2009年4月10日金曜日

不二夫ちゃん

タモリは何で赤塚不二夫のことを「不二夫ちゃん」と呼ぶようになったのか気になって夜も眠れない。

先日NHK教育で赤塚不二夫の特集をやってたが、結構面白かった。切り口は珍しくもないが、古谷三敏、高井研一郎、北見けんいちの鼎談は貴重なものだったと思う。
他にはみなもと太郎が「赤塚不二夫は家庭漫画の人」と言い切ってたのは面白かったし、実際そうじゃないかと思う。
番組では当然のように「天才バカボン」が中心で、それはいいのだがナレーションが「馬鹿なボンボンを主人公にした・・・」といっていたのは少しだけ違和感があった。
とはいっても自分は「バカボン」のネーミングについて、そっちの方が正しいというか、仮にダブルニーミングだったにせよ「馬鹿なボンボン」の方の意味合いが強かったんじゃないかと思っている。
というのも晩年、赤塚不二夫は「本当は「天才バガボンド」にしたかったが、編集者にわかりづらいと反対された」と語っていたからである。
たしかにパパはバガボンドそのものであるが、どうも後付け臭い。それに、あいまいな記憶だが、構想段階では馬鹿のギャグと天才のギャグ両方を描こうとしてたはずで、最初から「天才」と「馬鹿」というキーワードはあったはずなのだ。
もうひとつ、やはり番組の中で「途中で主人公が入れ替わった」とあったが、これも怪しい。
「おそ松くん」や「もーれつア太郎」などはたしかに途中で主人公が入れ替わった。しかし「天才バカボン」の場合、最初からパパとバカボン(初期の構想ではハジメちゃんも)が主人公だったような気がする。

要するに「天才バカボン」は白痴の親子の物語なのである。いや、白痴の父親VS天才の息子の構図だったといえばいいか。
設定だけを聞いていると、あんまりギャグ漫画っぽくない。ギャグ漫画にしてはあまりにも設定がもの悲しい。むしろ人情物風だし、初期はそんなニオイもあった。
(余談だが子供の頃赤塚不二夫に熱中したといわれる松本人志にその影響を見ることができる。もの悲しい雰囲気の中で展開される「トカゲのおっさん」など赤塚漫画寸前だ)

この辺が赤塚不二夫の漫画の真骨頂である。少なくとも「天才バカボン」の頃までは、ギャグ漫画には違いないのだが、扱い次第でどんな風にもなる、という懐の深さがあった。
人情物になるのは当然だし、少しピンクの方向に振れば(つまりパパの関心事をエロに向ければ)、もう十分エロ漫画にもなる。
しかしどんなジャンルで読みたいといえば、やっぱりギャグ漫画として読みたい。そう思わせるのが凄い。
つまりギャグ漫画にしかならない設定でギャグ漫画を描いてるんじゃない。でもギャグ漫画にしたからこそ、よりその設定が活きてくる。

そういうことができる、というかそんな発想があるのはこの人だけだったと思うし(松本人志はフォロワーといえるし、チャップリンの影響も見て取れるが)、鼎談の中でいってた通り、あと一本でいいから何か描いてほしかったと思う。
何だかサヨナラもいわずに去っていかれたようで。どうもそういう展開は赤塚不二夫という人には似合わないような気がするのだ。
でも・・・知っているとか知らないじゃなく、自分はこう思う。

これでいいのだ。