2010年2月5日金曜日

真面目と必死

長らく日本では「真面目」や「必死」という言葉は肯定的な意味で捉えられていた。
それが時代が変わり、目上からの押し付けがましい言葉に変化していった。
「真面目に勉強しなさい」
「必死に勉強しなさい」
仕事、でもいいんだけど。

それがここ20年くらいだろうか、もっと否定的な意味で使われている気がする。
「必死」に関しては、何年くらい前だろうか、松本人志が今は亡き某携帯電話のCMでの「何かもう必死でしょ」というセリフを覚えておられる方も多いと思う。
松本以外にも上方芸人が使っていたのを何度か聞いたことがあるので、「必死」の否定的使用は関西発祥なのだろう。
これは前にやっていたブログでも書いたことがあるような気がするのだが、どうにも「必死」を否定的に使うことに違和感をおぼえてしまう。
先の松本のCMのセリフを借りるなら「必死でええやん。必死の何があかんの」と思ってしまうのだ。

まあそれはいい。問題は「真面目」の方だ。
ずいぶん前になるが、友人から「真面目な人だなあ」といわれて頭にきたことがあった。
これは自分も俗世間に流されているのかもしれないが、真面目、という言葉から連想されるのは「融通のきかない、頭の固い人」みたいなイメージだ。
いや、自分のイメージはこの際どうでもいい。それよりその友人が明らかに否定的なニュアンスで「真面目」という言葉を使った。それにたいして腹が立ったのだ。

逆の例を出す。
知り合いの人で、「真面目」を全肯定的に使う人がいる。真面目であればすべて良し、みたいな感じなのである。
どうも、何というか、それはないんじゃないの、といいたくなってしまう。
たとえば誰かと軽い揉め事が起こったとする。どっちが悪いというわけでもない。ただ何となく流れで険悪なムードになってしまった。
こういう場合、相手が真面目な人だからこうなった、といわれて納得いくであろうか。自分なら到底納得いかない。
相手を許すことと、相手が真面目なことは全然関係ない。むしろ「真面目なんだから許してやれよ」とかいわれたら、余計こじれるんじゃないだろうか。
真面目は免罪符にはならない。真面目な人を否定するつもりはないが、逆にいえば不真面目な人も否定するつもりはない。
というか、今の時代、確実に不真面目な人の方が生きやすい。
もうしつこく書いているのでさらっと書くが、何人かのうつになった知り合いの人は、揃いも揃って、馬鹿正直なほど真面目な人なのだ。

そもそも・・・「自分のことをしっかり考える」とか、いや、もっと簡単なことでいえば「明日仕事だから飲みすぎないようにしよう」と考えたりするのさえ真面目になってしまう。
つまり真面目を否定的なニュアンスで使っている人ですら、実は真面目なのだ、といえなくもないのだ。
真面目に考えていいことと、考えなくていいことがあるのは当たり前の話で、それは人それぞれ違う。つまり真面目と感じるかどうかなんて価値観の違いでしかない。
それをしたり顔で「真面目な人だ」という人こそクソ真面目なんじゃないかと思ってしまう。

まあこんなことを書いている時点で自分も十分クソ真面目なんだけどね。