2011年6月1日水曜日

王道と邪道と自爆行為

藪似です。前回の続きのような、そうでないような。

M-1は去年で一応終わったみたいですが、ラストを飾る、という感じではなかったのはたしかです。
無冠の帝王といわれた笑い飯が悲願を達成し、最後の最後まで争ったのが、オフビート漫才ともいえるスリムクラブだったわけですが、これは王道と邪道との戦いでもあったわけです。
もちろん王道がスリムクラブであり、邪道が笑い飯。どこがもちろんなんだって話ですが、順を追って書いていきます。

そもそもツッコミという所為自体、笑い、という歴史の流れからすれば特殊なものです。たとえば、わかりやすい例でいえばチャップリン。当たり前ですがツッコミなんてもんはありません。まあ無声映画なんで当然ですが、もし当時の活動弁士がツッコミで進行させていたなら、これはシュールすぎます。一時期松本人志や木村祐一が写真にツッコミを入れる、あの芸に近い。
「漫才」というのは複数の人間が舞台に立って言葉のやりとりで笑わせるものですが、これは必ずしもボケとツッコミである必要はないのです。
コントでは人間関係のコントなんていいますが、実は漫才でも人間関係を会話という形で見せるだけで、コンビの場合、ふたりの決定的な心理的な対決があり、それを笑いに昇華できれば、それで漫才は成立してしまうのです。
それを今一番上手くやってるのがブラックマヨネーズであり、一応吉田がボケで小杉がツッコミという区分けはあるのですが、心理的対決を前面に押し出すことによってそんな区分はたいして意味がないものになってる。
優れた漫才は大抵心理的対決を前面に押し出しており、決定的な価値観の違いだったり、言葉のアヤからくるストレスだったりを笑いにもっていってます。

笑い飯は個人的にずっとハマることができなくて、それは世間でいわれるダブルボケだからではなく、ダブルツッコミでもあるからなんです。
交互にボケるというのは、全然ありだと思うんですよ。でも交互にツッコむというのはありえない。人間関係が見えず、ギャグの串刺しにしかならないからです。
お互い対抗心からボケまくるのであればツッコミが必要ないボケをやるべきだし、何でそれをやらないのか、ずっと不思議だったんですね。

逆にスリムクラブはツッコミという概念が希薄で、一見邪道に見えるのですが、以前テレビで喋ってたのを聞く限り、かなり意図的なものだとわかりました。
内間が典型的なツッコミをやろうとするのを真栄田が必死に抑えて、ツッコむというより、おかしな人物が目の前に現れた時、素直なリアクションをしてほしい、と要望してあのスタイルになったそうです。
これは完璧なまでに人間関係の漫才であり、まさしく王道なのです。

冒頭で前回、つまり関西人気質の話と関連があると示唆しましたが、この辺がわかってない人が多いというかね。つまんないボケにたいしてやたらツッコミを要求する人がいますが(大阪人ならツッコまな!とかいっちゃったりする)、ツッコミがあるイコール面白い会話ではないのです。というか別にツッコミがあろうがなかろうが、面白い会話は面白いし、逆もまた然り。

だいたい心理的対決もないのに、ただツッコむなんて、いかにボケが面白くないか自分でいってるようなもんなのにね。つまんないボケにツッコむとか自爆行為なんですよ。金もらって舞台に立ってるわけでもなければ、たいして親しい間柄でもないのに、なんでそんな損失行為をしなきゃならんのですか。

ホンマ、アホらしわ