2009年4月12日日曜日

はんなり

日本語がどうなっていくか考えると夜も眠れない。ウソです。

「言葉は生き物」という考え方に基本的には賛成している。このブログも厳密にいえば日本語として滅茶苦茶だろう。が、これでいいのである。正しい日本語よりも、相手に正しく伝わる方がよほど大切なことじゃないか。
もっともそれは日常の会話とか、こういう雑記での話。やっぱり使い方を間違っちゃいけない時があると思う。
名前を出すのも忌々しいのでこういう書き方をするが、2008年下半期の朝ドラで、しつこく「はんなり」という言葉が間違った使われ方をしていた。
最終話でも藤村志保が「祇園のおかみはもっとはんなりしとかなあきまへん」(うろ覚え)みたいなことをいってたが、これはあきらかにおかしい。
ずっと遡って1990年ごろの話。上宮高校の超高校級プレーヤーと騒がれた(いや、後の姿からは想像できませんが、たしかにそうだったんです)元木大介を評して、ドラフトで指名するのかと問われた阪神の球団社長が
「ああいうはんなりした選手がうちにきたらな」
とあいまいな返事をしたのだが、これが正しい「はんなり」の使い方。つまり「華のある」とか「華やかな」という意味の京言葉なのである。

それが某朝ドラではあきらかに「のんびり」とか「悠然と」みたいなニュアンスで使われていた。まあ語感だけだとそう受け取るのもわかる気がするし、実際間違えて覚えている人も多いのではないか。
しかしこのドラマの中で間違うのは致命的である。藤村志保の役は祇園のお茶屋を長年支えた、という設定の人なのだ。そういう人が「はんなり」の使い方を間違うなんて絶対あっちゃいけないのだ。
あのドラマの中で「はんなり」という表現が合う登場人物といえば某ほりえもんがモデルっぽいIT企業の社長だけなのだが、残念ながら彼にはそういった形容は用いられなかった。

と、ここまで書いて思ってみた。よくよく考えてみれば、先の藤村志保のセリフは2011年に発せられたことになってるのだ。
言葉は生き物だ。もしかしたら2年後には「はんなり」はそういう意味になってるのかもしれないぞ。それは誰にもわからないし知らないからな。絶対ないと思うけど。