2011年6月30日木曜日

紀元「は」2600年

今から一週間ちょい前、えと6月19日ですか、高速道路休日1000円という政策(といっていいのかな)が終わりました。

何かもやもやするというか、妙に物悲しいというか、いろいろ思いを巡らすうちにふと紀元2600年というキーワードが浮かびました。
紀元2600年といえば1940年、昭和でいえば15年にあたります。昭和15年といえば太平洋戦争開戦の前年になるのですが、まあ当然平和な時代ではなく、すでに日中戦争中だったのには違いないわけです。
戦時である、ということは政府からの締め付けはあるわけでして、だからといって締め付けるだけでは国民はついていけない。そこでガス抜きの意味合いを込めて紀元2600年を祝う祭りが大々的に行われました。

高速道路休日千円が終わるのと紀元2600年祭がどう関係あるのかと思われるでしょうが、どうね、こんな空気だったんじゃないかなと。

http://sankei.jp.msn.com/life/news/110619/trd11061921330019-n2.htm

こういうニュースを読むと祭りの終わりを「無理にでも」楽しもうとする人々の顔が浮かぶのはアタシだけでしょうか。
紀元2600年祭の翌日に出されたスローガンが「祝ひ終つた さあ働かう!」ですからね。高速道路のこともね、あれは別にガス抜きなんかじゃないんですが、ああ、祝いが終わるんだと。今日からまた締め付けの日々が始まるんだと。

だからといって、来年に太平洋戦争に相当することが起こるとか思ってはないのですが、ある意味もっと酷いことが我が国に起こるのではないかとは思わないでもないのですわ、正直いって。

2011年6月28日火曜日

ゲーム疲れ

藪似です、という書き出しでずっとやってたのですが、今回で止めます。他の名前で表示されるとこがあるんでね。

さてこないだちょろっと書いたのですが、家にPS3があります。据え置き型、携帯型に関わらずゲーム機を買ったなんて十年振り以上です。
よほどやりたいゲームがあったんだろ、と思われるかもしれませんが、何にもない。もっといえば本体を買って半年、いまだにただの一本もゲームソフトを所有していません。
まあ要するにAVプレーヤーとして買っただけなんで、はじめからこれでゲームをやるぞ、なんて気はゼロでしたし。

以前漫画を読まなくなったと書きましたがゲームはもっと酷く、恐ろしくしなくなってしまいました。
とか書くと「何いってんの、あんたずっとウイニングイレブンやってんじゃん」と思われる方も若干3名ほどおられるのはわかっております。でもよく考えてもみてください。アタシはサッカーの試合を観戦してるだけで、コントローラーに触れる機会すらほとんどありません。たまに「こーゆー画面が出てきたらスタートボタン押しといて」「あいよ」(スタートボタン、ポチッ)くらいですからね。

さて一種のカルト的な人気のある「ゲームセンターCX」という番組があります。よゐこの有野の発する名言はたしかに面白く、全部とまではいいませんが大半は見ております。
面白いのは面白い。それは事実なんですが、同時に見てて異常にしんどいのです。
この番組はファミコン、スーファミ世代のゲームを中心に有野がクリアを目指すのですが、最後までクリアを目指す、という行為がやたらしんどく感じるんですわ。自分がやってるわけでもないのに。

思えばアタシも昔は数々のゲームで「クリアを目指して」やってました。ただクリアするだけでは飽き足らず、極端にいえば「鼻糞をほじりながらでもやられない」永久パターンを発見することに命を燃やしたことも何度もありました。
何日も何日も徹夜をし、親に怒られながら、はたまた大学もろくすっぽ行かず、ひたすらコントローラーを握りしめる、そんな毎日をおくっていたのです。
しかしそれも今は昔。そんな気力はどこにも残っていません。どころかゲームをやろうという気すら起こらなくなってしまいました。
やってもスマートフォンでオセロとか四川省とか、アクション性ゼロ、短時間でサクッと終わることのできる、いわばクリアという概念のないやつばかり。それすらもここ最近はやっていません。

「ゲームセンターCX」で登場するゲームもかつてアタシがチャレンジしたものも数多く出てきました。でも感じるのは「ああ懐かしいなぁ」じゃなく「あんなしんどいこと二度とやりたくない」みたいなマイナスな思考しか出てこないのです。
ですから番組中の息抜き企画には本当にホッとさせられるというかね。

ネトゲ界隈では「これは遊びじゃないんだ」みたいなことを本気で思ってる人がいるみたいですが、たしかにゲームは遊びじゃないのかもしれません。だってそれほど本気にならないとというか、現実の苦難に立ち向かうのと同程度の労力を持ってしないとクリアできないんだもん。
そういえば大昔のスチャダラパーの「ゲームボーイズ」という曲の中でも揶揄のニュアンスで「ゲームはすでに遊びではない もうひとつの現実が存在」っていってなぁ。
でも実は揶揄ではなく本当だったという。まあ「このままじゃ子供達が危ない」とは思いませんが。

2011年6月15日水曜日

人生最大のミス?

藪似です。こないだに引き続きツイートからのコピペから始まります。
人生初のとんでもない凡ミスから大惨事を招いてしまった・・・。正直かなりヘコんでます

自分はこの手のミスは絶対やらかさない人間だと信じていたのに。仕事のミスはどうしようもないと割り切れるけどプライベートのミスはなかなか割り切れないっす

精神的に不安定なんで電話かけまくりたい気分だけど我慢。昔それでいろんな人に迷惑をかけたからね

これらは昨年の12月にツイートしたものですが、いったい何なんだと思われたかもしれません。とにかく異様に焦ってることは伝わると思うのですが、具体的に何についてパニクってるのかまったく書いていない。
そのせいか、心配してくれた友人が慌てて連絡をくれたくらいです。
しかし、少なくとも「あの時点」では、Twitterという誰でも閲覧できる場では書きたくても書けなかったのです。
そして今、理由を書けるのは早い話が問題が解決したからで、要するにキャッシュカードを紛失したのです。
何しろ非常に珍しくかなりの金額が入っており、しかもまあ仕事のための予算のようなもので、こいつが引き出せなくなるとめちゃくちゃマズかったので、ああいう焦り方になってしまったのです。

正直かなり凹みました。まず理由がわからない。というのも財布ごと紛失したのではなくキャッシュカードのみの紛失だったこと。
次にいつ、どのタイミングから紛失していたのかがわからない。最後にキャッシュカードを使ったのが紛失を気づいた一週間前だったのですが、いつから紛失状態だったのか、どこでなのか、さっぱり思い出せなかったのですね。
そして一番ショックだったのは、今までアタシは財布とか鍵とかを紛失した経験がなかったのです。40年以上もそうだったから「自分はそんな大切なものを紛失するような莫迦な人間ではない」というまったく根拠のない自信があったのです。

再度繰り返します。問題は解決しました。通帳に入っていたお金も全額無事でした。しかしこの件でアタシが受けた影響は図りしれない。
とにかくやたら慎重になりました。特に金絡みのことは。
こういうケアレスミスをする人間なんだ、そう思うと不安が襲ってきます。

もう半年前のことなので最近は「極度」ではなくなってきました。だけれどもこのまま不安がなくなることもこれまた怖いことで、そうなると意識が甘くなり、また同じ失敗を繰り返すんじゃないかと。
かといって過剰な不安もよくないしね。どうしたらいいもんでしょね。

2011年6月12日日曜日

水曜どうしよう最新作!

藪似です。今回は「水曜どうでしょう」最新作についてです。

アタシは昔やってたブログの時から度々「水曜どうでしょう」について触れてきました。もうこれは好きとかそういう枠を超えていまして、墓場までビデオを持っていきたい番組のひとつです。
そしてこの度、4年ぶりに新作が作られたのですが、あくまでこれは北海道ローカルの番組です。リアルタイムで見れないのは当然としても関東で放送されるまで最低半年はかかるんだろうなとみてました。
ところがアクトビラにて北海道での放送終了からたった15分後には見れる!有料?一話315円?たっけーな・・・。いや!そんなことは些細なことだ。とにかくアタシは少しでも早く見たいんだ!!

見ましたよ。全話。

で、感想ですよね。
序盤から想像以上に快調で、焼き直し企画なのは事実ですが、まあ前作の「ヨーロッパ完結編」よりはずっと楽しく見ました。
ネットでは12回(シリーズ最長)は長過ぎたんじゃねーかという意見が多かったのですが、それより最後、黄金パターンを作れなかったことが大きい気がします。

黄金パターンとは大泉洋騙しを兼ねた企画発表→過酷さに大泉洋ボヤく→しかしミスター(鈴井貴之)・大泉とも意外と楽しくなってくる→油断した頃に軽いアクシデント(主にミスター)→工程が狂う→最後は時間との戦い、まあこんな感じです。
今作でも最後の時間との戦い以外はほぼ忠実に黄金パターンが守られており、他にも恒例の大泉のモノマネ、ミスターの甘い物攻め、宿トークと満載だったのです。
しかし日程的な余裕がかなりあったためか、時間との戦いという終盤の緊迫感がやや薄かったのは事実です。

元々がダラダラしたというかグズグズの作りの番組であり、いや、それが最大の魅力なのですが、散々グズグズにやった挙句、それが祟って最後は焦らざるをえなくなる。それも魅力だったんでちょっとその辺は惜しいかな。

いやそれでもやっぱりあのエンディングは卑怯ですよ。名曲「1/6の夢旅人2002」をバックに映像と静止画で名場面を見せられちゃねぇ。
と極力ネタバレなし、固有名詞なし、マニアックな話なしで書いてみました。

2011年6月10日金曜日

ハイブリは何故失敗したか?

藪似です。以下の引用は今年の1月28日にアタシがツイートしたものです。
ハイブリの中身がアドエスだったらなーと心から思う。別に3GとかWM6.5とかいらないんだよ。ハイブリはカタチは好きなんで内部的な出来の悪さがつくづく惜しい

CPUもギガじゃなくてもPX270でよかった。バッテリ駆動の時に極端に遅くなるのに重い6.5が軽快に動くわけないだろ。あとどうもメモリかメモリバスが足引っ張っ てるらしいし

ハイブリもネゴの速さとかテンキーでの文字入力の時もたつきが少ないとか良い部分はあるんだけどね。全体的に残念すぎる
軽く説明しますと、ハイブリとはウィルコムから発売されたシャープ製WindowsMobile機HYBRID W-ZERO3のことで、アドエスとはハイブリの二世代前の機種W-ZERO3adesのことです。
ハイブリに関して言いたいことは先の引用に集約されています。わざわざ昔のツイートを引っ張ってきたのは、ちょうどiPhoneを買った頃のもので非常に生々しい意見だからです。
今アタシはハイブリをほとんど使っていません。ハイブリのW-SIMは電話とメールしかできないnicoに挿さりっぱなしで、ハイブリは電源が入れられることすら稀です。つまり現在のアタシはハイブリにたいして物申すことができないほど触ってないのです。
にも関わらず何故今になってハイブリについて書こうかと思ったかといえば、ウィルコムももう少し違った展開があった気がするからなんですね。

10年ほど前までウィルコム(というかDDIポケット)はモバイルにおいて業界最高の通信速度を誇っていました。ケータイ各社で3G通信が始まりすぐに業界最低になりましたが、それでも体感的な通信速度はけして3Gに劣らなかった、そう思っています。
2005年になってウィルコムは国内初の本格的スマートフォン、W-ZERO3を発売します。実はスマートフォンというカテゴリでいえば業界最速ではないのですが、それまでのスマートフォンはとてもじゃないけど「まともに使える」シロモノではなく、本エントリの趣旨とは異なりますがこれも体感的最速といえるでしょう。

よくケータイ機種のスピードを表す言葉に「もっさり」というものがありますが、ZERO3シリーズはけして高機能なCPUを積んでいたわけではないのに、少なくとももっさりではありませんでした。WindowsMobile機の宿命で速いとまではいえませんでしたが、よくチューニングされており、十分実用に堪えるモノになってたと思います。

ところが昨年発売されたハイブリは酷い出来でした。仕様面でもチューニング面でも、よくこれで発売できたなと思わせる出来で、どう足掻いても(つまりカスタマイズしまくっても)激もっさりでした。
ハイブリの仕様が発売された当初、シリーズで必ず搭載されていたフルキーボード廃止にばかり批判がいきましたが、それは別にどうでもよかったんですよアタシはね。

やっぱり何が問題かといえば、こんな未完成な機種を発売してしまったウィルコムにあるわけで、たいしたことないCPUしか搭載できないのはしょうがない。でも、何で、体感的なスピードをもっと大事にしなかったのか、悔やまれてなりません。
フルキーボード搭載はZERO3シリーズの魂だったかもしれないけど、それをいうなら体感的スピードはウィルコムの魂だったはずで、もっさりもっさりといわれた京ぽん2ですらハイブリと違って未完成と思わせるようなものではなかったですからね。(京ぽん2は買ったことないけど代替機として一ヶ月ほど使用してました)

魂を失ったからウィルコムはこうなった、とはいいません。でも、そこだけは死守してほしかったってのが10年近くウィルコムを使ってきたユーザーの本音なんですがねぇ。

2011年6月7日火曜日

怖い人々

藪似です。今回は雰囲気の話です。

去年ちょっと話題になったさかなクンね、アタシ、あの人がめちゃくちゃ怖いんですよ。何というか人間的な感情があまりなさそうでね。
もちろん会ったことないですよ。でもテレビの向こうからの感じだけでも恐怖心をおぼえるには十分の、何か、を持ってると思うんです。

しかしアタシが芸能人とか、とにかくリアルではなくメディアで知った人の中でダントツに怖いのは渥美清です。
ずーっと読んでくださってる方ならおわかりでしょうが、アタシは山田洋次作品は嫌いじゃない。なのに「男はつらいよ」は苦手で、つまりは作風ではなく渥美清が怖いからです。
苦手とかじゃなく怖いんです。どうもこれは幼少の頃からそうだったようで、幸いアタシん家は洋画党で正月に家族で連れ立って「男はつらいよ」を観にいく、というようなことはなかったんですけど、もうポスターとか見るだけで怖がってたようで。もちろん憶えちゃいませんが。

「男はつらいよ」は大人になってから何本か観たことはあるんですよ。でも、とにかく渥美清が怖いからギャグのシーンでも全然素直に笑えないんです。そして観終わるとドッと疲れちゃう。やっぱどこか異様に緊張してるんでしょうね。

小林信彦著「おかしな男 渥美清」を読めばわかりますが、渥美清って人は極端な人嫌いな上、若い時分はかなりヤバいことをしてたようで。
でもそんなの後付けの知識で、そんなこと全然知らないうちから怖かったんだからね。

それに渥美清の怖さって人嫌いとかヤバい過去とはあんまり関係ないような気がするんですよ。
もっと本能的な感じ、とでもいいえばいいのでしょうか。
だからね、渥美清が寅さんとして国民的な人気だったのがね、どうも信じられない。アタシがズレてるだけかもしれないけど、でも何なんだろ。みんな怖くないのかなぁ。

2011年6月5日日曜日

名前って大事よね

藪似です。なんかこう、たまにはたわいない話を。

優香っているじゃないですか。この人、本名が岡部広子っていうんですね。最近知りました。
いや、優香ってかなり微妙な顔だと思うんですよ、よーく見たら。今だけじゃなくてデビューした頃からずっとね。
正直あの顔で岡部広子って名前ならちっともかわいくない。一般人レベルでもせいぜい真ん中くらいな気がする。
でも、あの顔でも優香、なら何かかわいい気がするんですね。アタシはタイプじゃないんですが、優香が好きなんですよ、という人がいても全然奇異に思わない。
いやあ、これは事務所のつけた(かどうか知らんけど)芸名勝ちですね。もし名付け親がいるのなら、優香のギャラの半分くらいピンハネしても納得できるレベルです。

名前は大事だと思いますよ、実際。得する名前、損する名前ってのが絶対あると思います。
もうひとり、優香ほどじゃないけど鈴木京香もそうですよね。
こっちは本名みたいだけど、たとえば「鈴木京子」なら印象が全然違うでしょ?「香」と「子」の一字違い、どっちもカ行なのに。

もちろん慣れの問題もあるとは思います。でも優香と鈴木京香の場合は慣れじゃ済まされない感じがしているのはアタシだけでしょうか。
そういえば、見た目的には売れそうだったのに、どうにも、な芸名つけられて消えていった人もいますよね。具体的には挙げないけど。

それ考えると「明石家さんま」という芸名で売れたのは本当に凄い。芸名を初めて聞いた時、島田紳助は「こいつ終わったな」と思ったそうですが、ま、紳助だけじゃなくて大抵はそう思うはずで、そんなハンデをもろともしなかったさんまは偉大なんだなって改めて思ったりしたわけでね、ええ。

2011年6月3日金曜日

MacとWindowsの狭間に揺れる

藪似です。何故だか今、うちには3台もパソコンがあります。
それに加えてiPhoneとPS3もありますし、WindowsMobile機が計4つ。これらは無線LANが使えますので、ネットができる端末は全部で9台もあることになります。
(いや、よく考えたらテレビでもブラウジングできたような。やったことないけど)
パソコン3台の内訳はというと、デスクトップのWindowsが1台、ノートのWindowsが一台で、あとひとつがMacBookです。つまりWindows環境もMac環境も両方あるということです。

さてさて、よく2ちゃんあたりでマカー(Mac使い)だのドザー(DOS/V=Windows使い)だのという言葉がありますが、じゃあお前はどっちなんだと聞かれても正直よくわかんないんです。いや、もしかしたらアタシは「Windows的な自分」と「Mac的な自分」の狭間で常に揺れ動いていたのだと最近気づきました。

アタシがマイコン(パソコンの古い呼び名)なるものを手にしたのは中学の時です。当時のパソコンは、まあいや実験のための道具のようなもので、実用性は皆無、将来的な実用のための実験を行うような機械でした。
パソコンを使うということはイコールプログラムを組むということであり、最初から内蔵されている初心者向きのBASICから始まり、最終的に当時マシン語と呼び習わされていたアセンブラまで、プログラミング言語の習得することはパソコンの「ほぼすべて」だったんです。(ほぼ、なのはわずかばかりあった市販のゲームを楽しむ、という行為もないではなかった由)
中学から高校までの間、アタシは学校の勉強なんかそっちのけで、プログラミング言語の習得に勤しみました。以前も書きましたが、何も実用にならないとはいえパソコンイコール時代の最先端でありましたから、新し物好きの血が騒いだ部分も大いにあります。
そして情報処理の試験でも受けようか、受けたらたぶん受かるな、という段階に入って問題が発生します。高校生の問題といえば進学とか就職に決まっているのですが、いろいろあってアタシは芸術系の大学に進学することになります。
もし進学に失敗したら、つまり受験に落ちたらということはあまり考えてなかったのですが、その時は情報処理の専門学校に行けばいい、なんとなくそう思っていました。
それだけパソコンに淫していたのだから情報処理系の進学を第一志望にしてもよさそうなのに、そうしなかったのは「何かを表現したい」という欲望がパソコンへの情熱を上回っていたからなんです。

プログラミング言語の習得とかゲームとかは、今の「Windows的な自分」に受け継がれています。今はもうプログラムを書いたりはしてませんが、遊びでスクリプトを書くのはWindowsで、もしくはWindowsMobileです。
そして「何かを表現したい」というのはMac的な自分、ということになるのでしょう。
今現在デザインの仕事をしていますが、よくよく考えてみると、「パソコンという機械を使って」「何かを表現する」という、妥協というか折衷案という感じがします。
もしパソコンのない時代にデザインとかやれといわれても嫌だったろうし(つかできない)、逆に表現力がまったく問われないパソコンの仕事は(これは何度か実際にやったことあるけど)しんどい、というか全然楽しくないんですよねぇ。

話を戻しますが、そういう意味では今のMacはアタシにとって最良の選択かもしれません。何しろMacもWindowsも両方使えるんだもん。再起動は必要ですが、MacとWindowsは繋がってるようで繋がってないので(あくまでアタシのオツムの中的には、ね)、再起動が必要なのは逆に都合がいいのです。

2011年6月1日水曜日

王道と邪道と自爆行為

藪似です。前回の続きのような、そうでないような。

M-1は去年で一応終わったみたいですが、ラストを飾る、という感じではなかったのはたしかです。
無冠の帝王といわれた笑い飯が悲願を達成し、最後の最後まで争ったのが、オフビート漫才ともいえるスリムクラブだったわけですが、これは王道と邪道との戦いでもあったわけです。
もちろん王道がスリムクラブであり、邪道が笑い飯。どこがもちろんなんだって話ですが、順を追って書いていきます。

そもそもツッコミという所為自体、笑い、という歴史の流れからすれば特殊なものです。たとえば、わかりやすい例でいえばチャップリン。当たり前ですがツッコミなんてもんはありません。まあ無声映画なんで当然ですが、もし当時の活動弁士がツッコミで進行させていたなら、これはシュールすぎます。一時期松本人志や木村祐一が写真にツッコミを入れる、あの芸に近い。
「漫才」というのは複数の人間が舞台に立って言葉のやりとりで笑わせるものですが、これは必ずしもボケとツッコミである必要はないのです。
コントでは人間関係のコントなんていいますが、実は漫才でも人間関係を会話という形で見せるだけで、コンビの場合、ふたりの決定的な心理的な対決があり、それを笑いに昇華できれば、それで漫才は成立してしまうのです。
それを今一番上手くやってるのがブラックマヨネーズであり、一応吉田がボケで小杉がツッコミという区分けはあるのですが、心理的対決を前面に押し出すことによってそんな区分はたいして意味がないものになってる。
優れた漫才は大抵心理的対決を前面に押し出しており、決定的な価値観の違いだったり、言葉のアヤからくるストレスだったりを笑いにもっていってます。

笑い飯は個人的にずっとハマることができなくて、それは世間でいわれるダブルボケだからではなく、ダブルツッコミでもあるからなんです。
交互にボケるというのは、全然ありだと思うんですよ。でも交互にツッコむというのはありえない。人間関係が見えず、ギャグの串刺しにしかならないからです。
お互い対抗心からボケまくるのであればツッコミが必要ないボケをやるべきだし、何でそれをやらないのか、ずっと不思議だったんですね。

逆にスリムクラブはツッコミという概念が希薄で、一見邪道に見えるのですが、以前テレビで喋ってたのを聞く限り、かなり意図的なものだとわかりました。
内間が典型的なツッコミをやろうとするのを真栄田が必死に抑えて、ツッコむというより、おかしな人物が目の前に現れた時、素直なリアクションをしてほしい、と要望してあのスタイルになったそうです。
これは完璧なまでに人間関係の漫才であり、まさしく王道なのです。

冒頭で前回、つまり関西人気質の話と関連があると示唆しましたが、この辺がわかってない人が多いというかね。つまんないボケにたいしてやたらツッコミを要求する人がいますが(大阪人ならツッコまな!とかいっちゃったりする)、ツッコミがあるイコール面白い会話ではないのです。というか別にツッコミがあろうがなかろうが、面白い会話は面白いし、逆もまた然り。

だいたい心理的対決もないのに、ただツッコむなんて、いかにボケが面白くないか自分でいってるようなもんなのにね。つまんないボケにツッコむとか自爆行為なんですよ。金もらって舞台に立ってるわけでもなければ、たいして親しい間柄でもないのに、なんでそんな損失行為をしなきゃならんのですか。

ホンマ、アホらしわ