2009年7月21日火曜日

プロレス

舌の根が乾かぬうちに、という表現があるが、まさに今から書くことはそれなんじゃないかと考えると夜も眠れない。

この間、タイガーマスクについて書いた時、プロレスへの興味のなさを吐露したばかりだ。
いや、興味のなさは今持ってなにも変わっていないのだが、ついそそられるような記事を見つけてしまった。

http://www.cyzo.com/2009/06/post_1712.html
http://www.cyzo.com/2009/06/post_2204.html

読んでもらえればわかるが、これは前田日明が三沢の死について語ったもので、まあ三沢といえばタイガーマスクでもあったわけで、興味のない中ではまだ興味がある方、という微妙さなので、それなりに悲しみというかショックはおぼえた。
が、そんなことは、まあどうでもいい。
さきの記事でフックになったのは、前田日明がプロレスという興業について語っている部分だった。
今までプロレス論などほとんど読んだことがなく、たまに目にしても、妙に思い入れたっぷりで客観的でないものばかりで、プロレスに関心がない人間にはもうひとつ飲み込みづらかった。
しかしこれは単純明快である。
前田日明がプロレス界でどういう立ち位置なのかは何となくわかっているし、猪木の批判まで入っているのは「らしい」と思えるのだが、ここまで明白にプロレスについての説明は初めて目にしたのだから、自分にとっては目から鱗だった。
さきの記事を読む限り、ガチか花相撲かなどどうでもよくなる。いわばこれは肉体を使ったショーであり、誤解を承知でいえば、びっくり人間大集合とかに近い。
もちろんそれだけじゃダメなので、ドラマ性を持ち込む。
つまりはドラマ性のあるサーカスといえばいいのか。
サーカスにガチも花相撲もへったくれもないわけで、基本は肉体ショーであり、そこに個々が考えたストーリーが持ち込まれる。
こうなってくると、なぜプロレスに引き込まれる人が多いのか、そしてなぜ自分には関心がないのか、明確な答えがでてくる。

話は急に変わるが、こないだサーカスのポスターが貼ってあるのを見た。そしてこう思った。
「おそらく自分は、これから死ぬまで、自分の意志でサーカスを見ることはないだろう」と。
子供の頃、小学校の体育館で、さだまさし主演の、サーカスが舞台の映画を観させられたことがあった。
タイトルもおぼえていない。おぼえているのは最後にピエロに扮したさだまさしが、最後に空中ブランコかなんかから落ちて死ぬことだけだ。
この映画を観る前、おそらく幼児に近い頃だったと思うが、一度だけサーカスを観に行ったことがあった。
といってもこれも何もおぼえていない。さだまさしの映画と同じように。
おそらく幼少時から、齢40になった今まで、一度としてサーカスという興業に惹かれたことはない。
理由はわからない。スゴいのはわかるが、どうしても「だから何だ」という気分になってしまう。
エンターテインメントは大好きだ。映画もそうだし、特に笑いに関するものには強く心を動かされる。
たしかにサーカスにもプロレスにも大なり小なり「笑い」の要素はあるだろう。そして両方ともエンターテインメント中のエンターテインメントである。
しかし、何だろう。どうもびっくり人間的要素があると、興味が削がれてしまう。本当に理由はわからない。
チャップリンにしてもバスター・キートンにしても、昔のコメディアンはとにかくパントマイムがスゴい。
が、自分の中でこういった「いかにも芸を見せてますよ」みたいなのは、興味がないのだろう。
スゴさよりも、そっから後に興味があるといえばいいのか。
もちろんサーカスもプロレスも「スゴさ」で終わっているとは思わない。しかしこれはイメージの問題だ。
スゴさがメインできているイメージがある以上、どうしても興味の範疇には入らないのだ。

何だか自分でも思わぬ方向へ話が転がってしまった。
まあいい。とにもかくにもさきの前田日明のインタビューですっきりしたことは事実なのだから。
最初に書きたかったことはね、何だっけ。忘れた。知らんよ、ボカぁ。