2009年7月24日金曜日

ダウンタウンは暴力的?

タイトルと出だしが全然関係ない気がして夜も眠れない。

ここで何度かうつの知り合いがいることを書いたと思う。
うつというのは本当に大変な病気で、よくいわれる「がんばれというな」みたいな単純なもんじゃ到底ない。
よく精神的な病気のようにいわれるが、これは脳の病気なのだ。このことははっきりしている。
はっきりしていないのはその治療法であって、これほど回復までかかる期間がバラバラな病気もそうないのではないだろうか。
もしあなたの身の回りや、もしくはあなた自身にうつの疑いがある時は、すぐさま病院に行くことをおすすめする。
それもうつを専門、専門までいかなくても中心にやっている病院に。そういうところは検索すればでてくる。
はっきりいって民間療法が一番よくない。それっぽい本もいっぱい出ているが、できればそういうのも読まない方がいい。
とにかく頼れるのは担当医とカウンセラーだけ、他のいう人の「こうやったらいいよ」みたいなことは、それがたとえ身内であっても、いっさい聞かない。
そういう状態に持っていくことこそ回復への一番の道な気がする。

だから今から書くことは、あくまで個人的な体験であって、けして一般に当てはまることではないことをお断りしておく。

自分の知り合いのうつの人は、まあ本人がカミングアウトしてないので詳しくは書けないし、何しろ自分もそこまで知識がないので、かなりボカした書き方になってしまうが、本当に大変だったようだ。
その人を見てると、もしかしたら自分は鈍感なだけじゃないかとすら思うことがままあった。
たとえばテレビが見れない。
その人のうつになった直接の原因が暴力なので、少しでも暴力のニオイを感じてしまうと耐えきれなくなるという。
実際に暴力シーンの有無は関係ない。極端な話、大声で怒鳴ってる人がでてきただけでダメなのだ。
「だったらバラエティとか見れないでしょ?」
実際にそのことを聞いたことがある。
やはり、そうだった。バラエティのたぐいはほとんど見れなかったそうだ。
(過去形なのは回復して今は見れるようになった由)
「あ、でも、ダウンタウンの番組だったら大丈夫かな」
驚いた。というか絶句してしまった。
ダウンタウンといえば、今活躍している芸人の中でもひときわ暴力的な印象がある人たちである。
特に浜田のツッコミは、さっきいった「大声で怒鳴る」にモロに該当する。
断っておくが、その人は今まで特別ダウンタウンのファンだったことがない。おもしろいと思ってはいたようだが、積極的に彼らの番組を見ることはなかったという。
毎年年末に「笑ってはいけない」をやってるが、この番組は出演者が笑うたびに彼らがひっぱたかれる。
にもかかわらずそのうつの人が、DVDでそれを見て大笑いしたというのだ。
これはいったいどういうことだろうか。
その人にいわせると、ダウンタウンは痛くない、のだという。
たとえ(もちろんツッコミとして)浜田が松本を叩いたとしても、大声で怒鳴ったとしても、トラウマに触れるような痛みがないらしい。
「この人たちは芸でやってるのがわかる。それに(ツッコミに)愛情を感じる」ともいっていた。

昨今、テレビの規制が過剰になっていき、暴力的なものにたいする規制も末期的になってきた。
そんな時、真っ先にやり玉に挙がるのがダウンタウンである。
が、暴力が直接の原因になってうつになった人が、ダウンタウンは、まあいや暴力的ではないと感じている。
もちろんこの人の意見だけとって「ダウンタウンは暴力的ではない」などというつもりは毛頭ない。
しかしけして軽視できることでもなかろう。
規制も結構だが、とにかくやり方が画一的なのだ。この分じゃ「何ホーン以上の大声でツッコむのは禁止」とか「ツッコミで叩いていいのは肩とか背中だけ。それも一番組につき二回まで」なんて制限ができかねやしない。
一見ソフトなツッコミでも暴力的と感じる芸人はいる。その人も、書きはしないが、何人か名前を挙げていた。
逆にダウンタウンのような、一見過激でも実はそういう人でも不快にならない、きちんとした芸としてやってる人もいる。
こういうことをお役所仕事でやっても、何一つ解決にはならないし、結果的に一部の人を喜ばせるだけになってることに気づかないのだろうか。
もし規制がもっとヒドくなって、それこそそれが影響して今よりずっと景気が悪くなっても自分は知らない。

2009年7月21日火曜日

プロレス

舌の根が乾かぬうちに、という表現があるが、まさに今から書くことはそれなんじゃないかと考えると夜も眠れない。

この間、タイガーマスクについて書いた時、プロレスへの興味のなさを吐露したばかりだ。
いや、興味のなさは今持ってなにも変わっていないのだが、ついそそられるような記事を見つけてしまった。

http://www.cyzo.com/2009/06/post_1712.html
http://www.cyzo.com/2009/06/post_2204.html

読んでもらえればわかるが、これは前田日明が三沢の死について語ったもので、まあ三沢といえばタイガーマスクでもあったわけで、興味のない中ではまだ興味がある方、という微妙さなので、それなりに悲しみというかショックはおぼえた。
が、そんなことは、まあどうでもいい。
さきの記事でフックになったのは、前田日明がプロレスという興業について語っている部分だった。
今までプロレス論などほとんど読んだことがなく、たまに目にしても、妙に思い入れたっぷりで客観的でないものばかりで、プロレスに関心がない人間にはもうひとつ飲み込みづらかった。
しかしこれは単純明快である。
前田日明がプロレス界でどういう立ち位置なのかは何となくわかっているし、猪木の批判まで入っているのは「らしい」と思えるのだが、ここまで明白にプロレスについての説明は初めて目にしたのだから、自分にとっては目から鱗だった。
さきの記事を読む限り、ガチか花相撲かなどどうでもよくなる。いわばこれは肉体を使ったショーであり、誤解を承知でいえば、びっくり人間大集合とかに近い。
もちろんそれだけじゃダメなので、ドラマ性を持ち込む。
つまりはドラマ性のあるサーカスといえばいいのか。
サーカスにガチも花相撲もへったくれもないわけで、基本は肉体ショーであり、そこに個々が考えたストーリーが持ち込まれる。
こうなってくると、なぜプロレスに引き込まれる人が多いのか、そしてなぜ自分には関心がないのか、明確な答えがでてくる。

話は急に変わるが、こないだサーカスのポスターが貼ってあるのを見た。そしてこう思った。
「おそらく自分は、これから死ぬまで、自分の意志でサーカスを見ることはないだろう」と。
子供の頃、小学校の体育館で、さだまさし主演の、サーカスが舞台の映画を観させられたことがあった。
タイトルもおぼえていない。おぼえているのは最後にピエロに扮したさだまさしが、最後に空中ブランコかなんかから落ちて死ぬことだけだ。
この映画を観る前、おそらく幼児に近い頃だったと思うが、一度だけサーカスを観に行ったことがあった。
といってもこれも何もおぼえていない。さだまさしの映画と同じように。
おそらく幼少時から、齢40になった今まで、一度としてサーカスという興業に惹かれたことはない。
理由はわからない。スゴいのはわかるが、どうしても「だから何だ」という気分になってしまう。
エンターテインメントは大好きだ。映画もそうだし、特に笑いに関するものには強く心を動かされる。
たしかにサーカスにもプロレスにも大なり小なり「笑い」の要素はあるだろう。そして両方ともエンターテインメント中のエンターテインメントである。
しかし、何だろう。どうもびっくり人間的要素があると、興味が削がれてしまう。本当に理由はわからない。
チャップリンにしてもバスター・キートンにしても、昔のコメディアンはとにかくパントマイムがスゴい。
が、自分の中でこういった「いかにも芸を見せてますよ」みたいなのは、興味がないのだろう。
スゴさよりも、そっから後に興味があるといえばいいのか。
もちろんサーカスもプロレスも「スゴさ」で終わっているとは思わない。しかしこれはイメージの問題だ。
スゴさがメインできているイメージがある以上、どうしても興味の範疇には入らないのだ。

何だか自分でも思わぬ方向へ話が転がってしまった。
まあいい。とにもかくにもさきの前田日明のインタビューですっきりしたことは事実なのだから。
最初に書きたかったことはね、何だっけ。忘れた。知らんよ、ボカぁ。

2009年7月20日月曜日

夢のない話

こんなタイトルにしてみたわけだが、現実的なことを記していくようなエントリじゃないし、そう思われたら夜も・・・まあ別にいいや。

さいきんCMなんかでちょくちょく濱田マリをみる。いや、ここ数年、出ている頻度はたいして変わらないのかもしれないが、自分のタイミングの問題でやたら目にする機会が多い。
彼女がメジャーデビューしたバンド、モダンチョキチョキーズのヴォーカルをやってた頃から何となく注目していて、これはふた皮くらいめくればいい脇役タイプのタレントになるかもしれないと思っていた。
さあ中途半端な、よくわからない言い回しをしてしまった。しかもふたつも。
まずひとつ目の「ふた皮くらいめくれば」というところだが、初期の彼女は、何というか濃すぎた。しかも悪い意味で。これじゃ一般受けは難しいんじゃないかと感じていた。
ふたつ目の「いい脇役タイプのタレントになるかもしれない」の部分、これが今回の主題である。
もう一度繰り返す。彼女はモダンチョキチョキーズというバンドのヴォーカルとして世に出た。このバンドはある意味いい加減なバンドで、濱田マリ以外のメンバーは実体がよくわからなかった。つまり彼女はバンドの顔であったのである。
が、どうにもそういう役回りに違和感があった。
彼女の内面はどうか知らないが、自分の側から見ると、なんだか全然夢のないタイプに見えたのだ。
たとえばである。実生活で彼女は二回結婚をしているが、結婚にたいして夢を抱えているタイプには見えない。どうも超現実的な結婚観を持っているような気がしてしかたがない。
そういう人は芯には向かないのが普通だ。だから脇役に向いている、と思ったのです。

さてもうひとり、というか、ひと組、似たようなタイプで、ほぼデビュー時期も一緒なのがスチャダラパーである。
ずっと彼らは「ブレイク寸前」みたいにいわれてたし、本人たちもそのことをギャグにしていた。
さすがにもうそんな時期はすぎたが、ブレイクしないのは濱田マリ同様、夢がないからである。
彼らのリリック(詩)は徹底的に現実的であり、夢を売る側ではなく夢を買う側にいる。ブレイク寸前までいってもブレイクまでいかないのはそのためである。
何だか悪口のようだがそうじゃない。おそらく濱田マリもスチャダラも、ある種の確信犯ではないかと思うからだ。
個人的な話だが、モダンチョキチョキーズもスチャダラもなぜか関係者に知人がおり、ごく初期から知っていて、感情移入もしているのだが、彼らはどうも意図的に一般受けを避けているようにも思う。

一般受けを避けるには、夢を売らないのが一番だ。
何故一般の人は高いお金を出してライブに行ったりCDを買ったりするのか、それらにお金を払うのは代償行為であり、実体は夢を買っているのだ。

名前からして一番わかりやすいのは、そう、ドリカムである。
ドリカムの初期、とまではいわないが、「LOVELOVELOVE」の頃までは完全に夢を売るためのバンドであった。
よく「昔のドリカムはよかった」なんていう人がいるが、それは昔は夢を売っていたからであり、途中でなぜかそれをやめてしまったからだ。
自分からすれば、夢を売るのを止めたのにDREAMS COME TRUEって名前もねえだろ、とは思うのだが、まあ完全に止めてしまったわけではないが、それでももう今のドリカムの「夢売り曲」は当時のセルフカバーに近いものばかりで、思惑通りいってるとは言い難い。

少し話はズレるが、自分が電気グルーヴを買っているのは、彼らもまた意図的に夢を売ってないわけだが、夢を売ろうと思えば売れるんだ、できないんじゃなくてやらないだけなんだ、と証明してみせたからである。
そして夢を売るための曲のサビが「夢でキスキス」なんだから、完全に「わざと」だろう。まあ知らんというか想像だけど。

2009年7月16日木曜日

日曜日よりの使者と1/6の夢旅人2002

まさかここで「愛」を語ることになろうとは、こっぱずかしくて夜も眠れない。

以前「昭和という時代で、たった一曲あげるなら「若いって素晴らしい」のような気がする」というようなことを書いた。
では平成で、もちろんまだ終わったわけではないが現時点で、たった一曲をあげるなら「日曜日よりの使者」じゃないかと考える。
有名な話だが、この曲は甲本ヒロトが仲がよかった松本人志をイメージして書いたといわれるが、軽く調べてみたところ、どうも両者とも言及してはいないようで、憶測の域をでていない。
日曜日、といえば当時松本は「ごっつええ感じ」と、今も続く「ガキの使い」をやってたわけで、歌詞を読んでも容易に想像できるフレーズが並んでいる。
もちろん松本の名前も「ガキ」も「ごっつ」も名前こそでてこないが、山本正之を崇拝する甲本ヒロトらしくストレートだ。
自分は全然記憶にないのだが、一時期「ごっつ」のエンディングテーマになってたようで、しかし、どちらかといえば「ガキ」を連想してしまう曲だ。
自分が初めてこの曲を聴いたのは、ホンダにCMだったと思うが、スキャット部分のみの使用だったにもかかわらず強いインパクトを持った。まさか松本をイメージした(と思われる)曲だとは思わない。
全体を聴いてみてあらためて思ったのは、とにかく咀嚼がすごいということだ。
番組のイメージ、そして松本の素性がわかってないと絶対に書けない歌詞だと思うし、イメージソングでも何でもないのに、これだけ番組をイメージさせてくれる曲を他に知らない。

いや他に一曲だけ知っている。
ここで何度も名前がでてきている「水曜どうでしょう」のエンディングテーマ(正確にはクラシックと2003年以降の新作のみだが)である「1/6の夢旅人2002」だ。
「どうでしょう」はリターンズよりクラシックで見る方が絶対いい。画質がいいとかもあるけど、エンディングテーマがこの曲だからで、そもそもこの番組は感動という要素は一切排除したつくりになっているのに、「1/6の夢旅人2002」がかかるエンディングがつくだけで、何か感動してしまう。
ちょっと問題があった、でも歌詞はほとんど同じの「1/6の夢旅人」よりもずっとよく、「日曜日よりの使者」のような平成でただ一曲、というほどの大傑作ではないが(アレンジはいわゆるメジャーなポップスだし)、それでもメロディの出来が素晴らしく、「どうでしょう」を一段高いところに持ち上げてくれた気がする。
もちろん歌詞もいいのだが、この曲も番組を実にうまく咀嚼しており、サイコロの旅がメイン企画だった頃の番組内容を普遍的な生き方論に見事に置き換えている。
何度もいうが「日曜日よりの使者」ほどの出来ではないのだが、番組を知ってる者からすれば同等の価値が持てる、これこそ真のエンディングテーマではないか。

どっちにもいえることだが、とにかく「愛」を感じる。
そうなのだ。バラエティーといえど、いや、バラエティーだからこそ、愛がなければ本当にいい曲は生まれないのだ。
こういうスタンスで他のミュージシャンにもエンディングテーマをつくってほしいが、他にいるんかねえ。知らんもんなあ。

2009年7月5日日曜日

デジタルフォトフレーム

なんてもんがずいぶん売れているようだが、どんな人が買ってるのかと考えると夜も眠れない。

ひとくちにデジタルフォトフレームなんていっても、昨今のやつはスライドショーはもちろん、音楽や動画の再生ができて当たり前の感すらある。こうなってくるとどこが「フォトフレーム」なんだと思ってしまう。
個人的にはこのデジタルフォトフレームというやつには否定的である。これってデジタルな写真立てなわけでしょ。
そんなもんにしょっちゅう電池を代えたり、コンセントに差しっぱなしにしなきゃならないなんて信じられない。
しかし、だ。デジタルフォトフレームという名前にこだわらなければ、十分許容できるものであり、それどころか、これは自分が数年前から夢想していた「ベッドサイドガジェット」というたぐいのものではないか。
もう今はどこでもネットをしたり動画を見たりする時代である。「どこでも」となるとさすがにデスクトップ機では大仰すぎるのでノートPCが活躍する場面も多い。さらにノートPCですら大仰な時は、スマートフォン、さらにこじんまりさせて携帯電話という手もある。
しかしこれが寝る前となると、大抵携帯電話は翌日に備えて充電器の上でお休み中だし、そもそも画面が小さくて見づらい。
こういう時用の、普段は何気にベッドサイドに置いてあって、時計の役割なんかをしているが、いざとなったら軽くネットが見れたり、LANで共有してあるHDDの動画や音楽が楽しめる。
しかしだ、自分が妄想するベッドサイドガジェットには、今あるデジタルフォトフレームでは少し機能が足りない。
まず目覚まし時計になってくれそうなものがない。そして目覚まし時計としても音楽や動画を楽しむにしても決定的に音量が足りない。

個人的にはこのカテゴリの商品は二分化されるんじゃないかと思っている。
ひとつが今いったような、ベッドサイドガジェット的進化。
もうひとつは文字通り、デジタル写真立てとしての進化だ。
高機能な前者はわりと簡単に実現できる。しかし後者はまだブレイクスルーが必要だ。
たとえばデジタルな写真立てなんだから、画像の向きによってディスプレイ部分が自動で90度、物理的に回転してくれる機能があってもいい。ま、これはわりとすぐできるというか、もしかしたらそういう製品がすでにあるのかもしれない。
が、もうひとつの、最初の方に書いたような、コンセントにつなぐ必要がない端末、電池を一本入れておけば半年くらいは持ってくれるような端末となると、どうしてもカラー電子ペーパーの技術が必要になる。
電子ペーパーはデジタルブックのジャンルで期待されているが、実はこっちの方がなじみやすいと思う。
表示スピードも、スライドショーなんてなくせばこっちの方が圧倒的に画面の描き換えが少ないのだし、少々遅くてもぜんぜん平気だ。
だいいち小型ガジェットで本を読む、というスタイルが本当に浸透するかどうかもわからない。
その点デジタル写真立ては一定の需要があることが証明されているし、メーカーも本腰が入れやすいだろう。
まあメーカー側もそういうことを見越して、今必死でデジタルフォトフレームを売ってるのかもしれない。知らんというか推測だけど。

2009年7月2日木曜日

世界のイチロー

といっても、毎日同じカレーを食ってる、あのイチロー・スズキの話ではないのだが、勘違いされたらどうしようと思うと夜も眠れない。

こないだ友人と「小倉一郎も、世界の(小倉)イチローというとイメージが変わる」という話で大いに笑った。
小倉一郎のことはこのブログでも何度か名前がでている。
細身を超えたカボソい体型で、役者としては達者なのだが、主役を張れないタイプで、だけれども独特の存在感がある、希有な存在である。
話を進めるうちに何となく「小倉一郎はひとつの目標じゃないか」という話題になった。もちろん始めは冗談だったが、話せば話すほど、冗談ではなくなっていった。
急に話は変わるが、ま、大抵の人間は、死ぬまではオーバーにしても、相当長い期間働かないと生きていけないわけだ。
たとえば芸能界に属していた場合などは、目標を立てやすい。「主演映画を撮るぞ」とか。しかしもっと地味な仕事の場合、なかなか具体的な目標を立てづらいものだ。
しかしだ、どんな業界であろうと職種であろうと、ひとつだけ「こうなればこの仕事をやってきてよかった」と思えるものがあると思う。
それは「これはキミ以外誰もできないことだ」といわれることである。
料理人ならその人しか出せない味を作り出す。サラリーマンならその人しかこなせない案件の処理ができる、などなど。
そう考えると、小倉一郎はまさにそういう存在だ。

今もってなお、これは小倉一郎しかできない役、というのがある、というのはすごいことではないか。
たしかに地味だ。が、小倉一郎しかできない役がある限り仕事がなくなることはなく、頼りにもされる。
これこそ仕事をするものにとっては究極の目標のはずだ。
もしかしたら、気づかなかっただけで、小倉一郎という人は飛び抜けた存在なのかもしれない。それを数十年に渡って維持している人なんて、少なくとも役者でそういう人を他に知らない。