2009年8月11日火曜日

偽善の定義

日本人というのはつくづく難しい人種だと思うと夜も眠れない。

前回、少しでも非があると思われる人物を徹底的に糾弾して、ああ、いい気持ち、みたいになる人が多い、てなことを書いたが、実は逆もまた然りなのはどういうことだろう。
松本人志は著書の中で「寄付やボランティアをするなら、人知れずやりたい」と書いていたが、これは少しおかしい。
気持ちはわかるのだ。しかし「いいこと」をしても表立ってやりたくない、というのは、やはり少し変だ。
どうも日本人は(もしかしたら日本人だけじゃないかもしれないが)、偽善ということに敏感だ。
多額の寄付をした人、ボランティアに積極的な人をすぐに「人気取り」だの「偽善者ぶりやがって」とことあげにする。
はっきりいって有名人が寄付やボランティアをすることによってメリットはほとんどない。上記のように叩かれるのがオチだ。
だからこそ余計に思うのだ。何のメリットもない中、そういうことをしている人は本当に立派だと思う。

それよりも叩く側の心理だ。
出る杭は打たれるではないが、悪いと思われる人、良いことをしている人、見境なく、とりあえず出る杭は叩いておこうという発想なのだろうか。
実際偽善というものは難しい。
本当に良いことすら偽善といわれる世の中だ。偽善で世間を欺けるとは考えづらい。
もし可能だとすれば、もうこれは何もしないことだ。
何もしない、目立たない人は、もうそれだけで「いい人」と思われる。
とはいえ本当に何もしないわけにはいかないので、陰でこっそりやる。それが良いことであれ、悪いことであれ。
以前日本全体がブラックボックス化しているという話を書いたが、それもこれも目立つことイコール悪、という図式が無意識にあるからではないか。

表立ってる人を叩くのは簡単だ。しかしそれは崩壊の序章のように思える。
寄付やボランティアはますますやりづらくなるし、悪いことも「裏に回す」テクニックが巧妙になるだけだ。
良いことも悪いことも、ブラックボックス化していいことは何もないのだが、それに気づかず「ただ叩く」だけの人が、ひたすらあわれに思ってしまう。

以上ですキャップ!