2012年3月14日水曜日

対話は本当に必要なのか

「死ねよ。糞が。」という言葉には僕も傷つきますが、しかし一方で、対話の前提条件が既に消失した現代において、無理やりファンとアンチが対話しようとすれば、結局アンチ「ステマ乙」→ファン「死ね」、というようなやり取りにならざるをえなくなるのです。(なぜステマ疑惑でここまで炎上が起きるのか「斜め上から目線」


これはGIGAZINEからリンクが張られていたので読んだブログなのですが、まあ全体の内容はどうでもいい。どうでもいいはいいすぎですが、ステマというものにたいして興味がないアタシからすれば、まあどうでもいいのです。
が、上記の一文、特に「対話の前提条件が既に消失した現代において」という部分は、正直あ、と思ったんです。
ブログでもmixiでもTwitterでも、そして某巨大掲示板でもそうですが、何でそんなこと書くんだろうと思うことは多々あるわけで、それは「コミュ障」という言葉で片づけられてしまうのですが、まあもし「障害」なのであれば本人は多かれ少なかれ本人は悩むもんだと思うのですが、悩んでいる感じが、ごくごく短い文章からも感じられない。むしろ「何でオレが悩むんだよ。悩むのはお前等の方だろ」という開き直りすら感じます。

ネットだけじゃない。現実世界でもハナから対話する気がない、という若い人が結構いるのです。いや、もっとそもそもの話になりますが、対話というのは本当に必要なものなのか、というところに行き着きます。
何いってんだ、いるだろと思われる方の方が正常だとは思うのですよ。でも徹底的に理詰めでいくと、対話で何かを生み出すというのは甚だ非効率です。もっとも成果があがる方法を対話ではなく統計なり科学的根拠なりでベストを導いた方がいいのかもしれない。絶対的正解というものです。
ところが人間は機械じゃないわけで、特に古い人間になればなるほど、いや違うな。学歴が高ければ高いほど、いやいやこれも違うわ。人間であればあるほど、うん、これが一番近いか。とにかく割り切れない部分が出てくるはずなんです。
そしてもっといえば、もう人間は何もしない方がいいという結論になってしまう。人間的な部分は計算では出てこない閃きがある代わりに、論理的な根拠を導くのに邪魔な「感情」というものがありますからね。
「感情」を解決するには「対話」しかないのです。いや、もしかしたら他に方法があるのかもしれないけど、とりあえずは対話は必要なものです。必要なんだけど対話はめんどくさいものでもある。これは間違いない。

アタシ自身、到底コミュニケーションが得意な人間とはいえない。得意ではないけど対話でしか解決しないことがあるのは知っている。知っているからこそ問題が起こった時に、苦手を自認していながら対話を試みるのです。
ここで開き直って「だって対話なんて必要ないでしょ。対話から何が生まれる?」となってしまったら、もう自分は人間ではない、と宣言してしまってるような気がするのです。
もちろんそれはそれでいい。その代わり自分が人間的な扱いをされなくても一切文句をいってはいけないと思うのですよ。だって放棄したのは自分なんだもん。自分の都合で、相手を人間扱いしない、でも自分のことは人間扱いしてくれ、というのはあまりにも勝手すぎます。

もう一回いいますが、対話を拒絶する人にいいたい。本当にいいの?そっちがそのつもりなら、こっちもそっちを人間扱いしないよ、と。