2009年5月9日土曜日

パペポ

笑える、ということは何と素晴らしいことなのだろうと思うが、もしそれが制限されたとしたらと考えると夜も眠れない。

最近、昔撮った「鶴瓶・上岡パペポTV」をずっと見ている。
つくづく思うのは、上岡龍太郎という人は根っからの芸人なんだな、ということだ。
一般的には「知的」であったり「毒舌」であったり、そういうイメージだと思うが、この人が本気で怒るのは、霊や占いに関することだけであり、あとは怒ったフリ、というか、あくまで芸として演じていることがありありとわかる。
とはいえまるっきりどうでもいいことに怒ったりしているかといえばそうでもなく、この人の言葉を借りるなら「虚にして実にあらず、実にして虚にあらず」ということになるのだろう。
ただし着地点は必ず「笑い」しかない。笑わせる手段として、いわば前フリとして、知識を開陳したり怒ってみせたりする。これは非常にレベルの高い芸であり、誤解を受けやすい芸とも思うが、それをたやすくやってのける上岡龍太郎には舌を巻く。

あらためて「パペポ」を鑑賞すると、これは今のテレビでは絶対に無理だろうなと思う。いや、某芸人のこともあるように、ラジオでさえ無理な気がする。(もちろん某芸人が上岡龍太郎ほどの芸を持ち合わせていたかという問題もあるけど)
おそらく今では一元化されたタブーといえる、宗教ネタや暴力団絡みのネタもガンガンでてくる。それらはすべて「笑い」に昇華されているのだが、今ではいくら笑いに転嫁したとしても無理なんじゃないだろうか。

もうひとつ、この番組はほとんど編集を施していない。いや、この番組が発祥といわれる禁マークなどはあるのだが、放送時間に限りなく近い時間で収録しており、昨今のバラエティ番組とは根本的に作り方が異なる。
そもそもVTR収録というものがテレビで使われだした理由は、最初はタイムシフトという考え方であった。たとえば「シャボン玉ホリデー」はタレントのスケジュール的に生が無理であったため、事前に生と同じ形で収録する、という方法がとられた。
同時に編集すると滅茶苦茶お金がかかったという事情もあったらしいが、これは技術革新によって編集は容易になっていく。
編集が効くのなら、とリハーサルを減らし、ぶっつけ本番的な収録が可能になった。これはクオリティをあげる作用もあったと思う。
さらに編集を利用して、本当にマズいところだけカットすることも可能になった。

ところが昨今のバラエティはどうだろう。より面白い番組にするためでもなく、本当にマズいところだけを切るためでもなく、ただレベルの低さを補うためだけに編集が行われている。
より面白くするためじゃない。とにかく長時間収録して面白いところだけをより抜く。仮にタレントのレベルが低くても、何十時間もまわしていればそれなりのシーンはつくれる。
言語が不明瞭だったとしても、テロップで全部文字に出す。

いみじくもパペポの中で「テレビでウケるのは、素人が芸をするか、プロが私生活(素)を見せるかしかない」と上岡龍太郎がいっていたが、今のテレビはどっちでもない。半素人が人工的な素を見せる。さらにそれを編集でごまかす。
これでは面白いはずがない。それに上岡龍太郎のいったことは一種の反語であり「プロなんだったら芸を芸らしくみせるな」という意味が含まれている。
しかし今、そういうことができる芸人がどれほどいるだろう。いなくはないけど、作り手がわかっていなければやりようがない。

パペポは今にして思えば、プロによるプロの芸を見せる番組だったのだ。一見どこに転がるかわからないようなトークを展開しつつ、最後は絶対笑いに持っていくことができる。これこそプロの芸とはいえまいか。
鶴瓶は現在も健在だが、相方がいない。「きらきらアフロ」はパペポに近いスタイルに見えるが、プロの芸を見せる番組とは根本的に異なる。
では鶴瓶は誰と組めばいいのかとなるが、今のところ(相性も含めて)適当な芸人はひとりも思いつかない。