2007年6月5日火曜日

変人はつらいよ・望郷篇



いわれてみれば、まだプロフィール的なものを

書いていなかった。

現在この日記は友人までの公開なので、必要ないっちゃないのだが

一応将来への布石、ということで書いておく。

私は1968年、神戸市に生まれた。

今も神戸に在住しているのだが、どういうわけか

生家というものを知らない。

理由は単純なことで、現在の地に引っ越してくる前に

7回もの引っ越しを繰り返したらしい、からだ。

「らしい」というのは、すべて私が小学校に上がる前だったからで

つまり6年間の間に7回引っ越しているのだから尋常ではない。

まぁそれでも「6年間に7回」という人も探せばいるだろう。

たとえば父親が転勤の多い職場なら。

しかし私の父親は自営業で、仕事場はずっと同じところにあった。

だから引っ越しといっても、すべて神戸市内なのだが

なおさら近場に引っ越しを繰り返す意味がわからないのだ。

この件に関して、以前母親に聞いたことがあるのだが

いいたくないのか、憶えていないのか

はっきり答えたがらなかった。

それ以来、私も深い詮索をやめた。

私がはっきり記憶しているのは

4歳ごろから住みだした団地からだ。

当時団地といえば人気物件で

今でも家賃が相場より安いので人気だが

その頃は「団地に住む」といったら

なんとなくゴージャスな感じがした。

4歳の私には、団地に住むことはかなりうれしかったようで

引っ越しが決まった時のことは、かなり鮮明に憶えている。

ところが、今にして思えばだが「なんでこんな場所に?」と

首をかしげたくなるような場所に団地はあった。

後付けの知識になるが

昭和40年代後半は日本全国開発ラッシュで、

どんどん山を切り開いて

新興住宅地やら団地群ができていった時代だ。

私たち一家が引っ越したのも

神戸の北部にある新興団地だったのだが

なにしろ都心部からも、父親の職場からも、非常に遠い。

今考えると、血迷ったとしか思えない選択だが

とにかく私の幼稚園入園を期に、一家はその団地に移り住んだ。

私は幼少の頃、非常に身体が弱かった。

幼稚園の年長組になった頃だろうか、トイレに行って小便をすると

焦げ茶色の液体が出た。

検査の結果、急性腎炎とわかり

すぐさま私は入院することになった。

そんなことがあって、私は二年保育であったにもかかわらず

幼稚園には一年しか行っていない。

しかも退院した時には、家族は団地から

現在の家に引っ越していたため

二度と団地に帰ることはなかった。




私は10年ほど前、カメラマンの真似事をやっていたことは

すでに書いた。

似非カメラマンをやっていたのは、九州は福岡県なのだが

なぜ神戸生まれの私が福岡に流れ着いたのかは

またいずれ書くとして

神戸と福岡、そして約15年の刻をまたいで

ある男とひとつの線につながることになる。

それは奇跡といっても過言ではない。

大げさだが、とにかく次回へ続く。