2009年8月16日日曜日

リアル隣組

またしても同じようなことを書く。そろそろ飽きられそうで夜も眠れない。実はとっくに飽きられていると思うけど。

前回隣組について書いたが、参考までにと検索していくとWikipediaにYouTubeへのリンクが貼られていた。岡本一平が作詞した「隣組」の動画へのリンクだ。
あまり活用されているとは言い難いが、実はYouTubeにもコメント機能があり、この楽曲にたいしてもいくつかコメントが書いてあったのだが、あまりにもノーテンキなコメントばかりなのに、正直驚かされた。
いや、YouTubeばかりではない。「隣組」で検索してみるとおわかりいただけると思うが、かなり肯定的な意見が多いのだ。

隣組制度は、岡本一平作詞、飯田信夫作曲、徳山璉歌唱による、実に明朗なメロディと、あたたかい歌詞を持った歌のせいで、大いなる誤解を生んでいるといっていい。もちろんそれは内務省の狙いだったのだろうが、ここまでまんまとハマるケースも珍しいと思う。
たしかにあの歌だけを聴くと隣組は一種のパラダイスにすら感じる。しかも60年以上経ち、まったく価値観が変わってしまった今の人たちにまで幻覚を見せているのだから凄いとしかいいようがない。
作詞した岡本一平は・・・説明の必要もないだろうが、もちろんあの岡本太郎の父である。モノの本を読めばわかると思うが、ある意味息子以上に変わった人だったのだろう。
とにかく彼の家庭は「まともじゃなかった」のだ。とても普通の近所付き合いがあったとは思えない。
その岡本一平が、あんな歌詞を書き、(歌ができた当時から見て)未来人すら「その気」にさせてしまっているのだからおもしろい。

が、前回も書いた通り、隣組制度はパラダイスでも何でもない。個人的には国が責任を持たない分だけ、もしかしたら徴兵制度よりも悪法に感じてしまう。
相互監視のコワさを表現するのは難しい。
きっと「悪いことさえしてなければ、何の問題もない」という人もいるだろう。
しかし、当時のことを記した文献を読んでいただければ、到底そんな生やさしいもんじゃないとわかっていただけると思う。
そもそも「悪いこと」という定義がよくわからない。
法に触れるとかそんなレベルじゃなく、結局善悪の判断は個人の裁量に任されている。それが民主主義だ。
ところがそれを許さないのが隣組制度なのだ。
善悪の判断は隣組の人がする。しかも一番権力を持った人が。法には触れておらず、自分的には何ら問題がないことでも、権力者がダメといえばダメなのだ。
ダメというのはあきらめる、ということではない。即刻ダメと烙印を押された考えなり価値観を全否定しなければならないのだ。そうでないとたちまちつるし上げられてしまう。

つまりは隣組制度=個人の価値観の自由を剥奪されることに他ならない。価値観の自由を剥奪されてしまっては、もし仮に安全が保証されても、受け入れることなどできるか?少なくとも自分は絶対にできない。
以上ですキャップ!