2011年12月31日土曜日

やはり書かないわけにはいかない、あの出来事

今年の締めとして何を書こうかと思ったのですが、やはり東北地方を中心に甚大な被害のあった、あの地震に触れないわけにはいきません。
こないだテレビについて書いたエントリで軽く触れたのですが、今まで意識的にこの話題を避けてきました。はっきりいってこんないい加減なブログで軽々しく扱える問題じゃないという意識があったからです。

アタシは関東在住なので、節電や直後の物流の問題以外何の関係もなかったともいえます。しかし実際のところ関係あるのかないのかと聞かれれば、ある、わけでして。
福島には叔父夫婦が住んでいます。元々神戸の人で転居したのは15年ほど前です。かなり高齢になってからだったので、東北地方の寒さはかなり堪えたと思われます。
東北地方と書きましたが、福島といっても叔父夫婦の住んでいるのは北関東との境であり、まあ東北の入り口といって差し支えありません。それでもここ数年の間、何度か叔父宅を訪ねましたが、あまり経験のしたことのない寒さにはかなり驚きました。
叔父は「どうせ来るんだったら冬の方がいい。冬なら雪がある。でも夏は何にもない」と自嘲していましたが、神戸の、何不自由ない場所で育った叔父にとって、とんでもない田舎にきてしまった感があったのでしょう。

地震が起きたのは3月11日です。そして7月に入り元々身体の調子のすぐれなかった叔父が緊急入院し、8月に旅立ちました。
アタシはこの叔父を心底尊敬していたので本当にショックで、いや、こういう個人的すぎることは一切ブログには書くまいと思っていたのですが、それでも書いた方がいい、書かなきゃならない、と思ったのにはワケがあります。

叔父に関しては以前ブログでも書いたことがあります。何というか非常にノンシャランな人で、しかし趣味がいい。叔父が育った家は完全に貧乏の範疇に入るのに、初見の人なら関西弁でいうところの「エエシノボンボン」(良家のお坊ちゃん)に見えたはずです。
アタシはそんな叔父と映画の話をするのが大好きでした。あ、そういう見方があるのか、という驚きの連続で、けして書物の批評の受け売りではなく、自分なりの基準をしっかり持っていたんですね。
ですが子供の頃から叔父と映画の話をしていたわけではなく、本当に近年からなんです。でも叔父の映画の見方はアタシにとって非常にピンとくるものでした。それはもう、この人の感性を受け継いだんだ、としか思えなかった。

ここ一、二年、叔父の体調が良くなく長時間の会話が困難になっていました。ところが今年に入って若干持ち直しかけた矢先、あの地震が起きたのです。
文句をいいながら、慣れない寒さも、福島の人たちも、叔父は愛していました。神戸に勝る場所はない、と常々公言していた叔父も、福島の人たちの本質的な人の良さ、を見抜いていたのです。

叔父は亡くなりました。そして叔父が愛した福島も壊滅的な状況になってしまいました。でも何度もいいますが、福島といっても端の端で原発の影響も地震の被害もほとんどない地域なんです。
しかし世間はそうは思ってくれません。「福島」とひとくくりにされ、甚大な風評被害が出ました。福島というだけで敬遠される、そんな時代になってしまったのです。
風評被害による影響の話はいろいろ聞きました。正直凄惨としかいいようがない話もありました。叔父夫婦が経営する商店も「風評被害から逃れるため」人口が減ったので大幅な売り上げ減になったといいます。

今だからいいますが、アタシは東北地方が大嫌いでした。元来田舎嫌いなのですが、それに加えて今まで出会った東北人の人柄があまりいいとは思えなかったことも影響しています。
が、今年様々なことを経験しました。何度も何度も福島に足を運びました。その結果、福島の(といっても叔父夫婦の住む、とある街だけですが)印象が大幅に変わったのです。
とっつきはすこぶる悪い。だけれどもアタシが想像していたような底意地の悪さのようなものは微塵も感じませんでした。不器用だけど人を思いやる心を持った人たちばかりでした。

もう一度繰り返します。
叔父は亡くなりました。叔父が愛した福島も壊滅的な状況になってしまいました。
さらにいえば叔父が本当に心の底から大好きだった神戸の街も、あの阪神大震災で「別の街」になってしまいました。

アタシにとっても同じです。
今回のエントリはかなり感情を押し殺して書いています。
悔しいです。腹が立ちます。悲しいです。そんなマイナス方向の言葉しか出てきません。
人はいずれ亡くなります。街も時とともに生まれ変わります。震災、なんていうものが起きたため一瞬の出来事になってしまいましたが。
それでも新たな命が生まれ、壊滅状態だった街も新しく生まれ変わるのです。
これから、またスタートです。
来年はアタシも、アタシに関係している人も、してない人も、すべての人がいいスタートを切れるように願って2011年のブログを締めたいと思います。

2011年12月30日金曜日

阪急ブレーブスへの熱き思い

ずっとペンディングになったままになってるエントリアイデアがあって、1976年のプロ野球に関してなんですけど。
これはもう、それなりの調査が不可欠でして、少しずつ資料を集めているんですけどね。
何故1976年なのか、といえばアタシがプロ野球という興行に興味を持ったのがこの年でして、強い思い入れがあるんですね。

最初は何もわからず巨人と阪神を応援するとかいってて。周りにそんな奴いないとかいわれたんですね。当たり前なんですが。そんで巨人はやめてとりあえず阪神にしてみたのですが、その頃最強だったのは巨人でも、もちろん阪神でもなく阪急ブレーブスだったんです。
当時の阪急にはきら星のごときスターが揃っていました。
世界の盗塁王福本豊、イケメンサブマリン山田久志、豪快なスイングと巧打を兼ね備えた加藤秀司、打撃フォームがカッコいい長池徳二、快速球投手山口高志・・・。これにマルカーノ・ウイリアムスの両外国人、代打の本塁打記録を持つ高井、いぶし銀大熊、老練足立、超個性派の森本など脇役も揃っており、本当にいいチームでした。
しかしいかんせん人気はまったくなかった。これだけのメンツを揃えておきながら人気がないというのも異常で、当時は関西といえど阪神人気も寡占状態ではなかったんです。なのに人気がなかった。
そんな人気のなかった阪急にアタシが強い思い入れを寄せたのは、もちろん強かったこともあります。しかしそれだけじゃない。当時ね、土曜日と日曜日の夕方に阪急主催のゲームをテレビで毎週やってたんですよ。これを見るうちにどんどん引き込まれていった。
だって、何度もしつこいけど、これだけのスター軍団なんですよ。そりゃ引き込まれますって。何しろ子供だからね。もう単純に憧れるわけです。

生まれて初めてプロ野球の試合の生観戦をしたのも阪急戦でした。
場所は西宮球場。いや、もうこれは最高の球場だったと言い切れます。実際に当時の映像を見るとね、外野の芝生とかハゲまくってたりするんですけど、もうそんなことは関係ないわけです。
どうしても比較対象になるのが同じ西宮市にある甲子園球場なんですけど、甲子園はもちろん日本一の球場です。スタジアムに入った瞬間のあのトキメキは何物にも代え難い。しかし西宮球場だって負けていませんでした。
特に最寄り駅の西宮北口から西宮球場までの道のりが大好きでした。あの高揚感。一生忘れませんよ。
西宮球場は甲子園と違ってどこか近代的でね、スコアボードもオレンジで何となくおしゃれだったし、甲子園にはない二階席もあったしね。アタシはとうとう後楽園球場には行けずじまいでしたが、まさに関西の後楽園といった感じでした。(いや違うな、関西の後楽園は大阪球場か)

アタシが阪急に心を砕いていたのは1978年までです。結果的にあの日本シリーズの抗議から熱が冷めちゃいました。いや抗議云々じゃなくてアタシが見始めてから阪急は、たった2年とはいえずっと日本一だったんですよ。それがこの年日本シリーズで負けてしまった。
ちょうどその年の暮れ、阪神に大変革があり、そう、あの江川問題です。そして江川初登板の試合で阪神打線が江川を打ち崩したことが完全に阪神一本に絞るきっかけになったのです。

これね、今でも思うことがあるんですよ。もし、もしもね、阪急がヤクルトに勝って日本一になって、江川問題に阪神が一切絡んでなかったらどうなってただろうなって。

それ以降、もちろんパ・リーグでは阪急を応援していたんですが、もうあの頃のような情熱はなくなっていました。
アンダーシャツが赤になり、近鉄を真似たような帽子になって、阪急というチームの持っていたカッコよさみたいなのが消えた気がしたんです。
1980年代前半、山田や福本は現役だったとはいえ衰えを隠せませんでしたし、足立や長池は引退、加藤秀は広島にトレードされ、山口はまさに燃えつきました。アタシが思い入れを持った選手がどんどん減っていって、ユニフォームはダサくなるし、チームもなかなか優勝できなくなっていきました。
それでもやっぱり、阪急は他のパの球団とは別格でした。阪急電車に乗って阪急戦のポスターを見るにつけ熱いものがこみ上げてこなかったといえば嘘になります。
しかしそれもオリックスへの身売りで、さらには本拠地を西宮球場から神戸グリーンスタジアムへ移転したことによって、完全に、残りカスもでないくらいアタシも燃え尽きてしまったんです。

阪急ブレーブスは完全に記憶の中だけのものになりました。当時の写真や映像を見ると、もちろんいろいろ蘇るのですが、それより「もうなくなってしまったんだ」という虚無感の方が先にきてしまいます。
それでもですね、やはりこれだけは違う。この歌を聴くと、やっぱり思い出してしまう。今でもソラで歌えるこの歌だけはね。

2011年12月29日木曜日

肩書

今まで一番笑った肩書といえば、元横綱・双羽黒こと北尾光司の「スポーツマン」でしょう。
優勝経験のないまま横綱になり、親方と喧嘩して廃業した挙句、後にはプロレス転向した北尾ですが、よくわからない活動をしていた期間も長く、「スポーツ冒険家」みたいな肩書だったことが多かったのですが、いや、スポーツ冒険家でも十分わけがわからないのに、「スポーツマン」てな場合もあって。
なんだよスポーツマンって。お前は金太郎か。つかスポーツマンとか肩書かよ。

昔カメラマンをやってる友人の名刺を作ったことがあったのですが、肩書をどうするか、相当ディスカッションしたおぼえがあります。
たしかにカメラマン自体、十分肩書なのですが、名刺に入れるとことの他かっこ悪い。実際「CAMERA-MAN」と入れてる人がいて、あまりにもかっこ悪いので避けようとなったわけです。かといって「写真家」や「フォトグラファー」では大仰すぎるし。
結局何になったんだっけな。忘れた。

まあ友人の話はこれくらいにして、アタシ自身の場合も難しい。カメラマンよりもっと難しい。
名刺を作った、てなくらいだから、アタシの有り体の一般的な職業名はグラフィックデザイナーということになるのですが、これは恥ずかしい。
いやいや、そんな立派なもんじゃござんせんよ、と謝りたくなる。しかしどうしても肩書が必要な時があるわけで、申し訳ない気持ちいっぱいで「グラフィックデザイナー」と書くわけでして。
別にへり下ることもないのですが、それにしてもグラフィックデザイナーって、何かフォトグラファーと同じニオイがしません?

ただ名刺だけは他にないかと考えたのですが、カメラマンと違い、言い換え、みたいなのがあんまりないんですな、これが。
たとえば「図案家」とか狙いすぎでイタい。イタすぎる。とはいえ「DTPデザイナー」じゃかっこ悪すぎるし、「DTPオペレーター」では職種が違う。つか「DTP」とかダサすぎでしょ。

なんかこう、ダサくもなく臭みもない、それでいて一発で何をやってるかわかる、いい肩書ってないもんですかね。場合によってはギャラ発生してもいいから誰か考えてよ、ねえ。

2011年12月28日水曜日

それじゃまた

今回はちょっと怖い。何しろSMAPネタですから。まあ一刀両断するような内容ではないのですが。

SMAPの楽曲で一番好きなのは「セロリ」なのですが、もう一曲、とても好きな曲があって。それが「それじゃまた」なんですよ。
シングルカットされた曲じゃないので知名度はそんなにないのかもしれませんが、クサい言葉でいえば、つかユニバースのCMみたいですが、こんなに「明日への活力」を得られる曲もない。ある意味一連の植木等ソングより活力が出てきます。

日々の生活の中で、それこそ映画の中の植木等のように「超絶ポジティブ」状態を保つなんてことはとてもじゃないけど不可能なわけで、しかしそれでもやらなきゃいけないわけです。
まあいや「しょうがない」とか「せっかくだから」みたいな感情で精一杯のことをやろうとする。むろんいくら精一杯やったところで批判されたり叱咤されたりもするわけで、そういう時にこそ、この「それじゃまた」という曲がピッタリハマるのです。

特に「お互い身体だけが資本ですから」というフレーズはグッとくる。アタシのようなフリーでやってる人間は勿論、サラリーマンとて身体が資本なのには変わりないわけです。
つまらない風邪ひきとかもですが、こないだ歯痛になった時も集中力が著しく低下して本当に参ったりしました。いや、もうね、体調が悪くなると、いろんなことがどうしようもなくなる。精一杯のレベルが下がるので、どうしても「稚拙な仕事ぶり」になりやすい。となるとアタシの評判も下がる、というまったく碌でもないスパイラルにハマるってなわけです。
もうアタシももうすぐ40代の半ばですからね。ただでさえ集中力が落ちているのに体調悪化でさらに集中力が落ちるのは避けたいわけで。

何だかグチになってしまいましたが、「それじゃまた」の話ですね。結構昔に録音されたんですね、これ。アレンジはカッコいいのですが、どうせなら今のSMAPの声で再レコーディングしてほしいなと。コンサートではやってるのかもしれませんが、それじゃ繰り返し聴けないからね。

いろいろアクシデントを乗り越えた今のSMAPが歌うことによって、より深みが出ると思うのですが、どうでしょうか。

2011年12月27日火曜日

ニオイと欲情

最近までわからなかったネットスラングの中に「スク水」というのがあります。スクール水着のことなんですが、ただ単に略しただけなのでもしかしたらネットスラングではないのかもしれません。
ネットで「スク水」と使われる時は、大抵「性欲の対象」として使われるわけで、まあコスプレの一種なんでしょう。
しかしこれがどうにもアタシは信じられないんですよ。

スクール水着を見て欲情するかどうかという問題ではなく、アレを見るとまず浮かぶのがニオイです。あの独特のカルキ臭いプールのニオイ。そのニオイが染み込んだスクール水着のニオイなどクサいだけなんですよ、アタシにとって。
以前たばこの臭いについて書きましたが、まあアタシが喫煙者だというのを差し引いて考えると(いやホントはそこ差し引いちゃいけないんだけど)、スクール水着の臭いのがよほどガマンできない。もう欲情するどころじゃないわけでね。
そういえば昔、看護婦の子と付き合ってたことがありました。アタシは元来コスプレのたぐいには一切興味がないのですが、ナースルックといえばコスプレの中でも特に人気があるわけで、だったらモノの試し、と一度だけその彼女にお願いしたことがあります。
しかし彼女の一言はアタシを醒めさせるには十分でした。

「別にいいけど実はメチャクチャ汚いし、第一クサイよ」

そうなんだ・・・。いや、クサイのはガマンできるんですよ、いくらでも。でもガマンしてる時点で欲情とは大きく離れてしまう。試そうという気すら失せてしまったんです。

じゃあ好きなニオイは何なんだ、となれば、クサイニオイが欲情を減退させるのであれば、もしかしたら好きなニオイは欲情を増幅させるニオイなのかもしれない。それが何なのかはわかりませんが。
何か性癖を開陳してるみたいな内容になってしまった。こんなこと書く予定じゃなかったのに。これで本当にいいのかアタシ。

2011年12月26日月曜日

鶴瓶の息子

「鶴瓶の息子」なんていうと、27時間テレビで晒したイチモツの方が有名だと思いますが、そういう話じゃありません。

今やってる朝ドラね、面白いことは面白いんだけど、どうも主人公の性格が一定していないというか。複数の演出家が演出してるからある程度はしょうがないんだけど。
このドラマで鶴瓶の息子が、わりと重要な役で出ていました。はっきりいって演技は拙いといってもいいのですが非常にいい味を出していました。これならいろんなドラマに出れるのではないでしょうか。
それにしてもこの配役は実に巧い。何というか、駿河太郎という人が鶴瓶の息子である、というのが非常に重要なのです。といっても、当たり前ですが、ドラマの中でそういうことは出てきません。

鶴瓶に関しては何度も書きましたが、複雑な多様性があります。この辺が見る人を選ぶのですが、多様性こそ鶴瓶の魅力であり、そこが失われると鶴瓶が鶴瓶である意味がなくなります。

駿河太郎はこの多様性を十分すぎるほど受け継いでいます。
このドラマでの役どころは、表面的には非常に穏和で善人、しかし裏の顔もちゃんと持っている、ある意味難しい役なのです。先ほども書きました通り、演技はとても巧いとはいえない。にも関わらずドラマにバッチリハマり込んでいるのは、もともと持っている素質というか素養というか、以前書いた通り、鶴瓶が持つ「表面的にはいい人だけど、実は腹黒い、しかしやっぱり本当にいい人かもしれない」という要素を駿河太郎も持っているのです。

いわゆる二世タレントは非常に難しく、藤山寛美・直美親子のように親子揃って天才なのは例外中の例外で、他には横山エンタツ・花紀京のように親父天才、息子職人みたいなパターンもありますが、大抵は親子どちらかが劣ってみえるものです。
今現在の評価でいえば駿河太郎は七光りから抜け出していない。しかし親父である鶴瓶のDNAを活かして伸びていけば、類をみない二世タレントになれる可能性があります。
だいたいあの笑顔。あんな笑顔は普通の人にはできないのです。演技云々の話じゃない。鶴瓶の遺伝子が入ってないと絶対できない笑顔なのです。それは才能といいかえてもいい。せっかくの才能があるわけだから、これからいい役者になってほしいな、と思うのです。

2011年12月25日日曜日

よし、今日から君の名前は手ぶらーシカだ

アタシはまあフリーという名の遊び人みたいなもんなので、いつも手ぶらに近い格好で外出します。
ま、それでも仕事の時は仕事用のカバンを担いでいくわけですが、完全にプライベートの時は持っていく荷物がないのですね。とはいえ意外とコマゴマした荷物があって、たとえばエネループブースターとかね。当然エネループブースターとiPhoneを接続するケーブルのたぐいも必要なわけで。あとBluetoothの片耳ヘッドセットとか。

Bluetooth片耳ヘッドセットは使い始めてひと月くらいになるんですが、これは便利なもんですね。この手の商品を買うのは最初なのでまずはリーズナブルなのを買ったんですが、こんなに便利なんだったらもっと早く買うべきだった。アタシは外出先でラジオ音源を聴くことが多いのですが、元がラジオなんでモノラルで十分なんですよ。もちろん必要とあらば、というか音楽を聴く時はステレオでも聴けますしね。

話がそれましたが、それらの持ち運ぶのに、さすがにポケットに突っ込むのは無理すぎる。てなわけで今年のはじめくらいからウエストポーチ(通称:腰ミノ)ってなもんを使い出したのです。
正直ウエストポーチを馬鹿にしてましたわ。昔のだっせーのしかイメージできてなかったから。今は結構いいデザインのもいろいろあって。んで使ってみてまあ何と便利なことよ、と。さっきから便利便利ばっかりいってますが、本当にこいつは便利です。ちょうどエネループブースター諸々とアタシにとっての必需品である点鼻薬(通称:鼻シュッシュ)と目薬がすっぽり入る。つまり腰ミノを購入したことで完全に手ぶらモード(通称:手ぶらーシカ)を手に入れたわけです。

しかしこないだもここで報告した通り、LifeTouchNOTEというAndroid機を購入したことによってアタシの手ぶらーシカが崩れつつあります。
このLifeTouchNOTEという機械、微妙に大きい。B6の幅をやや短くした程度で、当然ポーチには入らず、しかたなくカバンを持ち歩く羽目になったのです。
かといってアタシはピッタリサイズのカバンをあいにく持ち合わせていない。これは非常にマズいのです。何がマズいかって、名付け親にして親友のワニのゲーナに申し訳がたたないじゃないですか。なんとかゲーナが動物園に勤務している間に問題を解決しなくては。
(唐突なチェブラーシカネタが続きますがご勘弁を。そもそもこのダジャレがないと、こんなどーでもいいエントリは成立しないのです)

これからどうしていけばいいのか、案は3つ。
1.LifeTouchNOTEがギリギリ入る、今より大きいウエストポーチ(腰ミノ(大)(仮称))を購入する
2.この際仕事用と兼用できる、わりとカッチリしたカバンを買う
3.LifeTouchNOTEを持ち歩くのを一切やめる

3にしてしまっては、つかLifeTouchNOTEは持ち歩かないと意味がない機械なので論外として、1と2の間で揺れ動いています。
え?だいたいいい大人が手ぶらで出かけようと思うのが間違い?あ、ホンマ・・・

2011年12月24日土曜日

アタシの採点表

最近ずっと「ぼくの採点表」を読んでいます。
とにかく映画を「知る」には、こんな最適な、まあいや教科書ですからね、ずっとほしかったのですが、何しろとにかく高い。そして買うからには最低でも「1940・1950年代編」と「1960年代編」の両方一気に買わなきゃ意味ないと思っていて、となるとマンを越えるんですよね。
しかし最近全巻いただくことになりまして、それで読みはじめたわけです。

んで実際に読み進めると、もう、滅茶苦茶面白いわけです。ある意味参考書代わりにほしかったってのもあったのですが、参考書なんてとんでもない。とにかく文章が面白い。長文も混じりこんでますが、基本は短文。しかもごく簡単にストーリーを紹介してあったりするので論評自体は非常に短い。なのにもう、文章として面白いんです。

一般的には「辛口の映画評」を書くことで有名だった双葉十三郎ですが、今の時代に読むと、辛口といえば辛口なのですが、非常に心地の良い辛口というかちゃんと芸になってますからね。まあそりゃ某巨大掲示板なんか、辛口とはき違えた単なる罵倒が罷り通っていますから。
辛口の中にも愛情がある。というか出来のいい、いわゆる名画といわれるものには絶賛しつつチクリと欠点を指摘し、あからさまに出来の悪いC級作品には全体的にはケナしながらも良い点を指摘する。こういうバランスはすげえなと。

アタシはね、映画のこともここで書いたりしてますが、とてもじゃないけど映画マニアなんて範疇には入らない。特にハリウッド作品やヨーロッパ映画に関しては何も知らないに等しい。一時期昔の洋画を観まくった時期がありましたが、この本でとりあげられている映画の大半は観たことがない、といって差し支えない。
それでも数少ない観た映画で、この本に取り上げられているものと自分の感想を照らし合わせてみると、アタシの感想はそうズレてない、でもまだ見方が浅かったんだなと痛感させられます。
というかこの本は「やたら細かい部分を指摘して悦に入る」今の映画評論への痛烈なアンチテーゼというか、「映画全体を観ることができないから、細かいところを指摘して映画全体がわかった気になってる」、いわば映画を読み解く能力のない人へのカウンターパンチになってると思うのです。

というわけで僭越ながらアタシが「ぼくの採点表」を採点するなら☆☆☆☆★★★。ここは双葉先生にならい、あえて☆☆☆☆☆は避けます。

2011年12月22日木曜日

人生最大のゲーム

子供の頃の話です。

もうそりゃ、ね、アタシらの世代といえばゲーム!ゲーム!でしてね。まだファミコンもない時代で、テーブルテニス的な簡素な家庭用ゲーム機はあったんだけど、ゲームセンター、略してゲーセンね、そこに置いてあるものとは比べるべくもなかったわけでして。
となるとゲームといえば、ゲーム&ウォッチに代表されるハンディタイプのゲーム機か、アーケードといわれるゲーセンに置いてあるゲーム機のことでして。

ゲーム&ウォッチ系のことは今回割愛して、アーケードゲームについて書こうかと。
ざっくり「ゲーセン」と書きましたが、当時ゲーセンといえば不良の溜まり場でね。実際はそんなこともないんだけど、もうイメージの問題で。小学生がウロウロしちゃいけない場所だったんですよ。
ではどこでアーケードゲームに興じていたかといえば、同世代の方には自明の理ですが、駄菓子屋の店先です。
アタシの住んでた街には数件の駄菓子屋があり、店の前か、その横に仮設的な屋根がついたゲームコーナーみたいなのがあったんです。気の効いたところは店の奥を改造してゲーセン風にして、といってもせいぜい10台ほど並べてるだけなんだけどね。

しかし、ここで問題が発生します。
もう当たり前過ぎるのですが、これらのゲームをするには金がいる。ゲーセンで1プレイ100円のところ、駄菓子屋では50円程度にダンピングされているのですが、それでも「上達すべく」プレイしようと思ったら、やっぱりそれ相当の金がかかるわけです。
何しろフツーの小貧乏な家庭で育った小学生です。そんなに金が続くわけがない。まあ小貧乏な家庭はうちだけではなかったので、友人たちとの会話は「あのゲームの、あそこをどう攻略するか」ではなく「プレイする金をどう調達するか」になってしまうんです。

ある時、友人のひとりがとんでもないことを言い出します。
「ガットがいいらしい」
もう、この一言だけで「ガチャガチャ」という行為をご存知の方ならピンときたでしょう。
ぶっちゃけていいましょう。ガチャガチャ、というのは不正行為です。硬貨の投入口に「別の何か」を入れて、あたかも硬貨を入れたかのようにする、とんでもない行為を指します。
ガットというのはテニスラケットの、まあいや網の部分の繊維状のことで、適度な硬さ及び形状記憶があって、しかも金属じゃないので不正がバレない、ということでした。(金属云々のくだりの真相は今もってよくわからんけど)

ガチャガチャ、の噂はあっという間に広まり、実際に試す奴もでてきました。成功した、上手くいかなかった、いろんな経験を聞きましたが、アタシはなかなか試そうとしなかった。理由は簡単でガットが手に入らなかったのです。そりゃそうですよ。家にテニスをやる人間なんていないし、よしんばいたとしても、勝手にガットを切り取れば鼻血がでるほど怒られるのは目に見えています。
だけれども運命はわからない。ある時手に入れたのですよ、ガットを。たぶん誰かから貰ったんだろうけど、詳細は忘れた。詳細は忘れたけど、即駄菓子屋に走ったことは鮮明に覚えています。
この期に及んで、もう「金のことを気にせず、いっぱいゲームをして上達したい」という思考はどっかに吹っ飛んで、本当に、そーゆーことが可能なのか、とにかくそれを試したい、確認したい、挑戦したい、それだけでした。
当時一番ハマってたゲームといえば「ドンキーコング」だったんですが、すでにアタシは「ドンキーコングというゲーム」より「ガットなるものを手に入れて、タダでゲームができるか」というゲームに夢中だったのです。

結果からいえば、アタシのハマった最大のゲームは、あっさりゲームオーバーになりました。不正行為は失敗、というか未遂に終わったんですね。
一応日をおいて何度か試したのですが、どうしてもダメだった。

まあ今考えたら未遂でよかったんですが、つーか、ホントはこんなことも書かない方がいいんだけどね。
前に「サイバー隣組」というエントリを書きましたが、こんなネタでも食いついてくるのかね。こんな過疎ブログにでも。

2011年12月19日月曜日

金メダルマン実写化推進委員会

Twitterで金メダルマンネタを書いた時に「金メダルマンのこと2011」でも書くかね、とか書いちゃったのですが、面倒なので

『金メダルマン』は1980年代の前半、コロコロコミックに連載されていたギャグマンガです。(中略)しかし・・・ですな、いやはやなんとも、全然児童誌向けの漫画じゃないですね、これ。やけにシビアな風刺が入ってるし、奇妙なほどリアルな生活感があるし、人間関係はゲイの世界のそれに倣っているし、バイクとかの描写も凝ってるし、下ネタもうんことかチンポコではなくて「ペニスの勃起」とかだし。うーん、なんじゃこりゃ。(2005年5月27日付「『金メダルマン』のこと」より)


これで済ませます。
それよりもし金メダルマンを実写化するとなったらどういうキャスティングがいいか、そっちの方に興味がいってしまいました。
主要キャラの沢田なら、モデルになったのは沢田研二だそうですがこれは合わない。あ、この際時空を超えます。もう現在の年齢とか超越して、はたまた現在存命かどうかも無視して、もっともピッタリな役者を探そうと。
んで沢田はとなると、中性的な美形、なおかつツッコミなのを考慮すると誰になるんでしょうか。ただ何となく小作りな感じの人、かつさほど華がなさそうな人がいいですよね。やっぱジャニ系になるのかな。
芦田はもうモデルとなった芦田伸介で決まり。河場は中村ノリさ・・・いや、やっぱりやめとく。

などとうだうだ書きましたが、その辺の脇役はどうでもいいのです。問題は主人公の五輪たかしです。
やっぱり金メダリストなんだからマッチョで・・・とか考えたら絶対ダメ。そんなことをしたら面白くなくなるだけです。
昔香取慎吾で西遊記がドラマ化された時に書きましたが、あの時も、悟空はナイナイ岡村、沙悟浄はアンガールズ山根、猪八戒は石塚・・・なんていってる人が某巨大掲示板界隈では多かったのですが、そういうキャスティングはダメなんですよ。(当時書きましたが香取版のキャスティングも全然ダメだけど)
もっと単純に物語の構造を活かせる、金メダルマンに物語の構造なんてありませんが、金メダルマンはギャグ漫画なんだからやはり最大限に笑えるキャスティングにしなきゃいけないわけで。

となると、もう桂三枝しかありえないのです。
えーーー!?という声が聞こえそうですが、これでいいのです。ただし今の三枝ではなく若い頃の三枝ね。
三枝については昔こんなことを書いたことがありました。

そんなことをいえば、三枝の芸そのものがフシギなもので、すーっと現れただけで笑いを誘うことができる。天性のおかしさというんですかね。いや、実際にみてなくても心の中で「三枝、三枝、三枝・・・」ととなえるだけで笑いそうになってしまう。こういうのはかなり珍しいと思うんです。だってたけしもさんまもダウンタウンも、名前を浮かべるだけでは笑いだすまでいかないですからね。(2005年4月14日付「桂三枝のこと」より)


ひとことでいうとフラですね。もう何をしても面白いという。
アタシも三枝オチはずいぶん活用させてもらいました。とりあえず、あ、それは三枝です、といっておけばオチるという。
はっきりいって卑怯極まるオチです。もう三枝の持ってるイメージに全依存してるんだから。素人だからできることで。
さらに発展させて、たとえば「何でこんなことしたんだ!」と責め立てられたら「すんません、三枝兄さんがそうせえゆうたから」とかね。これは二重にズルいオチで、三枝のみならずさんまのイメージまで借りてますからね。

想像してみてくださいよ。あの(どのだよ)五輪たかしを三枝、それも若い頃の三枝が演じるのですよ。もうどうやっても面白くなるに決まってる。ただ出てくるだけで面白い三枝が、体操をベースにした奇天烈な動きをするところを想像してくださいよ。
全然金メダリストに見えないところもいいし、そもそも足も上がらないでしょう。さらにいえば標準語もしんどいかもしれない。でもそれでいいのです。とにかく笑えることに意味があるんだから。
そういや「あゝ独身(チョンガー)」というC級映画に若き日の三枝が出てて、主演はやすきよ。三枝は出番は少ないんだけど、もうおかしくってしかたなかった。ああいうのを想像していただければ。
そんな映画見たことない?それじゃ全然イメージが湧かない?ではこれを見ていただきましょう。

若い頃の三枝です。なんですか、この顔は。ズルすぎるとしかいいようがない。
んでこれが元の金メダルマン。

これを三枝がやったらどうなるか。

もう言葉は必要ありませんね。

2011年12月17日土曜日

終わりの始まり

いやぁ、今年は本当に激動の年でした。
個人的にも、もう、嫌というほど幾多の出来事があったのですが、世の中もね、まさかこれほど大きく動くとは思ってもみませんでした。しかも全然「いい方向」と思えないのが悲しいというか。

アタシは去年、実に5年ぶりくらいに「ちゃんとした」テレビを購入し(その間はパソコンのモニタで見てた)、久々にテレビでも見てみるか、と意気込んでいたのです。もちろん面白い番組もあるにはあったんですよ。でも全体で見ると荒涼としている、としかいいようのない状況を痛いほど感じたんです。空白期間があるから余計に生々しく感じたんだと思います。
テレビの存在意義、なんてもんは、もう何十年も前からいわれていることですが、はっきりと存在意義を示せるのは未曾有の災害が起こった時なんです。ところがせっかくのチャンス(被災地の方すいません、あくまでテレビの話です)ですらテレビはまったくというくらい存在感を示せませんでした。
思えば阪神大震災の時、アタシはエア被災者ですが、あの時、それまで成金の小道具だの贅沢の極みだのいわれていた携帯電話が、実は災害に強い優れたサバイバルツールであることが一気に知れ渡り、普及に弾みをつけました。
今回の東北でいえば、それはネットです。もちろん阪神大震災の時の携帯電話と違い、すでに普及しているものですが、まさかテレビを凌駕するメディアだとは思いませんでした。
震災直後の映像は主にYouTubeやUstreamで見ました。いや、当たり前ですがテレビでもやっていたのですよ。しかし不思議なことに日本のテレビ局は肝心なところになると「はぐらかす」ような感じで、素人の方(おそらく被災者の方でしょう)が撮影した映像の方がはるかに迫力があった。そして生の現実が痛いほどわかりました。
あえて「日本の」と枕詞をつけたのは、海外のメディアはかなり丹念に取材をしており、アタシはCNNかBBCをつけていることが多くなっていきました。

テレビ局は存在感を示せる千載一遇のチャンス(繰り返しますがテレビ局にとっては、ですよ)を、ネットなんていうどこぞの馬の骨かもわからんメディアにお株を奪われたわけです。
その後、夏から秋にかけてフジテレビへのデモが行われましたが、あんなもんオマケみたいなもので、もしネットでいわれている通り、どこそこの国の息がかかっていて、どこそこの国に都合のいいことしか放送しない、だったとしても、いや、テレビにはテレビの価値があるんだ、となれば存在意義は出たんです。
もう今更バラエティやドラマが昔に比べて(予算がないとか諸々の事情があったにしろ)、あまりにも程度が下がっているのは間違いないのです。ここを変えようと思うと、もう生半可なことじゃ無理なんですよ。
でも報道、特に国の存亡に関わるような大災害が起これば別だったはずなんです。でもそれすらもネットにとって代わられた。

まったく皮肉なものです。今年は地上アナログ放送が終了し、デジタル元年になるはずだったんです。それがね、はっきり言い切りますが、「終わりの始まり」の年になるとは誰が予想したでしょう。
若者人口が現象し続けているとはいえ、確実に世代は交代します。つまりテレビに何の存在価値も見いだせない世代が増えていく一方なわけで、あとはどうやって軟着陸させるか、という興味しか沸いてこないのです。

2011年12月16日金曜日

ウソの美学(抜粋再録)

恒例・yabuniramiJAPANリターンズをば。
今回は初めて「ヤキウノウワゴト」からの再録になります。「ヤキウノウワゴト」は野球関係のことを書き記しておりまして、当然リアルタイムに読んでもらわないと意味のないエントリがほとんどなのですが、今回再録するエントリはあまり野球と関係ないこと、というか実際は関係あるのですが、わりと普遍的な部分だけを抜粋して再録します。
それでは時計の針を2004年7月10日に戻します。




アタシは自分でかなりの正直者だと思います。正直者といってもウソなどついたことがないというたぐいの正直者ではありません。でも自分にとってかなり不愉快な出来事に遭遇した時、もろにそれが顔にでてしまうのです。
顔にでるぐらいならまだいいのですが、腹に据えかねる場合には行動にでてしまうこともあるわけで、当然損をすることもかなり多い。だからなのか『正直に生きることは素晴らしい』なんてまったく思わないわけです。できればもっと、何事にも平然と生きていられるようにと常々理想を掲げておるのです。

たしかにアタシはそういう意味での正直者ですが、ウソをつくことはけして苦手ではないのです。すごく矛盾のあるような話ですが。『ここ一番』というか、ここはウソをつき通さなくてはならない場合には、徹底的にウソで押し通します。そして絶対見破られない自信もあります。

もちろんプライベートでも≪ウソを通す≫という行為をやってしまうのですが、やはり仕事絡みではかなり顕著にその回数が増えてしまうのです。

組織に属している限り、ウソで押し切らなきゃいけない時はゴマンとある。
たとえば自分が中間管理職だったとします。部下が自分より上司にあたる人の悪口をいっていたら、間違っても部下といっしょになってその上司の悪口をいってはならない。むしろなるべく上司のフォローをしなければならない。たとえ自分もその上司が大嫌いだったとしても。

なぜならそれが組織だからです。組織の一員になるというのは、果てしのない我慢の連続です。その組織をぶっ潰してもいいとまで思っていない限り、組織としてマイナスになるようなことはできないのです。
まぁアタシだって『組織なんてどうなってもいい』と思ったことなど一度や二度ではありません。しかし組織をぶっ壊すということは、その組織に関わる大半の人が不幸になる。『あの人やこの人も不幸になるかもしれない』と考え出したら、到底行動には移せませんでした。結局そうやってウソをつきつつ、自分の怒りを静めるしかないのです。

もしそれでも我慢ならない時はどうするのか。それは自分がその組織から離れるしかないのです。悲しいけど、アタシにはそうするぐらいしかできません。

アタシにもっと行動力と人望があったら、クーデターをおこしていたかもしれません。しかしもしクーデター(に準ずる行為)を起こすなら、最低でもこの2つの条件が必要だと思うのです。

1)まったく隙のない理論武装

2)結束力

仮に実権を握っている人間の行動に、なんの理論がなかったとしても、そんなことは関係ありません。≪実権を握る≫ということは≪たいした理論がなくても事を進めることができる≫ということに他ならないからです。
実権を握っている人がつくった≪流れ≫を変えるには、その流れを根本から否定できる完璧な理論武装が必要になるのは当然です。相手は実権を握るような人ですから、こっちの理屈のほころびを実にうまくついてくるはずです。もしこちらの理論に隙間があれば、いとも簡単に負けを認めざるを得ない状況になるのは明白です。だから何をいわれても完璧に理屈でかえせないといけないのです。

また相手の弱点を徹底的につくことも大切です。どんな強大な相手でも絶対弱点はあるはずです。裁判にもちこめるような言動があればそれを利用するのも手ですし、そういう人に限って意外と人情派だったりすることも多いのです。

それでもダメな場合は実力行使にでるしかないのですが、そうなると結束力がモノをいいます。『チャップリンの独裁者』じゃないですけど、ひとりの反逆は落伍者だが、大挙の反逆は革命になるのです。そしてその者たちの結束が本当に一枚岩なら絶対に勝つことができると思いますが、結束力があるのかないのかうやむやなまま実力行使にでた場合は、ほぼ惨憺たる結果にしかならないでしょう。

いずれにせよ、まず相手の立場にたって物事を考えることができるかどうかは重要です。何度もいいますが、個人(複数にせよ)が組織の実権者と戦うということは、キレイゴトを並べ立てていかなきゃしょうがないのです。ホントは自分のためです。自分の立場がなくなったり、損をしたりするのがイヤだから、そこまで強引な行動にでる。しかしそれでは≪理論武装≫もできなければ≪結束力≫も生まれない。

ウソかどうかなんてどうでもいいのですよ。そのためにはなんだってしなきゃいけない。自分が悪者になる覚悟も必要だし、相手に取り入るのもまったくかまわない。とにかく実権を取ることが目標なんだから。




本当はこれの倍くらいの長さなんですけどね。何しろ抜粋だから。
ではカットした部分に何が書いてあったのか。
多少でもプロ野球に興味がおありの方なら憶えておられるでしょうが、2004年の夏といえば、オリックス・近鉄の合併に端を発したリーグ再編問題の真っ只中でした。
アタシが「ヤキウノウワゴト」をまともに更新していたのは2003年の秋から2005年の秋まででして、2004年に起こったこの出来事にたいして、全エントリの半分近くを費やして書いています。それくらいアタシも世間も燃え上がっていたのです。

抜粋した以外、つまり後半部分に書かれていたのは、プロ野球機構側(主にナベツネ氏)と選手会側(主に当時選手会会長だった古田敦也)との「煮えきらないやりとり」についてです。
今回抜粋という形で再録したのは、事の本質が高岡蒼甫のツイートから端を発した一連の問題とよく似ているんじゃないかと思ったからなんですね。

一連の問題(あえてこう書きます)での問題提議はネットから始まりました。そして、とりあえず、といった形でデモに繋がったのですが、ここにネットの可能性と限界点が見えた気がするのです。
可能性は置いておくとして、限界点はよくいわれる「ネット民なんて実際何の力もない」とかそんなことじゃないんです。
ひとつは「手の内をすべて明かしながら」の行動になるということ。
もうひとつは、これこそ再録した話に繋がるのですが「結束することの難しさ」です。
結局人間が「目的が同じ」という理由だけで結束するには限界があり、数人ならともかく数万人規模になるとまず無理です。
となると強いリーダーシップを持った人が必要になるのですが、ネットの特性上生まれにくい。

アタシはリーグ再編問題当時、これは時代劇と同じ構図だ、と論じました。一連の問題も一緒で、相手が「型通りの悪役」なのだから、こちら側(つまりネット民側)は白塗りのヒーローが必要なんです。
リーグ再編問題は古田敦也が白塗りヒーローに「化けた」ので一応の決着を見ました。
今回の一連の問題は、リーグ再編問題に比べてスケールが大きすぎるのですが、それでも、いや、だからこそ、より無敵の白塗りヒーローが必要だと思うのです。

2011年12月15日木曜日

少しどころじゃない、めちゃめちゃ不思議

もう12月の半ばです。しかし一年が早い。何でこんなに早いのかというくらい早い。
ついこの間今年が始まったと思っていた。今年の二月に初の海外ひとり旅を経験しましたが、ほんの2、3ヶ月前に感じます。
「歳をとると時間の経つのが早くなる」といいますが、ホント、恐ろしいくらい月日の流れが早いのに呆然としてしまいます。しかしいくらなんでも早すぎる。

藤子・F・不二雄のSF短編に「光陰」という作品があります。藤子Fこと藤本弘を思わせる人物と藤子Aこと安孫子素雄を思わせる人物の掛け合いが楽しい、比較的ほのぼのした作品ですが、まあネタバレになりますが、ラストのコマは月が目に見えるほどの速さで動いているという。
この作品の通り、もしかしたら本当に時間の進み方が少しずつ速くなってるのかもね、と。子供が感じないのは今の時間の進み方が基準なんだから感じようがない、という理屈も一応通る。

アタシは藤子F作品が大好きなわりに、SFには本当に弱いんです。しかし最近タイムトラベルの理論みたいな文章を読んでなるほど、と思ったのは、時間移動が可能か不可能かはさておき、地球は少しずつ動いているのだから仮に時間だけ移動できたとしても宇宙に放り出される、と。

今のパソコンの性能は、それこそアタシが初めてマイコンに触れた時と比べると途方もないものですが、これは技術を煮詰めただけ、ともいえるわけで、物理的に不可能なことが可能になる発明がなされたわけじゃない。つまりタイムトラベルとなると越えなければならない壁として「時間移動」と「瞬間移動」の二種類の大発明が必要ってことですよね。今現在これらの種と思えるような発明もなさそうですし、やっぱり無理なのかなと。もしかしたら今現在種はある、人間の寿命が500歳くらいに延びるなんて方が先かもしれません。

何がいいたいのかわからなくなってきました。そもそもアタシは理系の人間ではないので、まともにこの手の話ができるわけないのに無理をしているわけでして。いや、それでもね、これまた何かの本で読みましたが、飛行機が何故空を飛ぶことができるか、完全にはわかっていないらしいのです。
つまり、とんでもない、それこそSF的な発明は理屈もないもないところから、理系でも何でもない人間から生まれるのかもしれません。
と書いたところで思いだしましたが、それも「あいつのタイムマシン」という藤子F作品があるわけで・・・。いやまったくかなわんよこりゃ。

2011年12月13日火曜日

GO!GO!掛布

また野球ネタです。

昭和51年、生まれて初めての野球観戦は、なぜか阪急=南海戦だったが、その次が阪神=中日戦だった。この試合、阪神は負けたのだが、唯一の希望は、田淵がホームランを打ったことだった。子供心にものすごく救われた感じがしたことをよく憶えている。
そして3回目のプロ野球観戦。この試合で私の野球好き、阪神好き、そして田淵好きが決定的なものになる。なぜなら、この試合で、田淵が広島・池谷投手から逆転サヨナラ3ランホームランを放ったからだ。
本当に打ってほしいところで打ってくれる、幼少時代の私にとって田淵とは、そんなミラクルヒーローだったのだ。「心の底からありがとう!タブチくん」(2003年10月29日更新)より


上記の引用では割愛してますが、「3回目のプロ野球観戦」は今ではほとんどなくなったダブルヘッダーでした。
第一試合と第二試合のインターバル、アタシはグッズ売り場に直行して田淵のサインボールを求めにいったのです。
が、あいにく田淵のサインボールは売り切れ。当たり前です。さっき第一試合でサヨナラホームランを打ったばかりなんだから。
さあ困った。大好きな田淵のサインボールはない。芋の子を洗うような大混雑のグッズ売り場で、第二候補など一切かんがえていなかったアタシは、自分でも信じられない言葉を発します。
「掛布のサインボールください!」
アタシが生まれて初めて買い求めたサインは(印刷ですが)、掛布のだったんです。

若い阪神ファンと話をしていて、一番ジェネレーションギャップを感じるのが掛布に関することです。
「アホみたいに借金かかえて、自己破産ってどういうことやねん」
「読売に寝返るような発言ばっかりしくさってからに。なんであんなんがミスタータイガースや」
「解説いうても『流れが』どーとかばっかりやん」
全部いってることは正しいんです。論理的に反論できることは何もない。



今までの野球選手で誰が一番好きだったかと問われれば、先ほどの引用の通り田淵、となるわけですが、一番凄いと思った選手はとなると、誰がなんといおうと掛布になる。これはノスタルジーではなく、かなりちゃんと書けます。
だから掛布批判に同意はできても、掛布嫌いにはなれないのです。

現役の選手で掛布にもっとも近いのは楽天の岩村明憲でしょうか。もちろん今の岩村ではなくヤクルト時代の岩村ですが。
しかし、はっきり言い切ってしまえば、悪いけど比較にならない。岩村も成績的にはさほど見劣りしないし、だいいち数字だけ見れば、アタシがいくら掛布が一番凄い選手と声高に叫んだところで、イチローや落合の足元にも及びません。

イチローなら好打者、落合なら強打者となるのでしょうが、掛布を例えるなら「猛打者」というのがピッタリくる。
ヒットは日本語でいえば単打ですから、どうしても軽くミートしたみたいなイメージがありますが、掛布のは違った。もちろんレフトへ合わせたようなヒットもあったんですが、引っ張ったヒットが凄かった。
まさに地を這う、というか、しかも打球がメチャクチャ速い。一塁手も二塁手も一歩も動けず、みたいな、そんなヒットばっかりでしたから。
ホームランは以前書きましたが、全部ライナー。それが広い甲子園球場の中段に突き刺さる。
とにかくね、打球の速さは落合はいうに及ばず、バース以上だったんですよ。あんな強烈な打球を「まぐれではなく」打つ日本人選手は後にも先にも掛布以外見たことがありません。

掛布の全盛期は、いろいろ異論もあるでしょうが、1981年からの二年間だったと思います。
本格的に台頭してきたのがアタシがサインボールを買い求めた1976年、レフトへ打球を上げてラッキーゾーンに落とす技を身につけたのが阪神が球団史上初の最下位になった1978年。
その翌年、48本塁打を打ってホームラン王になってるのですが、実はこの年、怪我して終盤は出てないんですよ。怪我する前までは王の55本を上回るペースだったのに。
1980年は怪我の影響もあって絶不調。そして翌1981年からが最盛期です。
1984年は二度目のホームラン王を獲り、21年ぶりの優勝と初の日本一に輝いた1985年も三割40本塁打を記録しているのですが、なんというか、ずっと掛布を見てきたものからすれば、「掛布はこんな程度の打者じゃない」と叫びたくなるような内容でした。
1983年のシーズン途中からフォームが崩れ、右足をトン、トンと二度つくおかしなフォームになってしましました。そしてそれ以降「地を這う猛烈なヒット」も「弾丸ライナーのホームラン」もほとんどなくなってしまいました。
逆にいえば、それでもタイトルを獲ったりしているのは凄いともいえるのですが。

ま、どれだけ全盛期の掛布が凄かったかという趣旨のエントリなので晩年については触れませんが、年々フォームが崩れていたので、怪我があろうがなかろうが、そう長くは現役を続けられなかっただろう、というのが私見です。

最後に、今回のエントリタイトルですが、こんな曲名の歌が発売されてたのですよ、実際。ここで当時の画像とともに聴けますが、アタシはレコードを持ってたというか、無理いって親に買ってもらったんだよなあ。
サインボール買って、レコード買って、後年目の前でサインしてもらって・・・
今いる、「あの」掛布も掛布には違いないんです。だからあれだけいろいろやらかしても、アタシはまだ心のどこかで、阪神に帰ってきてほしい、と願ってたりするんですね。

2011年12月12日月曜日

LifeTouchNOTEを買ってしまったわけだが

ついに、というか、とうとうLifeTouchNOTEなるものを買ってしまいました。いよいよAndroidにも手を出してしまったわけです。
まだ買って間がないので詳しいことは書けませんが、うーん、いろいろ慣れんね。やれることは多そうだけど、そもそもいろんなことをやりたくて買ったんじゃない。

目的はたったふたつ。ひとつは外でテキストを書ける環境がほしかった。このブログもそうですが、まあいろいろと書くことがあるんでね。
それまでアタシはずっとWindowsMobileを使っていたわけです。特にZERO3シリーズはミニキーボードを内蔵しているので、本当の長文は無理ですが、まあそこそこの長さのものなら、たとえばブログとかね、そういうのならこなせていたわけです。
ところがiPhoneに換えて、さすがにこれで長文を書くのは無理でして、フリック自体は非常によくできた入力方式で、わりとすぐ慣れて、それこそTwitter程度ならまったく問題なく書けるのですよ。しかし長文となると、結局画面が狭いから文章を見渡すことができないのが辛い。何しろフリックが画面の半分を占拠しているわけですから。
そこでBluetoothキーボードなるものを買ってみたのですが、やっぱ安物はダメでして、特定のキーの反応がすぐに悪くなった。いや、よしんばそういう不具合がなかったとしても、iPhoneをテーブルに置いて、Bluetoothキーボードを手に持つ、というスタイルは非常に入力しづらいわけでして。
そんなわけで、やっぱ普通の、つまり両手の親指でポチポチとキーを押すんじゃなくて、それなりのキーボードがついた、それでいてコンパクトなマシンがほしいなと思っていたわけでしてね。
当然候補にあがったのがポメラです。これは完全にテキスト打ちに特化したマシンで、乾電池で長時間駆動というのもいい。しかしアタシは折りたたみキーボードが嫌いなんです。どうもグラグラを感じてしまうと打つ気がなくなる。
最近折りたたみじゃないタイプのポメラが出たのですが、あれはあれで中途半端に値が張る。

そこでもうひとつ、密かな利用目的が浮上するわけです。
それは動画再生で、さすがに電車の中で、とは思わないのですが、ちょっとお茶を飲んでる時とかね、いや、それもiPhoneがあればできるのですよ。でも動画を見るにはちょっと画面が小さすぎる。
何で外でまで動画を見るのかといえば、貯まった録画物がもう見切れないくらい家にあるのです。もちろん見たいからこそ手元にあるのですが、ここまであるとある程度消化していく気持ちがないと到底無理なわけで、外出時のちょっとした時間を活用しようと、ね。

となると突然候補になったのがLifeTouchNOTEなんですね。
そこまで評判がよくないとはいえ、ちゃんとしたキーボードがついてる、動画再生も液晶画面の品質があまりよくないとはいえ720P程度なら再生可能、そしてこれが決め手なのですが、何より安い!
定価は4万円ほどですが、よほど売れなかったのか、今では2万円以下で買える。これは候補のひとつだったポメラと変わらない値段です。そして最新の折りたたみじゃないポメラよりもずいぶん安い。
まあテキスト打ちと動画再生だけが目的なので、ネットにつなげる気とか全然ないわけで。とはいえ家にいる時はブラウザを立ち上げたりもしますが。
ただネットにつながない前提なので、書いたテキストの取り出し方は試行錯誤しています。

ま、これはとりあえずの方法が見つかったのですが、長くなるので次の機会にでも。

2011年12月11日日曜日

2011年の「ダウンタウンのこと」

しかし前回は長かったね。長すぎた。5回分のエントリなんだから、まああれくらいにはなるのですが、1回分のエントリ自体も長い長い。昔はあれだけ書く体力があったんだと痛感します。

さて「2011年の」とかいいながら、いきなり2007年に書いた文章を引用します。

松本人志が映画を撮ったことに関しては、いろいろいうことがあるんですよ。(中略)「松本が商業映画を撮るのは、ほぼ不可能」と断言し(てしまい)ましたし(中略)『大日本人』にあるのは、いわばDVD的な笑いなんですよ。おそらく劇場よりもDVDで観た方が絶対面白いと思う。テレビ的じゃなくて、DVD的(ビデオ的、でもいいけど)。わかりますかね。(2007年7月5日更新「笑いの世界・第五回 『大日本人』は成功だったか」より)


ちょうど「大日本人」が公開された頃に書いたものです(文章がおかしいのは大目に見てください。「おそらく」か「絶対」かどっちやねん)。が、まさかあんな感じで監督・松本人志が誕生するとは思わなかった、てのが正直なところです。

松本といえば去年NHKでコント番組をやりましたし(その時の話はこちら)、月一、しかも5回こっきりとはいえレギュラー化され、先月にはNHKBSプレミアムにて「松本人志大文化祭」なる8時間にも及ぶ番宣(?)も放送されました。

まあ「松本人志大文化祭」は長時間の間にどれだけの映像を見せてくれるかと思っていたのですが、結局見所は枝雀を熱く語ったのと宮本茂との対談だけでした。
昔の映像は、内容より見せ方の問題なんですが、思ったよりぱっとしませんでした。

そして長い長い番宣を経て放送された「MHK」の一回目ですが、影絵と探偵のヤツは0点。つか今まで見た松本コントの中でも最低レベルの出来でした。
が、浜田雅功をゲストに迎えた「オンリー」は、「ごっつ」よりさらに前の二丁目時代を彷彿とさせる出来栄えで、久々に笑いました。
同時に、松本コントの弱点というか、今までやった「浜田不在のコント」に欠けてたものが浮き彫りになった気がしたんです。

松本コントというのは感情のヒダを針で突つくような、非常に繊細なものです。
コントは「短い芝居」であり、演者に演技力が必要とされるのは当然ですが、ましてやこの手のコントを成立させるためには、相当の演技力がいる。

はっきりいえば、松本の演技力では松本の発想力が表現できないのです。松本の場合、上手い下手云々の前に漫才芝居です。これはこれで構わないのですが、自身が持つ発想力を完全に活かそうと思ったら物足りない。
松本コントに浜田が必要なのは、「浜田のツッコミ」が必要なのではなく、「浜田の演技力」が必要なんです。

「MHK」でも後半の怒涛のギャグも面白かったんですが、それより全編通して浜田の顔がおかしくてしょうがなかった。顔とか書くと語弊があるな、表情、ですね。
浜田が松本コントの笑いどころがわかっているのは当たり前で、さらにプラスして「心のヒダを突っつかれた時の微妙な表情」ができるのが凄い。

「大文化祭」で「大日本人」が放送されたのですが、あの主人公を浜田がやれば、もっともっと深い世界になったんじゃないかと。
まあ松本自身、自分は裏方志向だからと大文化祭の中でもいっていましたが、ならばなおさら演技者・浜田雅功をもっと活かしてほしい。いや、もっとはっきりいうと、7年前と意見が違いますが、どうしても(ダウンタウンではなく)浜田主演、松本監督の映画を撮ってほしい、と切に願うのです。

2011年12月10日土曜日

ダウンタウンのこと(再録)

今宵は手抜きのための、ではなく、次回のエントリへの前フリとしてyabuniramiJAPANリターンズをお送りします。
はっきりいいまして全部で5回分をまとめているので滅茶苦茶長いです。ご了承ください。
それでは時計の針を2005年1月11日に巻き戻します。




まだダウンタウンが大阪ローカルのタレントだった時代、これほど「可能性のカタマリ」だった芸人は、後にも先にもいなかったのではないかと思います。もし、こんな仮定が成立するのかあやしいですが、もしダウンタウンが全国的な大タレントになっていなければ、間違いなく語り継がれるであろう、伝説の芸人になっていた気がします。

ダウンタウンのすごさを語る上で、どうしても松本の発想力の話になってしまうのですが、あえてそれを封印します。そうしないと本質を見誤ると思うからです。
ではダウンタウンと、他の漫才コンビとの決定的な違いは何かといえば、アタシは「信じられないような器用さ」にあると思うのです。
よく「器用貧乏」なんていいますけど、ダウンタウンの場合は「器用富豪」といってもよく、何をやらしても非常に器用にこなし、そしてすべてにおいて華を持っていました。

ダウンタウンの出発点は漫才ですが、まずここで同期の漫才コンビを蹴散らしています。アタシはまだ「松本・浜田」と名乗っていた頃の漫才をテレビで見たことがありますが、なんだか気味の悪い漫才でした。というのもどうみても若輩にもかかわらず、やたらテンポが遅く、しかもまったくモロさがなかったからで、今の目線でいえば「完璧に完成された」漫才だったんですね。
のちに浜田が「当時からいとし・こいしに似てるといわれてた」といってましたが、若いくせに年寄りのような呼吸でやってたんだから、異質な存在にみえても当然っちゃあ当然なんですけどね。

もう少しわかりやすく説明します。

ダウンタウンがデビューする数年前、昭和55~56年頃に空前の漫才ブームというのがありました。
このブームの中心となったのが、関西ではザ・ぼんちと紳助・竜介、関東ではツービートということになると思いますが、当時の感覚からすれば、ブームを引っ張っていってたのは間違いなくB&Bでした。(やすきよは別格扱いだった)
ブームになる前から、先輩後輩問わず、他の漫才コンビがこぞって舞台袖でみていたというB&Bの漫才は革新的なもので、何が革新的かといえばそのスピードです。

おそらく今の若い人が当時のB&Bの漫才をみたらビックリするんじゃないでしょうか。とにかく速い。音楽でいえばゴアテクノぐらい速いのです。既存の漫才コンビがBPM70~100ぐらいの時に、ゆうに150をこえてるんだから、そりゃ目立って当然です。
正直にいうと、アタシはB&Bをあまり好きではありませんでした。でもこのスピード感は他の若手漫才コンビにも多大な影響をあたえとおぼしいのです。

というのも、さいきんB&Bが司会をしていた『笑ってる場合ですよ!』のビデオをみたんですが、もうみんな速いんですよ。そのビデオにはぼんちも紳竜もツービートもでてましたが、まるでB&Bに対抗するかのように、何をいっているのか聴き取るのが困難なぐらいテンポが速い。よく当時の観客はこれについていってたな、と関心すらしてしまいます。

とまあこんな時代です。さすがに若干の揺り戻しはあったものの、漫才ブーム以前に比べると、若手とよばれる人のスピードはかなり速くなっていたのはたしかです。

そんな時に、漫才ブーム以前はおろか、もっと前の時代なみのテンポで登場した、それこそ「いとし・こいしに似てる」とたとえられるダウンタウンの存在は古臭くもあり、異質でもあったのです。

スピードがあればね、多少の巧拙は目立たないんですよ。それが、B&Bがゴアテクノなら、レゲエのようなテンポのダウンタウンは、一切の拙さを感じさせなかった。まぁ気味が悪いのは当然ですね。

しかしここまでならたんに「時代を代表する、すぐれた漫才コンビ」にすぎないのですが、ダウンタウンの場合、漫才以外のことも完璧にこなすことができた。くわしくは今後書いていきますが、コントも司会もバラエティ・トークも、他の人とは違う次元でこなしていったんです。

漫才で異質な存在だったダウンタウンですが、一見非常に古臭いスタイルは、大向こうにはまるでウケませんでした。全然人気のなかったダウンタウンを、上岡龍太郎が絶賛したという話を以前書きましたが、もっぱらその技量を評価したのはプロというか同業の人だけだったんです。
かくいうアタシもそこまで興味をそそられる存在ではありませんでした。まだわかりやすい構図をもったハイヒールあたりの方が興味があったことをおぼえています。

しかしそこで状況を一変させる出来事がおこります。それが心斎橋二丁目劇場のオープンです。なんば花月やうめだ花月のような<常連&おのぼりさん>用の劇場ではなく、きわめて実験的な要素のある、かけだしの芸人を中心にした小劇場としてオープンしたんです。
おそらく吉本側は、当時定着しかけていた小劇団用にあった小さな劇場(例えるなら、下北沢のスズナリのような小劇場)のお笑い版のようなイメージでつくったのではないかと。しかしそこに、いわばジジ臭い漫才コンビのダウンタウンがピタッとハマると予想したのはごく一握りの人だけだったでしょうね。

この小劇場でダウンタウンは、完全に年寄りを切り捨てたようなコントを次々発表していくのですが、ここでの活動はいわばアンダーグランド的なもので、一般の人にはそれほど関係のないものです。
しかしここで培った経験とネタをじょじょにテレビに持ち込みはじめます。二丁目劇場にかけてウケたネタのうち、テレビ向きものを『今夜はねむれナイト』(関西テレビ)で発表したのです。

太平サブロー・シローが司会をしていたこの番組は非常に地味なもので、その中でダウンタウンがコントを演じたコーナーだけが燦然と輝いていました。このコーナーでやった初期の傑作『「あ」研究家』などのネタを、はじめてみた人が結構いるのではないでしょうか。そして同時に強い衝撃をうけたはずなんです。
やがてこのコーナーで、テレビに特化したオリジナルコントをやりはじめ、アタシはうめだ花月からなんば花月までゴルフをしていくという『プロゴルファー猿』のコントをみた記憶があります。(そしてこの流れが『ダウンタウンのごっつええ感じ』にいきつくのです)

この地味な人気にあてこんでつくられたのが毎日放送ではじまった『4時ですよ~だ!』で、本拠地である二丁目劇場からの中継で、月曜から金曜日までの毎日、文字通り夕方の4時からはじまる番組で、ダウンタウンでのローカル人気は決定的なものになります。

『4時ですよ~だ!』でダウンタウンがみせたのは一流のタレントぶりで、特にややをもすると地味な存在であると認識されかけていた(紳助に「お前はいずれ竜介みたいな存在になるねんから」とすらいわれていた)浜田の仕切りぶりはまことに見事なものでした。ソツのない進行ぶり、共演者へのボケのチェック、そして松本にボケのタイミングをつくるといったことを、この番組で完成させていったのです。

どうでしょう。こうやって網羅してみると、そのあざやかな<イメージの転化>がみてとれるのではないでしょうか。
≪地味な古臭い(しかし玄人ウケする)漫才コンビ≫→≪先鋭的なコントコンビ≫→≪バラエティでも力が発揮できるタレントコンビ≫といった具合に。

正直このレベルで「漫才もコントもタレントもでき、しかも独創的なネタがつくれる」若手は、後にも先にもダウンタウン以外おらず、一部の「わかっている」人たちが異常な期待をしたのも無理はありません。

このころになると、さすがにアタシもダウンタウンのすごさがわかるようになり、もしかしたらとんでもないスケールの芸人になるのではないか、と信じるようになりました。
アタシがダウンタウンに期待したのは、日本ではほぼ実現したことのない「チャップリンのような映画がつくれるのではないか」ということです。なにも涙と体技の映画をつくってほしいということではなく、完全に自作自演の映画がつくれるんじゃないかと。これはいまだに実現していませんが、今でも可能だと思っていますし、絶対やってほしいと思っています。

となると、ここでどうしても比較しなければいけない人たちがいます。
ひとりはもちろんビートたけし。もうひとり(一組)は、ややデビューと人気沸騰がダウンタウンより先行していたとはいえ、ほぼ似たような人気の得方をした、とんねるずです。

ビートたけしが急遽深作欣二に変わって監督をつとめた『その男、凶暴につき』が公開されたのは1988年のことです。いち芸人が「商業向けの、しかもコメディではない」映画の監督と主演をつとめたことは、たけし以後の芸人にはかりしれない影響をあたえたんじゃないかと思うのです。
それまで、いわゆる『あがった』芸人の進むべき道は、俳優か国会議員ぐらいしかなかったわけで、つくり手の、しかも最高権力者である映画監督への道をひらいたことは、特に、俳優に向かない、かつ裏方志向のある芸人に「あ、そんな手があったんだ」という指針にすらなったと思うんですね。

ちなみに1988年といえば、まだダウンタウンがローカルスターにすぎなかった時です。のちに松本は単独で『頭頭(とうず)』(1993)というオリジナルビデオ作品をつくっていますが、裏方志向で、しかもテレビや舞台と違い制約の少ない『発表した時点で完結する』OAVのような映像コンテンツに関心をしめしたのは当然でしょう。

ただ、たけしの監督デビューはいわば偶発的なことであり、現にたけし以外のコメディアンが商業映画の監督をつとめる(というか起用された)ケースはほとんどありません。(紳助の映画も純粋な商業映画ではない)
いくら松本がそっちの方にシフトしたがったとしても、それを受け入れる土壌が日本にはないわけですし、しかも全国的にみれば『かけだし』の存在だった松本がそういうチャンスを得ることはありませんでした。これはダウンタウンが大御所的な存在になった2005年でもおなじで、あれだけ映画製作への意欲を語っているにも関わらず、いまだに叶っていないわけです。
それを考えると、たけしがいかに運があったかがわかると思います。(もちろん才能があったことも否定しないが)

はっきりいってしまえば、現時点で松本の映画製作はかなり絶望的です。たけしはまだ『戦場のメリークリスマス』(1983)をはじてとして俳優としての評価があったわけで、つまるところ映画界とのつながりがあった。しかし松本は皆無ですよね。たぶん何本かの、他人のつくる映画で主演してからでないと無理だと思うし、だからといって今更そんなことをやるとも思えないし。
もし映画をつくることになっても商業映画ではなく、限りなく低予算なオフシアター向けのものになりそうな気がする。しかしそれならOAVでもいいわけで。
まぁ≪ダウンタウン主演、松本人志監督≫の商業映画が封切られることはまずないでしょうね。

さて

ダウンタウンがローカルスターだった時代、その人気を支えたのは女子高生をはじめとする若い女性たちでした。とにかく若い女の子から絶大な人気があったことは間違いありません。なにしろお笑い一切抜きの、歌だけのコンサートをふつうにやってる(もちろん関西限定で)状況だったんですから。
こうした『お笑いのアイドル路線』は関西ではさほど珍しいものではなく、古くは中田カウス・ボタンにはじまり、あのねのね、そして明石家さんまへとつづいていくのですが、この流れは漫才ブームの余波で全国へと飛び火しました。

その決定版ともいえるのがとんねるずなのですが、とんねるずのキャラクターは「陽」そのもので、「とんねるず」というネーミングの由来となった「暗さ」は、その名前が知られるころには影も形もありませんでした。
とんねるずが『オールナイトフジ』、『夕やけニャンニャン』といったテレビ番組、『一気!』や『雨の西麻布』、『歌謡曲』(個人的にはすごい名曲だと思う)などで大ブレイクした時、(若干時期はずれるものの)スケールを大阪に限定したバージョンがダウンタウンだったわけです。共通点はもちろん「アイドル路線」ですね。

ただしとんねるずが「陽」とするなら、ダウンタウンは「陰」そのもので、笑いのベクトルは正反対だったといってもいいでしょう。つねに当事者の立場のダウンタウンと、あくまで第三者的立場をとり続けるとんねるず、という部分でも正対している。

結果的にはこれがおたがいにとってよかったんじゃないかと思うのです。

『ごっつええ感じ』では、『みなさんのおかげです』の十八番ともいえるパロディコントを封印し、楽屋オチも極力排除していました。一方とんねるずも、ひたすら世間の評価など一切気にしていませんよ、といわんばかりの、自分たちがおもしろいと思える企画をどんどん実現させていった。

なんだかね、この二組はN極とS極のような気がするのですよ。反発しあいながらもお互いのパワーを自分のパワーに変えて浮上していく、というようなね。
ただどうも最近はダウンタウンが、あいかわらずマイペースのとんねるず側に近づいている気がしないでもないですが。

ここからは「ダウンタウン・松本」、「ダウンタウン・浜田」という、ひとりひとりにスポットを当てて書いていきます。

まずは松本から。
初回でも宣言した通り、松本の発想力はあえて無視してきましたが、今回もやっぱりそんなに触れません。なぜなら発想力よりももっともっとすごい武器が松本にはあると思うからです。
以前、ダウンタウンが彼ら以後の芸人にどれほどまで影響をあたえたかという話を書きました。簡単にいうと「彼らの『ボソボソしゃべる』という、うわべだけを真似た芸人が続出した」みたいな内容だったんですが、主に『ボソボソしゃべ』っていたのは松本の方です。しかし松本のすごさは、やる気がなさそうにボソボソしゃべっているようにみせて、実のところものすごく滑舌が明瞭なのです。
『ごっつええ感じ』のゲームコーナーで早口言葉をやるという回がありましたが、他の共演者をものともせず、ダウンタウンのふたりが圧倒的にうまかった。特に『ボソボソ』というイメージのある松本の滑舌のよさは、かなりの衝撃ものでした。

つまり松本は『ボソボソ』を芸風のひとつとして取り入れているわけで、ああいう風にしかしゃべれないからじゃないし、それを実現できるテクニックがあるのです。そりゃいくら表面上のスタイルだけを真似しても、それこそ発想力も何もかも劣る人が松本の足元にもおよぶわけがないのです。(そもそも松本のスタイルを取り入れようとした時点で、その芸人にはセンスがない)

もうひとつの武器は、あのいかにも運動神経のなさそうな動きです。
松本の動きは、たしかに運動神経が悪そうだけど、実に手足がよく動くでしょ。そして動きにテレがない。
ふつうはテレますよ。でその結果、中途半端な動きになってしまっておもしろくない。でも松本は思いっきり動くことで、不自然な動きすら武器にしてしまった。

これはさきの『ボソボソ』とセットになっていると思う。『ボソボソ』はある種気取ったというかテレの入った芸風です。でもそれだけじゃ生意気にみえすぎて親近感がない。それがあのケッタイな動きをすることによってバランスをとってるような気がするんですよね。

さて浜田の話です。
松本とは反対に、浜田は『立ち姿』が実にさまになっている。バラエティ番組でも献身的に動きまわりますが、その動きが本当にきれいなんですよね。これをみるだけで「ああ、この人は天性の芸人なんだ」と思ってしまうわけです。

浜田といえばツッコミですが、ここでツッコミに関して身震いのするようなエピソードを披露しましょう。

アタシの知人で、名前は伏せますが吉本で漫才をやっている人がいます。いわばダウンタウンの後輩にあたるわけです。
知人の方はボケなんですが、そのコンビは「ツッコミが凶暴すぎる」とみられていたんですね。ところがある日、ひさしぶりにこのコンビの漫才をみたら、メチャクチャおもしろくなってたんですよ。特に「凶暴すぎる」と揶揄されたツッコミがすこぶるよくなっている。
アタシはその知人に「いったい何があったのか」ときくと、驚くべき答えが返ってきたんです。

「あれなぁ、あいつ(ツッコミ)、浜田さんにアドバイスもろてん。『お前、ツッコんだ後、何でもええからニコっと笑え』って。それから急に変わった」

この話をきいた時、アタシは震えがとまりませんでした。『ニコっと笑え』なんて単純きわまるアドバイスですが、これは「ツッコミとはいかなるものか」を完全に掌握していないと到底でてこない言葉です。
『笑え』というのは「これはツッコミであって、本気で怒っているのではないですよ」という合図なんだけど、それを至極単純な言葉で(しかも誰でも飲み込める)アドバイスができるなんて、ちょっとできないですよ。これは人にものを教えたことのある方なら、≪ひとつだけポイントを指摘して、全体が劇的に変化する≫ような、このアドバイスのすごさをわかっていただけるんじゃないかと思います。

浜田はたびたび「(のりお・よしおの)上方よしおと、(中田カウス・ボタンの)ボタンのツッコミが好き」と語っていますが、漫才好きな人からみれば、非常にマニアックな好みですよね。
野球が嫌いな人には苦痛な話でしょうが、なんだか「土肥さんのバッティングフォームを参考にした」と公言する現中日監督の落合の話と相通じるものがある気がするのです。「そこからヒントを得るか」という部分と、完全に自己流に消化して、それこそ誰にも真似ができないものをつくりあげたという部分においてね。

さて
ダウンタウンの番組といえば、『ガキの使いやあらへんで!』か『ごっつええ感じ』、もしくは2回目でも触れた『4時ですよ~だ!』、そして現在も放送中の『ダウンタウンDX』、『HEY!HEY!HEY!』あたりが浮かぶと思います。
この中でもダウンタウン自身の燃焼度が高い(高かった)番組といえば、『ガキの使いやあらへんで!』か『ごっつええ感じ』になるのでしょうが、アタシが個人的に一番好きだったのは『夕焼けの松ちゃん浜ちゃん』(のちに時間帯を変えて『松ちゃん浜ちゃんの純情通り3番地』にリニューアル)なんです。

これは吉本新喜劇のフォーマットにダウンタウンを当てはめたもので、ダウンタウン以外にも今田耕司や東野幸治、ほんこんなどの、いわゆるダウンタウンファミリーも出演していました。

朝日放送の日曜12時では、木村進・間寛平・コメディNo.1による『あっちこっち丁稚』以来、吉本の若手芸人を中心とした吉本新喜劇が多数制作され、桂三枝の『花の駐在さん』やさんまの『さんまの駐在さん』などで、途中中断したものの、現在でも陣内智則とフットボールアワーの『横丁へよーこちょ!』が放送されています。

なにしろ下地が吉本新喜劇なので、基本的にハナシはどれもいっしょ。逆にいえばそれだけその芸人の力が試されるわけです。

浜田はコンビニの店長かなんかの役だったんですが、エプロンのポケットにね、スリッパが常時入ってるんですよ。もちろんツッコミ用に。
それでボケまくる共演者をことごとくチェックしていくんですけど、これが最高におもしろかった。もちろん松本もでててるんだけど、ちゃんと吉本新喜劇風の、しかも松本らしいボケ方でね。

アタシの持論として「一流の芸人はベタをやらせても巧い」というのがあるんです。たけしもそうでしょ。あの人も実はベタの方がおもしろかったりする。逆にいえば、ベタもできないようじゃ、シュールな笑いはできないってことなんでしょうね。うん。

さっきも書いたように、現状ではダウンタウン主演・松本監督の映画はほとんど無理な情勢です。ではこれからのダウンタウンに何をやってほしいかというと
「ベタな笑い(コントでもコメディでもなんでもいいから、バラエティでなくとにかく作り物で)をダウンタウン流に処理した番組をやってほしい」
のです。
そういう展開は松本の本意ではないかもしれないけど、そういうのをもっと見てみたいと本当に思います。
『明日があるさ』の映画版だって、最初の構想通り『社長』シリーズのリメイクにしておけば、もっとわかりやすい喜劇になったのに。本当にもったいない。

最後になりますが、ここまで封印してきた≪松本の発想力≫のことですが、アタシは何も認めてないわけではないのです。実際『4時ですよ~だ!』以来、何度そのボケに愕然としたかわかりません。ただ松本の線でダウンタウンが動くと、少しアンダーグランド寄りになってしまうような気がしています。
それじゃ困るんですよ。「一部のわかってる人だけに向け」てやるのではなく、もっともっと幅広い人にアピールするような、そしてダウンタウンの持ち味を完全に活かした番組をこれからもやっていってほしいんです。

だってそんな、マニアックな存在で終わるようなタマじゃないもん。ダウンタウンは。




各エントリの前フリをカット、そしてブリッジとして若干補足を入れましたが、評価等は一切手を加えていません。松本が映画を撮るのはまず無理、といった部分もあえてそのままにしています。

本来ならここで「今の視点」を加えるのですが、さすがに長すぎるので次回へ持ち越します。