2012年8月5日日曜日

iPadの感覚

iPadを実際に使い始めるまでわからなかったことが、ひとつだけあります。それは画面のデカさです。
そりゃiPhoneに比べりゃデカいのは当たり前です。そういう意味じゃなくてね。
うちにはMacとWindowsのノートが一台ずつ、どちらも13インチ前後の画面サイズです。さらにデスクトップのWindowsは40インチのテレビに繋がっています。
不思議なのは、それらと比べても感覚的にはiPadの方が画面が大きく見えるのですよ。

映画館で説明すればわかりやすいか。
スクリーンから近ければ当然大画面に見える。離れれば離れるほど小さく見える。まあ映画館の場合は音響効果や真っ暗な閉じられた室内ってことで、いくら離れていてもやはり家のテレビで見るよりは迫力があるんですが。逆に近すぎると見づらいんですよね。
実はこれはテレビに繋がってるWindowsと同じ感覚で、40インチなんだからさぞ大きいだろうと考えたのですが、あまりにも大きすぎると疲れるだけで大きさを感じない。かといってテレビから離れると、何となく細かい作業がしづらくなる。パソコンがあんまり大画面になるのも考えものというか。
じゃあ13インチのノートPCはどうなのかって話ですが、これは完全に盲点だったのですが、ノートPCの場合、キーボードってのが手前にあるんですね。厳密にいえばトラックパッドもあるし。となると必然的に目とモニタの間隔はそれなりにあるわけです。
根拠があるわけじゃないけど、ノートPCで大画面と感じるには、キーボード+トラックパッドの奥行を考えると、17インチくらいないと大画面って感じないんじゃないでしょうかね。適当だけど。でもそうなると持ち運べないですよね。

iPadのいいところは、目とスクリーンの距離が自由自在なんですよ。iPhoneよりは遠いけどノートPCよりは断然近い。何故ならキーボードがないからね。これは盲点でした。
でもそれならiPadに限らなくてもタブレット全般にいえることなんだけど、ここで威力を発揮するのがRetinaディスプレイなんです。いくら近くにもってこれるといっても、解像度が粗かったら自然と粗さを感じない距離に離すと思うんです。でもRetinaだといくら近づけて見ても粗さをまったく感じない。だから必然的に大画面に見えてしまうわけですね。
大画面に<感じる>んだけど、物理サイズは小さいので本当に気軽に持ち運べるし。まさに「いつでもどこでも大画面」を手に入れられるのはiPadだけのような。HMD(眼鏡タイプというか頭に装着する、あれ)まで入れると話がややこしいけど。というかiPadを買ってHMDの物欲は完全に消滅しました。

完全に理想をいえば、RetinaのMacBook Airの11インチ。それもよくあるシェル型じゃなくてキーボードがスライドで出てくる。トラックパッドは無しにしてマウスで全部やらせる。その上バッテリがiPadくらい持つ。そんなんが出れば最高なんだけど、まあ無理だわな。
トラックパッド無しなんてアップルは絶対にやらないだろうし、キーボードがスライドで出てくるなんてギミックもまったくアップルらしくないし。
何よりiPad並にバッテリが持つってのが技術的に無理だわ。いや、そこさえクリアできていればiPadじゃなくてMacにしてましたよアタシは。

2012年8月3日金曜日

絶滅する方言、生き残る方言

昔3年ほど福岡に住んでいたことがあります。
実際に移住する前は、まあ有り体のベタなイメージしかなくて、食い物でいえば、豚骨ラーメンともつ鍋、みたいなね。でも住んでみると裏切られたっちゃあおかしいのですが、アタシの中のイメージと乖離している部分が多々ありました。
最も驚いたのが方言です。たとえば「◯◯ばい」とか「××ったい」とかの語尾に付けるのとか、「ばってん」とかね、こんなベタベタな方言を喋る人がほとんどいないのです。中年のおっさんはまだこっちのイメージ通りの方言を喋る人が「たまに」いましたが、若者に限ると皆無といっていい。せいぜい語尾の「と」か「けん」くらいで、それすらも全然言わない若者もいっぱいいました。
たしかにイントネーションは少し違う。でも大雑把にいえば標準語との差異はほとんどないといっていい。

ここ数年東北地方に行く機会が多いのですが、やっぱりアタシがイメージする東北弁を喋る若者をほとんど見ないんですね。
そして実家がある関係で年に数回関西に帰ってますが、若者は関西弁を喋らない、なんてことはない。老いも若きも、若干の違いこそあれど関西弁です。

何だ、もしかしたら方言って関西弁以外絶滅したのか、と思ってしまうんですよ。というか関西弁の侵食が凄い。関東の若い高校生くらいの女の子の一人称が「ウチ」ですからね。倖田來未の影響なんでしょうが。
あといっこ、これは凄いなあと思うのが「キモい」の意味が変わっちゃったことです。
数年前まで関東で「キモい」といえば<肝>、つまり「肝心なところ」を動詞化したのもののはずだったんです。
ところが関西弁の「気持ち悪い」をつづめての「キモい」に変化してしまった。最初は松本人志からの発信でしょうが、他の関西系芸人も多用することで完全に意味を変えてしまったのです。

つまり極めて荒っぽい言い方をすれば、地方は標準語化し、関東圏は関西弁化していってる。ついでにいえば関西圏は関西弁のまま、ということになります。
これ、時代を進めれば、つまり未来の話ですが、標準語が関西弁に近づいていってるなら、やがて地方も関西弁に近づいていくってことになる。後数十年で全国で主だって使われる言葉が関西弁になるってことです。(いや違うな。正確にはネイティブ関西弁と、関西弁に近しい標準語か)
そうなれば関西圏出身のアンタは嬉しいだろうって?とんでもない。正直それだけは勘弁してくれって感じです。それはマイノリティを保ちたいとかそんなケチ臭い話じゃなくて、アタシは単に音の響きとして標準語の方が好きなんです。自分はロクに喋れない癖にね。

話が大幅に逸れてしまった。そうじゃない。何で地方の若者は方言を使わないのかって話です。
テレビの影響?もちろんそれもあるでしょう。しかし一番大きいのは<メール>じゃないかと思うんです。
標準語の何が優れているといっても、口語体でありながら昔でいうところの文語体を兼ねているところで、非常に読みやすい。
前も書きましたが、関西弁に限らず方言って文字にすると読みづらいんですよ。だから関東圏以外の人も文章を書く時は、いくら近しい仲で、くだけた調子でも、標準語で書くのです。

メール文化が発達して以降、若い人の文章を書く量は飛躍的に増えたはずです。たとえ短文でも毎日数十通書いてたら膨大な量になる。しかしそこで書かれるのは標準語です。
こうなると喋りが標準語に近づいていくのも当然という気がします。

さっき関西弁が侵食してきていると書きましたが、「ウチ」にしても「キモい」にしても、文章の中にも組み込みやすいフレーズだけなんです。
たとえば「ウチな、今日朝ごはん食べられへんかったんやんかぁ」みたいなわかりにくいというか文章として成立しづらい関西弁は絶対浸透しない。
(例文の意味わかります?昨今でこそマシになりましたが、数年前まで関東でこういう言い回しをすると、ほぼ決まって「え?知らないよ」と返答されました。つまりあなたも当然私が朝ごはんを食べられなかったことを知ってますよね、という風に受け取られたんです)

そう考えるとメールを標準語を書こうが何しようが方言を維持し続ける関西人は、というか関西弁は強い方言なんだなと思わされます。

何だか詭弁というか風が吹いたら桶屋が儲かる式の話になりましたが、まあこんなもんで。