2007年6月24日日曜日

変人はつらいよ・信頼篇



ここは友人までの公開、という、超閉鎖的なものなので

余計な説明は不要と思うが

ここに書いているのは、ただの繰り事というか

少なくとも日記ではない。

しかも話が連続しているので、途中から読んでも

まったくわけがわからないと思うし

前回分を要約を記す気もないので、ぜひ最初から読んでほしい。

まぁ近いうちに≪友人の友人まで公開≫にしようかと

考えてはいるが、異論がある方はぜひどうぞ。




Eとの話の最終回。

私は音楽スタジオから、市街地である天神に向かって歩き始めた。

家とは真逆の方向に。

勇んで飛び出したはいいものの

いったい何をすればいいのかわからない。

このまま帰っても、モヤモヤが頭を駆け抜けるだけだ。

帰りたくない。その一心で、ただただ足を進めた。

そうこうしているうちに、ミーティングに参加していた

別のカメラマンから電話が入った。

グダグダになり、ミーティングは終わった。

とにかく会いませんか?、と。

まぁ当然だろう。

人生の中でもトップクラスの

かなりサスペンスあふれる事態が起こったのだ。

それは私にとっても、Eにとっても

その場にいた契約カメラマンにとっても

そしてNG社の社長にとっても。

合流したカメラマン(Gとしておく)は

「そういえばEさんは?」

と聞いてきた。

そうだ。まずはEに連絡を取るべきだったのだ。

私もなんだかんだいいながら、結構混乱していたのだと思う。

真っ先にややこしい行動、もとい、勇敢な行動を取った

Eにこそ電話をしなければいけなかった。

さっそく私はEに電話を入れ、Eが飛び出した後の

私の言動を軽く説明した。

「とにかく会いましょう」

Eはそういった。

私、G、E、そして何故か

大阪から出張してきた社員の人(以下H)と

4人で飲もう、という話になった。

Hという人は変わった、というか、何か瓢々としたところがあって

たわいのない会話がおもしろい。

そもそも加害者側(ということにしておく)にありながら

事件直後の、被害者側の飲み会に参加する、というのも

Hのキャラクターがよくあらわれている。

私がレクチャーについたのはこの人だったのだが

同じ関西出身ということもあり、人見知りな私にしては

最初から意気投合できる相手だった。

Hは社長のやり方に批判的だったが

相手がいないからといって罵倒するようなことはなく

この日の飲み会でも、ぼそっと社長を批判する。

それが不快ではなく、おもしろい。

飲み会でのHは、基本的に聞き役だったが

「もう福岡に来ることはないだろう」と、はっきりいった。

これ以上社長の言動に振り回されたくない。

そんなニュアンスが隠されていた。

Hの判断は正解だったと思う。

しかしもうHと会えなくなるのは寂しかった。

私は、おそらくEもだろうが、こんなことがあった以上

もうNG社の仕事は受けないつもりでいた。

というか正直関わりたくなかった。

まぁ向こうも、もうこんなややこしい連中に

発注しようと思わないだろうが。

だが仕事は受けなくても、Hとはまた飲みにでもいける。

勝手にそう思っていたのだが

それも不可能になりつつあった。

会話の内容は、もっぱらそのあたりのことに終始し

今日起こったスリリングな出来事には

不思議と誰も触れようとしなかった。

話が飛んでしまった。

待ち合わせは飲み屋の前だったが

私は少し緊張していた。

Eと顔を合わせるのがなんとなく怖かった。

「落ち着け、落ち着け」

心の中ではそう叫びつつ、先に合流したGを前に

ともすれば暗くなりがちな状況下で、私は必死で明るくふるまった。

Eが来た。笑顔で来た。

不思議と、某カメラ量販店で偶然出会った時に感じた

うさん臭さは感じなかった。

会うなり、Eは突然真顔になって、私に詫びた。

「何か、とんでもない会社(NG社)を紹介してしまって・・・

しかも巻き添えをくわせたみたいになって・・・すいません」

そういうとEは再び笑顔になって

「あなたは絶対にそう(自分と同じ行動を)すると思ってました」

おそらくこの時から、私はEを全面的に信用するようになった。

いや、正確にいえば、Eが怒った演技をした瞬間から

信用したのかもしれない。

Eは、本当は、心底悔しかったと思う。

思えば、いち契約カメラマンでありながら

NG社のためを思って、私をはじめ

数人のカメラマンを紹介していた。

なのにこんな結果になって、最後は自分が泥をかぶって

私をはじめとする契約カメラマンを守ろうとした。

Eはそんな気持ちを押し殺して、私に詫びたはずだ。

そして同調した私の行動にたいして、笑顔を見せた。

Eよ、あんた、これでよかったんだよ。

あんたに怒るわけないだろ。

悪いのはNG社だ。あんたじゃない。

よくやったよ、本当に。

私もあんなことしかできなかったけど

でも、これでよかったんだよ。

こうするしかなかったんだよ。

むしろすごいことをしたんだよ、あんたは。

だって了見の狭い、人見知りの激しい私を

こんだけ信用させたんだから。




8年の月日が流れた。

とっくに福岡を離れた私だが、Eとの交友は今も続いている。

たまにだが、NG社をめぐる事件の話になることがある。

もちろん笑い話として。

「あれから仲よくなったんですよね」

「そうですよねぇ」

なぜかいまだに敬語で話すふたりだが、遠慮はない。

「それまでは、あなた、すごい壁を作っていたから」

私が?そうかね。いわれてみればそうかもしれない。

自分ではうまく演技していたつもりだったのに。

まったく、Eには隠し事ができたもんじゃない。

「それに・・・・あなた、怪しい雰囲気をすごい出してたし」

ええ、それはEの方じゃないの?私がか?

いや実際、その通りだったのだろう。

というか、思い返してみれば

私は「怪しいヤツ」と思われ続けた人生だったように思う。

今だって少しも変わっちゃいない。

でもそれは、E、あんたもだよ。

結局Eも私も怪しい男だったのだ。

年に二回程度、私は福岡に遊びに行く。

Eは普段は(一応)標準語だが、私と話す時は関西弁になる。

しかもお互いに敬語で話す。

福岡という土地で、周りからみればかなり奇異に見えるだろう。

Eは知らないが、私は全然気にしていない。

というか、そんなことは一切気にならない。

なぜなら、Eとの会話に夢中になってしまうからである。




2007年6月20日水曜日

変人はつらいよ・怒声篇



今考えても、福岡での生活は

ツイていたのかツイていなかったのか、さっぱりわからない。

神戸出身の私が、福岡に引っ越したのは29歳の時だった。

最初に勤めたのは、久留米にある某出版社。

ここでの話はまたおいおい書くが

まぁいろいろ、悪い意味で、貴重な体験をさせてもらった。

貴重な体験はその後、市内へ引っ越してからの

おなじみの、超いい加減なスポーツ写真業者もさることながら

そして前回登場した、撮影業者(NG社)も

「引けをとらない」、「負けず劣らず」、「五十歩百歩」

いくらでも形容詞がでてくるぐらい、おかしな会社だった。

そして、同じように貴重な体験をさせてもらうことになる。

NG社は福岡には支社がなく、支社がないのに

福岡での仕事を受ける、というのは

この業界でよくあることかどうか、さだかではないのだが

とにかく月に一回

東京本社にいる社長と、大阪支社にいる社員ひとりが

わざわざ来福し、ミーティングなるものが行われた。

このミーティング、どっかの会議室を借りて、ではなく

わざわざスタジオを借りて行われていた。

撮影業者なのだから、仮に撮影をしなくても

一応スタジオでやったんじゃないの?と思われるかもしれないが

撮影スタジオなら、そりゃ私だって納得する。

私が奇異に感じたのは、そこが

音楽スタジオ

だったからだ。

無駄にドラムやPAの機材が並ぶ中

音楽とは一切関係のないミーティングが行われる。

実際に現場に入って、レクチャーを受けていた時は

さほど感じられなかったが、ミーティングを顔を出してからは

「これは普通じゃない」

霊感というか、ヤマ感というか、第六感というか

私の中で危険音(音楽 山下毅雄)が鳴り響いた。

それでも、同じ幼稚園に通っていたEの存在があったことで

私はだいぶ救われた。

「あれっておかしいですよね」

と言い合うことで、なんとなく不安は解消されたような

そんな気分になっていた。

ところがNG社から一通の封書が送られてきたことで

悪い予感の的中を認識させられることになってしまう。

詳しくは書かないが

私やEといった、契約カメラマン、契約ビデオカメラマンにとって

非常に納得し難いことが、書類に書いてあった。

さっそくEに相談すると

同じく書類を受け取っていたEも憤慨していた。

電話ではラチがあかない。ならば

月に一回のミーティングで、社長にそのことを伝えるしかない。

その日が来た。

社長の説明は、実にのらりくらりとしたもので

まるで「駅前旅館の鉄筋版」を標榜するホテルチェーンの

某社長も真っ青なぐらい、おかしなものだった。

ついにEが怒り出した。

社長はとたんに青ざめ、取りなしはじめたが

私はEの顔を見てわかった。

「あ、演技している」と。

もちろん怒っているのは本当だ。

しかし怒声をあげるのは、あきらかに演技だ。

いきなり送りつけられた書類。

電話のわけのわからない応対。

社長のトンデモ対応。

これらのおかしな状況を打破するには

あの場でEは怒った「演技」をするしかなかったのだ。

その場には、社長と社員以外にも

数人の契約カメラマンがいた。

彼らも納得していなかったはずなのに

なぜかその場の状況に飲み込まれそうになっていた。

でも後々苦しむのは彼らなのだ。

少々大袈裟だが、Eは怒声をあげることで

彼らを、そして自分自身を、救いたかったのだと思う。

Eは怒った演技をして、音楽スタジオを飛び出した。

私は・・・、私にできることといえば・・・

Eひとりでは、おかしなヤツだ、で終わってしまう可能性もある。

でもふたりなら、他の契約カメラマンにも

「あれ、やっぱりおかしいんじゃないか」と

思ってもらえるはずだ。

そう確信した私は、Eの行動を「かぶせる」ことにした。

Eと同じように怒声をあげ、その場を立ち去った。

おそらく周りはEと同じく、本気で激怒しているように

見えたであろう。

しかし、その激怒が演技だったのは、いうまでもない。

次回へ続く。




2007年6月14日木曜日

変人はつらいよ・再会篇



6月も半ばということで天気も安定しない。

が、私はこの季節が好きだ。

夏に生まれたことが関係あるのか、梅雨になると

「あと少しで夏の空が広がるんだ」と思うと

むしょうにわくわくしてくるのだ。

反対に冬は嫌いだ。

出かけることすら億劫になってしまう。

8年前の冬、寒さに弱い私は珍しく

某カメラ量販店にひとり出かけていった。

その頃はたしかに、写真撮影の会社でバイトしていたが

別にカメラに興味を持ってでかけたわけではない。

現在でこそ私は、デザインの仕事をさせてもらってるが

まだ当時は赤ん坊程度の技術しかなかった。

それでもパソコンは昔から好きで・・・と

この話を始めると長くなるのでやめるが

とにかく私は新しいパソコンの購入を検討していた時期で

掘り出し物を探しに、某カメラ量販店に出かけていったのだった。

店内に入るや否や、正面からあやしい顔が近づいてきた。

あの時の、新人バイトだった。

衝撃的な、あの夏の日以来、E(=あやしげな新人バイト)とは

なぜか同じ現場に入ったり、言葉をかわす機会はなく

事務所で顔を合わせることはあっても、会釈する程度であった。

ただでさえあやしげな男は

それを助長するかのような笑顔で近づいてくる。

「ちょうどよかった。話があったんです」

Eが話し掛けてきた。

何がちょうどよかっただ。どう考えても偶然じゃないか。

すぐに穿った見方をする私は

Eを端から信用してなかった。

「今ちょっと急いでいるので、また電話します」

どうせかかってくるわけがない。

Eの言葉を軽く受け流し、その場は終わった。

後日、本当にEから電話があった。

実はビデオカメラマンを探している。

ついてはきちんと説明したいので

いついつ、これこれに、足を運んでほしい。云々。

そういえば、夏のあの日、どういうわけか

私が大学時代、ビデオカメラマンのバイトをやっていた

みたいな話をしたことを思い出した。

しかし私がそのバイトをしていたのは、その時点から数えても

10年も前のことで、私の仕事内容は

「コードが絡まないように『気をつける』」ことだった。

こんな話を聞いておきながら

(というか、半年近く前にしたこんな

世間話をよく憶えていたものだ)

いったいEは、私に何をさせようというのか。

まさか本気でビデオカメラマンなるものを

やらせようと思っているのではあるまいな。

あのな、世間はそんなに甘かないぞ。

たしかに私とEの行っている写真撮影の会社は

極限なまでにテキトーなところだ。

だがしかし、そんな会社、めったやたらにあるはずがない。

もしそんな会社ばかりなら、とっくに日本経済は破綻している。

とにもかくにも、それから数日後、私は待ち合わせ場所に行った。

Eの説明はこうだった。

実は私の出入りしている撮影業者でビデオカメラマンを探しているが

いくら募集をかけても人がこず、どうにも閉口している。

あなたが素人同然なのは承知しているが

一応現場を経験しているので、まったくのビギナーよりは

多少は早く戦力になれるはずだ。

もちろんはじめの数回はプロがレクチャーについて

キチンと教えるので、ぜひやってほしい・・・・

どうにも断りづらい雰囲気になった。

しかもEとは同じ幼稚園に通っていたというよしみもある。

そこまで困っているなら

本当に素人同然ですよ,

どうなっても知りませんよ、

と、念を押して、結局引き受けることになった。

私をビデオカメラマンとして使おうとした無謀な会社

仮にNG社としておこう。

NG社からの仕事の発注は、FAXで行われる。

ところが当時私はFAXを持っていなかった。

ならば事務所に取りに行けばいいものだが、そうはいかない。

なぜならNG社は本社が東京にあり

私やEが住む福岡には事務所がないのだ。

しょうがない。

Eは自分が誘った手前、FAXごときも持ってない私のために

ひと肌脱いでくれることになった。

私宛の発注FAXはEの元に送られる。

私はEからFAXが届いたという電話をもらうと

Eの自宅付近まで取りに行く。

私にとってもEにとっても、面倒にもほどがあるが

これしか方法がなかった。

しかしこのことがあって、警戒心の強い私と

Eとの距離が縮まっていく。

最初は本当に届いたFAXの受け渡しだけだったが

少しずつ会話の量が増えていき

受け渡し場所である、Eの自宅付近のコンビニの前で

小一時間ほど話すことも珍しくなくなっていった。

だが私とEが、もっと本質的な意味で友好を深める事態が起こる。

それは図らずも、Eが私に紹介した撮影業者、NG社絡みの

馬鹿馬鹿しくも切実な、とある事件をめぐって、である。

次回へ続く




2007年6月7日木曜日

変人はつらいよ・驚愕篇



夏の日差しは燦々と照りつけている。

まだ午前中だからいいようなものの

「こりゃ35度はいくな」などと、ひとりごちて

想定される過酷な一日を乗り切るしか手段はなかった。

およそ5人ほどのチームだったか。

私、やはりバイトとはいえ古株が3人、それに新人。

会場が広いため二手に分かれて撮影することになったのだが

似非カメラマン=私は、新人を無理矢理

押しつけられるはめになった。

レクチャーなんてもんはね、本来なら古株がやるもんだ。

「じゃ後、よろしく頼むね」

そうひと言言い残して、古株は古株同士

さっさと別の現場に行ってしまった。

なにがよろしく頼むね、だ。まったくいい気なものである。

いいか、いくらバイトとはいえ、こういうことは

古株がやると神代の昔から決まっているんだよ。

だいたいまだ自分のことで手一杯の私がレクチャーなど

できる余裕があるわけがないではないか。

しかもこの暑さ。なにしろ撮影場所が

だだっ広いグラウンドときたもんだ。

日陰を探すことすらままならないではないか。

それにな、これだけはいいたくないが

私はな、古株のお前さんたちより、だいぶジジィなんだよ。

夏生まれだから、暑さには強い方だが

もしぶっ倒れてみろ。熱射病だか日射病で死んでみろ。

絶対に化けてでてやるからな。ひんやりさせてやるからな。




まぁそれでも今よりは10は若かったから

幸いにして、こうして今もピンピンしているが

当時はパニックに近かった。

今にして思えば

古株のバイトも悪いが、ここの会社が一番悪い。

いくら教えることは簡単とはいえ

まだ新人同然の人間にレクチャーさせちゃいけないよ。

とはいえ、そんなとこでバイトをしている私が

一番悪いかもしれないが。




レクチャーは意外に楽だった。

新人は一応プロとして仕事をしているらしく

「フィルムはどうやって入れるんですか?」という

信じられないような質問をされることはなかった。

それに、新人とは書いたが、やたら落ち着いている。

なんというか変な貫禄がある。

が、どことなくインチキ臭い感じで

たとえるなら

ひと昔前の結婚詐欺師のような雰囲気を醸し出している。

レクチャーが簡単なら、撮影もあっという間に終わった。

午前中にすべての撮影が終わり

私たちはわずかばかりの日陰を見つけ

そこで一段落することになった。

「関西弁ですよね?」

新人が話しかけてきた。

場所が福岡なのだから、そういう指摘は慣れていた。

「実はぼくも関西出身なんですよ」

あ、そうですか。軽く受け流してはみたものの

数ヶ月とはいえ一応先輩として

会話の継続を試みた。

関西ですか、どの辺りに住んでいたんですか?、と。

貫禄からみるに、年上かもしれない、と想定して

とりあえず敬語で返答してみた。

「神戸、といっても田舎の方ですけど・・・」

神戸?こりゃまた奇遇な。

「知ってますかね。○○団地ってとこに住んでたんですよ」

○○団地!?

それは私が幼稚園の年少組の時に住んでいたところじゃないか!

というか、住んでいたのはその一年だけだが。

「ということはもしかして○○幼稚園でした?」

私は信じられなかった。

福岡のこんな場所で

まさか同じ幼稚園に通っていた人間に会うことになるとは!




それから彼とは急接近して友達になった、ということはなかった。

彼は私よりも3歳も年下だった。

にも関わらず、私はなんとなく、彼が怖かった。

妙に落ち着き払ったトークといい

怪しげな、おおよそカメラマンらしくない見た目といい

ただでさえ人見知りな私が、敬遠してしまう要素にあふれていた。




この不思議な男との交流が深まるには

もう少しの時間が必要である。

次回へ続く。




2007年6月5日火曜日

変人はつらいよ・望郷篇



いわれてみれば、まだプロフィール的なものを

書いていなかった。

現在この日記は友人までの公開なので、必要ないっちゃないのだが

一応将来への布石、ということで書いておく。

私は1968年、神戸市に生まれた。

今も神戸に在住しているのだが、どういうわけか

生家というものを知らない。

理由は単純なことで、現在の地に引っ越してくる前に

7回もの引っ越しを繰り返したらしい、からだ。

「らしい」というのは、すべて私が小学校に上がる前だったからで

つまり6年間の間に7回引っ越しているのだから尋常ではない。

まぁそれでも「6年間に7回」という人も探せばいるだろう。

たとえば父親が転勤の多い職場なら。

しかし私の父親は自営業で、仕事場はずっと同じところにあった。

だから引っ越しといっても、すべて神戸市内なのだが

なおさら近場に引っ越しを繰り返す意味がわからないのだ。

この件に関して、以前母親に聞いたことがあるのだが

いいたくないのか、憶えていないのか

はっきり答えたがらなかった。

それ以来、私も深い詮索をやめた。

私がはっきり記憶しているのは

4歳ごろから住みだした団地からだ。

当時団地といえば人気物件で

今でも家賃が相場より安いので人気だが

その頃は「団地に住む」といったら

なんとなくゴージャスな感じがした。

4歳の私には、団地に住むことはかなりうれしかったようで

引っ越しが決まった時のことは、かなり鮮明に憶えている。

ところが、今にして思えばだが「なんでこんな場所に?」と

首をかしげたくなるような場所に団地はあった。

後付けの知識になるが

昭和40年代後半は日本全国開発ラッシュで、

どんどん山を切り開いて

新興住宅地やら団地群ができていった時代だ。

私たち一家が引っ越したのも

神戸の北部にある新興団地だったのだが

なにしろ都心部からも、父親の職場からも、非常に遠い。

今考えると、血迷ったとしか思えない選択だが

とにかく私の幼稚園入園を期に、一家はその団地に移り住んだ。

私は幼少の頃、非常に身体が弱かった。

幼稚園の年長組になった頃だろうか、トイレに行って小便をすると

焦げ茶色の液体が出た。

検査の結果、急性腎炎とわかり

すぐさま私は入院することになった。

そんなことがあって、私は二年保育であったにもかかわらず

幼稚園には一年しか行っていない。

しかも退院した時には、家族は団地から

現在の家に引っ越していたため

二度と団地に帰ることはなかった。




私は10年ほど前、カメラマンの真似事をやっていたことは

すでに書いた。

似非カメラマンをやっていたのは、九州は福岡県なのだが

なぜ神戸生まれの私が福岡に流れ着いたのかは

またいずれ書くとして

神戸と福岡、そして約15年の刻をまたいで

ある男とひとつの線につながることになる。

それは奇跡といっても過言ではない。

大げさだが、とにかく次回へ続く。