2012年4月29日日曜日

ひかりごけ事件を読み解かない

どうしてもやめてほしいことがあります。
ほれ、たまにあるでしょ、焼鳥屋とかでやたらかわいい鳥の絵が書いてあるのが。あれ、結構辛いんですよね。焼き肉屋だったら牛の絵とか。
今から食そうってもんなんだからさ、かわいさアピールされたら食う気が減退してしまうのです。
「美味しんぼ」での山岡士郎のセリフで「人間は罪深き生き物なんだ」(うろ覚え)なんてのがありましたが、牛にしろ豚にしろ鶏にしろ、まあいや殺して食しているわけですからね。こんだけ全世界で毎日食ってるってことは膨大な数の牛豚鶏が殺されてることになる。
さすがにこれらとカニバリズム(食人を好む一種の性癖)を一緒にしたらいけないと思うのですが、では人間を殺して食するのと人間以外の動物を殺して食するのと何が違うのか、答えるのは非常に難しい。

今回は「ひかりごけ事件」です。これは太平洋戦争の最中、難破した船から生存した船長が同じく生き延びた若い船員を食したという事件です。しかし殺人事件ではない。真冬の北海道の、人家もない僻地に投げ出されたため食料が何もなく、ふたりとも餓死寸前、先に命を断たれた若い船員の肉を、空腹で錯乱状態になった船長がむさぼり食ったという話です。
そもそもこの事件は戦争中で、しかも軍人ではなかったものの軍に属する人間の犯行ということもありほとんど報道されなかったといいます。それが今日知られることになったのは、武田泰淳が小説にしたためたからで、そのタイトルが「ひかりごけ」だったために現在では「ひかりごけ事件」といわれています。
小説「ひかりごけ」はあくまでこの事件をモチーフにしただけとは作者の弁ですが、船が難破しその船長が食人をした、までは同じなのに、複数の船員を食し、また殺人まで犯すという中途半端な改変が行われています。この小説のせいで事件が誤って記憶される場合が多いといいますが、まあそうでしょう。
でも個人的には小説よりも実際の事件の方がはるかに惹かれる。それは一対一の中での究極の人間の心理状態があると思うからで、これが複数の食人になるとカニバリズムとの差が微細になってしまうような気がするんですよね。第一殺人を犯すと犯さないでは心理が全然違う。

人間は極限状態に置かれるとどうなってしまうのか。
当時、いや今もですが、ある意味殺人よりタブー視される食人という行為までいってしまうというね、この事件は残忍とは何か、罪とは何か、モラルとは何か、喜びとは何か、まで問いかけてくるような気がするのです。

もし自分が極限状態に陥ったら何をしてしまうんだろう。もちろんなりたかないけど、たぶんとんでもないことをするのでしょう。そこには常識とかモラルとかは一切存在しない、キレイゴトでは片づけられない、人間の本性とでもいうのでしょうか、そんなんが出てくるんだろうなと思うし、そして仮にその極限状態を切り抜けられても、この事件の船長のように一生鮮明な記憶として脳裏ならぬ脳の表っ側にこべりつくんだろうなと。