2009年1月31日土曜日

考えるな

考えて考えて、それで本当に良い結果がでるのだろうかと考えると夜も眠れない。

楽天イーグルスのスローガンが「氣」になったそうだ。去年が「考えて野球せぇ!」だったから180度方向転換したといえる。
考えたのはもちろん野村克也監督。なぜこうも違う方針を打ち出したか、そもそも考えて野球するということに無理があったように思う。
まだ「考えて練習せぇ!」ならわかる。しかし実戦中に考えてたら余計なミスが増えるだけじゃないか。
人間一度に多くのことは考えられない。考えることが増えれば増えるほどミスをしてしまう確率が高くなってしまう。
じゃあどうすればいいのか、これは簡単だ。実戦で考えなくても様々なことが実行できればいいわけだ。
そのためにはどうしても練習というものが必要になってくる。つまりは「こういう状況の時はこういう風にする」というのを身体に覚え込ませるわけだ。
考えて行動するんじゃなくて、いわば条件反射のような形で行動する。この方が絶対的にミスは減る。

自動車の運転にたとえるとわかりやすい。最近は減ってきたが、マニュアル車を運転する場合。
まずクラッチを踏む。次にギアを変える。クラッチを離す。厳密にいえば回転数を合わせてやって半クラッチでつないでやる。
こんなことを頭で考えながらやったって到底うまくいかない。ところが何度も何度も練習しているうちに条件反射でできるようになってしまう。
路地に入る時も同じだ。スピードを落として路地の角にあるミラーを確認しながら進む。これも考えながらでは、逆に咄嗟の判断ができなくなる。
あまり考えてないから、何か唐突な出来事、たとえば人や自転車が急に飛び出してきても対応できる。脳味噌に余裕があるからだ。
運転に頭がいっぱいな人の車には同乗したくない。逆に助手席の人とおしゃべりする余裕のある人の車には安心して同乗することができる。

そう、実戦で考えちゃダメなのだ。百戦錬磨の野村監督がそんなことも気づかなかったのは解せない。いや、ヤクルトの監督をやってた頃まではID野球とか標榜しながら、実際は「(相手に)考えさせる野球」をやってたような気がする。
相手に余計なことを考えさせてミスを誘発する、それが野村野球だと思っていたのだが。

相手に考えさせることで勝つチームならあったと思うが、自分とこで実戦中に考え込んでしまって勝てるチームなんて自分はあまり知らない。

2009年1月28日水曜日

俺たちの朝

手を抜いちゃいけないとこで手を抜くってのは、結局力の入れどころがわかってないからなんだろうか、とか考えると夜も眠れない。

今、ファミリー劇場で「俺たちの朝」をやってる。はじめて見たのは中学生の時。たしか関西テレビで深夜に再放送をやってたはずだけど、これがもう、面白いというより、すごい影響を受けたというかね。
それからン十年。あらためて見返してみると、やっぱりすごいドラマだなと今更ながら感服する。
高校生の時に、前作ともいえる(製作会社が違うけど)「俺たちの旅」にもハマって、でも10年後とか20年後とか作られる度に、どんどん嫌になっていったというか、本編への思い入れも削がれるようだった。
「俺たちの朝」は変な続編とか作られず、逆に永遠の命をあたえられたような気がする。

このドラマの舞台は鎌倉・湘南といった、いわゆる江ノ電沿線。このドラマのおかげで江ノ電が廃線にならずに済んだという話は有名だ。
まあそれはいいとして、昔、一時期湘南に住んでたことがあって、今でも時たま行くことがあるんだけど、すごい丹念にロケしてるってわかるのね。もちろんだいぶ変わっちゃったんだけど、それでも「あ、あれはあの辺りだな」とかわかってしまう。
去年だったか、織田裕二が、ほれ、アイラーブベイベーとか歌ってたドラマがあったでしょ。あれも湘南が舞台なんだけど、これって絶対湘南でロケしてねーよみたいなとこが頻発してたからね。
ホント、ちゃんとロケしろよ。てかロケハンすらしてねーだろ。許可がおりるとか役者のスケジュールの都合なんて関係ない。そういうことが如実に完成度をさげるんだから。
それは置いておいて「俺たちの朝」ってドラマ、というか作劇としてもよくできてる。役者の技量というよりもやっぱり脚本がちゃんとしているのが大きい。
いずれちゃんと書くつもりだけど、登場人物の心情を無視したり、絵で見せることを放棄してナレーションとかで話を進める、現在放送中の某朝ドラとかとは全然違う。
もうね、脚本家を含めたドラマの作り手が「力のいれどころ」ってのがわかってない、いや、キチンと伝承されてないんじゃないかという気がする。
やるべきことをやってないと「奇抜な設定」も「現代性(旬の役者を揃えることも含めて)」も意味ををなしてこないと思うんだけど。

何だか愚痴っぽくなってしまったけど、今放送されているドラマで「俺たちの朝」ほど「力のいれどころ」がわかっているドラマを自分は知らない。

2009年1月27日火曜日

特技

どうしても「特技」と聞くと円谷英二を思い出してしまう人を自分は・・・これじゃ終わってしまうじゃないかと考えると夜も眠れない。

こないだ書いた「趣味・映画鑑賞」の「特技・パソコン」版である。
大昔、まだマイコンなんていう呼び習わしをしてた時代、特技なんて答えようと思えば、BASICでプログラムが書ける程度じゃだめで、マシン語を使ってゴリゴリ書けないととてもじゃないけど特技とはいえなかった気がする。
いつしか呼び名がマイコンからパソコンに代わり、90年代に入る頃には、パソコンを使えるイコールプログラムが書ける、ではなく、ソフトが使いこなせる、に変わっていった。パソコンは電子ブロックの仲間から、ビデオデッキとかの仲間になった瞬間である。
パソコンのソフトプレーヤー化はマックとファミコンが果たした役割が大きいと考えるが、それはまた別の話。
今ではソフトが使いこなせるイコール特技・パソコンになった、といい。いや、やっぱりよくない。
たとえばCADソフトやDTPソフト(アドビのやつ)、DTV、DTMなどが使いこなせる人って「特技・パソコン」ではなく「特技・CAD操作」なりDTPなりじゃないのかね。
が、これらができるのは「十分条件」ではないものの「必要条件」には違いない。
それにやっぱり「特技・パソコン」というからにはプログラムが書けるぐらいでないと話にならないんじゃないだろうか。
ところがプログラムといってもいろいろあって、Windows用アプリケーションもそうだし、ケータイ用JAVAアプリも然り。PHPなんかのWEBアプリも立派なプログラムだ。
それを言い出すとスクリプト程度ならどうなんだ、とか、エクセルのマクロとかは、とかいくらでもいえるが、問題はそこじゃない。
はたして数あるアプリケーション、それこそCADとかDTPとかのソフトをすべて完璧に使いこなすことができて、しかもWindows用、Mac用、Linux用のアプリが書けて、当然JAVAアプリなんかお茶の子さいさい、WEBにも精通し、サーバさえ用意してくれたらGoogleMapsやGMail程度のものなんて簡単だよ、と言い切れる人でないと「特技・パソコン」とは呼べない気がする。
はたしてそんな奴この世にいるのか?某巨大掲示板なんかみると、天才ハッカー気取りの酢豆腐野郎がごろごろいるけど、ただ知識が偏ってるだけじゃねーかとしか思えない。

もし履歴書とかに「特技・パソコン」なんてこと書こうものなら、そういうのに疎い上司から何をいわれるかわかったもんじゃない。
「キミ、ライバル社のホームページをハッキングしてくれないか」
「このエアコン、マイコン内蔵とあるが、これでエクセルを動かせるようにしてくれ」とかいわれる可能性もある。
いくら理屈で説明しても「パソコンが特技と書いてあるじゃないか!そんなこともできないのか!」とかいわれるかもしれないのだ。

ああ恐ろしい。絶対迂闊に「特技・パソコン」なんて答えるまい。ま、実際そんな目にあってる奴を自分は知らないけど。

2009年1月26日月曜日

かわいさ余って

世の中にはかわいいもの至上主義みたいな人がいる。なぜそうなるのか考えると夜も眠れない。

自分はかわいいものにはまったく興味がない。無論ペットはかわいいと思うし、サンリオやディズニーにも若干ながら興味がある。しかしかわいいから興味があるのではなく、キャラクタービジネスに対しての興味にすぎない。
そもそも齢40にもなろうという男がかわいいものに興味を示すということ自体おかしい。

かわいいものが好きな人は何でもかわいくしたがる。最近一番驚いたのが、ナンバープレートをプーさんとかで飾り付けるグッズを装着した車を見た時だ。
いや、ナンバープレートをかわいくしてどうする。ナンバープレートをかわいくするということは戸籍謄本をかわいくしたがるみたいなもんじゃないか。
何もかわいくすることを全否定しているわけじゃない。やはりしていいものとしちゃいけないものがあるんじゃないかと思うだけだ。

まあそれでも自分の身の回りだけかわいくして楽しんでいる分には罪はない。コマるのはかわいさを他人に強制しだした時だ。
たとえばメールだ。別に絵文字なんてもんはあってもいいと思うし、使いたいやつは使えばいい。しかし絵文字を使っていない=気持ちがこもってない、なんていわれると話が違ってくる。
そもそもメールの文章をかわいくする必要がどこにある。殺伐と用件だけ書くのもどうかと思うが、かわいくするかどうかは本人の意志だろ。
以前はキャリアが違うから、という言い訳もできたが、昨今はそういうわけにもいかなくなってしまった。

しょうがない。絵文字を使ってきたメールの返信には絵文字を使って返してしまう。ところが使い慣れてないもんだから、かわいくする要領がわからない。んでできあがった文章はかわいいなんてもんじゃあない。まさに憎さ百倍だ。
ええい、かわいいなんてこの世からなくなってしまえ!そうひとりごちながら必死で絵文字を使ってメールを書いてる人を、自分は他に知らない。わけない。かなりいっぱい知っている。

2009年1月25日日曜日

趣味

初対面の時の質問には何でああ意味がないことばかりなのだろうと考えると夜も眠れない。

「趣味は何ですか」お見合いでの定番の質問だ。
お見合いなんかしたことがないが、おそらく定番問答として今も普通に行われているのであろう。
別にお見合いじゃなくても、つい、という感じでこういうことを聞いてしまう人がいる。本当に相手に興味があるわけじゃない。あくまで「つい」なのだ。
いや会話だけじゃない。今時ブログのひとつを立ち上げようとかSMSに登録しようとしても記入欄があるし、一番わからないのは履歴書なんかにもそういう欄がある。

こういう質問をされると、もう何てこたえていいかわからない。だから無難に「映画鑑賞」なんて答えてしまうのだが、これはいくらなんでも広すぎて答えにも何にもなってない。
映画ったっていろいろある。かく言う自分も、ロードショー映画なんて年に一度行くかどうかというレベルだ。
DVDやCSでやってる映画を観ることも映画鑑賞になるのか?いやいや、映画鑑賞と上段に構えるからには、やはりスクリーンで観ることが前提になるだろう。
最新作じゃなくても、ぴあの映画欄をみれば結構いろんな映画をやっている。自分が好きなお古い邦画なんてのも、数年前に比べるとずいぶん数が減ったとはいえ、上映している劇場がいくつかある。
しかしだ。お古い邦画といってもいろいろあるわけで、東宝の特撮物が好きな人もいれば、東映のヤクザ物が好きな人もいる。あと黒澤明しか興味ない人も小津や成瀬が好きな人だっている。
が、当然そんなことは答えない。
本当は「趣味は映画鑑賞です。といっても邦画、それも東宝系の作品が好きで、東宝系なら戦前のものから昭和40年代前半のものならまんべんなく観ますね。あ、でもゴジラとか特撮系はあんまし興味がないんですね。それと傍系の東京映画製作のものもちょっと苦手です。でもそういうのもまったく観ないわけじゃないし、松竹だって日活だって大映だって東映だって、もちろん新東宝も、アンテナに引っかかるものであれば観ますよ」
なんてことを一言で済ますと「趣味は映画鑑賞です」になってしまう。

なんだか相手を馬鹿にしてる気がしないでもないが、そもそも「趣味は?」なんて無茶ブリをしてくる人には失礼も何もないのだ。てかそんなことを気にしている人を自分は他に知らない。

2009年1月24日土曜日

デレツン女

綾瀬はるかのような女が身近にいるかと思うと夜も眠れない。

といっても別に綾瀬はるかを好きでも嫌いでもないし、実像も知らないし興味もない。
しかしきっとデレツン女、みたいな役をやったらぴったりハマると思うし、どうしてもそういう人に見えてくる。
ツンデレではなくデレツン。そんな言葉があるのかって?知らない。今適当に考えた。

たとえば好きでもなんでもない男に手作りのチョコレートとか手編みのマフラーをプレゼントしたりする。
男は「あれ?俺のこと好きなのかな」と勘違いする。ふたりきりで旅行なんかに誘ったら簡単についてくる。
でも絶対にセックスはさせない。だって好きでもなんでもないんだから、という理屈だ。しかも本人に悪気なんか一切ない。無意識というか無自覚な悪女といってもいい。この無自覚なところが男からすればものすごくタチが悪い。

逆にいえばノーマルな恋愛もののヒロインなんかは絶対に似合わない。男と女がだんだん惹かれあって・・・みたいな役をやらせたらヨサが死ぬ。
こういうタイプの女優さんというのは、今のところ綾瀬はるかしか自分は知らない。

2009年1月23日金曜日

タイムスリップ

もしタイムマシンが発明されたらと考えると夜も眠れない。

「どこの国へ行ってみたい?」なんて話題になると、大抵自分は押し黙ってしまう。
基本海外には興味がないんだけど、まったくないわけじゃない。イタリアなんか行ってもいいかなと思いますがね。
でも本命は時間旅行だ。わかってる。だから口にはしない。だけれども、もし叶うならば過去の日本に行ってみたい。
タイムスリップをテーマにしたフィクションなんて星の数ほどあるけど、心ある作品ならまずタイムスリップした後、現金をどう得るかがさし当たっての問題になる。
未来がわかるんだから大儲けできそうなもんだけど、これがよくよく考えると難しいんですな。
まず株。その当時は無名でも大企業に成長できそうな会社はわかる。しかし根本的な問題で、株の買い方がわからない。
競馬なんてのもよさそうだけど、何年のどのレースにどの馬が買ったなんて記憶しているほど詳しくない。だからこれもダメ。
たとえば将来価値があがりそうなものに眼をつけて大人買いする、なんてことは可能っぽい。
手塚治虫や藤子不二雄の初期の単行本なんて一冊数百万円だし、10冊も買っておけば大金持ち、とまでいかなくても小金持ちぐらいにはなれそうだ。
でもまてよ。価値があがってくれるまでひたすら時間をやりすごさなきゃいけない。なんて気の長い話なんだ。
もっと地道な商売にしても、もし今持ってるパソコンとか持っていけるなら小ロットの印刷屋なんかできそうだけどインクがなくなったらおしまいだ。

何というか、これは商才の問題ですな。未来のことがわかっても、便利な機械を持ってたとしても、結局商才がなければどうしようもないってことですわな。
しかしここまで商才のない人間、というか自分以下の商才の人間を他に知らない。

2009年1月20日火曜日

宮川泰ってすばらしい

体調が悪くて更新間隔が開いてしまった。身体は元に戻ったが、また無事書き連ねていけるのかと考えると夜も眠れない。ということはない。

元々身体は頑丈な方ではない。子供の頃から内臓系が弱く、幼稚園の時に内臓系の病気で入院している。初の病気による入院だった。
おとなになってからも胃腸の弱さは困ったもので、たいていそれが引き金となって風邪を誘発する。
だから風邪なんて慣れっこなのだが、どうも風邪を引くと感情のコントロールがしづらくってしょうがない。
些細なことで腹を立てるのもそうだが、妙に涙もろくなったりもする。まあこれはトシも関係あるのだろう。

ここんとこ聴く度に涙がでてくる歌がある。
「エイトマン」と「若いってすばらしい」だ。
「エイトマン」は説明しだすと長くなるのでまた今度にするが、「若いってすばらしい」はもっと単純に、バックグランドとか関係なしで涙がでてくる。
いや、もしかしたら昭和という時代の中で、たった一曲をあげるのなら「若いってすばらしい」になるのかもしれない。それぐらいの名曲だ。
岩谷時子の歌詞もいいが、槇みちるの声もいい。そしてなんといっても宮川泰だ。
生前この曲を自作の中で一番好きな曲にあげていたが、メロディがいいというのは実は珍しい。
宮川泰という人はあきらかにアレンジャーよりの人で、だからアレンジが素晴らしいのは当たり前であり、しかしメロディメーカーではなかった。
作編曲を担当してる楽曲をよく聴いてみると、実はメロディは少ないのですね。それを多彩なアレンジで魅せるのだが、素人考えではメロディをつくるよりアレンジの方がよほど面倒そうなのに、とか思ってしまう。
しかし「若いってすばらしい」に関していえば、特にBメロ(サビ)が素晴らしくよくできていて、いつもここで落涙しそうになる。

宮川泰は「明日があるさ」を念頭においてつくったらしいが、個人的には「明日があるさ」(これも十分名曲なのだが)を超えている気がしてならない。
相手はあの「上を向いて歩こう」の中村八大。それをやすやすと、とまでいかなくても超えてしまったと感じさせる曲をつくりあげた宮川泰。
「意識したものを超える」という例を自分はあまり知らない。

2009年1月12日月曜日

泣き笑い

泣き笑いをフィクションとして表現するのがどれだけ難しいか考えると夜も眠れない。

2007年度下半期に放送された朝の連続テレビ小説「ちりとてちん」は視聴率こそ悪かったものの一部で熱狂的なファンを生み、DVDの売り上げもよいらしく、放送が終了した後もファンミーティングが行われるなどしている。
自分からすればこのドラマの視聴率が悪かった事がおかしく、熱狂的ファンが多いのは当然だと思っている。
「ちりとてちん」は近年稀にみる、いやそもそも作劇でほとんど成功した例のない「泣き笑い」を作り出すのに成功しているのだから。
「泣き笑い」というのはよく誤解されるが、泣かせることと笑わせることが交互にくる状態ではない。
泣くと同時に笑いがこみあげてくる、もしくは笑うと同時に涙がでてくることを指す。
しかしこれをフィクションでやるのは至難の業だ。
山田洋次は泣き笑い劇の名手といわれるが、実際「泣き笑い」のあるシーンはあまりない。とはいえ全然ないわけではなく、はっきりいえばひとつふたつあるだけでも凄いことなのである。
もうひとり日本には藤山寛美という天才喜劇役者がいたが、基本的に古い台本でやることが多かったため、肝心の泣かせる部分が日本人の心境とはズレていってしまった。
それを「ちりとてちん」は藤山寛美のような天才抜きで成立させてしまったのだからたいしたものであり、評価されてしかるべき作品なのである。
もちろん渡瀬恒彦のような名人がでていたこともあるが、あくまで群衆劇であり、まんべんなくいろんなシーンで「泣き笑い」を作り出すことができたのは、ひとえに脚本の出来のよさのおかげだろう。

比べるのも申し訳ないレベルだが、今放送されている「だんだん」の脚本の、いや脚本とすら呼べない酷いものを見るたびに「ちりとてちん」がいかに優れていたかを思い知らされる。

「ちりとてちん」(脚本・藤本有紀)も「だんだん」(脚本・森脇京子)も、どちらも新進気鋭の女性脚本家が担当しているという共通点がある。しかしまさかNHKの担当者もここまで差がでるとは思ってなかっただろう。実際こういう例を自分は他に知らない。

2009年1月11日日曜日

羞恥心と立見里歌と地デジ

別に業界関係者でも何でもないのでテレビがどうなろうと知ったこっちゃないが、それでもこれからテレビというものがどうなっていくのか考えると夜も眠れない。

テレビ史上最大の愚行ともいえる羞恥心の活動が終わった。こういうノベルティものはイタいのは当然で、いやある種イタければイタいほどいいのだが、羞恥心に関してはイタいというより、悲しくてしょうがなかった。
いや羞恥心のメンバーには何の嫌悪感もない。むしろ見ててかわいそうになったぐらいだ。
たしかに彼らは売れた。しかしそれはいずれ相殺されるに違いない。なぜなら彼らの活動は彼ら自身ではなく、テレビ界の汚点になるはずだから。

それでも最初は生暖かく見守っていた。ま、「おバカ」を売りにするのは目新しいんじゃないの、と思ったからだが、よくよく考えると立見里歌が先駆者じゃないかという気がしてきた。
立見里歌はおニャン子クラブの元メンバーであり、メンバーの中でも年齢が高いこともあり最初は地味な存在だった。
ところが石橋が「オイニィ」(臭い、ですわな)という名前をつけてイジりだしたら、わけのわからない人気がでてきた。
挙げ句、ニャンギラスというグループ内ユニットのメインボーカルになり、その名もずばり「私は里歌ちゃん」というレコードをリリース。オリコン1位を獲得してしまう。
立見里歌は東海大学に在学していたはずで、まあ年相応の知識はあったはずだが、漢字が苦手だったようで「おバカキャラ」になってしまった。
(他にも致命的に歌唱力がない、というのもあった)
こんなことを回顧してもしょうがないし、島田紳助が立見里歌を知らない(忘れた)可能性も強いのでパクったとも思わないけれど、とにもかくにも羞恥心がこの手のパイオニアでないことだけはたしかだ。

全然話がそれるが、地デジが普及しない、とお偉いさん方が嘆いているけれど、それは受信機の価格がどうこういう問題ではなく、ハイビジョンで見たいと思わせるような番組がほとんど存在しなからではないか。
いや、そもそも視聴率表とか見てると全体的に恐ろしいほど下がっており、テレビは今持ってるから見てるだけでなくても問題ない、と思ってる人が増えている気がする。
自分だってそうだ。モニタにDVD(いずれはブルーレイになるだろうが)がつながって、放送というものを見るにしろスカパーがあれば何の問題もない。

まあとにかく羞恥心のせいでテレビが墜落していかないことを願う。少なくとも「ヘキサゴンをハイビジョンで見たいから地デジにするんだよね」なんて人を自分は知らない。

2009年1月9日金曜日

飛行機嫌い

またいつか飛行機で遠出するようなことがあるかと考えると夜も眠れない。

飛行機が嫌いといっても、高いところが苦手とか、鉄の固まりが飛ぶなんて信じられないとか、揺れると怖いからとか、そういうことは一切ない。でも飛行機は嫌いなのだ。
先日も友人の結婚式に出席するため飛行機に乗った。新幹線でも行けなくはない距離なのだが、交通費が倍ほど違う。もちろん飛行機の方が安い。
というより新幹線が高すぎるのである。
しかしなんで新幹線はああ料金が高いのだろう。もしリニア新幹線を切望する理由があるなら、相対的に現行新幹線の料金が下がるかも、という期待からしかない。
まあそれはいい。
飛行機の何が嫌いといっても面倒なとこだ。
まず空港が遠い。わりと近場から空港行きのバスがでてるのだが、これに乗って空港まで90分。待ち時間が約1時間。これで飛行機がすぐに飛び立ってくれればいいのだが、離陸まで20〜30分かかる。
飛行時間は1時間半ぐらいなのだが、結局5時間ほどかかり、新幹線で移動するのと大差ない。
次に面倒なのは手荷物検査だ。検査自体はものの1分程度だが、タバコを吸う身としてはオイルライターを持っていけないのがめんどくさい。
飛行中もたいくつだ。揺れが激しい時など何度も読書を中断するハメになるので小説は向かない。
軽いコラムやエッセイなんかがいいのだが、こういう時に限って読みたい本がなかったりする。
ケータイはダメなのは当然としても、離発着時はiPodのようなものもいけない。離発着に要する時間は合わせて60分。つまり飛んでる時間は30分しかないわけで、聴いた気がしない。
「カセット式のプレーヤーならOKです」なんていわれても、もう持ってねーよ。今更テープにダビングなんてやってられますかってんだ。
そしてトイレにも行けない。行けないことはないが、時間が限られてるし、何となく行きづらい。

ものすごいわがままなのはわかってる。でもこれらのことは新幹線ならオールOKなんだもん。
それを考えると、飛行機と新幹線の料金差は
・新幹線=基本的に何でもあり
・飛行機=制約だらけ
この差なのか。うーん、何か変な気がするな。

しかし自分というやつは困ったもので、飛行機は嫌いなんだけど、空港は大好きなんですよね。あの雰囲気がたまらないんだな。
飛行機に乗る用事もないのに、飛行機に興味もないのに、空港に行きたがる男を自分は他に知らない。

「封印作品」作品の技量

読ませる文章、とはどういうものなのか、考えると夜も眠れなくなる。

ついこの間「封印作品の憂鬱」を読了した。
「封印作品の謎」も「封印作品の闇」も両方面白かったので、「憂鬱」もあわてて買ったのだが、とにかく読ませるシリーズである。
これまでも封印されたテレビ番組、映画、レコードにスポットをあてた本はあったが、どれもコラム的な紹介にとどまり、読むというより眺めるという体のものばかりだった。
しかしこのシリーズは違う。松本清張の「日本の黒い霧」を彷彿させるような"煮詰め方"で、しかも驚くほど読後感がいい。
扱う題材が題材なだけに、一歩間違うと不快感を催したり、どうしても謎解きが完遂できない時には消化不良をおこしたりしそうなものだが
このシリーズはそういうのを一切感じさせない。
自分のようなものがいうのは僭越なのだが、結局文章が巧みなのだ。
この手の本は大抵作者の思い入ればかりが強くて、それに文章がついていってないものがほとんどなのに
この作者はあえて「特別ファンではない」ものを取材対象として、一歩引いたところにいる。
だけれども取材は綿密だ。綿密な取材を重ねることによって、個人的な感情も露呈させていくのだが、それが読む側の気持ちを熱くさせて一気に読ませてしまう。

本当は自分もこういう文章が書きたいんだがね。テクニックの問題ですな。それを考えると自分より若いのにこれだけ読ませるテクニックを持ってる作者の安藤健二って人は本当にすごい。
これぐらい若くてこれだけの文章を書ける人を自分は他に知らない。

2009年1月7日水曜日

赤い編集

誰にとっても納得できる名場面集なんてあるのだろうかと考えると夜も眠れない。

こないだ撮りためた映画を消化せねばならんという話を書いたが、あまりにも骨が折れるためとうとう編集ソフトを買ってしまった。
DVDに焼いていくのはフリーソフトでもできるのだが、これが非常にめんどくさい。その点購入した編集ソフトはさすがに有料だけあって、手間も少なくて済むのがうれしい。
とはいえそれでも結構面倒なんだわ。それというのも、さすがフリーのものと違ってできることが多い。となるとどうしても少しは凝ったものにしたくなる。
しかしてこれまでと作業量は変わらないのであった。アホか。

よくよくレコーダを覗いてみると、肥やしは映画だけではなかった。ドラマなんかも結構な分量を占めている。
中でも去年TBSチャンネルでやってた「赤い嵐」を何とかしなければと思うとうんざりしてくる。
そう、そういうドラマがあったのだ。今から30年近く前の作品で、主演は柴田恭兵。制作は大映テレビ。
仮にこのドラマの存在を知らなくても、これだけ聞けば、どれほど濃厚で脂っこい内容か想像していただけると思う。
実は大映ドラマってのはあんまり好きでない。なのに保存しておこうと思ってしまったのは、柴田恭兵があまりにも面白かったからなのですな。
「あぶない刑事」以降の柴田恭兵しか知らない人には「あまりのキザぶりが面白いのかね」と思われるかもしれないが、違う。
文字通り、恐ろしいほどのコメディアンぶりで、信じられないぐらい笑わせてくれる。
顔はやっぱり二枚目だが、このドラマを見てると全然そう見えないんだからフシギだ。

奇妙なダンス、とんでもないセリフまわし。
能勢慶子との「しのぶちょあん!」「ばごどざん!(まことさん・能勢慶子のセリフ)」
緒方拳との異様としかいえない対決。どれも大映ドラマスパイスがたっぷりふりかかっている。

しかしあれなんだわ。ドラマとして、というかストーリーはどうでもいいんだよね。ただただ柴田恭兵の奇行が楽しいだけで。
だから名場面集でもつくって、こういう面白さを共有できるであろう友人に見せようと思うんだけど、これが大変すぎる。
「このシーンはいるな」
「長すぎたら逆に面白くなくなるぞ」
とか考え出したら、いつまでたっても終わらない。

初回放送から28年、再放送からでも一年近く経ってるのに、いまだに「赤い嵐」のことで頭がいっぱいな男なんて、自分以外に他に知らない。

2009年1月6日火曜日

や〜まだ

知ってることが多い方が発想の翼が広がるのか、はたまたまったく逆なのか、なんてことを考えると夜も眠れない。

昔、阪神タイガースに山田というキャッチャーがいた。キャッチャーとしてはともかく打者としては何とも非力で
貧打・阪神の象徴ともいえるような選手だった。
この頃まったく野球に興味のない友人とテレビ中継を見ていた時、彼はこの山田を指して
「彼はや〜まだと呼ばれているのか」と質問してきた。
ここでまた説明が必要になる。
「や〜まだ」とは「ドカベン」という野球漫画で、岩鬼なる八方破れの登場人物が主人公・山田太郎をこう呼ぶのである。
アニメにおいて岩鬼の声をあてた玄田哲章が独特のイントネーションで「や〜まだ」と発していたのをおぼえておられる方も多いと思う。

自分はプロ野球編でもスーパースター編でもない「ドカベン」は大好きだったし、プロ野球は今もって大好きだ。
だからこそ阪神の山田とドカベンこと山田太郎がつながらない。
たしかにキャッチャーという共通点はある。だが恐ろしいほどの打撃がウリの「や〜まだ」と打率二割すら危うい阪神の山田とは
イメージがあまりにもかけ離れている。

自分にとってはとんでもない質問をした友人は野球は知らないに等しいが、おそらくアニメのドカベンは見ていたのだろう。
知識が少なかったからこそ「名前が山田でキャッチャーをやってるならニックネームはや〜まだだろ」と思ったに違いない。
そう、これぞまさしく知らないからこその発想なのだ。
よく「童貞のうちが花だ」なんていう。知ってしまうととたんに性にたいしての想像力が落ちてしまう。
じゃあ何にも知らない方がいいのかというと、知らなすぎると発想が似たようなとこでグルグルしそうな気もするし
さっきの話でいえば「ドカベン」に関して多少なりとも知識があったからこその発想ともいえるわけで。

しかし、あれだわ。さきほどの友人、野球に興味がないのに「ドカベン」見て面白かったのだろうか。
そんな人間は彼以外に自分は知らない。

2009年1月4日日曜日

レコーダの肥やし

たまった映画を本当に消化しきれるか考えると夜も眠れない。

正月だというのに今年はまだ一本の映画も観ていない。
劇場に足を運んでないことはいうにおよばず、DVDも借りてきてはほったらかし。
HDDレコーダにため込んだ映画も全然観てない。
観ないんだったら借りなきゃいい、録画しなきゃいいんだけど
TSUTAYAなんかに行くと突発的に借りたくなるし、DVDにもビデオにもなってない映画をCSなんかでやると「一応」と録画してしまう。
んで何を見てるかというと、映画を借りるついでに借りたリチャードホールだったりする。
どう考えても志しの高い番組だったとは思えないんだけど、でもシャレ山紀信と尾藤武のコントが好きなんだよね。

そんなことはどうでもいい。たまった映画をどう消化するかって話だ。
去年の年末に消化した一本に「若い季節」ってのがある。
大昔NHKでやってたバラエティドラマ(シットコムみたいなもの)の映画版だが、まあほとんどテレビ番組とは関係ないオリジナルで
監督はかの古澤憲吾。もうこれが古澤印100%の映画なんだわ。古澤憲吾らしすぎる映画。それだけでうれしくなってしまうフシギな映画だ。

いやいや、それもまあいい。問題はHDDレコーダの映画をどうやって消化するかだった。
いろいろ事情があって3月までに何とかしなきゃいけないのだが、さすがに視聴しきるのは無理だ。
けれども消してしまうのも惜しい。そうなるとDVDへ移すという作業が必要なのだが、これが果てしなくめんどくさい。
でもやんなきゃしょうがない。しょうがないんだよ。

しかし、なんというか、映画って娯楽のはずなのに何でこんな苦行をしなきゃならんのだ。こんな苦行を黙々とやってる人を自分は他に知らな・・・・いや、いっぱい知ってる。

ケータイ大喜利のコワさ

板尾の、あの鋭すぎるセンスは、いったいどうやって培われたのか、それを考えると夜も眠れない。

「ケータイ大喜利」は「やりすぎコージー」と出演者がカブっている上、「やりすぎコージー」に比べると、NHK制作ということもあってどうしてもヌルいイメージを持たれてる方も多いかもしれない。
たしかにこの番組はヌルい。ただしヌルいと同時に非常にコワい番組でもある。何がコワいといっても、板尾のコメントがコワいのである。
先々月のオンエアで、めっきりウケなくなった投稿者を揶揄する投稿がきた時、こんなコワいことをいってた。
「芸人でもそうなんですけどねぇ、イジられだすとネタがウケんようになるんよなぁ」
続けて
「長いですよ、抜け出すの」
コワい。コワすぎる。マジでやべえなというような表情でこんなことをいう板尾がコワすぎる。小便チビりそうになる。

自分は芸人ではないので真意の推測はやめる。しかしそういうことを実際に感じた芸人にとっては戦慄が走るような言葉ではないのか。
何度もいうが、たしかに民放のバラエティに比べると「ケータイ大喜利」はヌルい。今田耕司は司会者としてレベルの高い人なのでそういうことを感じさせない絶妙の配慮はしているが、それでもやっぱりヌルい。
板尾のコメントも基本的には甘口だ。けれども時々恐ろしいほど真意を突くような発言をする。
辛口や罵倒はいわれた側の人間も逃げ道がある。しかし真意を突かれたら逃げ場所がない。
自分のいうコワいとはそういうことである。

ヌルいのにコワい、という反比例するようなことを実現させている番組を自分は他に知らない。

2009年1月2日金曜日

やっぱり年の瀬は紅白

紅白の将来を考えると夜も眠れない。

大晦日は紅白と決まってる。もう面白いとかそんなのは二の次で、ある種の義務で見てる。
裏番組がどうとか関係ない。そんなの「笑ってはいけない」の方が面白いに決まってるのだが、それでも自分は紅白を見る。

紅白がつまらない要因を「みんなが知ってる、しかも今年流行った歌がない」とか「変に民放バラエティの影響を受けている。それが痛々しい」とかいかようにもいえる。
それもあるに違いないんだけど、そんなことより客席との温度差なんですね。
昔の紅白、昔っていってもいろいろあるけど、たとえば昭和40年代の紅白って今見ても面白いんだこれが。
といってももうこの当時から構成もノリもカビが生えてるんだけど、でも面白く感じるのは
客席に座ってる人が心底楽しんでいるのが伝わってくるから。まあ紅白もテレビの収録でありながら
ホールで行うライブでもあるわけだから、客ってのは非常に重要な要素なんだよね。
構成がどんなにつまらなくても、ギャグがいくら上滑りしてても、舞台と観客席が一体になったライブって、それだけで面白く感じてしまう。
だからね、NHKも観客全員サクラにしろよ、と思う。サクラの演技力が問われるけどさ。

そこまでやってうまくいく保証はどこにもないけど。実際うまくいった例を自分は知らない。

ことはじめ

本当にこのブログが続けられるか考えると夜も眠れない。

初めてブログなるものをやったのは2004年だったろうか。サイトそのものは2003年に始めたのだが
更新が面倒になって、途中からブログ形式に切り替えたのが半年たった頃だった。
凝り性なもので、やり始めるとどんどんエスカレートしていくのは悪い癖で
そのうちサーバ借りてブログシステム組み込むは、ドメインは取るは
内容も数回に分けて書くような長文になっていくは、まさに八面六臂の大奮闘。
おまけにスパムコメント&トラックバックが一日数百。
疲れたよ、ぼかぁ。疲れ果てたよ。
やりすぎということを知らないんだ。「こうしたらもっとよくなる」と思い立つと、もう止まらない。誰にも止められない。
仕事じゃないんだからさ、疲れるまでやっちゃダメなんだよ。
じゃあやめろよ、という意見はごもっとも。でもダメなんだな。
どうも自分は「何かをすると、聴くと、見ると、ひと事いいたくなる」タチなんだわ。
だからどうしてもそういう場が自分には必要なんですの。でも前のブログを復活させるなんて、失敗を繰り返せといわれてるに等しい。

もっと気楽にブログと向き合いたい。構想など立てずに思うがままをつらつら書き連ねたい。
そんなわけでこのブログをはじめることにした。
内容は雑多なものになると思う。いったい何のブログなんだと思う人も多いだろう。
しかしそれでいい。変に特化したものにしたら、また疲れるに決まってる。
だからジャンルというかカテゴリ分けもしない。とにかく気ままに書いていくことにする。

何にせよ、ふつうブログを新しく始めることは、もっと高揚感を伴うはずだ。自分も過去はそうだった。
しかし今回はそういうものはまったくない。微塵もない。絶望的なほどない。
ある意味ここまで後ろ向きな気持ちでスタートするブログを、自分は他に知らない。