2012年3月30日金曜日

自炊に苦戦する

自炊、ってやつを始めました。
もちろん飯炊いてオカズ作って云々の自炊ではなく、ザクッと切ってビャッと取り込む、そっちの方の自炊です。

アタシは到底読書家とはいえませんし、部屋が狭いので極力本は買わないようにしているのですが、それでも長いこと生きてきたら本ってもんは溜まるのですね。金は溜まらないけど。
自分ではマメにいらない本を捨てていってるつもりだったんですけど「これはいる。これだけは絶対処分できない」本で溢れかえる結果になってるわけで。まあそんな人も多いのではないでしょうか。
となると「自炊」という選択肢が浮上します。手持ちの本を電子化するってことなんですが、これまでは消極的でした。
何度か電子書籍なるものを読んでみたのですが、はっきりいって読みづらい。電子書籍を読むのに向いた端末を持ってないというのもあるんですが、これで本一冊まるごと読むのは辛いなあとね。
電子書籍はそれでも文字サイズも変えられるし、自炊した本よりはマシなはず、つまり自炊した本とかとてもじゃないけど読めたもんじゃないだろうと。
しかしいろいろ事態は切迫し、ついにドキュメントスキャナなるものを買ったのです。機種はScanSnapシリーズのs1300。定番ともいえるs1500にしなかったのは値段が倍ほど違うし、サイズもだいぶ大きいから。自炊本を上手く取り込めるのか、そしてちゃんと読むことができるのかわからない状態で5万円は勇気が要ります。その点s1300は2万円前後でサイズもコンパクトなので使わない時も邪魔にならないしこれでいいかと、ね。

スキャンの過程の話はまたの機会にして、読めるかどうかでいえば意外と読めました。相変わらず読むのに適した端末を持ってないのですが、iPhoneでも読めないこともない。GoodReaderはPDFの余白をカットできるのでギリギリですが可読できます。
ただiPhone程度の画面サイズでは限界がありますし、意外と大丈夫ということがわかったので、なんか適当な端末を買おうかと思案中です。

本は溜まるけど金は溜まらず、スキャナ買って本は減るけど金も減るのね。

2012年3月23日金曜日

昭和30年代を舞台にしたあの作品とあの作品

だいたいアタシは3D映画なんてもんに懐疑的です。
大昔にやたら棒を振り回す体のインチキ極まる3D映画を観に行ったことがありますが、コケオドシという表現がピッタリで、しかもスクリーンが観づらい。ここ数年アバターあたりからですか、やたら3D映画が流行りましたが、絶対に観に行くもんかと思っておりました。
それが今回「ALWAYS三丁目の夕日'64」を3Dで観たのは、やはり大昔に観た時とは技術も違うだろ、一度観てから批判なりなんなりしなきゃな、と思ったからなんです。それに内容的にもやたら「飛び出す」表現もないだろうから目も楽だろうなと。

とにかく泣けました。それも始まって10分もしないうちに。泣けて泣けて。
当然ストーリーで泣けたわけではなく目が痛くて涙が止まらなくなったんですね。いやあ、これは結構拷問でした。途中からさすがに慣れてきたものの、観終わった後の目の疲れは半端ではなく、やはりこれは無理だわ。
もちろんアタシの視力が右と左で極端に違うというハンデもあるのですが、それにしてもこんなおっとりした内容の映画でこんだけ目が疲れるんだから、それこそアバターみたいなのは絶対に無理だわ。

さてそんなことはどうでもいいのです。
思えば「三丁目の夕日」シリーズはすべて劇場で観ました。こんなことは珍しい。そしてそれはこの映画にハマったからではなくとある事情で第一作を観なきゃいけなくなって、後は惰性というか、つまらない意地というか。
はっきりいってこのシリーズには褒める部分もあるけど基本的には批判的なのです。

これは根本的な不満なのかもしれないけど、音楽をね、まったく効果的に使ってないのですよ。サントラも主題歌も悪いってわけじゃないんです。ただ、音楽と記憶ってガッチリ結びついてるじゃないですか。なのに「いかにも昭和33年を彷彿させる」という音楽がほとんどない。悲しいほどない。いや、何曲かは挿入歌として入ってるんだけど、使い方が悪いんで、ほとんど印象に残らない。せっかくね、テレビがやってくるってエピソードが入ってるんですよ。だったら当時のいい方でいえばコマソンね。三木鶏朗の曲とかをもっと効果的に使えばいいのに。そうしてこそはじめて、「当時じゃ作れない、昭和30年代を舞台にした映画」になったんじゃないかと思うのです。(2006年1月13日更新「『ALWAYS 三丁目の夕日』のこと」より)


これは第一作を観た後に書いたものですが、今回の「'64」でも一緒で細かいCGはともかく何も改善されていないといっていい。
まあでもわかるのですよ。これだけ固定ファンがつくシリーズも近年珍しく、となると固定ファンが安心できる内容にしなきゅならない。当然どんどん保守的になっていくってのはね。

原作は第一作でちょろっと使われただけで、それ以降はオリジナルといっていい。ただ第一作の時点で巧かったのは、お馴染みの癒しの昭和30年代の象徴として鈴木家を、激動の昭和30年代の象徴として茶川家を対比で描いたことで、原作でわき役に過ぎない茶川を年齢設定を替えて主役に持ってきたのは間違いなく映画スタッフの功績です。
さっきも書いたように、固定ファンの期待を裏切らないためか、これは「'64」でも踏襲されています。だけどこれは逆転させてもよかったと思うんですよね。せっかく第二作で茶川が結婚したんだから、今度は鈴木家を激動に放り込んでもよかった。

さて「三丁目の夕日」シリーズで鈴木オートの主を務めた堤真一ですが、今年のはじめにNHKで放送された「とんび」でも主役を演じていました。これは昭和30年代がドラマの導入部なのですが、まあ妙に合うというか。
だいたい堤真一がトレンディドラマの残り香のようなドラマに出ていた頃(やまとなでしことか)一応二枚目として出ていましたが、いったいどこが二枚目なんだよと。ただのゴリラじゃねーかと。でも昭和30年代って設定だとゴリラぶりが栄えるんですよ。それにこの人、素はバリバリの関西人なので、真面目な演技でも妙に可笑しいんですよ。それが「三丁目の夕日」シリーズでも「とんび」でも上手く出ています。

さて「とんび」ですが、内容は「'64」よりずっとよかった。内容はベタなんだけど、細かい描写の巧さもあってジンワリいい作品に仕上がっていました。
堤真一演じるのは鈴木オートに近しい昭和の頑固親父なんだけど、実に人間味があってね。鈴木オートはキャラとしての頑固親父だけど、「とんび」のは血の通った人間なんですね。人間として弱い部分がいっぱいあって、それでも必死で頑張ってる一小市民になってた。

「三丁目の夕日」シリーズに話を戻しますが、このシリーズの最大の弱点は「人間味のなさ」なんです。所詮全員キャラでしかない。必死でこの時代を生き抜いた人たちの群像なんだって感じがないんです。
原作が漫画だという言い訳は通用しない。せっかく登場人物の過去を語るエピソードもあるのに、それが人間的な深みになっていない。ただのエピソードで終わっている。

もったいないですよ。お金もいっぱいかけてただ昭和30年代をCGで再現しただけってのは。もっともっといい作品にできただけにね。

2012年3月14日水曜日

対話は本当に必要なのか

「死ねよ。糞が。」という言葉には僕も傷つきますが、しかし一方で、対話の前提条件が既に消失した現代において、無理やりファンとアンチが対話しようとすれば、結局アンチ「ステマ乙」→ファン「死ね」、というようなやり取りにならざるをえなくなるのです。(なぜステマ疑惑でここまで炎上が起きるのか「斜め上から目線」


これはGIGAZINEからリンクが張られていたので読んだブログなのですが、まあ全体の内容はどうでもいい。どうでもいいはいいすぎですが、ステマというものにたいして興味がないアタシからすれば、まあどうでもいいのです。
が、上記の一文、特に「対話の前提条件が既に消失した現代において」という部分は、正直あ、と思ったんです。
ブログでもmixiでもTwitterでも、そして某巨大掲示板でもそうですが、何でそんなこと書くんだろうと思うことは多々あるわけで、それは「コミュ障」という言葉で片づけられてしまうのですが、まあもし「障害」なのであれば本人は多かれ少なかれ本人は悩むもんだと思うのですが、悩んでいる感じが、ごくごく短い文章からも感じられない。むしろ「何でオレが悩むんだよ。悩むのはお前等の方だろ」という開き直りすら感じます。

ネットだけじゃない。現実世界でもハナから対話する気がない、という若い人が結構いるのです。いや、もっとそもそもの話になりますが、対話というのは本当に必要なものなのか、というところに行き着きます。
何いってんだ、いるだろと思われる方の方が正常だとは思うのですよ。でも徹底的に理詰めでいくと、対話で何かを生み出すというのは甚だ非効率です。もっとも成果があがる方法を対話ではなく統計なり科学的根拠なりでベストを導いた方がいいのかもしれない。絶対的正解というものです。
ところが人間は機械じゃないわけで、特に古い人間になればなるほど、いや違うな。学歴が高ければ高いほど、いやいやこれも違うわ。人間であればあるほど、うん、これが一番近いか。とにかく割り切れない部分が出てくるはずなんです。
そしてもっといえば、もう人間は何もしない方がいいという結論になってしまう。人間的な部分は計算では出てこない閃きがある代わりに、論理的な根拠を導くのに邪魔な「感情」というものがありますからね。
「感情」を解決するには「対話」しかないのです。いや、もしかしたら他に方法があるのかもしれないけど、とりあえずは対話は必要なものです。必要なんだけど対話はめんどくさいものでもある。これは間違いない。

アタシ自身、到底コミュニケーションが得意な人間とはいえない。得意ではないけど対話でしか解決しないことがあるのは知っている。知っているからこそ問題が起こった時に、苦手を自認していながら対話を試みるのです。
ここで開き直って「だって対話なんて必要ないでしょ。対話から何が生まれる?」となってしまったら、もう自分は人間ではない、と宣言してしまってるような気がするのです。
もちろんそれはそれでいい。その代わり自分が人間的な扱いをされなくても一切文句をいってはいけないと思うのですよ。だって放棄したのは自分なんだもん。自分の都合で、相手を人間扱いしない、でも自分のことは人間扱いしてくれ、というのはあまりにも勝手すぎます。

もう一回いいますが、対話を拒絶する人にいいたい。本当にいいの?そっちがそのつもりなら、こっちもそっちを人間扱いしないよ、と。