2009年12月18日金曜日

やればできる、のか

子供の頃、ずっといわれ続けたことがある。
「あんたはやればできるんだから」
自慢じゃないが、まったく勉強はできなかった。いつもクラスの真ん中よりちょっと下をうろうろしていた。
妹は勉強が趣味のような感じで、暇さえあれば机に向かっていた。
そんな姿を見ていたせいか、自分ではこれはもうしょうがない、と思っていた。どう考えても自分は妹のように勉強を楽しめない。
好きこそ物の上手なれ、というが、好きでもないものの能力を向上させるのは並大抵ではない。
それは努力が足りないといわれるかもしれないが、嫌いなものはそれが好きな人の3倍努力しないと身にならない。
そんなことんなを考えていくと、つまるところ「勉強は向いてない」となる。
しかし親や学校の先生、塾の講師はそんな風には考えない。
「君は頭はいいんだから、やればきっとできるようになる」
おそらく何千何万の人が同じようなことをいわれただろう。
けれどもこのいわば飴と鞭といえるこのセリフを信じた人はどれだけいるだろう。
余談だが、高校受験前に上記のセリフに騙されるつもりで、自分としてはかなり頑張って勉強した。結果、真ん中より少し下が真ん中より少し上になっただけだった。
そんな私事はどうでもいい。「やればできる」という精神は21世紀には少々無理があるのではないかといいたいのだ。

何も努力の尊さを否定するつもりはない。しかし大抵周りからみて「頑張ってる」状態の時は、本人には頑張ってる意識はなく、ただ無我夢中でやってる場合が多い。
「やればできる」と思ってやっているのではなく、ただ能力の向上が楽しいだけなのだ。
だいたい「やればできる」論は無理が多すぎる。今から短距離走のオリンピック選手になれるかといわれれば当然無理なわけだし、そこまで極端な話じゃなくても、都心の一等地にマンションを買うくらいのことでも「やればできる」のかといわれれば、難しいといわざるをえない。
いや、この論理が鬱病やストーカーの存在を増やしているといってもいい。

自分がいいたいのは「やってもできないことがある」ことを説く方がよほど大切なことではないかと思うのだ。
世の中にはどうやっても無理なことがある。向いてないことを努力するより向いていることに時間を使うべきだ、と。
そんなことは実社会で学んでいくものだ、という意見はごもっとも。しかしじゃあ親や学校はいった他に何を教えているというのだ。
いくら「やってもできないことがある」と説いたって、必ず反抗する時期がくるし、実際に不可能を可能にする天才はあわられる。そんなことをいわれたくらいで天才は潰れたりしない。
いくら努力したところで
「なりたい職業に就けるとは限らない」
「好きな異性は必ずしも振り向いてはくれない」
「自分の意見に必ずしも相手が納得するわけではない」
全部当たり前のことだが、どうも最近は当たり前でなくなってる気がするのだ。
「こんなに努力したのに何で報われないんだ」と怒る、もしくは極度に落胆する人がどうにも多い。
怒っても落胆してもしょうがないのだ。やり方を変えるかしょうがないとあきらめるか、どちらかしかないのだから。

どうも虚無的だな。まあいいか。