2011年4月5日火曜日

ベタの困難さ

藪似です。先日「英国王のスピーチ」を観てきました。
まだ公開されてない頃、友人とこの映画の話になり「予告編を見て、いや予告編だけじゃなくタイトル的にもなんか三谷幸喜作品ぽくね?」といわれ、思わず笑ってしまいましたbyたけちゃん
ところが意外にも三谷幸喜ぽさはあまりなく、もちろんコメディ的要素もちゃんとあるのですが、笑いで物語を紡いでいく感じではなく、後から笑いの部分を足していったとでもいえばよいのでしょうか。
一言でいえばこれ以上はないくらいベタなシノプシスです。作劇の手本といってもいいくらい。徹底的に万人が楽しめる作りになっている。アカデミーを争った「ソーシャル・ネットワーク」と好対照ですね。
「ソーシャル・ネットワーク」は以前やや低い評価をしましたが、よくできていることには違いない。それでも困難さでいえば「英国王のスピーチ」>「ソーシャル・ネットワーク」だと思うのですよ。
理由はただひとつ。「英国王のスピーチ」はベタだからです。
ベタ=無難、ぽい捉え方をされる方が多いと思うのですが、二十一世紀にベタを堂々とやるのは結構勇気がいることのような気がするのですね。王道=ベタの総本山であるハリウッドで「ソーシャル・ネットワーク」がつくられ、そして高い評価をされているのが象徴しているんじゃないかとね。

たとえば吉本新喜劇をベタという人がいますが、これは以前書いた通り、実は全然ベタじゃないのです。ギャグとしてはベタなものも、もちろんあります。しかしひとつの劇としてみればベタでも何でもない。極めてトリッキーなつくりの劇です。
劇というかドラマ性ですよね。これはね、観客をストーリーに引っ張り込むセオリーみたいなのがやっぱりあって、漫画でも小説でも何でもそうなんですよ。王道パターンといわれるヤツですが、これをやっておくとまず間違いない。
「英国王のスピーチ」はそれをやってるけど、吉本新喜劇は全然やってないからね。

但しもう王道=ベタをやるのはいろいろ難しいはずなんですよね。何でかというと、作り手側に「今の観客(でも読者でも視聴者でも、とにかく受け取り手)は目が肥えている」というタチの悪い思い込みがあるから。
今時こんなベタをやったら笑われる、みたいなね。

でも意外とそうじゃないと思うのですよ。ベタは時代に関係ないからベタなわけで、今の時代とか全然関係ない。それにベタがあるからこそオフビートでマニアックな作品に存在価値がでるのにね。
はっきりいって今の受け取り手の目は超えてないですよ。貧弱とまではいわないけど昔に比べて進歩したとは思えない。

堂々とベタをやればいいんです。ベタにもパターンがあるし、中身がベタでも表面だけ化粧直ししてやればいいだけなんだからね。