かった。トイレもすぐにおぼえたし、餌の場所が少々変わっても平気。ひとりで2日ほどほっておいても大丈夫だし、何度か引っ越したが、転居先でもふつうに暮らしてる。

よく鳴き、よく遊び、さみしくなるとあまえてくる。

こうなってくると模様が汚いとか関係なくなってくる。

ものすごくかわいがったし、悪いことした時にはキツく怒ったりもした。とにかく自分の中でかかせない存在になっていった。

数年経った。とある事情で猫が飼えなくなってしまった。もう本当に断腸の思いで、猫を実家に預けることにした。

しばらく待っててな。また一緒にいれるようにするから・・・。

それから二年後だろうか。ようやく猫を飼えるようになった。当然引き取ろうとしたが、母親は

「年老いて、引っ越しは無理じゃないか」といいだした。

たしかに以前の元気な時とは全然違う。足下もおぼつかなくなってるし、目もあまり見えてないように感じた。

そっか・・・、無理か・・・・。残念だけど、この猫にとって一番いい状態をキープしてやることの方が大事だ。人間のわがままを通すべきじゃない。あきらめよう。

さらに一年が経った。久しぶりに実家に連絡を入れると、雑巾猫はひと月ほど前に死んだという。

涙は不思議とでなかった。でもいてもたってもいられなくなった。

翌日、無理を押して、遺骨を預けている霊園に行くことにした。

何を思ったか、自分は骨壺を持って帰ってしまった。おかしいのはわかっている。でも、どうしても手元においておきたかったのだ。

ごめんな、ややこしいことばっかりして。でもな、そっちはどうかわらないけど、自分はあんたといれた時間、本当に楽しかったよ。

現在。猫じゃなくて汚れた雑巾を見るたびにあの猫を思い出すし、遺骨と写真は部屋の一番目立つところにかざってある。




2008年9月16日火曜日

タオル



世の中には潔癖性とまでいかなくても、プチ潔癖性の人は結構いる。

そういうことからはほど遠い自分からすると、結構鬱陶しい。もちろん遠巻きに見ている分にはいいのだが、そういう人は他人にもプチ潔癖を強要したがるから困ってしまう。もちろんそうでない人もいるんだけど。

気持ちはわからんでもないが、こっちにもこっちの基準があるわけだし、できれば強要はやめてほしいし、否潔癖な人間としては身構えるというか、遠慮が多くなってしまう。

もし今後、親しい間柄になると予想される人にプチ潔癖の可能性があったとすれば、そういう時はこう質問してみればいい。

「バスタオルは毎日変えますか」

以前なんかのテレビ番組でもいってたけど、バスタオルというのは使い方が難しい。

他のタオルならまず一日も使えば洗濯するけど、バスタオルを一回使っただけで洗濯するのは、何となくもったいない気がしてしまう。

別に汚れているわけでも臭うわけでもない。きれいに洗った身体を拭くだけ。もちろんきれいではないけど、つい2、3日ぐらい使ってしまう。

もし当たり前みたいな顔で「ええ、毎日変えますよ」と答えたら、その人はまずプチ潔癖性だ。

まぁそれでも汚いよりキレイな方がいいわけで、極端に汚いのはやっぱりマズい。いや、実際には汚くなくても、それはマズいんじゃないの、オレにはできないよってことも多々ある。

大学時代、よくお世話になった先輩がいた。少々頭が固いところもあるが面倒見がよく、金欠の時にはメシをごちそうになったこともある。

ごちそうになるといっても、料理が趣味の先輩だから、手料理である。べらぼうに旨いわけでもないが、ちゃんとした味だし、量も多くて、その点でも助かった。

先輩の部屋はいつも整頓されていた。今は使っている人はほとんどいないだろうけど、当時はカセットテープの時代で、これが結構整理に困るのだが、先輩は実に細かいインデックスをつくり、キレイに順番に並べていた。

潔癖性とまではいかないが、キレイ好きな人、という印象だった。

それがとんでもない噂が出回り、先輩の信用が一気に落ちることになる。

とんでもない噂、それは「どうも身体を拭くタオルと、食器を拭くタオルを兼用しているらしい」という噂であった。

先輩に問いただすと、何の否定もしなかった。それどころか、それの何が悪い、全然不潔じゃないじゃないか、と居直った。

彼の主張はこうだ。

洗濯したタオルはまず食器を拭くのに使う。そしてその後、身体を拭くために、バスタオル代わりに使う。そしてそれを洗濯し、また食器拭きに使う。これで何が汚いというのだ、と。

たしかに洗濯したてのタオルならキレイかもしれない。でもそれを身体を拭くタオルと兼用するのは、どうにも心理的に抵抗がある。いくらキレイでもキレイとは言いづらい壁を感じてしまう。

何というか、トイレの水を飲め、に近いものを感じてしまう。もちろんタンクをピカピカにしている前提で、水が便器に触れる前なら、おそらく汚いことは一切ないはずだ。

それでもやっぱり無理だ。心理的な壁が邪魔をしてしまう。

それと同じで、いくら先輩がこのタオルはキレイだ、と主張したところで、その壁は簡単には壊れない。

それ以来、自分はその先輩の家でメシをごちそうになるのを一切やめた。自分だけじゃなくて、他の後輩も彼の家に行くのをためらうようになった。

これはある意味、不潔よりタチが悪いんじゃないかと思う。不潔はある程度矯正することはできるけど、深層心理はそう簡単には変わらないんだから。




2008年9月15日月曜日

アイちゃん



ファッショナブルタウン・神戸、なんていわれると、思わず笑ってしまう。

18歳まで、1968年から1986年まで神戸ですごした人間からいわせれば、神戸のどこがファッショナブルタウンなんだろ思ってしまう。

なるほど百万ドルの夜景はあるし、ハーバーランドあたりはデートにはもってこいだ。

しかし夜景といっても、ただ山と市街地が近いだけの話だし、ハーバーランドもただの人工的な無機質極まる街としか見えない。

自分の記憶にある神戸は震災とともに崩壊した。むろん震災がなかったとしても、神戸市自身がオシャレな街へと変貌を遂げるべく努力していたのだから、総入れ替えになるのは時間の問題だった。

自分のもつ神戸、とくに最大の繁華街のある三宮のイメージは「小便臭い街」である。

形容ではなく、本当に小便臭かった。ポートピア'81が開催された頃、たしか立ち小便を禁止する条例か何かがでたはずだ。それぐらい街中にアンモニアの臭いが立ちこめていた。

1970年代までの神戸はどこか戦後を引きずっているような部分があった。

もうだいぶ変わってしまったが、JR元町駅から神戸駅の高架下にある商店の数々は、いかがわしい商品の宝庫であった。といってもエロだけには限らない。

謎の使用済みのカセットテープから、いったいどこの会社が製造しているのか、本当に最近つくられたのかわからない、とんでもなく時代錯誤な洋服。はては一円の価値もなさそうな、ゴミ捨て場におかれてそうなコップまで、とにかくありとあらゆるものが置いてあった。

自分は高架下を歩くのが大好きだった。もちろん怖いのは怖いのだが、それでも、何かとんでもない世界に入っていく、そんな感覚を味わいたくてつい行ってしまう。「没落を淫する」とでもいうのか、とにかくあの感覚は忘れられない。

いや、高架下に限らず、1970年代までの三宮は、もっと怪しい雰囲気を持っていた。たとえば元町にある中華街(自分たちは南京街と呼んでいた)は、今のように観光客があふれておらず、日曜でも閑散としていて、何か近寄りがたい雰囲気が充満していた。

それでも祖父の家が三宮駅から徒歩10分ぐらいのところにあった関係もあって、小学校に入る前の段階で、“ひとり”で三宮の街を闊歩していた。

昼日中でも薄暗い路地や地下街が多かったのだが、臆することなくひとりで歩き回った。怖いものすらずだったからこそできたのかもしれない。

それでも、どうにも怖い場所もあった。

当時の三宮はまだ浮浪者も多くて、とくに阪急三宮から春日野道の間の高架下に寝床がいっぱいあった。

怖いのだが、この高架下をくぐらないと繁華街の方まではいけない。だから毎回勇気を振り絞るしかなかった。

ただ、子供心に、ひとりだけ気になる浮浪者がいた。

彼女は、いや彼女といっていいのか、とにかく見た目はおばあさんなのだが、なんとオカマだという。

亡くなった祖母の話によると、何でも昭和20年代からいるらしく、たしかみんなから「アイちゃん」と呼ばれていた(違うかもしれないけど、とにかくそんな名前だった)。

独特の風貌であり、しかも明るい。近所の人からもわりと親しまれていたのではないか。愛称で呼ばれていたことからもそれはうかがえる。

自分が見る限り、アイちゃんはとにかく誰かと話していた。同じ浮浪者仲間だったり、近所の人であったり。ただし声が小さいのでよく聞き取れない。

一度でいいからアイちゃんと話がしてみたいと思っていた。向こうも子供なんか相手にすまいが、もし仮にそういうチャンスがあったとしても、おそらく怖くてできなかったと思う。

なんだかんだしているうちに、アイちゃんを見かけなくなった。ちょうどポートピア'81の頃だったか。その頃から急速に浮浪者もいなくなり、街のイメージも変わりつつあった。

神戸市はやたら観光に力を入れだした。閑古鳥が鳴いていた南京町はリトル中華街風になったし、ずっと後の話だが、神戸駅の南口を大規模開発してハーバーランドなるものをつくった。

そんな自称ファッショナブルタウンに浮浪者は不必要なものだったのだろう。

しかし自分は、あの頃の三宮が懐かしい。猥雑で汚くて小便臭くて、浮浪者が街の人と気軽に話せる。でももうそんな三宮はどこにもない。

アイちゃんはどこに行ったのだろう。変わりゆく三宮に見切りをつけたのか、それとも病気にでもなったのか。

あの時点の年齢からいって、二十一世紀の今、この世にいるとは考えずらい。それにしても今になってみると、本当にアイちゃんと話をしておくべきだったと思う。オカマにして浮浪者、いったいそこにたどり着くまでに、どれだけ数奇なことがあったのだろう。そして変化していく神戸をいったいどんな目で見ていたのだろう。




2008年9月14日日曜日

退廃



思えば、数限りなく、いろんなバイトをした。

まぁそんなことは何の自慢にもならない。大学を出たのがちょうどバブルがはじけた頃で、周りからはあと一年早かったらいくらでも就職できたのに、といわれた。どうせ就職できたとして、今もその会社に勤めている、ということは自分の性格からしてありえないと思うが。

就職しないんだったらバイトするしかない。ということで、いろんなバイトに手を出した。

そんな中で、もっとも悪い、というか酷いバイト先はと聞かれると、ひとつしか浮かばない。

バイト雑誌で見た時から、その会社は怪しい臭いがただよっていた。それでも面接を受けにいったのは、単純に日給に惹かれたからに他ならない。

無事面接をパスして、出社当日となった。社員はバイトの自分を含めて三人。そして社長。

業務内容はというと、床下換気扇のセールスと取り付け。まぁ鋭い人なら、これを聞いただけで、おいおい大丈夫か、と思っていただけるんじゃないか。

社長はトッチャン坊やそのもの、ケンちゃんシリーズの宮脇康之のような風貌の男で、メシといえばセブンイレブンの赤飯おにぎりを山ほど買ってきて食らっていた。

社員のふたりは、ひとりはブルドッグのような50すぎのおっさん。もうひとりがソフトリーゼントっぽいヘアスタイルの若い男。ふたりとも善人ではあったが、とにかくふたりとも、いや社長を含めて、まっとうな人生を送ってきたタイプではない、それは初日で充分わかった。

仕事は軽のバンに四人が乗り込み、地区を決めて、現地につくとバラバラになってセールスを始める。

もちろんレクチャーは受けてはいたが、売れるとは到底思わなかった。セールストークはさんざん聞かされたが、床下換気扇の有用性は今もってよくわからない。

こんなんだから売れるわけないし、しかも入社後に聞かされたのだが、どうも完全歩合制という。

バイトにたいして完全歩合制なんて聞いたことがない。社員の男たちは「素人がそんなに簡単に売れない。早くて一ヶ月後じゃないか」とかいってる。

とにかく面接の時と話が全然違う。ずっと後年になって、仕事の都合で労働基準法その他もろもろを勉強させられたが、今考えれば、これは完全にアウトである。

でも、当時の自分は、暢気というか、まぁいいや、一週間ぐらいはやってみようや、と気楽に考えていた。本当、馬鹿にも程があるぞ、当時の自分。

案の定、まったく売れないまま一週間が経とうとしていた。

その日はたまたま社長が同行せず、社員の男ふたりとセールスに出かけた。

どうもブルドッグもソフトリーゼントも、社長がいないこともあってやる気がないらしく、昼の二時には切り上げようや、という話になった。

とはいえ会社に帰るわけにはいかない。するとソフトリーゼントの男が、あいつの家に行こう、この近くなんだ、といいだした。

「あいつ」とは社員のことだった。ブルドッグとソフトリーゼントと、実はもうひとりいたのだ。とはいえ自分がバイトに入ってから一度も出社していない。いったい何をやっているのか。

聞けば「あいつ」は麻雀好きが高じて、多額の借金を背負っているらしい。それも利子だけで一日数万円になるという。いったいいくら借りたら、いやどこで借りたらそんな利子の額になるのか。

「あいつ」の家は小綺麗なアパートで、愛想の良い奥さんが気分よく迎えてくれた。

そして肝心の「あいつ」は、テレビの画面に向かっている。時代的にはプレステの時代だったのだが、スーパーファミコンのコントローラーを握りしめて、麻雀ゲームにいそしんでいた。

自分を除く人たちは、信じられないぐらいなごやかに談笑している。「あいつ」も時々その輪に加わり冗談をいったりしている。

窓からは柔らかい陽射しが入り、まるで桃源郷の如き光景だ。

何なんだこれは・・・。

何故「あいつ」は笑いながら麻雀ゲームをやっていられるのか、何故奥さんは毎日数万もの利子を払わなきゃいけないのに芯から楽天的そうな顔ができるのか、何故ブルドッグもソフトリーゼントも、この状況を当たり前のように受け入れているのか。

狂っている。終末的でさえある。この光景を極限の退廃といわずして何といえばいいのか・・・。

帰社する道すがら、自分は社員ふたりに、今日限り辞めます。社長には適当にいっておいてください、と放り投げた。こんな会社、儀礼をつくすまでもない。

一週間働いて、何も売れなかったんだから、当然給料はなし。だから働いたといえるかどうかも怪しい。まるっきり時間を損した、といえなくもない。

しかし今になってみると、損したかどうか微妙だ。こんな普通では見られない光景を見られたわけだから。

それにしても「あいつ」は今どうしているのだろう。別にたいして気になるわけでもないけど。




2008年9月13日土曜日



胸元の開いた服を着た女性を見ると、つい目がいってしまう。

40をすぎて情けない話だが、まぁ根がスケベだからしょうがない。

スケベにも上手い下手があるようで、上手い人になると、ホントに何気なく、さりげなく、胸元に目をやることができるようだ。

ところが自分ときたら、たいして見てるわけでもないのに、まるで凝視してるかのように思われてしまう。こういうのを「下手なスケベ」というのだろう。見ている秒数は「上手いスケベ」と変わらないはずなのに。

ま、上手かろうが下手であろうが、スケベであることには変わりがない。これは大多数の男性に当てはまることだと思う。

ところがである。中にはスケベでない、というか、性欲が極端に少ない人もいるのだ。というかひとりいた。

彼は大学の後輩にあたるのだが、性欲がほぼ皆無というか、そういうことに超然としていた。

性への対象が一般女性以外にあるタイプでもないし、うち解けた間柄にまで隠すようなとんでもない性癖を持っているわけでもなさそうで、もう単純に性欲が薄いとしかいいようがない。

もちろんまったくないわけじゃないが、携帯電話の電波にたとえるなら、圏外とまでいかなくても、アンテナが0本の状態、と思っていただければいい。

性欲がないだけで、彼はけして無気力な人間ではなかった。

大学時代の彼は映画を撮ることに情熱を燃やしていた。そして趣味への探求心もハンパではなかった。それはハタで見ていた自分からすれば、それだけのエネルギーがよく沸いてくるな、と感心するしかないほどで、うっすらと、もしかしたら性欲が表現欲や探求欲に割り振られているだけなのかもしれない、そう考えるしかないほどのパワーであった。

表現欲や探求欲はけして悪いことじゃない。大学生活においてはむしろ非常に重要なことであるとさえ思う。しかしもうひとつ、彼には困った欲望があった。

「名誉欲」というヤツである。

実際、これには少々閉口させられた。いや、おぼろで見ている分にはいいのだが、何かを一緒にやるとなると、彼の名誉欲がチラチラ顔を出してくる。その結果、うまくいくものもうまくいかなくなる。そういうことが何度かあった。

一度、この名誉欲のおかげで、腹に据えかねる事態が起こったことがあり、まぁそれだけじゃあないんだけど、何となく彼と疎遠になってしまった。

それから10年近い年月が経った。

自分はブログを書いていた。といっても日常を綴る生活雑記ではなく、とある趣味について書き殴っていた。

最初は本当に細々とやっていたのだが、そのうち某巨大掲示板にコピペされるぐらいにはなってきた。

ちょうどその頃だろうか。例の彼からメールが来た。

ブログに書いたことのうち、5分の1ぐらいは同じ趣味だった彼にも話したようなことだった。人間の考えなんて10年やそこらで変わるわけがない。だから偶然自分のブログにたどりついて、読み進めるうちにピンと来たのだろう。

しかし自分はいい先輩になれなかった。

私は●●(※アタシのこと)ではありません、人違いでは?というような返信をしてしまった。といっても本当は●●だけど、というニュアンスを含んで書いたつもりだが。

なぜそんな内容のメールを送ったか、理由はいろいろあるが、正直今更、彼に限らず、昔の知人と交友を復活させたい気持ちになれなかったことが一番大きい。

それなら返信などせずに無視すればよかったんじゃないか、と思われるむきもあろう。それはわかっている。

でもどこかで彼のことが引っかかっていたのだ。はっきりいえば、どうしても聞きたいことがあった。

そう、それこそさっき書いた「欲」に関して。

まだ性欲はあまり持ち合わせてませんか?

名誉欲は薄くなりましたか?

また何か新たな欲望が沸いてきましたか?

彼からさらに返信が来た。そして上記のような質問をしようと思った。けどやめた。

どう考えても、彼を満たすような名誉を彼が手にしているとは思えないし、興味本位で聞いてしまうと、ものすごく彼を傷つけてしまうような気がしたのだ。

もう彼と会うことも、メールでもやりとりすることもあるまい。でも本心はやっぱり知りたい。

なぜなら彼は、今まで出会った中で唯一の性欲がない人間だから。そういう人間がいったいどういう人生を送っていくのか、自分の中にある知りたい「欲」は消えないのである。




2008年9月12日金曜日



子供の頃から手先が不器用で、損ばかりしている。

といっても細かい作業が嫌いかといえばそんなことはなく、世代のご多分に漏れず、中学生の頃はガンプラ作りに熱中したし、さきほどには半分仕事、半分趣味みたいな感じでジオラマ「のようなもの」を作ったりもした。

なにぶん指先を細かくコントロールできないもんで、けしてテクニカルなものではないが、それなりに凝ったつくりで幸い好評を得ることができた。

下手の横好きというやつだ。そういや大学が芸術系だったため、他人の課題がおもしろそうに見えてしかたがなかった。どれも細かい作業を必要とするものばかり。

ついつい「手伝おうか」とかいってしまう。もうそりゃいろいろやった。編み物からコンピュータのプログラミングまで。(BASICをつかったごく簡単なものだが)

挙げ句、原稿用紙にして100枚超の卒業論文まで書き上げた。当人は教授に「よくできている」と誉められたらしいが、自分が誉めてもらったわけではないので別にうれしくはなかった。

それはさておき、自分のことになるとさっぱりで、課題もなかなかやらないし、とくに細かい作業を要する課題は最後まで放置したクチだった。

小学生には夏休みやら冬休みというものがあって、必ず自由工作という宿題がでる。これがイヤでイヤでたまらなかった。

夏休みの自由工作など、適当な虫かごを買ってきて、適当に魚やら海藻を色紙で切って、適当に糸でつるして、はい、水族館のできあがり。それですましている。

難儀なのはお題がある時で、たしか小学五年生の時だったか、冬休みの自由工作のお題が凧だった。凧と決められているわけだからいったいどこが「自由」工作なんだ。いい加減にしろ、とか文句ばかりいって、ますますやる気がしない。

いつものように三学期が始まる寸前まで放置していると、そのことをどこからか聞いた親戚が

「凧か。オレがつくってやる。いいのを作ってやるから任せろ」

といいだした。

まぁ大学時代の自分みたいなもんで、おそらく「凧つくりか、おもしろそうだ」と思ったに違いない。こちらとしても渡りに船で、親戚に丸投げした。

できあがった凧は、作ってもらってこんなことをいうのは申し訳ないが、かなり不格好なシロモノであった。てっきり和風の、ディスイズ凧(和風でディスイズはおかしいか)みたいなのができてくると思ったら、当時流行していたゲイラカイトの出来損ないのような仕上がりだったのだ。

何がみっともないといっても、羽根の部分が水色のゴミ袋を流用してあるところで、正直学校に持っていくのが恥ずかしかった。

とはいえ一から作り直す気などさらさらない自分は、ご勝手にも不満足な気持ちで、その凧を持って始業式に向かった。

始業式の翌日、宿題の凧を実際に飛ばしてみましょうということになった。

みんなの作った凧はそれなりによくできており、カラフルな、それこそゲイラカイトをそっくり模擬したものや、歌舞伎役者風の顔が描かれた和凧まで、立派なものばかりだった。ゴミ袋凧とは雲泥の差だ。

だが他人の凧がうらやましいと思ったのはここまで。見栄えのよい、クラスメイトの凧は全然飛ばない。バランスが悪くクルクル回ったり、そもそもどうやっても空中に浮かないものばかり。

一方我がゴミ袋凧はというと、いとも簡単に舞い上がった。みんなの視線が自分の凧に注がれた。

「●●(※アタシのこと)の凧、すげえな。馬鹿にしてたけど、ゲイラカイトより飛ぶじゃねぇか」

一瞬、凧を作ってくれた親戚のほくそ笑む顔が浮かんだ。さすが「凧なら任せろ!」といっただけのことはある。芸術的センスは皆無だが、飛ぶ凧を作るコツを心得た出来に感心した。

本当にこのゴミ袋凧、驚くほどよく飛ぶ。人生の中でこれほど高いところまで凧を飛ばしたことは後にも先にも一度もない。

だんだん有頂天になってきた。どうだ、すごいだろ!

しかし級友のひとことで、そんな気持ちは吹っ飛んだ。

「おい、●●の凧、コンクールに出すのは決まりだな」

たしか小学生を対象とした自作凧のコンクールがあり、おそらくこの宿題も、その予選を兼ねてのものだったのだろう。

急に汗がでてきた。コンクールはイヤだ。だって自分が作ったものじゃない。もしそんなことになったら恥ずかしくて、とてもじゃないがその場にいれない。

三学期が始まったばかりだから当然寒い。なのに小学五年生の自分は手汗をかいていた。周りが感嘆の声をあげればあげるほど、手に汗が滲んでいく。そして凧はさらに上へ上へとあがっていった。

そんな時だった。プツッと小さな音がした後、ゴミ袋凧は遙か彼方に消えていった。

そう、糸が切れたのだ。

クラスメイトを口々に慰めてくれた。が、いうまでもないが、自分の心持ちは安堵に包まれていた。よかった。これで恥ずかしい思いをしなくてすむ・・・・。

凧の糸が切れた。それは文字通り、心の中の、緊張の糸が切れた瞬間でもあった。




2008年9月11日木曜日

記憶の蓋



人は自分が生まれた時代に興味を持つ、というが、どうも自分はその限りではないらしい。

自分の生まれた時代はといえば、グループサウンズ華やかなりし時代だが、グループサウンズは好きで結構調べたりもしたのだが、それ以外の時代背景にはさして興味が沸かない。

思えばおかしな子供時代で、たしか小学五年生の時だったと思うが、夏休みの自由研究にテレビの歴史年表をつくっていったことがあった。かなり丹念に調べ(むろん小学生にしては、だが)、担任の先生にも「こんなにちゃんとしたものだとは思わなかった」と褒めるとも貶すともつかぬ言葉を吐かれたのを今でも思い出す。

テレビの歴史を調べようと思ったのは、昭和30年代にたいする興味からであった。昭和30年代は昭和50年代からすでに一種の桃源郷めいた興味が人々からもたれており、レトロブームなんて言葉も使われたが、今でも「三丁目の夕日」なんかがあれだけの観客動員を誇っている。

これだけ長期間に渡って人々の興味を惹いてるわけだから、もうブームでも何でもないと思う。

それにしても、いくらレトロブームなんて言葉が横溢していたとしても、昭和30年代に強い関心がある小学生なんて、今考えると不気味だ。しかしこれが太古の昔、たとえば戦国時代とか、そういうのが好きな小学生なら普通なわけで、まぁ大昔か近過去かの違いだけともいえる。

そういうことにはやたら早熟だったせいか、興味の対象はいつしか昭和30年代から昭和20年代へ、そしてここ数年は昭和10年代に移ってしまった。

昭和10年代ともなると、いろいろ調べようと思っても資料が極端に少ない。自分が興味があるのは戦時記録などではなく、エンターテインメントや、ごく普通の暮らしに関してなので、意外とそういうのを克明に記録した書物が少ないのだ。

エンターテインメントに関しては瀬川昌久著「舶来音楽芸能史―ジャズで踊って」と色川武大著「唄えば天国 ジャズソング―命から二番目に大事な歌」の二冊にとどめを指す。前者は客観的かつ網羅的に、後者は徹底的に私的に、当時のエンターテインメントの王様であるジャズを中心にしたエンターテインメントが克明に書かれている。

では昭和10年代の庶民の生活、はというと、これは、というような決定的な著物に出会ったことがない。自分が知らないだけかもしれないが、あんまりないのではないか。

とにかくやたら悲惨さが強調されたものは数多くあるのだが。

こうなってくると、自分で証言を得るしかない。ところが以前ここで書いた叔父に話を聞こうと思っても、なかなか話したがらない。

終戦後のことなら、わりと何でも話してくれる。たとえば神戸の、阪急三宮駅の北口付近が闇市だったことなど。

でも戦中の話になると途端に口が重くなる。叔父は昭和14年生まれだから、それなりに記憶があるはずなのに。叔父に限らず実際こういう人は多い。他のことは多弁でも、戦時中のこととなると口を閉ざしてしまう。

しかしこれはものすごい傲慢なことというか、もちろん傲慢なのは自分で、もう想像を絶するようなことの連続だったのだろう。いわゆる記憶に蓋をしている、ということか。それは簡単には蓋はあくはずもない。

自分は戦争は知らない。当たり前だが。しかしやっぱり記憶に蓋をしている出来事がないとはいえない。とはいえ特別多いわけではないとは思うが。

知人でうつになった人がいる。まずカウンセラーがやったのは記憶の蓋をはがすことだったそうだ。それはとても辛いことだと自分にもいっていたが、それはそうだろう。しかし一度蓋をはがしてやらないと、次へ進めないのだそうだ。

もちろん一生健康で、記憶の蓋をこじ開けることなく、幸せに暮らしていけるなら、それに超したことはない。しかしうつに限らず、目の前の壁が高すぎて、かといって回避することもできず、どうしてもその先に進まなければいけない。

記憶の蓋をこじ開けなければ、どうしようもなくなった時、自分ならどうするのだろうと考える時がある。多くはないとはいえ、40年生きてきた分ぐらいはある。

いや、それが何だといわれればそれまでだけれども、別に昭和10年代のことに限らず、趣味をある程度極めようと思うと、その人の奥に潜む、記憶の蓋にまで思いを馳せなければならないのかもしれない。何だかため息がでてくる。




2008年9月10日水曜日

夢の街



夢の話を書こうと思う。といっても両手じゃ抱えきれない夢でも、ほろ酔い気分で行けるとこまでいく夢でもない。夜、寝てる時に見る夢の話だ。

夢というやつは本当にとりとめがない。しかも連続性も基本的には皆無で、今日の夢の続きを翌日見るなんてほぼ不可能だ。

ところが自分の見る夢は、連続性こそないが、関連性は存在する。というのは、舞台がほぼ毎回一緒なのだ。

それも閉じられた室内とかではない。完全に街になっている。しかもかなり広い。駅でいえば3、4駅に相当するぐらいの広さなのだ。

もし地図に描け、といわれれば、たちどころに描くことができる。それぐらい、夢の街の地理を把握している。だから夢の中の自分は、完全に勝手知ったる我が街気分で歩き回っているのだ。

この夢の街、恐ろしいことにオリジナルなのだ。もちろん過去に行ったことがある街がベースになっているところもあるのだが、冷静に検証してみると、モデルとなる場所が存在しないところも多々ある。もちろん記憶があやふやになっているだけの可能性もあるが。

スタート地点はだいたい駅、それもかなり高台にある駅だ。

これのモデルは比較的はっきりしている。ポートライナーの三宮駅だ。まぁ神戸出身の自分ならありそうなことだが、実際はモデルになった三宮駅とはだいぶ違う。山岳の途中にあり、眼下にはテーマパークのような街並みが広がっている。

ホームを降りて長い長い階段を降りて改札を出ると、山岳はどっかにいって、わりと広々した光景が―もちろん街中だが―広がっている。

まぁこうやって説明していくとキリがないのでやめるが、全体的な空気感が神戸ではなく、東京に近い。どことなく新宿南口や恵比寿を思わせる光景があるのだが、実際にそういう場所は存在しておらず、おそらく夢の中で作り出した風景なんだろう。

夢の街で繰り広げられる事象は様々で、おそらく他の方々が見る夢と同じく、まったくとりとめがなく、中にはやたら残酷なものもあったりする。

子供の時には(その時分から今よりずっと小規模ながら夢の街は存在した)それこそ飛び上がって起きるぐらい怖い夢も見たが、最近はさすがにそれほど強烈なものは少ない。

それでも寝覚めが悪かったりする夢も多いし、逆にはね回るぐらい楽しい夢の時もある。またトイレを探し回ったりもしたこともある。

まさに何でも入る、おもちゃ箱のような街で、愛着もあるが、薄気味悪い気分もある。

そうそう、もうひとつ不思議なのは、この街に行きたい、と念じて寝ると、絶対に出てきてくれないのだ。ミステリアスというか、いや、夢は本当にコントロールできないもんだなと実感する。

たぶんこんな文章を書いたから、夢の街はしばらくでてこないような気がする。それはそれで寂しいが、ほっておけばそのうちまたふらっと出てくると思う。

しばらくはそんな、さくらや、おいちゃんやおばちゃんのような気分で待とう。うん。




2008年9月9日火曜日

分岐点



藤子・F・不二雄氏のSF短編をみると、氏がパラレルワールドにこだわっているのがよくわかる。考えてみれば「ドラえもん」も第一話で別の未来が提示されているわけだから、ドラえもんの世界全体がパラレルワールドといえないこともない。

(と書きながら気づいたけど「ドラえもん」(小学四年生掲載分第一話)こそ、氏が初めて描いたパラレルワールドじゃないか。いや「ウメ星デンカ」の「月面着陸」の方が先か)

ここで藤子先生の分析をするつもりは毛頭ない。自己紹介文にあるように、ここは「自分の過去の時間の一部を切り取って文章に起こす」、いわば自分史みたいなもので、順序こそデタラメだが、書いてあることは(多少の誇張はあるにしろ)基本的には事実に基づいている。

40年生きてきてんだから、些細な、取るに足らないこともあれば、血となり肉となったような出来事、あまりにも辛く、記憶に蓋をせざるを得ないこともいっぱいあった。

自分は「すべての出来事は何らかの必然性がある」と考えるタチなので、過去に遡って、あの時ああすればよかったと考えることはまずない。

ただし、あの時ああすれば全然人生が変わっていたかも、というのは何度かあった。これは後悔ではなく、もうひとつの未来はどんなもんだったのだろうという興味に他ならない。

自分はそれほどSFに明るくないが、藤子F氏が語るところのパラレルワールド的興味といっていいのかもしれない。

何度かあった、と書いたがあんまり深刻なことを綴ってもしょうがない。下世話な話を書く。

今から10年以上前、ある女の子のことが好きだった。最初はそうでもなかったのだが、会うほどに好きになっていった。

彼女とはつき合うかどうか微妙なところであった。いろんな事情があって、いや自分の心理的な問題もあって、はっきりつき合っているとは言い難い状況だった。

そんな時、とある事件があった。いずれ書くかもしれないが本題とは外れるので今回は詳細には触れない。とにかくこの事件をきっかけに自分は彼女が本当に好きなんだと確信した。

さてその翌日。仕事先の女の子から電話があった。

今日、空いているんで遊びませんか?と。

そういやこの頃は適当なことばっかりいってた。手当たり次第に「遊びにいかない?」と職場の女の子に声をかけていた。けしてモテてたわけではない。

その子、職場の女の子は今思い出してもキレイな顔立ちで、分けるならキツネ顔系だった。

何にしろそんな美人からお声がかかったのだから断る理由はない。

もうひとりの、自分が好きだった子はかわいい系で系統はタヌキ顔系。つまりこと顔に関しては全然違うタイプだったといってもいい。

女性がふたりでてきてややこしいので呼称をつける。タヌキとキツネでもいいのだがそれじゃ即席カップ麺っぽいのでやめる。かといってA子とB子じゃ「ちりとてちん」になってしまうし。

まぁ正反対ってことでNとSにします。Nがぼくが好きだったタヌキの方。Sが職場のキツネの方。

どこにいったか忘れたが、とにかく夕方まで遊んだ後、Sの部屋に招き入れられた。これは20代の男からすれば勝ったも同然である。

しかも一日遊んでみてわかったのだが、Sは思いの外ちゃんとした子で、顔立ちだけでなく人間としても立派なもんだった。

だがこの「ちゃんとした子」というのが逆に引っかかりだした。

前日自分はNと会って本当の気持ちを悟ったばかりである。これからはこの子と一緒にいようと決めたばかりだったのだ。

もしSが見た目だけの子なら話は違ってたと思う。でもこんなちゃんとした子を遊びで済ますわけにいかない。それは人間としてしちゃいけないことだ。

しかもこれも遊んでいるうちに気づいたことだが、Sは自分に好意を持ってくれているのがわかってきた。

何度も書くが自分は到底モテるたぐいの人間ではない。バレンタインのチョコレートの連続ゼロ記録は20年ほど続いたし、彼女ができるようになってからも、複数の女性から同時に好意をもたれたこともない。

そんな自分がふたりの女性、しかも見た目はまったく異なるがけして悪い顔じゃない、から好意をもたれるなんて、奇跡に近かった。

異性としてのつき合いの長さはNだし、好きなのもNの方だ。しかしSもけして見劣りがしない。ましてやこういう美人タイプと縁がなかった自分にとってはこれが最後のチャンスかもしれない。

完全に二者択一の状態になった。

こういう心理状態はNにもSにも失礼になる。結論をださなくてはいけない。それも一刻も早く。

結論を先にいうと、自分はNを選んだ。Sを振り切って帰るという決断(まぁ強く止められたわけじゃないけど)はかなり勇気がいった。据え膳食わぬはなんちゃらという言葉も頭をよぎった。

それでもNを選んだのだ。やはりNを裏切ることはできなかったし、Nに未練を残したまま、Sとどうにかなるのはあまりにもマズい気がした。

数年後、Nとも別れた。Sは今どこで何をしているかもしらない。

どっちの決断が正しかったのか、それは今でもわからない。あの時Sを選んでいたら、今も仲良くやってる可能性だってある。

しかし今わかるのは、さんざん悩んだ末に選んだNとはすでに別れているということだけだ。

今更あの時Sを選んでおけば、とは思わない。Nを選んだおかげで、N本人とは別れたが、それをきっかけに知り合った友人は今でも大切な友人だ。だからけしてNを選んだことが失敗だとは思わない。

でも藤子F氏よろしく、パラレルワールドがあったら、ちょっとそっちの選択肢の未来ものぞいてみたい気がする。仮にそっちの世界が幸せそうでも後悔はない。ただの興味本位にすぎない。

ま、どっちを選んでようが、結局は自分なのだから、たいして変わらないような気はするのだけど。




2008年9月8日月曜日

アンバランス



どうにも困ったもので、人を笑わせることに最高の快楽をおぼえてしまう。

といっても突飛な行動、たとえば裸踊りとか奇妙な顔をするとかそういうのではなく、いかに気の利いたことを最適のタイミングでいうか、体験したことをあまり嘘は交えず(誇張はあるが)笑いを呼べるか、そういうたぐいの笑いである。

たとえば夜中に突然、ギャグ(というか一口話)を思いついて寝付けないことがある。出だしはこう、オチは・・・少し弱いな、こういう口調でいった方がより効果的だ・・・。専門用語を使うと「ネタを繰る」とでもいうのか、とにかくある程度まとまるまでやめることができない。

しかしこれだけ繰ったネタをとうとう発表できないまま忘れてしまうことも多い。

場違いなところ、場違いなタイミング、場違いな人にネタをしゃべった時ほど悲惨なことはない。下手すれば怒りを買ってしまうことすらある。

だからこそ慎重になるわけだが、時流が変わったり、自分や相手の物差しが変わったりして、話す機会を失ってしまうことも多々ある。そしてそれらのネタは忘却の彼方へ消えるわけである。

自分という人間を考えてみると、というか他人からの指摘を整理してみると、些細なことで気を悪くし、すると途端に物言いがキツくなってしまう。しかも人と思考回路がズレてる時が多く、何でまたこのタイミングで怒るの?と相手は理解に苦しむようで、まぁこういう人を世間では「やっかい」と呼ぶ。

しかも自分のスガタカタチは怖い部類に入ると思う。体型はなさけない、酷いオッサン体型なのだが、顔が怖い。しかも目つきが悪く、若干だが藪睨みの気もある。

そのくせ特定の人物にはやたらにしゃべるし、やたらと人を笑わせることは好きなのだから、変というか、「やっかい」だ。

笑わせるためなら長時間ネタを繰ることなど苦痛でもなんでもない。仮にウケなかったとしても繰った末の結果なのだから納得もできる。これもやっぱり「やっかい」だ。

ここまで読んで「なんて馬鹿な時間の使い方をしているのだ」と思うむきもあろう。それどころか「あんた何者だ。芸人でもあるまいし」と呆然とされる方もいると思う。

でもこれは自分にとって趣味なのだ。コレクターの蒐集が同じコレクター以外からはガラクタにみえる、そんなものに大枚つぎ込むのは馬鹿の極みに見えるのと一緒だ。趣味なのだからあきらめてもらうしか術がない。

ただしコレクターは、財布を共有する家族は別にして、周りにほとんど迷惑をかけないのにたいして、自分の趣味はひとりでは成立しない。ほとんど「寝床」の世界だ。

ま、実際にはそれほど迷惑をかけていない、と思う。むしろ親しくなればなるほど自制が働いて遠慮がちになる部分がある。

このアンバランスぶりはどうだろう。自分でもちょっと困ったものだと思ってしまう。もし自分の周りに「私」がいたら、きっと友達になりたくないと感じるに違いない。

そんな自分を見捨てるわけでもなく、淡々とつき合ってくれる友人たちには感謝、というか頭が下がる。

こんな人に少しでも何か返さなくては・・・そう考えてまたつまらない繰り言を考える。まさに趣味と実益を兼ねているではないか。

・・・とか考えているってことは、まだまだ懲りていないということではないか。まったく「やっかい」以外のなにものでもない。

何か最終回っぽい文章になったが、全然そんなことはない。たまたまだ。




2008年9月7日日曜日



その日ふたりの男は疲れ果てた表情で、公園のベンチに座っていた。

と書くと三文小説の出だしみたいだが、だいたいこんな感じだ。ひとりは自分。もうひとりは自分より10歳若い、まぁいや後輩だ。

とにかくふたりとも疲れ果てていた。さんざん歩き回った上、直前に不快なこともあった。正直会話する気力も失っていた。

突然、後輩の男はぼそぼそと喋りはじめた。

「この公園、○○(某テレビ局)しかロケで使えないんです」

そうなのか。そういえば○○局しかロケで使ってるのを見たことがない。

「そうなんだ。知らなかった」

「・・・・嘘です」

うーん、冗談になってない。笑えないどころか怒りすらこみ上げてくる。

その時は怒る気力もなかったのだが、その公園に行く毎に、この時の会話を思い出して、怒りがこみ上げてくる。

それはさておき、ジョークとしての嘘というのは本当に難しい。さきほどの事例のように、一歩間違うと相手の怒りを買ってしまうことだってある。

そんなことをいいながら、かつては自分もくだらない嘘をよくついた。しかもたんなる思いつきなので、根拠もへったくれもなく、ただその場で理屈をひねり出す、その程度のもんだ。

今から20年ほど前、なにぶん古い話だ。たしか数名でファミレスに行った時のことである。

おそらくご飯時ではなかったのだろう。自分は当たり前のようにコーヒーを注文した。

ウェイトレスがコーヒーをテーブルに運んでくるやいなや、突然後輩の女性(当然ながらさっきの男性とは別人)が自分の前に食塩を差し出した。

「●●さん(※アタシのこと)、コーヒーには塩を入れるんですよね」

は???である。そんなことをするわけがないではないか。コーヒーに塩を入れるなんてヤツ本当にいるのか?

「でも●●さん、前にコーヒーには塩だって。その方が身体にいいからって」

困った。言ったかもしれない。たぶん元ネタは藤子・F・不二雄氏のSF短編「定年退食」だろう。たしかにそんな展開があった。

おそらくこのネタを引用して、適当にそれらしい理屈をつけて吹聴したのだと思う。

それはわかった。でも実際何にもおぼえてないのだ。いかにも自分がいいそうな嘘なのはたしかだが、その時の状況がさっぱり思い出せない。しかたがない。とりあえず、ああそうだった、やっぱ塩だよね、と適当に取り繕うしかなかった。

しかし悲しきかなは自分の記憶力のなさよ。これほど記憶力の悪さを恨んだことはない。

この件で学んだことは、覚えられない嘘はつかない。あとでフォローできなくなっても知らんで~!




2008年9月6日土曜日

長距離バス



長距離バスはわりあい好きな方だった。

10時間以上かかるような超長距離便に乗ったことがないので本当のつらさを味わう前に現地についてしまう。さすがに4列シートはつらいのだけど、3列シートなら、時間は倍かかるものの下手すれば新幹線より快適なくらいである。

よって「水曜どうでしょう」の壇ノ浦レポートのような状況に追い込まれたことはない。

そして何より安さが魅力だ。移動に金を使うのはばからしいと考えるタチなので(その分旅先で金を使える)、安いに越したことはないのだ。

つまり時間がかかるのを折り込み済みならば、新幹線や飛行機よりも快適に安く行けるのである。魅力を感じないわけがない。

一切長距離バスに乗らなくなったのは年のせいもあるが、ある出来事がきっかけとなった。一年ほど前のその事件以来、長距離バスとは縁を切った。

その日、神戸から東京へ向かう予定だった。

スケジュール的に余裕があることから迷わず長距離バス移動を決めた。ちなみにバスの発着場所は大阪駅である。

ところが当日、JRが人身事故か何かで遅れに遅れた。「5分遅れております」というアナウンスがすぐに15分に変わり、さらに15分ほどして、運行再開は未定です、に変わった。

大阪駅へ、バスの発車時刻より30分以上前に着く予定だったが、どう考えても絶望的になった。

仕方がない。私鉄の駅までタクシーを飛ばし、とりあえず大阪駅へ向かうことにした。

が、やはり間に合いそうもない。おそらくバス発車時刻より5分は遅れる。やむを得ない。マナー違反は承知の上で、私鉄の電車内からバス会社に電話をかけた。

「コレコレシカジカの理由で遅れる。ついては発車時刻を5分遅らせてもらえないか」

答えはノーであった。理由は他の乗客に迷惑がかかる云々。

まぁわからない理由ではない。しかしそこのバス会社はJRバスという名前が示す通り、JR西日本とはグループ会社のはずである。

当然人身事故で一部区間の電車が止まっているという情報は入っているはずだし、実際自分以外にもバスに乗れなかった人がいたかもしれない。

(ボカして書いていたが、自分の家はマイナー路線ではなく、神戸線という有数の乗降客を誇る路線なのだから間違いないと思う)

とはいえマナー違反をおしてまで電車の中での電話での押し問答は迷惑きわまりない。とりあえずいったん引くことにした。

大阪駅に着いた。とりあえずバスセンターに向かった。念のため発着場に行ったが、やはりバスは発車した後だった。

このままではいくらなんでも納得しがたい。それにこのままでは自分は東京に行けない。何とかしなければとバスセンターの受付へ乗り込んだ。

ひとつ目の主張はこうだ。

まだ東京行きのバスはあるはずだから、それに乗せてほしい。

答えは満席だから無理です。わからんでもない。

次の主張は

差額を払うから新幹線に乗せてほしい。

これも無理だという。

ただし払い戻しはするらしい。が、これがよくわからない方法なのである。

何でも一度遅延証明書、その他書類を郵送し、その上で振り込みます、と。

いやいや、全然意味がわからない。遅延証明書は手元にあるし、書類もこの場で書けばいいだけだ。レジもあるのだから払い戻しができない理由もわからない。

しかも手数料として2000円ほど取られるという。

さすがにそれはちょっとおかしいんじゃないのというと

「規則ですから」

この一言でカチンときた。き、規則だぁ~?

思わず人生幸朗の如く「責任者でてこい!」と叫んだ。いや実際には嫌味ったらしく「責任者の方はおられますか」と馬鹿丁寧にいったのだが。

少々お待ちください、と対応していた女性は事務所の奥に入ったきり10分もでてこない。

15分ほど経っただろうか。さっきと同じ女性があらわれ「あいにく所長は席を外しております」ときた。

嘘つけ。不在かどうかを確認するのに15分もかかるわけがないだろ。いったいどれだけ広い事務所なんだ。外から見る限り、事務所の広さはだいぶ大幅に見積もっても20平米もないぞ。

さすがに埒があかないと踏んだ自分は、もう結構です、とその場を後にした。

とはいえ怒りがおさまるわけではない。そもそも大幅に遅延したJR西日本に責任があるんじゃないか。こうなったら駅長室に乗り込むしかない。

駅長室は客は誰もいないものの、数人の職員が次から次へとかかってくる電話の対応に追われていた。中には自分と同じように便に乗り遅れたじゃないかみたいな苦情もあったのかもしれない。

そのうちひとりの若い職員が自分の存在に気づき、自分が今の状況を説明するとすぐに詫びた。すると今度は駅長が自分に近づき、平身低頭に頭を下げた。

しかもさきほどの若い職員がJRバスに説明にいってくれるという。(駅長室とバスセンターは目と鼻の先だった)

思えば何年前だったか。宝塚線の脱線事故の大惨事以来、JR西日本の職員の態度が少し変わったような気がする。

それまではちょっと横柄な感じだったのが、事故以降、不快感のない応対になった。

この事件から先立つこと半年。自分はうっかり電車内に忘れ物をしたのだが、この時の応対も非常にさわやかなものだった。(忘れ物は無事発見された)

電車が遅れたのだからJR西日本が謝るのは当たり前かもしれない。しかしわざわざJRバスまで説明にいってくれる(しかも軽い非常事態のさなかに)というのは実に誠実で、怒りはみるみるおさまった。

反面JRバスの応対はナメたような態度だった。まるでこっちがいいがかりをつけるかのような(まぁ一種のいいがかりといえなくもないが)応対に終始した。

結局きちんと会話をしてくれたら自分もここまで怒ることはなかったと思う。別にあやまらなくてもいいし、規則なんだったらそれもしょうがない。でも面倒そうに応対したり、マニュアル通りのことしかしゃべらなかったり、挙げ句は嘘までつく、その行動に相手が怒る(たとえ無意味だったとしても)ということがわからないのだろうか。

JR西日本の職員は一生懸命JRバスに説明した。しかし話はまったく通らなかった。もうそういうところなんだ。しょうがないよ。

若い職員はバスセンターをでた後、お力になれずすいません、と頭を下げた。でも自分はうれしかった。もう十分だよ。だから自分はこう返した。

「うれしかった。ありがとうございました。がんばってください」




2008年9月5日金曜日

モテオーラ



モテるか否かというのは、実は人生で非常に大きなウェイトを占めていると思う。

思えば今までロクにモテたことがなかった。小学校の頃から運動神経が鈍く、頭も悪く、顔も美少年でない自分はモテる要素など皆無だった。

いや小学生がモテるのに頭も顔もよほど酷いものでない限り関係ない。スポーツだスポーツ。こいつさえできればモテる、それが小学生のモテ基準だ。

球技がまったく苦手だった自分は女子の視界から消えていた。まぁそれはいい。

しかし頭も悪く顔もたいしたことない。おまけにおしゃべりが苦手ときては中学、高校に上がっても、まったくお呼びでなかった。

大学に入ってこれじゃいかんと思って「しゃべり」だけでも上手くなろうと思った。成果はそれなりにあったが、モテることだけはなかった。

いや・・・・振り返ってみるにスポーツができるとか顔が美しいとか、そこまで大きな要素なのか、と思ってしまう。

そりゃ山口良一ぐらい頭がいいに越したことはないし、西山浩二ぐらい運動神経がいいに越したことはない。顔も長江健次レベルであるに越したことはない。

でもそれってモテるための絶対要素なのか?といわれれば違うような気もする。だって自分の人生をつらつら遡ってみるに・・・

自分の周りにいたモテてた人たちは必ずしも先の三大条件を備えてなかった。その人をあまり知らない時は「何でこの人がモテるの?」って感じの人ばかりなのだ。

考えてみれば当たり前の話だ。そもそもイモ欽トリオがモテるなんて、それは中高生までの恋愛だ。大人になるとそんなことはどうでもよくなる。

そんなことより、なんていうか、あるんだよね、モテる要素ってもんが。それをモテオーラというのかもしれないけど、もっと具体的に、いや具体的じゃないけどね。

自分の見てきた男女問わず、モテ人間の共通点、それは「ほっておけないオーラ」を持っているのだ。

火野正平をご覧なさい。古いか。市川海老蔵でもいい。何かあるでしょ、ほっておけないオーラってやつが。

これがある人は本当に異性の切れ目がない。すぐにできる。まったく困ったもんだ。

落ちぶれているとかそんなのは関係ない。仕事も順調、お金だって部屋の壁紙にするほどある人でも、ほっておけないオーラを発散してやがる。背中から哀しみが滲んでいる。

勝てないよ、こういう人たちには。だってさ

どうやら自分はこれらの人種とは正反対のようだ。いや立派なダメ人間に違いないのだが、これだけダメ人間でも哀しみがないのですね。残念なことに。

せっかくスポーツもできないし、頭も悪い。顔もたいしたことない。その上相変わらず金はないし、いい年して独り身。

ちょっとぐらい哀愁がでてもよさそうなものなのに、どうも周りからは「こいつはほっておいても大丈夫」と思われているようなのだ。

いやいや!全然大丈夫じゃないよ!だってこれだけダメ人間じゃん!と力説するほどに多弁になって、ますます「ほっておいて大丈夫オーラ」を発散していくのであった。何やってんだか。




2008年9月4日木曜日

カレー



カレーをつくるのは昔から好きだった。

普段はたいして料理とかしないのに、カレーをつくるぞ!と思うと俄然張り切ってしまう。

一人暮らしが長くなると、カレーのように一度つくると2、3日食べ続けられる料理はかなり便利だ。幸い根っからのカレー好きのようで飽きることはないし、想定より多くつくりすぎても冷凍しておけばいつでも食べられるというのも都合がいい。

まずはみじん切りした玉葱を飴色になるまで炒める。そこの果汁が入っていない野菜ジュースと少量のワイン、鶏ガラ、すり下ろしたジャガイモ、同じくすり下ろしたニンニク、これにチョコレートをヒト欠片入れて、最低二時間は煮込む。

スープができたらこれを濾して、ルーを入れ10分ほど煮込んで味をなじませる。これでカレーソースは完成だ。

あとは豚バラの厚切りを焼き、皿に乗せてその上にカレーソースをかければおしまい。本当は短冊切りした茄子とジャガイモを素揚げしたものをトッピングした方がおいしいのだが、油の処理が面倒なのでよほで気が向いた時しかやらない。

はっきりいってこれは旨い。どんなルーだってそこそこおいしくなる。

しかしとにかく時間がかかる。調理をはじめてから軽く三時間はかかってしまう。これでは時間に余裕があり、且つかなり気合いを入れないとつくる気がしない。

それに、ルーを使っている時点で、何となくインチキ臭い。ルーをつかっていることを否定するわけではないが、これでは「趣味はカレー作りです」なんて絶対にいえない。別にいう機会なんてないけど。

これじゃダメだと思った。何がダメなのかさっぱりわからんが、とにかくこんな中途半端なカレーがゆるせんのや!勝ちたいんや!

悩んで悩んで悩み抜いた。それでもダメならパソコンや!ということで検索してみるに、いっちょうココナッツミルクを使ったカレーをつくってみようと思い立った。

トマトをまるごと一個、みじん切りにする。そんなに細かくなくてもキレイに切れなくてもいい。それを鍋で炒める。水分がでてくるのですぐに軽く煮る状態になるが強火で強気にいく。

そこにココナッツミルクを投入だ。豆乳は投入しない。次にガラムマサラでカレーの香りをつけ、ピエトロの辛味オイルで辛さを調整する。

あとは適当に細かく切った鶏肉をブチこんで、しばらく煮込んで完成。

これも思いの外旨い。ついでにバターライスに乾燥したコリアンダーリーフをみじん切りしたやつ(ちゃんとしたスーパーにいけば売ってます)を混ぜてやるとよりいっそう旨くなる。

旨いのもそうだが、とにかく時間がかからない。30分もあればできるのがいい。それにルーを使ってないから本格的っぽい。

まぁガラムマサラ自体ミックススパイスなので、まだ少々インチキ臭いが、そこは目を瞑る。

本当は自分でスパイスの調合がしたいのだが、いかんせん奥が深すぎる。かなりの勉強を要する。金もかかるし。

今、一番の野望はカレーの葉を手に入れることだ。乾燥のやつではない。生のカレーの葉。上野のアメ横なんかにいけば手に入るようだが、カレーの葉ごときのために東京くんだりまででかけるってのもなぁ。でもそこまでしないと手に入らんし・・・・。

悩んで悩んで悩み抜こう。それでもダメならパソコンや!