2010年9月21日火曜日

空気を読めない男と読めすぎる男とコメディ界を引っ張る男

藪似です。前回臨時的に更新しましたが、今後話を連続させるかは未定。なるようになるさ、ハハン
というわけで前々回の続きです。

地方タレントでも俳優でも、そして芸人でもない大泉洋ですが、今現在、出演番組に恵まれているとはいえません。
北海道から東京に本格進出するにあたって芸人的な使われ方を避けているのは賢明ですが、ドラマに限っては彼の本領が発揮できているようなものが皆無なのが寂しい。
昨年放送された初の本格主演ドラマ「赤鼻のセンセイ」はその問題点を如実に表していると思うのです。
まずこの台本の主役が、完全に大泉洋にアテガキされているのはまことに結構なことです。しかしどうも彼の個性を取り違えたというか、よしんばわかってやってたとしても、良さを殺すような役回りでした。
大泉洋といえば、なんといっても「水曜どうでしょう」でしょう。ついに4年ぶりの新作が制作されますが、この番組では彼の良さが完全に引き出されています。
ドラマとバラエティが違うのは百も承知です。しかし活かし方を考えた場合、絶対に考慮が必要になるはずです。
ドラマ「赤鼻のセンセイ」の主人公は、徹底的に空気の読めない男でした。空気の読めなさが思わぬ方向に話を引っ張り、問題の解決の道筋をつけたりするのですが、どうもこれが彼の個性とは合わない。
彼の個性は「水曜どうでしょう」を見れば嫌というほどわかります。それは「赤鼻のセンセイ」の主人公とは真逆の「空気を読めすぎてしまう男」なのです。
「水曜どうでしょう」は常に大泉洋の本意でない方向に進んでいきます。そんな中で彼はかすかな抵抗を示しますが、結局流れに乗ってしまう。そのさじ加減が絶妙なのです。
「不本意」と「ノリノリ」を行ったり来たりしながら、その場の空気を読みながら、番組が進行していく。
「東京ウォーカー」の回が一番わかりやすいでしょう。それまで徒歩で東京を移動することに不満タラタラだった大泉が、ちょっとずつ乗っていき、最終日前日のホテルではついに「絶対に歩いて大泉学園まで行く」と主張しはじめ、そして最終的にはどうでもいい、といった態度に変化する彼はまさに「空気を読めすぎてしまう男」なのです。

「赤鼻のセンセイ」ではその辺でつまずきましたが、フジテレビ開局50周年記念ドラマ「わが家の歴史」では大泉洋の「空気を読めすぎてしまう男」ぶりをうまく活かしており、これは成功の部類ですが、残念ながら主演ではない。
彼は今後日本のコメディ界を引っ張っていく存在になると思ってますから、たとえば松木ひろし脚本、石立鉄男主演みたいな、ああいうシチュエーションコメディをやってほしいんですがね。
それを考えると「赤鼻のセンセイ」が視聴率的にもコケたのはイタいなぁ。

さて「松木ひろし脚本、石立鉄男主演」といえば前のyabuniramiJAPANで少しだけ書いたのですが、その時はどちらかといえば「パパと呼ばないで」に焦点を絞りましたが、次回はこれまた傑作と誉れ高い「気まぐれ天使」について書こうかなと。

2010年9月10日金曜日

谷啓と桑田佳祐と森繁久弥

今回は前回から続いていない番外編です。

えと、さっそく更新が停滞しています。こんなもんです。
右カラムにTwitterが表示されているので、それを読んでくださっている方なら察していただけると思いますが
非常に忙しい日を過ごしています。
しかも信じられないショックなこと、まあCrazyBeatsなるサイトをやってるのでお気づきでしょうが
谷啓さんが逝去されたことは、想像以上にダメージがデカいのです。
いや、想像以上も何も、何か変な言い方ですが、谷さんが亡くなるなんて予想もしてなかったし
というか、どういえばいいのか、なんとなく「谷さんは永久に死なない」と思っていたフシすらありました。
今でもそうです。どうしても、谷啓=死、というのが結びつかない。いくらニュースで記事を読んでも、まだどこかで信じてない自分もいます。

谷さんと一緒に書くのもどうかと思いますが、今年ガンを告白した桑田佳祐の件も似たような感情が沸いていました。
これまたどう考えても、桑田=病気が結びつかないのです。
アタシの中ではまだ明石家さんま=病気、の方がイメージできる。さんまがナンバー2なら桑田佳祐はナンバー1。
そして一位と二位の差は恐ろしく離れている、そんな感じです。

人間なんてのは他人に勝手なイメージを植え付けたがるもので、それは芸能人にたいしても一緒です。
谷啓=死なない、とか桑田佳祐=病気にならない、とか、アタシの勝手なイメージでしかありません。
それはわかっています。でもね、それでも、嘘だろ、おい。そんなわけないじゃねーか、という感情は消えないのです。
森繁久弥は誰かの葬儀に参列する度に「順番でいえば私の方が先なのに・・・」と半ばギャグのようにつぶやいてましたが
死ぬのに順番なんてないんだなぁと、極々当たり前のことを実感する今日この頃なのです。

次回は前回の続き、の予定。

2010年9月2日木曜日

漫唱とンにゃ!と俳優でも地方タレントでもない人

藪似です。前回の続きです。
「ありがとう」第三部はミュージカル的シーンを取り入れたらしいのですが、まあそうたいしたことはありません。
基本的に歌うシーンといってもアカペラだしね。
しかしエンディングに、毎回ではないのですが、「ありがとうの唄」の、今でいうところのPVですね、が入っているのがいいんですよ。
さて「ありがとうの唄」ですが、これは本当に名曲です。演歌ではなく歌謡曲。もういかにも「1970年代前半」といったアレンジがいいのですが、それにもましていいのが水前寺清子の歌唱です。
水前寺清子といえばどうしても「ンにゃ!」を連想する方が多いと思いますが、この曲に関してはそういうアクの強い歌い方は極力抑えています。
しかし軽く歌った感じかといえばそうではなく、実に伸びやかな歌い方で、ところどころ水前寺清子らしいアクセントを入れてある。
ま、この曲がどんなによくても、実際ちょっと前までアタシのヘビーローテーションだったんだけど、水前寺清子の他の曲を聴こうとは思わないんだけどね。

さて微妙に話はズレます。
「漫唱」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。
ググってみても中国語っぽいサイトがでてくるだけですし、実際アタシも正確な意味は知りません。
掛け合い漫唱、みたいに使われる場合が多いので、何となく意味がわかると思いますが、いわば「漫才の歌唱版」といえばいいのかもしれません。
ただアタシは漫唱という言葉を別の意味で捉えています。
掛け合いでない漫唱→コメディアン歌唱、という風に。
今は芸人やコメディアンがテレビで歌う時は妙にマジメにというか、自分の歌唱力のアピールの場になっているのですが、コメディアン歌唱はそうじゃなくて
非常に説明が難しいのですが、軽く、フザけすぎないで、音程はしっかりとってあって、地声で、どこかユーモラスに歌わなければならない。
もし他人の曲を歌うなら、ほんの少しモノマネを入れる(けして完全にモノマネになってはならない)というのも入れていいと思います。

かつてコメディアンが舞台の上で歌う時、そしてレコードを出す場合は、ほぼこの基準に準じていました。エノケン然り、植木等然り。
でもさすがに伊東四朗以降の人でこういうことが、つまりコメディアン歌唱=漫唱ができる人がいるとは思いませんでした。
ダウンタウン浜田の歌い方も、あれは漫唱じゃないんですよ、アタシ的には。近いものはあるんだけど。
さてさて、ここらで前の話とリンクします。
YouTubeで「ありがとう」について検索していた時、とんでもないものを見つけました。
それは大泉洋が「ありがとうの唄」を歌っている動画で、これを見た時はまさしく「漫唱」だと思いましたよ。
大泉洋はメチャクチャ歌がうまいわけじゃないんだけど、ゴマカシがうまいというか、ちゃんと聴かせるテクニックを持っているとは思っていたのですが、まさか「漫唱」までできるとは思わなかった。
この人はとにかくモノマネがうまいのですが、モノマネがうまいというのは耳がいいわけで、植木等や小林旭が好きらしいので、漫唱的な歌唱法も「耳でいただいちゃった」んでしょうね。
漫唱ができる人を、俳優とか地方タレントというのは違う。この人こそまさしく「コメディアン」だと思うのですが、その話は次回に。