2009年5月21日木曜日

ほりえもんと横山やすし

こんな一見何の関係もなさそうなふたりをタイトルに並べて大丈夫なのか、と思われそうで夜も眠れない。

今更ながら、というか今だからこそほりえもんの話である。
ライブドアの社長やってる頃からこの人のいうことには納得できなくて、納得できないというか、結局何を喋っても胡散臭いので真面目に聞く気にはならなかった。
ここ最近になって、半分ネット上限定ながらまたぽつぽつ表舞台に出始めていて、長いインタビューなんかもされている。
それを読んだ感想は、やっぱり社長時代と一緒で「何いってんだ」といか思えないのだ、自分にとってはね。
が、もうひとつのことに気づいた。
このほりえもんという人、どうも天性の「愛され属性」を持ってるんじゃないかと思えてきたのだ。
では田代まさしと一緒か、といわれればまたちょっと違う。田代まさしの場合、何というか、弄ばれている感じなのだが、ほりえもんはそういう「弄ばれている」感じはしない。発信はあくまでほりえもんの側からされているからだ。
ではほりえもんに一番近い存在は誰かといえば、往年の横山やすしじゃないかという気がする。

横山やすしほど「愛され属性」を持った人はいなかったと思う。何をやっても許される、というより、何をやっても周りに「やっさんだから」とあきらめてもらえる。
晩年は不幸の連続だった。もちろんそれは己の責任で「報い」というひと言で片づけられるのだが、それもこれもすべて死で浄化されてしまう。
最終的には「どうしようもねえけど、懐かしい奴だったな」と思ってもらえる。ほとんど山田洋次の世界じゃねーか。

横山やすしは他人への甘え方、自分をかわいく見せる方法に長けていたといわれている。しかしそれは、ほぼ生まれもって身についていたもので、努力で手に入れたものではないだろう。
ほりえもんにも同じニオイを感じるのである。逮捕がはたして正当なものだったかはともかく、宇宙だの球団持つだの、逮捕前の彼の言動はまるで子供の戯言のようだったし、今だって話のスケールが若干小さくなっただけで、戯言にしか聞こえない。
戯言なんだから真面目に受け取れば胡散臭く聞こえるのは当然で、でも逆にとれば胡散臭いのではなく、理屈をこねくりまわすのも純粋な夢を語るためのデコレーションにしかなっていないんじゃないか。
だから愛される。「しょーがねえな、またわけわからんことに理屈つけて語ってるよ」とは思っても、何だか、どうにも憎めない。それは相手が「大きな子供」だからだ。
子供に呆れることはあっても、本気で嫌うことに意味を持たない。だって子供なんだからしょーがないでしょ。

何だかものすごくほりえもんを馬鹿にしてるみたいだが、そうじゃない。ほりえもんにしろ横山やすしにしろ「愛され属性」は才能なのだ。
子供っぽく振る舞えば誰でも愛され属性を得られるかというと無理なのだ。あざとさなどあってはならない。本当に心底子供でなければならない。
でも実際どうですか、子供の心を持ち続ける、なんていうけど「ある部分だけ」ならともかく「全部」を持ち続けるなんて絶対に不可能だ。

ん、まあ、自分にはどうにも「愛され属性」を持ってないので、正直にいえばうらまやしいのですね、こういう人たちを。自分のような愛され属性ゼロで、しかもこんな理屈ばっかりの人間が世間でいうところの「ややこしい奴」ってことになるのだろう。
と思われたところでどうしようもないし、どうかする方法も知らん。