2012年5月30日水曜日

秋元康の絶妙感

前回の続き、ではないのですが多少書き残したことが気になったので。
とんねるずのコミックソングをあれだけ絶賛したのに、あの人の名前がないのは変ですよね。
あの人とはもちろん秋元康です。

たとえば到達点とまでいった「ガニ」の凄さはほとんど編曲にあります。
初期の見岳章、中期から後期にかけて後藤次利の貢献度は半端じゃない。それくらいとんねるずの楽曲において作編曲はキモだったとおもうのですよ。
それでも一番にくるのは秋元康です。

いつ聴いても凄いなと思うのが「雨の西麻布」でして、「♪ふたりのにしあざーぶー」というコーラスから入るわけですが、本歌に入って最初の歌詞が「そして」なんですね。
これは凄いことなんですよ。「そして」って言葉はリリックとして非常に使いづらいんです。とにかく音がブチブチに切れてしまう。また一回使っただけでやたら説明的な歌詞になってしまう、いろんな意味で危険なフレーズなんですね。
それをね、ド頭にいきなり持ってきて、さらにもう一度すぐに突っ込む。大胆にもほどがあります。
「雨の西麻布」はムード歌謡のパロディですが、たしかに「そして」を使うとムード歌謡ぽくはなる。でも実際は危険なフレーズなのでさほど使われていない。

こういう計算が秋元康の真骨頂だと思うんですよね。
それこそ美空ひばりの「川の流れのように」やAKB48の「ヘビーローテーション」もなんだけど、秋元康の詞って「あざといくらいあざとくない」んです。わかりにくいか。つまり「ものすごくあざとく、あざとさを消してる」といえばいいのか。ダメだ、上手くいえないわ。
「雨の西麻布」の西麻布って地名なんかホントにその代表で、Wikipediaなんかを見ると最初は「雨の亀戸」だったそうですが、亀戸じゃあざとい。かといって「雨の六本木」じゃあざとくないかわりに芸がない。そこへいくと西麻布ってのはまことに絶妙の線でして、わかる人がわかればいい、しかし身内しかわからないほどでもない、ギリギリのラインをついているんです。

秋元康の才能は作詞、それもコミックであればあるほど抑制の効いた絶妙な感じがでる。そういう人をブレーンに引き入れたとんねるずはやはり凄いと思うのです。
この辺はダウンタウンとは正反対で、松本人志は全部自分でやりたがるでしょ。それはそれでいいし、それこそ「エキセントリック少年ボウイ」はギャグの羅列を歌にした初めての成功例だと思うんです。
でもどこか堅苦しさもあって、とんねるずのように有能な作詞家をブレーンにつけた方が、コミックソングを「演じる」(歌う、ではなく)にあたって、より自由度が増す気がするんですね。

考えてみれば植木等だって青島幸男の世界観があればこそあれだけ暴れ回ることができたんです。
ただ青島幸男の詩の世界は必ずしも植木等が暴れることに特化してたわけじゃない。どちらかというと植木等がどうとかじゃなく、青島幸男の主義主張の方が前面に出ています。
秋元康はそうじゃない。この人は奇妙なほど主義主張を込めない。その代わり、どういう世界観を提示したら歌い手(演じ手)が能力を最大限に発揮できるか、完璧に計算されていると思うのです。
そんな対比で考えると、青島幸男はアーティスト、秋元康は職人といえるのかもしれません。
(余談だけど秋元康の師匠は青島幸男門下だったから、孫弟子といえなくもない)

さて久しぶりに妙に熱く語ってしまいましたが、そういや今までとんねるずについて言及するは避けてたんですよ、アタシは。チャンスがなかったともいえるけど。
でもこれだけ溢れ出すってことは、ダウンタウンと同等の思い入れがあるんですな。結局わかったのはそこだったり。