2011年4月24日日曜日

快楽主義

藪似です。ちょっと前に「最近漫画を全然読まなくなった」みたいなことを書いたのですが、ふと「まんが道」を読み返してみて愕然としました。あまりにも面白かったからです。
しかし「まんが道」の面白さを文字で表現するのは非常に難しい。私小説の面白さを伝えるよりも難しいかもしれません。
「まんが道」は私小説ならぬ私漫画とでもいうもので、作者である藤子不二雄Aこと安孫子素雄と藤子・F・不二雄こと藤本弘の出会いからプロの漫画家として巣立っていくまでの過程を、実際にあったことを省略、そして時系列を入れ替えるなどしたフィクションです。
田舎の高校生2人が上京し、様々な人と出会い、成長していく青春譚なのですが、面白さを伝えるのが難しいのは、青春譚でありながら、挫折がいともあっさり描かれているためです。

藤子不二雄Aという人は本来劇的な盛り上げ方の上手い人です。「プロゴルファー猿」での竜との対決のラストパットのシーンなんかを見ればわかりますが、王道的な劇的シーンを描くのは非常に上手いのです。
ところが「まんが道」ではそういったテクニックをあまり使っていない。物語のクライマックスとでもいうべき原稿落とし事件も、何だか他人事のようにあっさりしている。むしろ後始末で上京してきた時のテラさんの説教シーンにやや使われています(カラスが飛びたつところ)。が、それでも初恋の人が自殺した場面の方が丹念に演出しているくらいで。
だから全体で見れば実にダイナミックなドラマなのに、細かくみていくと淡々としている。

行く手を塞ぐ壁が弱く、周囲に善意の人が溢れ、金銭面や性的な苦悩もほとんど描かれず、自己葛藤も案外あっさり解決したりする。
こう書くと青春譚としては失格なのかもしれません。が、読んでみると圧倒的に面白い。面白すぎてページをめくる手が止まらない。

ビルディングスロマンとしてみるとどうしても弱いのですが、おそらく藤子Aはそんなことは百も承知というか、あえて「正調」にしなかったのでしょう。もっといえばカタルシスではなく快楽に近いものを描いている。特にトキワ荘でのエピソードは悲劇的なもの(石森章太郎の姉の死など)は排除して、ある種のパラダイスにしてある。
藤子Aの分身である満賀道雄はコンプレックスの塊なのに楽天的で、しかもコンプレックスがあるからこそ得られる快楽がある、と説いているようにも思える。
そして満賀同様コンプレックスの強いアタシのような人間は、読み進める毎に満賀と同化していきパラダイスに誘(いざな)われる。
同化するのにダイナミックな演出は邪魔なのですよ。むしろ淡々とやられた方が同化しやすい。

まあいろいろ書きましたが、ぜひ読んでみてください。きっとフシギな面白さの虜になること請け合いですから。