2011年4月28日木曜日

消えた一人称の話とネット人格の話

藪似です。Twitterにも書いたのですが、続きの文章が消えてしまいました。
普通なら、まあしょうがねーべ(湘南弁)とあきらめるのですが、一応続きもの、しかも締めの話だったので完全に放心状態になってしまいました。
かといってまったく同じ文章を書き直す気力は残っておりませんので大幅にかいつまんで書きます。

要するに、一人称によって人格が変わるということをいいたかったわけで、yabuniramiJAPANを始めるにあたって「アタシ」という一人称を考えたこと、そして「アタシはカクカクシカジカ」と書くことによって限りなく自分自身に近い、それでいて絶妙な距離感のあるもうひとりの自分になれる、みたいな内容でした。
今は現在はブログとTwitterの使い分けがうまくできてないので、一人称を変えるだけでTwitterの自分なりの使い方が見つかるんでねーの、と。

いやはや、ブログの要約なんてするもんじゃないわ。実にたいしたこと書いてなかったって嫌になるほどわかりますね。

せっかくなのでTwitterの話はおしまいにして、少し違うことを書きます。
アタシはネットを使う上で、ポリシーってなたいしたもんじゃないんだけど、自分の中でいっこだけ決め事があって、それは「リアルでいえないことをネット上で書かない」。それだけは守っています。
ブログにしろTwitterにしろ、はたまた掲示板にしろ、相手の顔は見えません。だからついつい過激なことを書きたくなる。
たとえば阪神ファンが集う掲示板にいきます。そこには金本選手の処遇に関して目を覆いたくなるレスが散見されます。
そりゃね、あれだけ酷い守備を見せられたらそういいたくなる気持ちもわかる。でもそこでぐっと堪えるのです。
それでもどうしても金本選手にたいしていいたいことがあったら、目の前に金本選手がいるつもりで書くのです。
アタシは陰口が大嫌いなんです。もちろんその掲示板を金本選手が読むことはないでしょうから、広義にいえば陰口なのかもしれません。
でもそこに書いた言葉が仮に金本選手に伝わっても全然構わない、そういうつもりで書くんです。

リアルとネットで人格の差をつけたくないんですね。だからここで書いていることをどこかで発表しろといわれれば躊躇なくいえるし、仮にそれで誰かが怒ったとしてもそれはどうしようもない。
他者を批判する、当たり前のようにというかネットとはそういうために使うもんなんだと思っている人が多いようですが、それは違う。たまたまネットという手段を用いるだけで、リアルと言動は一致させなきゃいけない。そうしないと自分が酷くさもしい人間に思えてしまう。それだけは避けたいんです。
他者の批判をネットで書く、それはおおいに結構。しかし本当にそれを本人を目の前にしていえるのか?逆にそれができない人間は到底ネットを使いこなしているとはいえないと思うんですよねぇ。