2007年6月24日日曜日

変人はつらいよ・信頼篇



ここは友人までの公開、という、超閉鎖的なものなので

余計な説明は不要と思うが

ここに書いているのは、ただの繰り事というか

少なくとも日記ではない。

しかも話が連続しているので、途中から読んでも

まったくわけがわからないと思うし

前回分を要約を記す気もないので、ぜひ最初から読んでほしい。

まぁ近いうちに≪友人の友人まで公開≫にしようかと

考えてはいるが、異論がある方はぜひどうぞ。




Eとの話の最終回。

私は音楽スタジオから、市街地である天神に向かって歩き始めた。

家とは真逆の方向に。

勇んで飛び出したはいいものの

いったい何をすればいいのかわからない。

このまま帰っても、モヤモヤが頭を駆け抜けるだけだ。

帰りたくない。その一心で、ただただ足を進めた。

そうこうしているうちに、ミーティングに参加していた

別のカメラマンから電話が入った。

グダグダになり、ミーティングは終わった。

とにかく会いませんか?、と。

まぁ当然だろう。

人生の中でもトップクラスの

かなりサスペンスあふれる事態が起こったのだ。

それは私にとっても、Eにとっても

その場にいた契約カメラマンにとっても

そしてNG社の社長にとっても。

合流したカメラマン(Gとしておく)は

「そういえばEさんは?」

と聞いてきた。

そうだ。まずはEに連絡を取るべきだったのだ。

私もなんだかんだいいながら、結構混乱していたのだと思う。

真っ先にややこしい行動、もとい、勇敢な行動を取った

Eにこそ電話をしなければいけなかった。

さっそく私はEに電話を入れ、Eが飛び出した後の

私の言動を軽く説明した。

「とにかく会いましょう」

Eはそういった。

私、G、E、そして何故か

大阪から出張してきた社員の人(以下H)と

4人で飲もう、という話になった。

Hという人は変わった、というか、何か瓢々としたところがあって

たわいのない会話がおもしろい。

そもそも加害者側(ということにしておく)にありながら

事件直後の、被害者側の飲み会に参加する、というのも

Hのキャラクターがよくあらわれている。

私がレクチャーについたのはこの人だったのだが

同じ関西出身ということもあり、人見知りな私にしては

最初から意気投合できる相手だった。

Hは社長のやり方に批判的だったが

相手がいないからといって罵倒するようなことはなく

この日の飲み会でも、ぼそっと社長を批判する。

それが不快ではなく、おもしろい。

飲み会でのHは、基本的に聞き役だったが

「もう福岡に来ることはないだろう」と、はっきりいった。

これ以上社長の言動に振り回されたくない。

そんなニュアンスが隠されていた。

Hの判断は正解だったと思う。

しかしもうHと会えなくなるのは寂しかった。

私は、おそらくEもだろうが、こんなことがあった以上

もうNG社の仕事は受けないつもりでいた。

というか正直関わりたくなかった。

まぁ向こうも、もうこんなややこしい連中に

発注しようと思わないだろうが。

だが仕事は受けなくても、Hとはまた飲みにでもいける。

勝手にそう思っていたのだが

それも不可能になりつつあった。

会話の内容は、もっぱらそのあたりのことに終始し

今日起こったスリリングな出来事には

不思議と誰も触れようとしなかった。

話が飛んでしまった。

待ち合わせは飲み屋の前だったが

私は少し緊張していた。

Eと顔を合わせるのがなんとなく怖かった。

「落ち着け、落ち着け」

心の中ではそう叫びつつ、先に合流したGを前に

ともすれば暗くなりがちな状況下で、私は必死で明るくふるまった。

Eが来た。笑顔で来た。

不思議と、某カメラ量販店で偶然出会った時に感じた

うさん臭さは感じなかった。

会うなり、Eは突然真顔になって、私に詫びた。

「何か、とんでもない会社(NG社)を紹介してしまって・・・

しかも巻き添えをくわせたみたいになって・・・すいません」

そういうとEは再び笑顔になって

「あなたは絶対にそう(自分と同じ行動を)すると思ってました」

おそらくこの時から、私はEを全面的に信用するようになった。

いや、正確にいえば、Eが怒った演技をした瞬間から

信用したのかもしれない。

Eは、本当は、心底悔しかったと思う。

思えば、いち契約カメラマンでありながら

NG社のためを思って、私をはじめ

数人のカメラマンを紹介していた。

なのにこんな結果になって、最後は自分が泥をかぶって

私をはじめとする契約カメラマンを守ろうとした。

Eはそんな気持ちを押し殺して、私に詫びたはずだ。

そして同調した私の行動にたいして、笑顔を見せた。

Eよ、あんた、これでよかったんだよ。

あんたに怒るわけないだろ。

悪いのはNG社だ。あんたじゃない。

よくやったよ、本当に。

私もあんなことしかできなかったけど

でも、これでよかったんだよ。

こうするしかなかったんだよ。

むしろすごいことをしたんだよ、あんたは。

だって了見の狭い、人見知りの激しい私を

こんだけ信用させたんだから。




8年の月日が流れた。

とっくに福岡を離れた私だが、Eとの交友は今も続いている。

たまにだが、NG社をめぐる事件の話になることがある。

もちろん笑い話として。

「あれから仲よくなったんですよね」

「そうですよねぇ」

なぜかいまだに敬語で話すふたりだが、遠慮はない。

「それまでは、あなた、すごい壁を作っていたから」

私が?そうかね。いわれてみればそうかもしれない。

自分ではうまく演技していたつもりだったのに。

まったく、Eには隠し事ができたもんじゃない。

「それに・・・・あなた、怪しい雰囲気をすごい出してたし」

ええ、それはEの方じゃないの?私がか?

いや実際、その通りだったのだろう。

というか、思い返してみれば

私は「怪しいヤツ」と思われ続けた人生だったように思う。

今だって少しも変わっちゃいない。

でもそれは、E、あんたもだよ。

結局Eも私も怪しい男だったのだ。

年に二回程度、私は福岡に遊びに行く。

Eは普段は(一応)標準語だが、私と話す時は関西弁になる。

しかもお互いに敬語で話す。

福岡という土地で、周りからみればかなり奇異に見えるだろう。

Eは知らないが、私は全然気にしていない。

というか、そんなことは一切気にならない。

なぜなら、Eとの会話に夢中になってしまうからである。




2007年6月20日水曜日

変人はつらいよ・怒声篇



今考えても、福岡での生活は

ツイていたのかツイていなかったのか、さっぱりわからない。

神戸出身の私が、福岡に引っ越したのは29歳の時だった。

最初に勤めたのは、久留米にある某出版社。

ここでの話はまたおいおい書くが

まぁいろいろ、悪い意味で、貴重な体験をさせてもらった。

貴重な体験はその後、市内へ引っ越してからの

おなじみの、超いい加減なスポーツ写真業者もさることながら

そして前回登場した、撮影業者(NG社)も

「引けをとらない」、「負けず劣らず」、「五十歩百歩」

いくらでも形容詞がでてくるぐらい、おかしな会社だった。

そして、同じように貴重な体験をさせてもらうことになる。

NG社は福岡には支社がなく、支社がないのに

福岡での仕事を受ける、というのは

この業界でよくあることかどうか、さだかではないのだが

とにかく月に一回

東京本社にいる社長と、大阪支社にいる社員ひとりが

わざわざ来福し、ミーティングなるものが行われた。

このミーティング、どっかの会議室を借りて、ではなく

わざわざスタジオを借りて行われていた。

撮影業者なのだから、仮に撮影をしなくても

一応スタジオでやったんじゃないの?と思われるかもしれないが

撮影スタジオなら、そりゃ私だって納得する。

私が奇異に感じたのは、そこが

音楽スタジオ

だったからだ。

無駄にドラムやPAの機材が並ぶ中

音楽とは一切関係のないミーティングが行われる。

実際に現場に入って、レクチャーを受けていた時は

さほど感じられなかったが、ミーティングを顔を出してからは

「これは普通じゃない」

霊感というか、ヤマ感というか、第六感というか

私の中で危険音(音楽 山下毅雄)が鳴り響いた。

それでも、同じ幼稚園に通っていたEの存在があったことで

私はだいぶ救われた。

「あれっておかしいですよね」

と言い合うことで、なんとなく不安は解消されたような

そんな気分になっていた。

ところがNG社から一通の封書が送られてきたことで

悪い予感の的中を認識させられることになってしまう。

詳しくは書かないが

私やEといった、契約カメラマン、契約ビデオカメラマンにとって

非常に納得し難いことが、書類に書いてあった。

さっそくEに相談すると

同じく書類を受け取っていたEも憤慨していた。

電話ではラチがあかない。ならば

月に一回のミーティングで、社長にそのことを伝えるしかない。

その日が来た。

社長の説明は、実にのらりくらりとしたもので

まるで「駅前旅館の鉄筋版」を標榜するホテルチェーンの

某社長も真っ青なぐらい、おかしなものだった。

ついにEが怒り出した。

社長はとたんに青ざめ、取りなしはじめたが

私はEの顔を見てわかった。

「あ、演技している」と。

もちろん怒っているのは本当だ。

しかし怒声をあげるのは、あきらかに演技だ。

いきなり送りつけられた書類。

電話のわけのわからない応対。

社長のトンデモ対応。

これらのおかしな状況を打破するには

あの場でEは怒った「演技」をするしかなかったのだ。

その場には、社長と社員以外にも

数人の契約カメラマンがいた。

彼らも納得していなかったはずなのに

なぜかその場の状況に飲み込まれそうになっていた。

でも後々苦しむのは彼らなのだ。

少々大袈裟だが、Eは怒声をあげることで

彼らを、そして自分自身を、救いたかったのだと思う。

Eは怒った演技をして、音楽スタジオを飛び出した。

私は・・・、私にできることといえば・・・

Eひとりでは、おかしなヤツだ、で終わってしまう可能性もある。

でもふたりなら、他の契約カメラマンにも

「あれ、やっぱりおかしいんじゃないか」と

思ってもらえるはずだ。

そう確信した私は、Eの行動を「かぶせる」ことにした。

Eと同じように怒声をあげ、その場を立ち去った。

おそらく周りはEと同じく、本気で激怒しているように

見えたであろう。

しかし、その激怒が演技だったのは、いうまでもない。

次回へ続く。




2007年6月14日木曜日

変人はつらいよ・再会篇



6月も半ばということで天気も安定しない。

が、私はこの季節が好きだ。

夏に生まれたことが関係あるのか、梅雨になると

「あと少しで夏の空が広がるんだ」と思うと

むしょうにわくわくしてくるのだ。

反対に冬は嫌いだ。

出かけることすら億劫になってしまう。

8年前の冬、寒さに弱い私は珍しく

某カメラ量販店にひとり出かけていった。

その頃はたしかに、写真撮影の会社でバイトしていたが

別にカメラに興味を持ってでかけたわけではない。

現在でこそ私は、デザインの仕事をさせてもらってるが

まだ当時は赤ん坊程度の技術しかなかった。

それでもパソコンは昔から好きで・・・と

この話を始めると長くなるのでやめるが

とにかく私は新しいパソコンの購入を検討していた時期で

掘り出し物を探しに、某カメラ量販店に出かけていったのだった。

店内に入るや否や、正面からあやしい顔が近づいてきた。

あの時の、新人バイトだった。

衝撃的な、あの夏の日以来、E(=あやしげな新人バイト)とは

なぜか同じ現場に入ったり、言葉をかわす機会はなく

事務所で顔を合わせることはあっても、会釈する程度であった。

ただでさえあやしげな男は

それを助長するかのような笑顔で近づいてくる。

「ちょうどよかった。話があったんです」

Eが話し掛けてきた。

何がちょうどよかっただ。どう考えても偶然じゃないか。

すぐに穿った見方をする私は

Eを端から信用してなかった。

「今ちょっと急いでいるので、また電話します」

どうせかかってくるわけがない。

Eの言葉を軽く受け流し、その場は終わった。

後日、本当にEから電話があった。

実はビデオカメラマンを探している。

ついてはきちんと説明したいので

いついつ、これこれに、足を運んでほしい。云々。

そういえば、夏のあの日、どういうわけか

私が大学時代、ビデオカメラマンのバイトをやっていた

みたいな話をしたことを思い出した。

しかし私がそのバイトをしていたのは、その時点から数えても

10年も前のことで、私の仕事内容は

「コードが絡まないように『気をつける』」ことだった。

こんな話を聞いておきながら

(というか、半年近く前にしたこんな

世間話をよく憶えていたものだ)

いったいEは、私に何をさせようというのか。

まさか本気でビデオカメラマンなるものを

やらせようと思っているのではあるまいな。

あのな、世間はそんなに甘かないぞ。

たしかに私とEの行っている写真撮影の会社は

極限なまでにテキトーなところだ。

だがしかし、そんな会社、めったやたらにあるはずがない。

もしそんな会社ばかりなら、とっくに日本経済は破綻している。

とにもかくにも、それから数日後、私は待ち合わせ場所に行った。

Eの説明はこうだった。

実は私の出入りしている撮影業者でビデオカメラマンを探しているが

いくら募集をかけても人がこず、どうにも閉口している。

あなたが素人同然なのは承知しているが

一応現場を経験しているので、まったくのビギナーよりは

多少は早く戦力になれるはずだ。

もちろんはじめの数回はプロがレクチャーについて

キチンと教えるので、ぜひやってほしい・・・・

どうにも断りづらい雰囲気になった。

しかもEとは同じ幼稚園に通っていたというよしみもある。

そこまで困っているなら

本当に素人同然ですよ,

どうなっても知りませんよ、

と、念を押して、結局引き受けることになった。

私をビデオカメラマンとして使おうとした無謀な会社

仮にNG社としておこう。

NG社からの仕事の発注は、FAXで行われる。

ところが当時私はFAXを持っていなかった。

ならば事務所に取りに行けばいいものだが、そうはいかない。

なぜならNG社は本社が東京にあり

私やEが住む福岡には事務所がないのだ。

しょうがない。

Eは自分が誘った手前、FAXごときも持ってない私のために

ひと肌脱いでくれることになった。

私宛の発注FAXはEの元に送られる。

私はEからFAXが届いたという電話をもらうと

Eの自宅付近まで取りに行く。

私にとってもEにとっても、面倒にもほどがあるが

これしか方法がなかった。

しかしこのことがあって、警戒心の強い私と

Eとの距離が縮まっていく。

最初は本当に届いたFAXの受け渡しだけだったが

少しずつ会話の量が増えていき

受け渡し場所である、Eの自宅付近のコンビニの前で

小一時間ほど話すことも珍しくなくなっていった。

だが私とEが、もっと本質的な意味で友好を深める事態が起こる。

それは図らずも、Eが私に紹介した撮影業者、NG社絡みの

馬鹿馬鹿しくも切実な、とある事件をめぐって、である。

次回へ続く




2007年6月7日木曜日

変人はつらいよ・驚愕篇



夏の日差しは燦々と照りつけている。

まだ午前中だからいいようなものの

「こりゃ35度はいくな」などと、ひとりごちて

想定される過酷な一日を乗り切るしか手段はなかった。

およそ5人ほどのチームだったか。

私、やはりバイトとはいえ古株が3人、それに新人。

会場が広いため二手に分かれて撮影することになったのだが

似非カメラマン=私は、新人を無理矢理

押しつけられるはめになった。

レクチャーなんてもんはね、本来なら古株がやるもんだ。

「じゃ後、よろしく頼むね」

そうひと言言い残して、古株は古株同士

さっさと別の現場に行ってしまった。

なにがよろしく頼むね、だ。まったくいい気なものである。

いいか、いくらバイトとはいえ、こういうことは

古株がやると神代の昔から決まっているんだよ。

だいたいまだ自分のことで手一杯の私がレクチャーなど

できる余裕があるわけがないではないか。

しかもこの暑さ。なにしろ撮影場所が

だだっ広いグラウンドときたもんだ。

日陰を探すことすらままならないではないか。

それにな、これだけはいいたくないが

私はな、古株のお前さんたちより、だいぶジジィなんだよ。

夏生まれだから、暑さには強い方だが

もしぶっ倒れてみろ。熱射病だか日射病で死んでみろ。

絶対に化けてでてやるからな。ひんやりさせてやるからな。




まぁそれでも今よりは10は若かったから

幸いにして、こうして今もピンピンしているが

当時はパニックに近かった。

今にして思えば

古株のバイトも悪いが、ここの会社が一番悪い。

いくら教えることは簡単とはいえ

まだ新人同然の人間にレクチャーさせちゃいけないよ。

とはいえ、そんなとこでバイトをしている私が

一番悪いかもしれないが。




レクチャーは意外に楽だった。

新人は一応プロとして仕事をしているらしく

「フィルムはどうやって入れるんですか?」という

信じられないような質問をされることはなかった。

それに、新人とは書いたが、やたら落ち着いている。

なんというか変な貫禄がある。

が、どことなくインチキ臭い感じで

たとえるなら

ひと昔前の結婚詐欺師のような雰囲気を醸し出している。

レクチャーが簡単なら、撮影もあっという間に終わった。

午前中にすべての撮影が終わり

私たちはわずかばかりの日陰を見つけ

そこで一段落することになった。

「関西弁ですよね?」

新人が話しかけてきた。

場所が福岡なのだから、そういう指摘は慣れていた。

「実はぼくも関西出身なんですよ」

あ、そうですか。軽く受け流してはみたものの

数ヶ月とはいえ一応先輩として

会話の継続を試みた。

関西ですか、どの辺りに住んでいたんですか?、と。

貫禄からみるに、年上かもしれない、と想定して

とりあえず敬語で返答してみた。

「神戸、といっても田舎の方ですけど・・・」

神戸?こりゃまた奇遇な。

「知ってますかね。○○団地ってとこに住んでたんですよ」

○○団地!?

それは私が幼稚園の年少組の時に住んでいたところじゃないか!

というか、住んでいたのはその一年だけだが。

「ということはもしかして○○幼稚園でした?」

私は信じられなかった。

福岡のこんな場所で

まさか同じ幼稚園に通っていた人間に会うことになるとは!




それから彼とは急接近して友達になった、ということはなかった。

彼は私よりも3歳も年下だった。

にも関わらず、私はなんとなく、彼が怖かった。

妙に落ち着き払ったトークといい

怪しげな、おおよそカメラマンらしくない見た目といい

ただでさえ人見知りな私が、敬遠してしまう要素にあふれていた。




この不思議な男との交流が深まるには

もう少しの時間が必要である。

次回へ続く。




2007年6月5日火曜日

変人はつらいよ・望郷篇



いわれてみれば、まだプロフィール的なものを

書いていなかった。

現在この日記は友人までの公開なので、必要ないっちゃないのだが

一応将来への布石、ということで書いておく。

私は1968年、神戸市に生まれた。

今も神戸に在住しているのだが、どういうわけか

生家というものを知らない。

理由は単純なことで、現在の地に引っ越してくる前に

7回もの引っ越しを繰り返したらしい、からだ。

「らしい」というのは、すべて私が小学校に上がる前だったからで

つまり6年間の間に7回引っ越しているのだから尋常ではない。

まぁそれでも「6年間に7回」という人も探せばいるだろう。

たとえば父親が転勤の多い職場なら。

しかし私の父親は自営業で、仕事場はずっと同じところにあった。

だから引っ越しといっても、すべて神戸市内なのだが

なおさら近場に引っ越しを繰り返す意味がわからないのだ。

この件に関して、以前母親に聞いたことがあるのだが

いいたくないのか、憶えていないのか

はっきり答えたがらなかった。

それ以来、私も深い詮索をやめた。

私がはっきり記憶しているのは

4歳ごろから住みだした団地からだ。

当時団地といえば人気物件で

今でも家賃が相場より安いので人気だが

その頃は「団地に住む」といったら

なんとなくゴージャスな感じがした。

4歳の私には、団地に住むことはかなりうれしかったようで

引っ越しが決まった時のことは、かなり鮮明に憶えている。

ところが、今にして思えばだが「なんでこんな場所に?」と

首をかしげたくなるような場所に団地はあった。

後付けの知識になるが

昭和40年代後半は日本全国開発ラッシュで、

どんどん山を切り開いて

新興住宅地やら団地群ができていった時代だ。

私たち一家が引っ越したのも

神戸の北部にある新興団地だったのだが

なにしろ都心部からも、父親の職場からも、非常に遠い。

今考えると、血迷ったとしか思えない選択だが

とにかく私の幼稚園入園を期に、一家はその団地に移り住んだ。

私は幼少の頃、非常に身体が弱かった。

幼稚園の年長組になった頃だろうか、トイレに行って小便をすると

焦げ茶色の液体が出た。

検査の結果、急性腎炎とわかり

すぐさま私は入院することになった。

そんなことがあって、私は二年保育であったにもかかわらず

幼稚園には一年しか行っていない。

しかも退院した時には、家族は団地から

現在の家に引っ越していたため

二度と団地に帰ることはなかった。




私は10年ほど前、カメラマンの真似事をやっていたことは

すでに書いた。

似非カメラマンをやっていたのは、九州は福岡県なのだが

なぜ神戸生まれの私が福岡に流れ着いたのかは

またいずれ書くとして

神戸と福岡、そして約15年の刻をまたいで

ある男とひとつの線につながることになる。

それは奇跡といっても過言ではない。

大げさだが、とにかく次回へ続く。




2007年5月28日月曜日

満腹<3>(続続・テストパターン)



ついに現像があがってきた。

全然知らなかったんだけど、モノクロプリントの方が1.5倍

ぐらい高いのか。

仕上がりは・・・まぁこんなもんかという感じ。

所詮素人だから、という逃げ口上はさておいて、

カメラの特性か、カラーの方が色合いが独特でおもしろい。

モノクロはコントラストがキツくて、よくいえば黒澤映画みたい

なんだけど、暗部が潰れて、ほとんど意図した写真が

撮れなかった。

腕をあげる、というか、もっとそういうことを意識して

撮ればいいんだろうが、現像代が高いしね。

なによりカラーが非常におもしろいから

こっちを優先させそうな気がする。

なるほど、CONTAX G1というレンジファインダーのカメラに

ハマる人の気持ちがちょっとだけわかった。

沖縄話の続き。

前々回書いたように、雨のため撮影は延期され

私とNは沖縄に延泊するはめになった。

しかも帰る日になって、台風が上陸してしまった。

当然飛行機は飛ばない。

私たちはさらに延泊を余儀なくされる。

翌朝、台風は通過し、青空が広がっていた。

「やっと帰れる・・・」

ほっとしたのも無理もない。

ホテルから一歩も出られない沖縄ほど退屈なものはないからだ。

空港に行くと、客がごった返している。

そりゃ2日分の乗客が乗るんだもの。当たり前だ。

とりあえず当日の航空券を持っている人が優先されるようで

納得いかないような、当然なような

とにかくキャンセル待ちを待つしかない。

さっそく数席のキャンセルがでた。

私たちは前日の朝の便で帰るはずだったので

優先順も早く、飛行機に乗れそうな空気だった。

しかし神様は残酷だ。

私たちの前で、空席が残りひとつになってしまったのだ。

しょうがない。腹をきめた。

Nに「これに乗っていけよ」というしかなかった。

一応私の方が年上であること

そしてなによりホテルの延泊代を借りているという

追い目があったからだ。

それに・・・・まぁ次の便もすぐにくるだろう。

ひとつでもキャンセルが出れば、私は乗れるのだ。

そう考えると、Nを見送る心も軽やかだった。

ところが、次の便がなかなかこない。

かれこれ2時間待っただろうか、やっと来たと思ったら

これはしたり、キャンセルがひとつもないという。

その次の便にはキャンセルが出たようだが

なんと4時間も後らしいのだ。

全身の力が抜けた。

重たいカメラバッグを持っていては、空港の周りを

歩きまわったり、という暇つぶしもできない。

ただただロビーでじっと座ってるしかないのだ。

そういえばさっきからずっと目の前に

年の頃なら20代後半の女性が座っている。

どうみても連れ合いはいなさそうだ。

私は思い切って声をかけてみた。

ナンパ?とんでもない。

この悲惨な状況下のもと、誰か、本当に誰でもいいから

悲しみを分かち合いたかったのだ。

やはり彼女はひとりで、しかも暇を持て余していたようで

話に乗ってきてくれた。

私の状況は説明しやすい。

なにしろ馬鹿でかいカメラバッグを持っているのだ。

何も「実はバイトで・・・」なんて話す必要はない。

「今から関東の家に帰るところで・・・」

彼女は自分の状況を少しずつ話しはじめてくれた。

彼氏が沖縄の人らしく、その人に会いにきていたこと。

本当は自分も沖縄に住みたいのだが、ほとんど仕事がないこと。

かといって結婚して専業主婦になれるほど、彼氏の稼ぎがないこと。

e.t.c・・・・。

沖縄に永住をしたくても、仕事がなくて断念する人が多い

というのは、ものの本で読んだことがある気がする。

しかし「簡単なパートでもいいんだけど・・・」という

彼女の言葉は、私の胸を打った。

実家のある関東(川崎といっていた)にいれば

ちゃんと食べていけるだけの仕事がある。

なのに、そこまでしてまで、彼氏と一緒にいたいのだ。

やがて次の便が来た。

羽田に向かう彼女とはそこで別れた。

名前も聞かずに、もちろん電話番号の交換もせずに。

あれから8年ほどたった。

無事に沖縄に移住できたのだろうか。

彼氏のもとに行くことができたのだろうか。

今でもふと、そんなことを考える時がある。




2007年5月22日火曜日

満腹<2>(続・テストパターン)



いい加減、このタイトルも何とかしなきゃいけないのだが

わざわざ考えるのも面倒くさい。※

こんな私だが、ついに今日、フィルムを現像に出してきた。

仕上がりは金曜日。もう何を撮ったか忘れてしまったので

逆に楽しみになってきた。

前回の沖縄話の続き。

知らない土地に行くと、まず気になるのが

そこでしか食べられない料理である。郷土料理というやつか。

しかし私のこの気持ちは、上陸して最初の食事で

かなり萎えてしまった。

もう何を食べたのかも忘れたが、とにかく量が多かった。

食堂のおばちゃんは親切な人で

「おなかがふくれてきたのなら、島とうがらしをかけるといいよ」

と、アドバイスしてくれた。

ちょっぴりかけてみた。

うん。たしかにピリッと辛くなって

わずかながら、食欲が復活してきた。

ここで最後までふんばるなり、残すなりすればよかったのに

もう少し島とうがらしをかけてみよう。

そうすればもっと食欲が増すはずだ。

馬鹿だった。

といっても辛くなりすぎたわけではない。

島とうがらしは唐辛子を泡盛につけ込んだものである。

私は下戸ではないが、けして強い方ではない。

つまり酒臭くなってしまったがために

まったく手がつけれなくなってしまった。

「沖縄の現地料理は危険だ」

自分の無知とさじ加減の悪さを棚に置いて、何をいってるのだ。

これが昼食の話。夕食はもっとすごいことになった。

「店の前にタクシーが停まっている食堂はおいしい」

どっかで聞いた仮説だが、私は結構これを信用している。

実際、まったく見知らぬ土地で、タクシーの停車台数だけを

頼りに入った店は、大抵<当たり>だったからだ。

この日も、タクシーを目印に

「ふつうの」食堂を探していた。

現地料理に懲りた私(と同行したカメラマン)は

とにかくふつうの定食とかが食べたかったのだ。

店に入ろうとした。親子連れが出てきた。

昔の酔っぱらいが持っていそうな折り詰めをぶらさげている。

「そうか、持ち帰りたくなるぐらいおいしいんだ」

私の自信は確信に変わった。

その時点で21時すぎ。お昼を食べてから何も食べていない。

腹ペコの私は、ソーキソバとBセットなるものを注文した。

同行の男(Nとしておく)は

「あまり腹が減ってない」とソーキ<汁>と

同じくBセットを注文。

「現地料理はこりごり」といっておきながら

いきなりソーキソバを頼むのは支離滅裂だが

旅とはそういうものだ。

ソーキソバが来た。

うまそうだ。

食った。

うまかった。本当にうまかった。

ところがである。途中である異変に気づいた。

かれこれ10分近く麺をすすっているのに

ソーキを食らいついているのに

一向に減る様子がない。

「しまった。自分もソーキ<汁>にすればよかった」

あまり腹が減ってないといったNは落ち着き払って、こういった。

「一緒ですよ。麺の代わりに豆腐が入ってるだけだから」

やばい。やばすぎる。食っても食っても終わらない。

もう島とうがらしの失敗はしないとしても

ほとんど手をつけてないかのように見える

ソーキソバを置き去りにして帰れるわけにはいかない。

その時だった。

「Bセット2つ、お待たせしました~!」

山盛りの、トンカツ、スパゲティ、野菜炒め、ご飯

その他もろものが、幅30cm、奥行き10cm、高さ3cmほどの

四角のお重に鎮座していた。

ふと辺りを見回した。

ひとりの外国人が、ほっぺたをパンパンにふくらませたまま

箸を両手に持ったまま、固まっている。

やがてその外国人は店員を呼んだ。

店を出た外国人の手には、折り詰めがぶらさがっていた。

「そういうことだったのか・・・」

折り詰めのからくりに気づいたのは、店に入ってから

30分ほど経過した時だった。

私とNが店員を呼んだのは、それからほどなくしてからである。




この件で、私はふたつのことを学んだ。

見知らぬ土地でも、飯を食うところぐらいは

下調べしよう、ということ。

もうひとつは、お腹をいっぱいになった外国人ほど

おもしろいものはないということだ。

まだ沖縄話は終わらない。




※最初は「続・テストパターン」のタイトルのエントリでした。




2007年5月16日水曜日

満腹<1>(テストパターン)



しつこくて申し訳ないが、まだフィルムは私の鞄で眠っている。

「面倒くさい」

そのひと言で、すべて片づけてしまう。

そういう性格なんだね。しょうがない。40年近く生きてきて

もう今更変えようがない。あきらめるしかない。

私が大学生の頃の話だ。

とあるディスプレイの会社でバイトしていた私は、会社の人から

<特攻隊>と呼ばれていた。

勇敢な響きだが、その実、ちっともカッコよくない。

そのバイト先は日払いで給料をくれた。

貧乏だった学生には何ともありがたい話だ。

しかも行ける日だけ行けばいい、というのも

都合がいいというか、ありがたかった。

私が<特攻隊>と呼ばれたのは

「行きの電車代しかない状態」でバイトに行っていたからで

日払いのバイト代をもらえなければ、家に帰ることもできない。

せめて帰りの電車代ぐらい、どっからか調達するのが

普通なのだろう。

いや、そもそもそんな状態になるまで何もしない、というのが

どうかしてる。

でもしないんだよ。面倒くさいから。

まずいよな、どうも。

どっから見ても、ロクな大人のすることじゃない。

ここで唐突に、前回の続きになる。

私がカメラマンとして出入りしていた、信じられない会社の話である。

この会社でバイトをして、何がよかったといえば

「前乗り」の仕事があったことだ。

前乗り、つまり撮影場所が遠方の場合

前日から近くのホテルに泊まることになるのだが

前乗りなら無条件で、宿泊費の名目で一万円もらえる。

これはうれしかった。

しかもホテルの領収書なんか必要ない。

仮に3000円のところに泊まれば

7000円はフトコロに入るという算段だ。

いい加減さ、ここに極まり、という感じだが

すべて本当の話だ。

ある日、沖縄に行くことになった。

さすがに沖縄はかなり遠い。

それに私が沖縄に行くのははじめてときている。

なのに前乗りでもらった金しか持っていかなかった。

沖縄は実に雨が多い。

案の定、撮影は延期になり、ホテルに延泊することになった。

だが手持ちの金はない。食費ぐらいはあるが

翌日分のホテルには足りないのだ。

仕方ないので、一緒にいったバイトに借りることになった。

しかも彼は私よりも年下だった。

情けないにもほどがある。

でもこういう人間なんだよ。

「何かアクシデントがあったら」

とか一切考えない。

きっと学習能力がないんだろうね。

さてこの沖縄の旅では、非常に貴重な体験をすることになるのだが

長くなってきたので、次回へ持ち越し。




2007年5月11日金曜日

テストは続くよ



どこまでも。

まだフィルムは現像に出していない。

はっきりいえば面倒なのだ。

一本目は当たり前にカラーフィルムを購入したが

二本目は色気が出て、モノクロフィルムを買ってしまった。

これがいけなかった。

カラーなら、まぁふつうの店で、一時間以内にプリントしてくれる。

でもモノクロは、どうやらそうではないらしい。

しかも徒歩圏内にプリントショップがないので

わざわざ電車に乗って、現像を出しに行って

わざわざ電車に乗って、取りに行かなきゃいけない。

これは面倒くさい。

なのでまだ写真はアップできない。




カメラに関してはまるっきりの素人だ。

趣味で写真を撮っていた、というわけでもない。

ただ、今から10年近く前に、仕事で撮っていたことがある。

しかも二度に渡って。

一度目は某超弱小出版社にいた頃の話だ。

<超弱小>なので、取材だからといって

いちいちカメラマンを雇う、なんてことはしない。

というか予算の都合上できるわけがない。

なので写真も自分で撮ることになる。

使っていたのは、ニコンの・・・・忘れた。

まったくカメラに興味がなかったので

おぼえようとすら思わなかった。

二度目はバイトでカメラマンの真似事をやっていたことがある。

しかもかなりのテクニックが要求されるバイトで

・スポーツ写真

・中判カメラを使った集合写真

さぞかし難しいことをやってるっぽいが、とんでもない。

簡単なレクチャーをやっただけで

すぐに現場に投入された。

できるわけがない。

でもバイト代をもらってるんだから、やるしかない。

んで、やった。

それでよかった。

自分が天才だからじゃない。

きわめていい加減な会社だったからだ。

そこには2年ほどいた。

おもしろかったからじゃない。

日給がよいわけじゃない。

なぜか友達とかできる雰囲気の会社でもない。

でも2年もいたのは

会社がいい加減だったからだ。

いい加減な会社はいい。

正社員だったり、出入りの業者なら

いい加減な会社なんて、まっぴらだが

バイトなら、いい加減ならいい加減ほどいい。

もちろんちゃんとバイト代はくれる、という前提だけど。

いい加減、いい加減、と書いたが

象徴的なエピソードがある。

そこの会社に出入りしてたカメラマンがとある事件を起こした。

私は見てなかったが、ニュースステーションのトップで

紹介されるぐらいの大きな事件だ。

しかも性に絡んだ犯罪だから、かなりタチが悪い。

そのカメラマンは、あちこちの事務所から

当然のように出入り禁止になった。

ところが私のバイト先だけは違った。

ニュースステーション出演記念かどうか

またその男がそこの会社で働きだした。

しかもその理由がすごい。

「人手が足りない」







こんなとんでもない会社だったが

まぁ、その後の人生に、それなりに役にたってたりもする。

その辺のことは、また今度。




2007年5月6日日曜日

日記を書いてみるテスト

これより2008年までの分と2009年の一部はmixi上で公開していたものです。
最初のうちは友人までの限定公開だったので、いかにもやる気のない内容になっています。ただそのぶんアタシの素の部分が出てるんじゃないかと。

内容的には自分史というか、過去の出来事から話のネタになりそうなものをピックアップしてしたためました。なのでyabuniramiJAPAN系とはかなり毛色は違います。

まあそういった事情を承知の上で読んでいただければ幸いです。


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mixiに登録してから2年近く経つ。

コミュニティの掲示板を読むぐらいにしか利用していなかったのだが

ちょっともったいないので、何か書いてみようかなと思う。

ただしおおっぴらにやるつもりはないので

公開は友人までにしておく。

そういや本家のブログもかなり長い間放置したままになっている。

さいきん、とうとうドメインが切れてしまった。

そのままでもよかったのだが

植木等さんの死去の直後で、異様にアクセス数が増えたこともあり

一応は復活させた。とはいえまだまだ復活とはいえない。

そんなんだから、こっちもどれぐらい書くかは不明。

そもそもmixiに限定して書くようなことがあるのかどうか。

とりあえずテストとして書くので、テストとして読んでほしい。

先日、福島の叔父のところにいってきた。

叔父は半年ほど前に直腸の手術を受けた。

私も立ち会ったのだが、用事があったため

手術が終わって、かろうじて面会ができる状態

会話も成立しないような状態なのに

私は病院を後にした。

それ以来の対面となった。

半年ぶりの叔父は元気そうだった。

もう酸素マスクはつけていなかった。当たり前だが。

とっくに退院し、散歩ができるぐらいにまで回復している。

ストーマをつけているため、長距離の移動は困難なものの

日常生活はなにひとつ不便なくおくれているようだ。

なぜか叔父と家系の話になった。

どうもうちの先祖は山口県の武士だったようだ。

叔父の祖父は武士らしく、本を読む時も

ほれ、あの、時代劇で武士の人が

本を読む時に、本を置いてるのがあるでしょ。

あれに本を乗っけて、正座をして読んでいたそうだ。

まぁそういう時代の人だから当たり前なんだけど

そもそもうちの家系が変わった、というか

趣味人が多かったようだ。

私の祖父、つまり叔父の父は

カメラが好きだった。

いつも大事そうに、ケースに数体のカメラを並べていた。

そんな元で育った叔父も、カメラが趣味のひとつになっていた。

叔父は自分のカメラのコレクションを見せてくれた。

その中から

「これ、使ってないから」

と一台のカメラをくれた。

CONTAX G1というヤツである。

なぜか90mmのレンズがついていた。

家に帰って、とりあえずパシャパシャ撮ってみた。

ものすごく新鮮だった。

レンジファインダーも初めてなら

90mmの単焦点のレンズもほとんど使ったことがない。

何だかわからないが、おもしろくて夢中でいろんな物を撮った。

でもまだ現像に出していない。

出そう出そうと思いつつ、まだ出していない。

楽しみなような、怖いような。

現像からあがってきたら、ここにアップしたりしようかな

とも思っている。

素人の写真をアップするのは恥ずかしいが

まぁいい。現像があがるまでに、いっぱい言い訳を考えておこう。