2011年12月30日金曜日

阪急ブレーブスへの熱き思い

ずっとペンディングになったままになってるエントリアイデアがあって、1976年のプロ野球に関してなんですけど。
これはもう、それなりの調査が不可欠でして、少しずつ資料を集めているんですけどね。
何故1976年なのか、といえばアタシがプロ野球という興行に興味を持ったのがこの年でして、強い思い入れがあるんですね。

最初は何もわからず巨人と阪神を応援するとかいってて。周りにそんな奴いないとかいわれたんですね。当たり前なんですが。そんで巨人はやめてとりあえず阪神にしてみたのですが、その頃最強だったのは巨人でも、もちろん阪神でもなく阪急ブレーブスだったんです。
当時の阪急にはきら星のごときスターが揃っていました。
世界の盗塁王福本豊、イケメンサブマリン山田久志、豪快なスイングと巧打を兼ね備えた加藤秀司、打撃フォームがカッコいい長池徳二、快速球投手山口高志・・・。これにマルカーノ・ウイリアムスの両外国人、代打の本塁打記録を持つ高井、いぶし銀大熊、老練足立、超個性派の森本など脇役も揃っており、本当にいいチームでした。
しかしいかんせん人気はまったくなかった。これだけのメンツを揃えておきながら人気がないというのも異常で、当時は関西といえど阪神人気も寡占状態ではなかったんです。なのに人気がなかった。
そんな人気のなかった阪急にアタシが強い思い入れを寄せたのは、もちろん強かったこともあります。しかしそれだけじゃない。当時ね、土曜日と日曜日の夕方に阪急主催のゲームをテレビで毎週やってたんですよ。これを見るうちにどんどん引き込まれていった。
だって、何度もしつこいけど、これだけのスター軍団なんですよ。そりゃ引き込まれますって。何しろ子供だからね。もう単純に憧れるわけです。

生まれて初めてプロ野球の試合の生観戦をしたのも阪急戦でした。
場所は西宮球場。いや、もうこれは最高の球場だったと言い切れます。実際に当時の映像を見るとね、外野の芝生とかハゲまくってたりするんですけど、もうそんなことは関係ないわけです。
どうしても比較対象になるのが同じ西宮市にある甲子園球場なんですけど、甲子園はもちろん日本一の球場です。スタジアムに入った瞬間のあのトキメキは何物にも代え難い。しかし西宮球場だって負けていませんでした。
特に最寄り駅の西宮北口から西宮球場までの道のりが大好きでした。あの高揚感。一生忘れませんよ。
西宮球場は甲子園と違ってどこか近代的でね、スコアボードもオレンジで何となくおしゃれだったし、甲子園にはない二階席もあったしね。アタシはとうとう後楽園球場には行けずじまいでしたが、まさに関西の後楽園といった感じでした。(いや違うな、関西の後楽園は大阪球場か)

アタシが阪急に心を砕いていたのは1978年までです。結果的にあの日本シリーズの抗議から熱が冷めちゃいました。いや抗議云々じゃなくてアタシが見始めてから阪急は、たった2年とはいえずっと日本一だったんですよ。それがこの年日本シリーズで負けてしまった。
ちょうどその年の暮れ、阪神に大変革があり、そう、あの江川問題です。そして江川初登板の試合で阪神打線が江川を打ち崩したことが完全に阪神一本に絞るきっかけになったのです。

これね、今でも思うことがあるんですよ。もし、もしもね、阪急がヤクルトに勝って日本一になって、江川問題に阪神が一切絡んでなかったらどうなってただろうなって。

それ以降、もちろんパ・リーグでは阪急を応援していたんですが、もうあの頃のような情熱はなくなっていました。
アンダーシャツが赤になり、近鉄を真似たような帽子になって、阪急というチームの持っていたカッコよさみたいなのが消えた気がしたんです。
1980年代前半、山田や福本は現役だったとはいえ衰えを隠せませんでしたし、足立や長池は引退、加藤秀は広島にトレードされ、山口はまさに燃えつきました。アタシが思い入れを持った選手がどんどん減っていって、ユニフォームはダサくなるし、チームもなかなか優勝できなくなっていきました。
それでもやっぱり、阪急は他のパの球団とは別格でした。阪急電車に乗って阪急戦のポスターを見るにつけ熱いものがこみ上げてこなかったといえば嘘になります。
しかしそれもオリックスへの身売りで、さらには本拠地を西宮球場から神戸グリーンスタジアムへ移転したことによって、完全に、残りカスもでないくらいアタシも燃え尽きてしまったんです。

阪急ブレーブスは完全に記憶の中だけのものになりました。当時の写真や映像を見ると、もちろんいろいろ蘇るのですが、それより「もうなくなってしまったんだ」という虚無感の方が先にきてしまいます。
それでもですね、やはりこれだけは違う。この歌を聴くと、やっぱり思い出してしまう。今でもソラで歌えるこの歌だけはね。