春が近づいてきた。
殿様がバイトにこなくなって、また孤独との戦いがはじまっていた。
もうひとりの心の支えであるY先輩が一緒の時は、まだマシなのだが、マシというレベルであり、殿様の時と同じ「会話の弾み具合」は到底望めなかった。
Y先輩は大学の先輩であり、同じサークルの先輩でもあった。
しかし大学在学中はそれほど接点があったわけではない。
そんなに大規模なサークルではなかったので、もちろんそれなりに話す機会はあったのだが、ひとことでいえば、どうも合わない人だった。
遊びにいく時も、他の先輩や同期、後輩とはいろんなところにいったが、Y先輩とはかなり大人数ので遊んだ時に、たまたま一緒になるといった程度だった。
だからバイトで一緒になっても、たいして会話のネタがない。
一緒にいて苦痛というほどではないが、自分は何となくY先輩が怖かった。本当はやさしい人というのはわかっていたのだが、どうしても遠慮がちになり、向こうもそれを感じていたのか、こっちにたいして遠慮がちになっていた。
これでは会話が弾むわけがない。
春がすぎた頃、うららかな日があった。
日差しがやわらかく、ぼーっとしていると睡魔が襲ってきそうなぐらい、気持ちのいい天気だった。
その日は妙に仕事が少なく、昼を過ぎたころ、特別することがなくなった。
「しょうがないな。じゃあウエスでもつくってて」
困り果てた顔で社員のひとりが指示をくれた。
元々あまり仕事がないのはわかっていたのだろう。この日はバイトの人数も少なく、Y先輩と自分だけだった。
ふたりは、いらなくなった布をちぎりはじめた。
説明の必要もないと思うが、ウエスとは雑巾の簡易版、ティッシュペーパーの丈夫版みたいなもんで、汚れがあった場合、ウエスでふき取る。
だから本当に布をちぎったものでしかなく、こんなもんつくるとかいうたぐいのものではない。
それでもふたりは黙々とウエスをつくりはじめた。
ビリッ、ビリッ。ひたすら不要になった布類をちぎっていく。
何をしてるんだ、オレは、という気分にもなってくる。
するとY先輩が声をかけてきた。
「オレらもこんなことしてる場合ちゃうで」
まったくその通りである。ふたりとも20代半ば、こんなとこで布をちぎっている場合ではないのは明白だった。
Y先輩は音楽をやっていた。ちょうどその頃CDがでたばかりだったのだが、バイトにくる、ということは音楽だけでは食えなかったのだろう。
CDといってもインディーズなのだが、大手レコードメーカーのインディーズレーベルなので、自分からすればかなりたいしたものだった。少なくとも人に何も誇れることがない自分とは比べものにならない。だからこそ、Y先輩のつぶやきは印象に残った。
それから少しずつY先輩と話すようになった。
比較的マジメな内容がほとんどで、それこそ殿様との時と違い盛り上がりのようなものはないが、Y先輩としんみりトークも、それはそれで楽しいというか必要な時間となっていた。
Y先輩は気遣いの人だった。外見的には荒っぽい感じなのだが、自分に気を遣ってくれているのは痛いほどわかったし、こちらが聞いたことにはキチンと答えてくれた。
そういえばCDのライナーノーツの最後に、スペシャルサンクスとして自分の名前があった。
「ぼく、何にもしてませんよ」
本当に何もしてなかった。一切CDの制作にはタッチしていない。しかもCDができた時点では特別仲がいいわけでもなく、大学の先輩後輩で一緒のバイトというだけだ。
「まあええやん。記念になるやろ」
いつもは何でもキチンと答えてくれるY先輩も、この件についてはひと言だけだった。それがY先輩流の気遣いだった。
夏になった。
その日はバイトがなく、自分はクーラーのない暑い部屋の中でくたばっていた。
電話がなった。Y先輩からだ。
「プールでもいかへん?」
まったく意外な誘いだった。Y先輩とプールがどうしても結びつかない。
「水着持ってないんですよ」
断る口実ではなく、本当に持ってなかった。
「オレ2つあるから、貸したるから行こうや」
プールといっても市民プールで、何故そんなとこに行ったのか今もってわからない。
しかもY先輩とは「しんみりトーク」をする関係で、プールではしゃぐような関係じゃない。だいた野郎ふたりで市民プールに行くこと自体異常だ。
夏真っ盛りということもあって、市民プールはいっぱいだった。
結構長い滑り台のようなものもあって、さすがにその時はそれなりにはしゃいだが、泳ぐわけでもなく、ナンパするわけでもなく、だいたい市民プールでナンパなんかするやついるわけないけど。
プールから出て、お茶を飲みにいった。
いつものようにしんみりトークをはじめると
「実は某大手事務所からお誘いがあるんやけど、どう思う?」
あまりに突然の相談事に自分はたじろいだ。
続く