2012年5月17日木曜日

文章のクセと演技力

誰だって「文章のクセ」みたいなのがあると思います。このyabuniramiJAPANTiny2だってアタシの文章のクセがふんだんに出てると思うのですよ。
右のカテゴリから飛べますが、かつてmixiに文章を書いてたことがありました。そしてここの前哨戦といえば大仰ですが「sugame京浜」という名前で書いていたこともあります。
それらは自分では過去の、Tinyでも何でもないyabuniramiJAPANと文体を変えたつもりだったのですが、それでも改めて読み返すと、やっぱりアタシの文体のクセがでているのです。
別にバレないように文体を変えていたわけではないので構わないのですが、時にはなるべくバレないように書きたい時もあるわけでして。

某巨大掲示板にはたまにレスすることがあります。そこではなるべく文体のクセが出ないように、相当気をつかって書いています。
といっても自演しているわけじゃないんですよ。でも何となく「これは別人の意見として書いた方がいいな」てなことがよくあるんですね。
しかし本当に別人になりきれているのかは自信がない。何しろ文章のクセってのはそうそう簡単に直せるもんじゃないんでね。この辺は人間としてのクセと一緒でね。
それでもそれなりに対策はあります。たとえば徹底的に2ちゃんねる文体で書くことです。あ、2ちゃんねるっていっちゃった。まあ「じゃね?」とかね。要は2ちゃんねらになりきるわけです。

そういえば「yabuniramiJAPANぽい文章を書くには藪似という架空の人物になりきればいい」と書いたことがあります。つまりこの文章、というほどのもんじゃないですけど、書いているのは「藪似」という人なんです。けして自分自身じゃない。ほんのちょっとズラしてある。ズラすことによって饒舌になり、その方が読む側から考えても面白く書けると思っているんです。
もし完全に他人になりきれれば(架空の人物でも構わない)、きっと「文章のクセ」を完璧に消すことができると思うのです。そしてそっちのが面白いものが書けると思うし、文章の幅も広がる。一番わかりやすい例でいえばパロディですが、別にパロディでなくてもいいわけで。

となると文章を書くというのは、ある種の演技力なんです。架空だろうが実在だろうが、誰かになりきることができるか。
そして完全に演じることができた時、はじめてその人の本性というか、人間的な深みが重要になると思うのですがどうでしょう。