2011年4月30日土曜日

ポピー、それは幻

藪似です。アタシが小学生のころコロコロコミックという雑誌が創刊されました。
まあ現在もあるアレですけど、とにかく最初に見た時はその分厚さに圧倒されました。にも関わらず単行本と変わらない値段!アタシをはじめ周りの友達も皆コロコロコミックに夢中になりました。たぶん日本中の子供がそうだったでしょう。
その証拠にすぐに後追い雑誌が発売されました。コロコロコミックを発売していた小学館の宿命のライバルといえる講談社から発売されたボンボンです。さらに双葉社からは月刊100てんコミックが発売されます。
実は100てんコミックまではまだメジャーなのです。もうひとつ、知る人ぞ知る、コロコロコミック人気に当て込んだ雑誌が少年画報社から発売されていました。
「月刊少年ポピー」。コロコロコミックと同サイズなので意識していなかったとはいわせません。しかしこれがとんでもない雑誌でした。
一応ウリはアニメ化された「タイガーマスク二世」の連載ですが、他が凄い、というか酷い。
タイトルを並べると「もーれつア太郎」(赤塚不二夫)、「ハリスの旋風」(ちばてつや)、「キッカイくん」(永井豪)、「キャプテン」(ちばあきお)、そして「忍者ハットリくん」(藤子不二雄)・・・。
とんでもない豪華ラインナップじゃないか!そう、無駄に豪華です。ただしすべて「新作」であるならね。
鋭い方ならお気づきでしょうが、すべてこれらの作品は再録なんです。出版社の枠を超えた夢の名作の再録!

・・・正直こんなの面白いと思いますか?たしかに名作揃いですが、単行本で全部手に入るものばかり。単行本を買ってくれば続きが読めるんですから「次号が楽しみだ」とかなるわけがない。
ずっと後年、再録をウリにした雑誌がありましたが、あれはかつての読者に懐かしんでもらおうという意図ですからね。でもこっちは本気ですから。
アタシはすでに小学校高学年でしたから、もう当時から思ってましたよ。こりゃ酷いとね。
案の定あっという間に廃刊になり、2011年現在ネットで検索しても詳しいことは全然でてきません。なにしろWikipediaにすら記載がないくらいですから。
アタシは酷い酷いと思いながら毎月買ってたんですがね。藤子不二雄の狂信的なファンだったからね。まあハットリくんは単行本持ってたんですけど、そのハットリくんもテレビアニメ化が決まって、本家本元のコロコロコミックで「新作」が開始されたという。その頃には少年ポピーは廃刊になってましたけど。

この少年ポピー、大阪国際児童文学館までいけばバックナンバーがあるみたいですが、まあこれだけ研究価値がない雑誌も珍しい。こういうのをあだ花というのでしょうかねえ。

2011年4月28日木曜日

消えた一人称の話とネット人格の話

藪似です。Twitterにも書いたのですが、続きの文章が消えてしまいました。
普通なら、まあしょうがねーべ(湘南弁)とあきらめるのですが、一応続きもの、しかも締めの話だったので完全に放心状態になってしまいました。
かといってまったく同じ文章を書き直す気力は残っておりませんので大幅にかいつまんで書きます。

要するに、一人称によって人格が変わるということをいいたかったわけで、yabuniramiJAPANを始めるにあたって「アタシ」という一人称を考えたこと、そして「アタシはカクカクシカジカ」と書くことによって限りなく自分自身に近い、それでいて絶妙な距離感のあるもうひとりの自分になれる、みたいな内容でした。
今は現在はブログとTwitterの使い分けがうまくできてないので、一人称を変えるだけでTwitterの自分なりの使い方が見つかるんでねーの、と。

いやはや、ブログの要約なんてするもんじゃないわ。実にたいしたこと書いてなかったって嫌になるほどわかりますね。

せっかくなのでTwitterの話はおしまいにして、少し違うことを書きます。
アタシはネットを使う上で、ポリシーってなたいしたもんじゃないんだけど、自分の中でいっこだけ決め事があって、それは「リアルでいえないことをネット上で書かない」。それだけは守っています。
ブログにしろTwitterにしろ、はたまた掲示板にしろ、相手の顔は見えません。だからついつい過激なことを書きたくなる。
たとえば阪神ファンが集う掲示板にいきます。そこには金本選手の処遇に関して目を覆いたくなるレスが散見されます。
そりゃね、あれだけ酷い守備を見せられたらそういいたくなる気持ちもわかる。でもそこでぐっと堪えるのです。
それでもどうしても金本選手にたいしていいたいことがあったら、目の前に金本選手がいるつもりで書くのです。
アタシは陰口が大嫌いなんです。もちろんその掲示板を金本選手が読むことはないでしょうから、広義にいえば陰口なのかもしれません。
でもそこに書いた言葉が仮に金本選手に伝わっても全然構わない、そういうつもりで書くんです。

リアルとネットで人格の差をつけたくないんですね。だからここで書いていることをどこかで発表しろといわれれば躊躇なくいえるし、仮にそれで誰かが怒ったとしてもそれはどうしようもない。
他者を批判する、当たり前のようにというかネットとはそういうために使うもんなんだと思っている人が多いようですが、それは違う。たまたまネットという手段を用いるだけで、リアルと言動は一致させなきゃいけない。そうしないと自分が酷くさもしい人間に思えてしまう。それだけは避けたいんです。
他者の批判をネットで書く、それはおおいに結構。しかし本当にそれを本人を目の前にしていえるのか?逆にそれができない人間は到底ネットを使いこなしているとはいえないと思うんですよねぇ。

2011年4月27日水曜日

使い道を探ったりする話

藪似です。前回の続き的なことを。

Twitterをイマイチ使いこなせてないもうひとつの理由が「何を書けばいいのかわからない」というのがあります。
そもそもアタシはブログも完全にそうなんですが、日々の出来事を書くことが非常に苦手です。別に秘密主義とかじゃないんですが、どうも生理的にこんなことをしてます、こんなことをしましたなんて書くのが嫌なのです。
このあたりのことを「Twitter社会論」の巻末対談で松沢呉一氏がまったく同じことを語っており、非常に共感しました。
氏は生理的にそういうことを書くのが嫌だと対談で告白し、しかし補足で今はTwitterを利用していると書いています。
といっても日々のことを書くことが平気になったわけではなく、違う利用法を発見したからなんですが。
これまた非常に共感できるもので、つまりTwitterに「今なにしてる?」的なことではなく、その時感じていること、思っていることを書くというスタイルです。
Twitterは使い方が限定されているわけではないのでこういう使い方もアリなのです。

しかし共感はできるものの、アタシが実際できるかといえばこれはこれで非常に難しい。
なんというか、これも生理的なことなんでしょうけど、思考を小出しにするのはなんとなく恥ずかしいのですね。こうやってブログに、それなりにまとまった状態で書くことは好きなのですが、小出しという言い方では理解してもらいづらいかもしれませんが、要するに「脳みそだだ漏れ」を晒すのは恥ずかしい、といえば少しはわかってもらえるでしょうか。

結局のところアタシは自分に自信がないのでしょうね。だから行動とか思考を開陳するのが恥ずかしいと同時に非常に怖い。
そういう意味でも基本的にアタシはTwitterに向いてないのでしょう。しかしさっきも書いた通り、Twitterは決まった使い方があるわけではありません。きっとアタシに向いた使い方もあるはずなのです。現在はまだ見つかっていませんけどね。

あと一回この続きを書きます。

2011年4月26日火曜日

なんとなく仕組みの凄さはわかったって話

藪似です。Twitteにも書いたのですが、AppStoreで配信されているiPhone用アプリというか電子書籍「Twitter社会論」を読了しました。
Twitterに関しては始めてみたものの、どうも面白さがわからなかったのが本当のところで、始めたばっかりの頃にそういう感想のエントリを書いたこともありました。
実は今でも本当に面白がっているのかは微妙でして、フォロワーも全然増えてないというか、そもそも増やそうという気すらないですしね。
Twitterの面白さは結局有用な情報をどれだけくれるフォロワーがいるかで決まるようなもんですから面白がりようがないのが現実です。
それでも「Twitter社会論」を読んでなるほどなぁと思うのところは多々ありました。

一番ハッとしたのが、そういえばTwitterにはタイトルがないってことなんです。
このブログを書く時、正確には書き終わってからですが、いつもタイトルには悩むのです。だいたいブログにタイトルとか必要なのかねとも思うのですね。
今まで購読してなかったブログを読む時、たしかにタイトルがあった方が便利なのです。しかしブログの文章なんて書き捨てがほとんどで、いやちゃんとした文章を書いてる人もいるのですが、少なくともこのブログは辿ってまで読むようなことは書いてない。
昔はね、そうじゃなきゃダメだと思ってたんですよ。だから旧yabuniramiJAPANではできるだけわかりやすいタイトルをつけてたし、きちんとカテゴリ分けもしていた。過去にどんなことを書いたか一覧できるようにサイトマップ的なものもつけていました。
しかし冷静に考えるとそこまでして読んでほしいわけでもないのです。アタシは仕事でもなんでも「終わったことにはあまり興味がない」タイプなので、自分の書いたことを全部読んでほしいとかさほど思わない。
それにアタシのやってるブログは基本自分の出来事を書いてるわけではなく、その時なんとなく思ってることを書いているだけです。あくまでその時はそう思ってただけで、後から読み返して「あれ?そんなこと考えてたんだ。今は全然違うんだけど」みたいなことばかりなんですね。
ですから結局こういうスタイルになったし、物好きな人がなんとなく流し読みしてくれればそれでいいんです。
読み返してもらったり遡って読んでもらいたくないのであれば、タイトルとか本当にいらない。

よくよく考えると、メールのタイトルというか件名ね、あれもいらない。仕事のメールなら「お世話になっております」とか、久しく会ってない人なら「ご無沙汰しております」とか、少し親しい人なら「こんにちは」とか、こんな件名がずらりと並んでいて内容が全然わからない。しかも返信を繰り返すと「RE:」ばかり並んで何のことかさっぱりわからなくなる。
まあこうなると結局本文を開かなきゃいけなくなるわけです。

タイトルとかナシにして数行分プレビューした方がいくらか使いやすいんだけど、それに特化したメーラーってのも意外とないし。それはそれで中途半端なところで文章が切れてやっぱり本文を開くということになりそうだし。

メールにしろブログにしろ、一覧性と内容を素早く把握できるのは文章の長さ的に両立が難しいんですよね。
そうこう考えるとTwitterの140文字というのは実によく考えられている。本文のすべてがプレビュー程度の長さしかないんで、ずらずら表示させても非常に見やすい。

長くなりそうなんで分割します。

2011年4月24日日曜日

快楽主義

藪似です。ちょっと前に「最近漫画を全然読まなくなった」みたいなことを書いたのですが、ふと「まんが道」を読み返してみて愕然としました。あまりにも面白かったからです。
しかし「まんが道」の面白さを文字で表現するのは非常に難しい。私小説の面白さを伝えるよりも難しいかもしれません。
「まんが道」は私小説ならぬ私漫画とでもいうもので、作者である藤子不二雄Aこと安孫子素雄と藤子・F・不二雄こと藤本弘の出会いからプロの漫画家として巣立っていくまでの過程を、実際にあったことを省略、そして時系列を入れ替えるなどしたフィクションです。
田舎の高校生2人が上京し、様々な人と出会い、成長していく青春譚なのですが、面白さを伝えるのが難しいのは、青春譚でありながら、挫折がいともあっさり描かれているためです。

藤子不二雄Aという人は本来劇的な盛り上げ方の上手い人です。「プロゴルファー猿」での竜との対決のラストパットのシーンなんかを見ればわかりますが、王道的な劇的シーンを描くのは非常に上手いのです。
ところが「まんが道」ではそういったテクニックをあまり使っていない。物語のクライマックスとでもいうべき原稿落とし事件も、何だか他人事のようにあっさりしている。むしろ後始末で上京してきた時のテラさんの説教シーンにやや使われています(カラスが飛びたつところ)。が、それでも初恋の人が自殺した場面の方が丹念に演出しているくらいで。
だから全体で見れば実にダイナミックなドラマなのに、細かくみていくと淡々としている。

行く手を塞ぐ壁が弱く、周囲に善意の人が溢れ、金銭面や性的な苦悩もほとんど描かれず、自己葛藤も案外あっさり解決したりする。
こう書くと青春譚としては失格なのかもしれません。が、読んでみると圧倒的に面白い。面白すぎてページをめくる手が止まらない。

ビルディングスロマンとしてみるとどうしても弱いのですが、おそらく藤子Aはそんなことは百も承知というか、あえて「正調」にしなかったのでしょう。もっといえばカタルシスではなく快楽に近いものを描いている。特にトキワ荘でのエピソードは悲劇的なもの(石森章太郎の姉の死など)は排除して、ある種のパラダイスにしてある。
藤子Aの分身である満賀道雄はコンプレックスの塊なのに楽天的で、しかもコンプレックスがあるからこそ得られる快楽がある、と説いているようにも思える。
そして満賀同様コンプレックスの強いアタシのような人間は、読み進める毎に満賀と同化していきパラダイスに誘(いざな)われる。
同化するのにダイナミックな演出は邪魔なのですよ。むしろ淡々とやられた方が同化しやすい。

まあいろいろ書きましたが、ぜひ読んでみてください。きっとフシギな面白さの虜になること請け合いですから。

2011年4月22日金曜日

スターへの階段

藪似です。昨日は負けたので、関西弁でいうところの「けったくそ悪い」(胸糞悪い)のですが、野球というか阪神の話を書きます。

金本の連続試合出場は思わぬ形で途切れてしまいました。まあ正直遅すぎるのですが、とりあえずはこれでよかったと思っています。
この件で功労者兼悪者扱いになってしまったのが俊介外野手です。
アタシはね、これで彼がスターになる階段を一段上がったと思っているのですよ。といってもまだまだスターとしての実力も実績もありません。
でもですね、スターになるにはいくら実力があっても実力があっても関係ないというか、両方兼ね備えているのに、スターと呼ぶには・・・みたいな選手がいるのも事実なのです。
スターの階段を駆け上がるために必要なもの、それは「大物選手のファンを敵に回すことができたか」and「非難と同じくらい大きな賞賛を得られたか」があったかどうかです。
俊介こと藤川俊介は入団の経緯からしていろいろあった選手です。ドラフト3位以下なら東邦ガス入り、こんな俊介側というか在籍していた近大野球部側の声明を知ってか知らずか、阪神タイガースは5位で指名。すったもんだがあった挙句俊介はプロ入りの意向を固めます。
そして背番号7をもらうことになるのですが、阪神の一桁背番号の選手は何故か大成しない、というジンクスがあり、この7と現在金本が付けている6だけが例外で、あまたの名選手がつけた貴重な番号なのです。
金田正泰から始まり、現監督の真弓明信、そして一昨年までつけていた今岡誠と、顔ぶれからして期待値の低いドラフト5位の付けられる番号じゃない。
ところが強行指名をした手前、阪神側としても最大限の誠意を見せざるをえなくなり、背番号7は俊介のものとなりました。
前年赤星憲広という名外野手を失ったチームは、新人ながら安定した守備力を見せる俊介をキャンプから一軍に帯同させますが、見事期待に応え開幕一軍をゲットします。
2010年のシーズン、控え選手として貴重な存在になり、ついにはレギュラーを期待されるまでになります。

プロ野球を多少ご存知の方なら、なんだ、ごく普通のプロセスじゃないかと思われるかもしれませんが、少なくとも阪神においては普通じゃない。なにしろ野手の育成に関しては12球団下手なのです。(その分投手の育成は上手いんだけど)
とにかく運も実力のうちのプロの世界では「持ってる」のと「持ってない」のでは大違いなのです。
・ドラフトのごたごたでスターらしい背番号7を得た
・守備力の高い赤星が引退したために一定の守備力を持つ俊介は貴重な存在になることができた
そしてレギュラーを目指した今キャンプでは
・競争相手として内野からコンバートされた坂が極度の不振、そして怪我と俊介を脅かす存在になれなかった
かくして俊介は開幕スタメンをゲットし、そして先日の事件へと繋がるわけです。

金本の件に関しては、まあ誰が悪いという問題ではないのですが、翌日のスポーツ紙を見ると俊介が悪者扱いになっており、もちろん一方で弁護する声もあるわけです。
数年前、同じ藤川姓の球児投手が清原和博から「チン◯コついとるんか」と揶揄されたことがありましたが、球児はそれで一気にスターへの階段を駆け上がりました。

さまざまな経緯からいって俊介はスターになるための条件を兼ね備えました。
あとは本当に実力だけ。幸いにも打撃面ではいいスタートが切れましたが、課題は多い。でも彼ならきっと克服してみせるはずです。だってそういう宿命の選手だから。
レッツゴー俊介!

2011年4月21日木曜日

大人の嗜み

藪似です。さあ何を書きましょうか。
アタシは喫煙者です。とか書くだけで糾弾されそうなコワい世の中ですが、実際かなり居心地が悪い。
居住地である神奈川県はかなり喫煙者には厳しい街でして、たとえば今のこのブログをマックで書いているのですが、神奈川県下のマクドナルド全店舗で全席禁煙になっています。
そもそも何故喫煙者になったのか、明確な理由はなかったりします。しいていえば人と人との繋がりの中で、などと実に、実に抽象的な言い回ししかできません。
実際アタシが喫煙を始めたのは20歳になる頃だったので、背伸びした大人の真似事、でなかったのは間違いないのです。いや、そのはずでした。
当時は今よりずっと喫煙者の多い時代でして、喫煙者である方がコミュニケーションを取りやすかったのです。普段は事務的な会話しかしないバイト先の店長だったり、あまり親しくない大学の先輩でも、連れションならぬ連れタバコでたわいのない話ができたりしたのです。
それにたとえばバイト中にタバコを吸ってると、ああ休憩してるんだなってわかってもらえる。これが何にもなしで手を休めているとサボってるようにしか見えませんから。そんな効用もありました。

さて前置きが異様に長くなってしまいましたが、たしかにタバコはやります。しかしそれ以外、なんつーか、大人の嗜み、とでもいうのでしょうか。これが一切やらないんですわ、アタシ。
まず酒は飲まない。これは単純に弱いいというのもあるのですが、それ以上に酒を飲むシチュエーション、居酒屋なりバーなりがあんまり好きじゃないのです。
他、ギャンブルは一切しない。パチンコは小学生の時に電動になったのを期に卒業したし(それもどうかと思うけど)、麻雀は一時本気で覚えようと思ったことがあったんですが、周りにやる友達がいなかったのですでにルールも忘れました。
唯一競馬だけは嫌いではなく、これは子供の頃に叔父によく競馬場に連れていってもらっていたので、馬の綺麗さや迫力はそれなりに理解しているつもりです。
大学の頃まではたまーにG1のビッグレースに限り馬券を買っていたのですが、これもやらなくなった。

呑む打つ、とくればあとは当然「買う」ですが、どうもそっち系もあんまり好きじゃない。いや、女性は大好きなんですが、そーゆー場所の空気が好きじゃないんですよ。
昔会社の上司にそーゆー場所に連れていってもらったことがあって、その時が初そーゆー場所だったんですけど、その時も・・・いややめとくこの話。

中学生とか高校生の頃に自分で思い描いていた「大人」と、今のアタシを比べると愕然とします。もちろん真面目な、真面目はおかしいですけどきちんとした部分でも大人とは程遠いのですが、遊びに限定しても想像上の大人とは似ても似つかぬ大人になってしまいました。

別に遊びの部分で、しかも古臭い価値観の「大人」になんか縛られる必要はどこにもないのです。それはわかっています。しかしアタシの大人としての唯一の小道具であるタバコくらいは取り上げないでほしい、そう切に願ったりするわけでしてね、ええ。

2011年4月20日水曜日

天才の扱い

藪似です。先日「生誕100年 岡本太郎展」に行ってきました。
はっきり申し上げまして、青山にある岡本太郎記念館や、川崎にある岡本太郎美術館の方がずっとよろしい。
岡本太郎の作品って、整然とカテゴリ分けしてしまうと良さが死んでしまう。よくこれだけ揃えたなとは思いましたが、整然としている分、岡本太郎の作品が持つパワーが削ぎとられている気がしたんですね。
それに・・・UKで大英博物館に行ったすぐ後だったからでしょうか、異様に堅苦しいというか、5mおきに警備員が立っていて、少しでも作品に顔を近づけると直ちに飛んでくる。
こういう作品の見せ方って岡本太郎がなにより嫌悪していたことなのにね。あれほどの人でも死んだら本人の意思と真逆の扱いをされるということか。正直悲しくなりました。

少し話は逸れますが、大英博物館もだし、ナショナルギャラリーもそうだったし、あっちは日本人の感性からしたら信じられないくらいアートに接することができる。
驚いたのが、地元の中学生か高校生が座り込んで作品を模写しているんです。酷いのになると寝そべって描いている子もいる。
そんなのを直近で見たからだろうね。余計窮屈に感じちゃって。

そんなわけで非常につまらなかった「生誕100年 岡本太郎展」なんですが、テレビで活躍する岡本太郎みたいなコーナーがあって、これは非常に懐かしかった。そうそう、アタシが子供の頃の岡本太郎ってこんな扱いだったんだよなぁ。

そういえば子供の頃、アタシはずっと「岡本太郎は大阪の人」と思い込んでたフシがありました。
キダ・タローと混同していた可能性もなきにしもあらずですが、まず太陽の塔。いうまでもなく大阪にあります。
(どうも万博にも連れていってもらったようで写真も残っているのですが、2歳にもなってないので記憶がまったくない)
そしてもうひとつの理由が近鉄バファローズのマークです。母親から「あのマークは岡本太郎がデザインしたんだ」とずっと聞かされていたのでね。
近鉄バファローズといえば、これまた完全に大阪ですからね。

しかし実際岡本太郎と大阪の縁は薄い。アーティスト・岡本太郎の最高傑作である太陽の塔と、プロダクトデザイナーとしての岡本太郎の最高傑作である近鉄バファローズのマークがたまたま大阪にゆかりがあっただけで、アトリエも立体造形物も、ほぼ関東に集中しています。

しかしそれでも岡本太郎=大阪というイメージが拭いきれないのは、やはりバラエティ番組での岡本太郎をずっと見ていたからでしょう。
大抵目ん玉をむき出した例のポーズで登場し、審査員席みたいなところに座らされて、何か発言するたびに小馬鹿にされたように笑われる。こういう存在は大阪ローカルのバラエティでは珍しくなく、だからこそ余計に大阪ぽく感じたんでしょうね。
もちろん今はわかっています。岡本太郎はずっと岡本太郎を演じていたことは。
岡本太郎は自分は生贄になる、と生前語っていました。「おかしなオジサン」としてブラウン管に登場することによって、アートをもっと身近に感じてほしい、そんな意思がビシビシ伝わってきます。
これがどれほど凄いことか。笑われる、小馬鹿にされることなど些細なことなんだ、それより人々がアートに興味を持たなくなって、感じる力が落ちることの方がもっと怖い、そう信じて行動できただけでも岡本太郎は天才だったと言い切れます。

さてNHKで放送されたドラマの話を。震災の影響で飛び飛びの放送になってしまいましたが、よくできていたと思います。松尾スズキの演技は賞賛に値するでしょう。
しかし、だからこそ、その NHKが噛んでいた「生誕100年 岡本太郎展」があの出来だったのが歯痒い。もう少し何とかならんかったのかねぇ。

2011年4月19日火曜日

新し物好き

藪似です。アタシより一世代から二世代上の作家さんは「うちに初めて◯◯がきた日」(◯◯には家電製品が入る)みたいなテーマのエッセイを書いておられます。
アタシも真似して書こうと思ったのですが、こいつがどうにも書けないのです。といってもここでも散々アピールしている記憶力の悪さに起因するわけじゃありません。
アタシは1968年生まれなので、幼少の頃にはどこの家にもカラーテレビがありました。だから「初めて◯◯がきた」となると、それ以降の家電になるのですが・・・。

幼少の頃、アタシは何かというと電車で10分ほどの場所にある母方の祖母の家に連れていってもらってました。
この祖母の家がとにかく凄くて、極度の新し物好き。ビデオデッキも(時代からして当然Uマチックです)、馬鹿でかい冷蔵庫も、ポップアップじゃないトースターも、電子レンジも、すでに持ってたのですよ、1970年代前半に。
へえ、たいした金持ちの家だったんだねと思われるかもしれませんがとんでもない。祖母の家屋はその時代でもちょっとあり得ないような、戦後すぐの匂いすらするようなボロ家でして、なのに家電にだけは金を使う、ある意味フシギな一家だったんですね祖母の家は。
そんな家にしょっちゅう行ってたので、その後それらの家電は我が家にっも入ってくるのですが、鮮明な「初めて◯◯がきた」みたいな印象は残りようもない。
パソコンも叔父がワンボードマイコンと呼ばれた時期から趣味でイジってて、TK80なんかを持ってましたし、その後のCDプレーヤーやレーザーディスクも然り。とにかく目新しいものは祖母の家か叔父の家にあるという状態だったんです。

そういえば毎年一番の楽しみが叔父にエレクトロニクスショーに連れていってもらうこと、なんて時期がありました。まだ電卓でも採用例が少なかった液晶のディスプレイにカラー動画が映っていた時の感動は今でも忘れません。
つまりはアタシもちゃっかり新し物好きの血を受け継いでいるわけです。
が、最近は心ときめく新製品があまりありませんね。それだけ技術が成熟してきたのか、それともアタシが年をとったのか。
いや、単純に金がないだけだな。買えないから心が動かねえなと思い込もうとしているだけで。

2011年4月18日月曜日

買ってみたので書いた

藪似です。ちょっと間隔が空いてしまいました。
アタシがブログを書きはじめて早8年になります。といってもかなり飛び飛びなんですが。
最初の頃は普通にパソコンで書いていたんですよ。それが何時の間にかPDAで書くようになってね。
ずっとキーボード付きのモバイル端末だったからよかったんですけど、本格的にiPhoneを使うようになってからはそれができなくなってしまって。
じゃパソコンで書きゃいいじゃねーかという話なんですが、もう家でじっと書いてられないんですよ。もうブログなんてもんは外で時間が空いた時にサクッと書くものになってしまった。
だからiPhoneでもチャレンジはしてみたのですよ。でもソフトウェアキーボードはやっぱダメだわ。Twitter程度の短文なら全然大丈夫なんだけど、ブログの長さになると、もうまるで書く気がしない。

そこで思い切ってBluetoothで接続するミニキーボードを買ってみました。通販で、とも考えたんですけど、やっぱキータッチがわからないのを買うのは怖かったので、秋葉原まで買いにきたという次第です。
というわけで一番クリック感のあるのを選んだんですが、配列に慣れない以外はまあ良好です。「両手で親指で打つ」というスタイルはずっとやってきたんですぐに慣れると思いますが。

ただし今までは本体とキーボードが引っ付いた形状だったのに、iPhoneでは必然的に離れています。つまりiPhoneをテーブルに置いた状態でキーを打たなきゃならない。まあこれはしょうがないか。電車の中じゃしんどいけどカフェならそんなに問題ないしね。

というわけでテストがてらに書いてみました。まあソフトウェアキーボードで打つよりは速かったかな。

2011年4月9日土曜日

チャーハン好き

藪似です。今回は食べ物の話でも。
好きな食べ物数あれど、一番好きなのはチャーハンじゃないかと思い始めています。
自分のチャーハン好きに気づいたのは実に些細なきっかけで、たしか「内村プロデュース」で誰か(さまぁ〜ずとかだったような)から内村が「ホントにチャーハン好きですよね」といわれてたのを聞いてからです。
そんなにチャーハンが好きなヤツがいるのかよ、と思いながら見ていたんですけど、よくよく考えればアタシもそうだったんじゃねーか、とね。

たとえばアタシは餃子の王将に行くのですが「アメトーーク」の影響かなんか知らないけど、最近はどこの王将も盛大に並んでいて閉口します。まあアタシは餃子や他の一品料理には目もくれず、ひたすらチャーハンを注文するだけなんで、あっという間に料理が出来上がるし、あっという間に食い終わるので、行列に貢献してないと思ってるんですけどね。

チャーハンでその店の味がすべてわかる、みたいなことをいってたのは周富徳だったか。しかし横浜の中華街や神戸の南京町にある、本格的っぽい店で何度かチャーハンを食べたことがありますが、これが見事にたいしたことない。他の料理はウマくてもチャーハンだけは普通、みたいなパターンが多くてね。
もしかしたら本当に旨い店もあるのかもしれないけど、これだったら王将のチャーハンの方が数段マシと感じたし、あんまり中華料理人の腕とチャーハンの味は比例しないんじゃないかと思います。

今まで食った中で一番ウマかったのは、大阪は天王寺の、闇市を彷彿とさせる商店街の中にある珉珉だったんですけど、これは数年前に味が変わってしまいました。
次点は、これまた珉珉なんだけど、九州は小倉にあるんで一度きりしか行ったことがない。さすがにちょくちょく行くには距離がありすぎます。
(珉珉絶賛ぽいですが珉珉は店によって味もメニューも王将以上に振り幅が大きいので「珉珉=チャーハンがウマい」と考えるのは危険です)

さて、そこまでチャーハンが好きなら自分でつくってみたくなるのが人情なんだけど、この話は長くなりそうなんで、また別の機会にでも。

2011年4月5日火曜日

ベタの困難さ

藪似です。先日「英国王のスピーチ」を観てきました。
まだ公開されてない頃、友人とこの映画の話になり「予告編を見て、いや予告編だけじゃなくタイトル的にもなんか三谷幸喜作品ぽくね?」といわれ、思わず笑ってしまいましたbyたけちゃん
ところが意外にも三谷幸喜ぽさはあまりなく、もちろんコメディ的要素もちゃんとあるのですが、笑いで物語を紡いでいく感じではなく、後から笑いの部分を足していったとでもいえばよいのでしょうか。
一言でいえばこれ以上はないくらいベタなシノプシスです。作劇の手本といってもいいくらい。徹底的に万人が楽しめる作りになっている。アカデミーを争った「ソーシャル・ネットワーク」と好対照ですね。
「ソーシャル・ネットワーク」は以前やや低い評価をしましたが、よくできていることには違いない。それでも困難さでいえば「英国王のスピーチ」>「ソーシャル・ネットワーク」だと思うのですよ。
理由はただひとつ。「英国王のスピーチ」はベタだからです。
ベタ=無難、ぽい捉え方をされる方が多いと思うのですが、二十一世紀にベタを堂々とやるのは結構勇気がいることのような気がするのですね。王道=ベタの総本山であるハリウッドで「ソーシャル・ネットワーク」がつくられ、そして高い評価をされているのが象徴しているんじゃないかとね。

たとえば吉本新喜劇をベタという人がいますが、これは以前書いた通り、実は全然ベタじゃないのです。ギャグとしてはベタなものも、もちろんあります。しかしひとつの劇としてみればベタでも何でもない。極めてトリッキーなつくりの劇です。
劇というかドラマ性ですよね。これはね、観客をストーリーに引っ張り込むセオリーみたいなのがやっぱりあって、漫画でも小説でも何でもそうなんですよ。王道パターンといわれるヤツですが、これをやっておくとまず間違いない。
「英国王のスピーチ」はそれをやってるけど、吉本新喜劇は全然やってないからね。

但しもう王道=ベタをやるのはいろいろ難しいはずなんですよね。何でかというと、作り手側に「今の観客(でも読者でも視聴者でも、とにかく受け取り手)は目が肥えている」というタチの悪い思い込みがあるから。
今時こんなベタをやったら笑われる、みたいなね。

でも意外とそうじゃないと思うのですよ。ベタは時代に関係ないからベタなわけで、今の時代とか全然関係ない。それにベタがあるからこそオフビートでマニアックな作品に存在価値がでるのにね。
はっきりいって今の受け取り手の目は超えてないですよ。貧弱とまではいわないけど昔に比べて進歩したとは思えない。

堂々とベタをやればいいんです。ベタにもパターンがあるし、中身がベタでも表面だけ化粧直ししてやればいいだけなんだからね。

2011年4月3日日曜日

スローライフといわれても。いってないけど

藪似です。いやあ、まあ何と申しますか、大変な世の中になっています。
関西とかどうなんですかね?関東ではちょっとね。うーんって感じですねぇ。いや何がって雰囲気がね。
アタシにとって東京というのはやっぱ特別な街でしてね。心が踊る街であり続けたわけですよ。それは実際に東京に居住してみても変わることはありませんでした。
ところがねえ、いや、慣れたとか飽きたとかそういうんじゃないんですよ。でも、何となく、つまらない街になってきたなあみたいな感じがあって。2ヶ月ほど前に六本木に行った時に強くそう思ったのですが。
そして今回の震災です。雰囲気が変わっちゃいましたよね。もちろん悪い意味で。しょうがないことなんだけどさ。何か、こう、ピリピリしてるからね。何回もいうけどしょうがないんだけど。

アタシの感情とは全然関係ないのですが、ロハスとかスローライフなんて言葉がでてきてね。それは別にいいんだけど、疲れるのはわかるんですよ。東京にたいして特別の思い入れのあるアタシでさえ疲れるんだから。

さて今回はマクラと関係ありそうでなさそうな話を。
去年公開された「マザーウォーター」ね、あまりの悪評にアタシは観に行くのを止めたのですが、そろそろ小林聡美のスローライフ物も限界なんじゃないですかね。
最初「かもめ食堂」を観て結構ビックリしたんですよ。あれ?意外とベタな、ベタといって悪ければ骨格がしっかりしたドラマだなって。
んで期待して観に行った「めがね」はアタシが「かもめ食堂」にたいして持っていたイメージ通りじゃんって。
「めがね」は話が何にもないんですよ。それはそれでいいんだけど、それじゃ逆にスローな時間を感じれないだろうと。ゆっくりした時間の流れを見せたいなら、絶対対比を描かなきゃならないと思うのですよ。

と、「めがね」を観てそういう感想を持ちましたといいたいところだけど、あいにくアタシはそこまで鋭くない。では何故そう感じたか。
去年ね、日テレプラスで「すいか」を放送していたんです。ずっと見たいと思ってて、レンタルで借りようと思ったら貸出中で、結局ずっと見れてなかったのですが、実際目の当たりにして、とにかく抜群に面白かった。
「すいか」は小林聡美の主演第一作であり、いわゆるスローライフ物の第一作でもあると思うのですが、ちゃんと都会の喧騒を描いている。と同時にアクロバティックな設定もちゃんとあってね。小泉今日子が逃亡犯とかともさかりえが双子だったとか、よくよく考えるとかなり無茶な設定ですよ。
だからこそアパートのシーンのゆったりまったりした時間が活きる。登場人物はいろんな意味で追い込まれた人たちなんだけどね。たぶんターゲットも、都会で暮らす追い込まれた人達だろうけど、それらの人が、たとえば「めがね」なんかを観てオアシスに感じることができるのかどうも疑問でね。

「かもめ食堂」はまだ起伏があったんです。だから「ゆっくり流れる時間」を感じることができた。でも「めがね」はそれがないからね。つまりどんどんおかしな方向にいってるというか。もっと具体的にいえば、ただ退屈なだけの話になってる。
ホントは、「かもめ食堂」と「めがね」は監督を含めてほぼ同じスタッフだけど、「すいか」も「マザーウォーター」もスタッフが全然違うからね。一緒くたにしたらいけないんだろうけど、でも小林聡美主演というとこんなんばっかりだから。
(そういや昔小林聡美主演の「神様はサイコロを振らない」について書いたことあったな。これはスローライフ物じゃ全然ないけど)

スタッフが違うことを承知で書いているのですが、それでももう一回原点に帰ってね。帰る必要はないのかもしれないけど、もし小林聡美でスローライフ物的なものを作るっていうなら、「すいか」までたどんなきゃダメだろうと思うわけですよアタシは。

2011年4月2日土曜日

きんぱっつぁん!

藪似です。さて今回は「3年B組金八先生ファイナル」について。
今まであまり触れてなかったのですが、パート1とパート2はね、アタシが小学校高学年の頃だから、影響を受けてないわけがないのです。見るのは当然だったし、実際かなりのめり込んで見てましたからね。
実はそれ以降のシリーズもスペシャルも、ほとんど見ていません。特に理由はないんだけど。が、関東でパート1の再放送をやってて、見れる時は何となくつけてたんだけど、いやあ、これは相当いい加減な話だなぁと。
何となくもっと真面目なドラマと思い込んでいたんですが、実際に見るとスレスレですね。もちろんコメディ要素があったのは覚えているのですが、設定もコントスレスレというか。
というか昔のTBSのドラマってこんなんばっかでしたよ。コントスレスレの設定を手堅い演出で一見ちゃんとしたドラマにみせる、みたいなね。大映ドラマなんか特にそうなんだけど、名作揃いと誉れ高い金曜22時枠のドラマも破天荒な設定の話が多いんですよ、今の目で見るとね。
金八先生もまさにそれに則っているというか、とにかく無茶ぶりするだけしておいて、どううまく収拾させるか、その辺がうまくいったから未だに語り継がれているんだと痛感したわけです。

全体の感想を書いてもしょうがないので、気になったことだけを書きます。といっても粗探しではありません。

いっこめ。パート2で加藤優役を演じて一世を風靡した直江喜一ですが、Wikipediaなんかを読むに役者を辞めていたようですね。ですが今回のファイナルでは最も重要な役を演じ存在感を示していました。
やっぱ加藤優には思い入れがありますからね。ジャニーズ系でないだけ余計にカッコよかった。特別演技力があるわけじゃないんだけど、存在感ですよね。とにかく素晴らしかった。直江喜一のおかげでドラマに筋が通った気がします。

にこめ。理科の教師役なんですが、ちゃんと存在感があって、ある意味型通りのパチッとした芝居をしている。こんな役者いたんだなと思って、よーく、ホントによーくよーく見てみると、四草でした。
四草(しぃそぅと読む)と言われてもわかんない人は訳わかんないでしょう。これは「ちりとてちん」の役名でして、演じたのは加藤虎ノ介。このドラマで加藤虎ノ介は複雑な内面を持つ四草という役を演じきったのですが、こういう型通りの役がここまでちゃんとできる役者だとは思わなかった。

さんこめ。実はこれが一番驚いたのですが、杉田かおるです。
杉田かおるといえば21世紀では、とんでもないことを言い出すバラエティタレントなんですが、もともとは天才子役といわれた人なんですよねぇ。今の若い人は知らない人も多いだろうし、知ってる人もつい忘れがちなのですけど。
そういえば松本人志がラジオで自身に影響を与えたドラマとして「パパと呼ばないで」、「池中玄太80キロ」、「3年B組金八先生」をあげた上で「全部杉田かおるが出てるんよなあ」といっていましたが、それぞれ各年令に応じた素晴らしい演技をしていたのです。
が、何故なのか、ドラマや映画に出ることがあまりなくなり、すっかり飛び道具的にバラエティ番組に出るだけになってしまって、最近はそれすらあまり出てこなくなりましたが、そんな彼女が金八先生に出てどうするのかとちょっと思っていました。
ところがところがです。彼女が金八先生で演じていたのは浅井雪乃という、中学生で妊娠して子供を産むという、とんでもない設定の、実に難しい役だったのですが、今回のファイナルでちゃんと「浅井雪乃の30年後の姿」として登場したのは驚きでした。顔すら「浅井雪乃の30年後」になっていたのはすごすぎるという他ない。
いわゆるバラエティタレントとしての杉田かおるなど微塵も感じさせない、完璧に浅井雪乃を演じたのです。
これはずっと役者一筋の鶴見辰吾が宮沢保を演じるのとは訳が違うのです。

うーん、本人にどういう考えがあるのかわかりませんが、やっぱり天才ですよ杉田かおるは。こんな女優をほっておくのは実にもったいない。何とかならんもんかなぁ。