2009年5月3日日曜日

パクリ

友近が渡辺美里の真似をすると、決まって誰かが「あ、ライブバージョンや」と合いの手を入れるが、「マイレボリューション」のライブバージョンってそんなに有名なのだろうか。自分が知らないだけ?それとも明らかにレコードテイクと違うからそういってるだけなのか、気になって夜も眠れない。(こういうのを冗長な書き出しという)

そういや槙原敬之と松本零士の盗作云々の裁判がどうなったのだろうとざっくり調べてみたら、どうやら槙原敬之の主張が認められたようだ。
しかし盗作か否か、という問題ほど難しい問題はない。
以前小林亜星と服部克久との間で争われた裁判は、流用したことが認められる、つまり盗作とまではっきりいわなかったが、裁判所は「パクったんじゃね?」みたいな判決だったと思う。
この裁判では譜面からどれだけの類似点があるかで決まったようだが、はっきりいってほとんど意味はない。

こういう問題で常につきまとう、「インスパイア」というのは、創作とは切っても切れないものだからだ。
たとえば現実に起こったことからインスパイアされて創作する人もいるし、過去につくられた著作物からインスパイアされて創作する人もいる。
当然インスパイアされたものから、どう自分なりのオリジナリティを出せるかは作者の力量によるが、原典を横においてそっくり真似しない限り、本物そっくりになるわけがない。
もう、はっきりいえば、音楽でもギャグでも小説でも、オリジナルです、と胸を張っていえるものは、新しくはでてこないと思う。
音楽でいえばメロディなんかは音符を並べていくにしても限界があるし、小説をはじめとするフィクションでも、もうありとあらゆるストーリーがあるわけで、カブらない方が無理というもの。ギャグに関しても青島幸男は「ギャグのパターンは無限にあるわけじゃない」といってるし、自分もそう思う。
結局何かしらからインスパイアを受けて、創作は続けられていく。今もそうだし未来もそうだ。

インスパイアも多様化している。たとえばAという作者がつくったAAという作品を、AAにインスパイアを受けたBという作者がBBという作品をつくり、AがBを訴えた。これなら筋は通っている。
しかしAAという作品から、BはBBを、CはCCをつくったが発表はBBの方が先だった場合、話がややこしい。
自分は、槙原敬之と松本零士の件も、小林亜星と服部克久の件も、このパターンではなかったかと睨んでいる。
槙原敬之はおそらく本当に、例のセリフは知らなかったと思うし、服部克久も「どこまでもいこう」を意識したとは思えない。
ただインスパイアの原典が同じ、もしくは原典から派生した作品からインスパイアしてつくったのではないか。

とにかく「似たものはすべてパクったとみなす」というのは無理がありすぎる。先に発表したのが本当にオリジナルといえるものならともかく、先に発表しただけのものが著作権的に有効、というのはどう考えても納得いかないし、これでは創作する時似たようなものがないか著作権ばっかり気になって、本気でクリエイティブなことをやっていこうという人がいなくなる。
著作権を争う場合、似てるか似てないかではなく、フェイクかどうかで争うようにしないとマズいのではないか。さっき書いたように、発表された著作物を横において丸写しした場合はフェイクとみなしてアウト、ぐらいにしないと。

んで書き出しの件になるわけだけど、じゃあ物まねはどうなるんだ、となる。実際さいきんでも織田裕二が怒ったり、ショーケンや矢沢永吉がそっくりさんと揉めたりしてる。
これも本人が怒ったらアウト、というのはあまりにも曖昧だ。物まね芸人がいちいち本人の許可を取りに行くとは考えづらいし。(売れてない人ならなおさら)
ネットの問題も絡まって、著作権というのは曲がり角にきてるのではないか。このままほっておいたら、というか、真剣に議論を重ねないととんでもないことになりそうな気がするし、そうなっても知らない。