2011年10月25日火曜日

ギャグ漫画に最終回は必要か

いやね、もし「ギャグ漫画に最終回はいるのかいらないのか、今すぐ答えないと殺すぞ」と迫られたら、もう「いらない」と答えるしかないのですが、ちゃんと考えたら結構複雑な気がしてね。

最終回とは、つまり大団円的な内容が最後に必要かってことでして。以前「聖おにいさん」について触れたエントリで「ギャグ漫画の場合は無限に続けられる方がベストだと思う」てなことを書きました。
前言撤回するつもりはさらさらない。「聖おにいさん」のような純粋ギャグ漫画なら、間違いなくそうなのです、と思っておるのです。
「天才バカボン」もね、ギャグとしての最終回はあるけど、アニメの第一作のような大団円最終回は存在しない。大団円がないから、時系列関係なく、またいつでも続きを始めることができる。
もしギャグ漫画で大団円的最終回をやるなら、もう「ガキデカ」方式というか、ああいうメタフィクションしかないと思うのですね。

しかしですね
ギャグ漫画として始めたものの、途中で路線が変わった漫画はどうなんだ、となるわけでして。
具体的にいえば「うる星やつら」あたりです。
「うる星やつら」は、元々短期集中連載として描かれ、本格連載になってもしばらくはギャグ漫画志向で進められました。が、長く連載を続けるにしたがってラブコメの要素が強くなっていきます。
完全に想像だけど、作者として結構面倒くさいことだったんじゃないかなあ。
だって、何度もいいますが初期はギャグ漫画だったわけです。つまり話の展開や設定はすべてギャグのために存在したといっても過言ではないわけです。
ところがラブコメとなると話が違う。整合性てもんがある程度必要になる。自らの意思でめちゃくちゃに突散らかしたものをキチンと整理しなきゃいけない。これは面倒ですよ。

初期の設定では将来あたるとしのぶが結婚して「こける」という子供ができることになっていたのですが、もしラブコメになることを想定していたら、こんなネタは絶対やらなかったでしょう。ましてや「こける」なんてフザケタ名前にはしなかったはずです。
もうこれだけで、後先考えずギャグ優先で描いてたと言い切れます。
結局終盤になって「こける問題」←こんな言い方しないけど、も無理矢理収拾をつける話がでてきます。タイムパラドックスといえば聞こえはいいけどね。

ギャグ漫画で整合性をとる、というのはかくも難しいことなんです。「聖おにいさん」みたいに異様に整合性がとりやすい設定ならともかく、つか整合性を考えてたらギャグなんて作れないと思うのですよ。
バカボンのパパなんて何人もの人を殺してると思ってるんですか。あんなの整合性なんてとれるわけないでしょ。

とはいえ「うる星やつら」の場合、やっぱり大団円が必要だったとも思うわけで。面倒だっと思うけどね。