2009年6月16日火曜日

イッセー

たまに「舞台にしか向いてない役者」というのがいるが、本当にそうなのだろうか。単に使い方が悪いだけじゃねーの、とか考えると夜も眠れない。

イッセー尾形のことを書こうと思うが、いや、何で書こうと思ったかといえば、ドラマにでてくるイッセー尾形があまりにもつまらないからである。
自分は特別なファンではないので、映画もドラマも片っ端からチェックしている、ということはない。甚だ心持たないが、それでもまだ映画の方がマシな気がする。
舞台でのイッセー尾形のおかしさは(これとて実際に観に行ったわけではなく、DVDでとかなのだが)、すべてが「イッセー尾形の手のひら感」で包まれているということにあると思う。お釈迦様のなんとやらというやつだ。
しかしそういう「手のひら感」がドラマでの彼からは感じられず、何だかどれもこれも居心地が悪そうというか、どうにも座り心地が悪い。
今やってる「つばさ」もそうで、悪い意味で浮いている。芸達者な部分がアダになってるんじゃないかとすら思う。
そうこう考えると、ドラマの中で一番イッセー尾形ぽかったのは、大昔の「意地悪ばあさん」じゃなかったかと考え出した。
「意地悪ばあさん」の、あの警官役。青島幸男扮するばあさんとの絡みは、あのひとり芝居に感覚的に一番近い気がする。
考えてみれば、あの役はどうでもいい役なのだ。別にイッセー尾形がやる必要はまったくないような役であり、だからこそ良さがでたんじゃないか。
おそらく使う側の人は、彼の舞台の魅力を知っている人がほとんどだろう。だから「自由にやってくれ」とかいってるに違いないが、やはりイッセー尾形の格を考えたら、起用も重要な役がほとんどだ。しかしこれがよくない。
「重要な役(しかも大抵主役でなく受け役)」を「自由にやる」なんて不可能に近い。
そこへいくと「意地悪ばあさん」の警官役は、まったくどうでもいい役である。おそらく「方言をしゃべり、ばあさんの被害にあう」ぐらいの設定しかなかったのだろう。(もしかしたら方言の設定すらなかったのかもしれない)
それを、これも推測の域にすぎないが(どうも推測が多くて申し訳ない)イッセー尾形は、キャラクターのバックボーンを膨らまして、ああいう警官像を作り上げてしまった。

だからあれだ。ドラマでイッセー尾形をうまく使おうと思ったら「何となくでてくる端役」に限る。キャラクター設定なんかまるで無し。本筋にはほとんど絡まない。だったらきっと最高の味を出してくれるはずだ。
だがねえ、今更イッセー尾形を端役で使おうと思う人がいるのだろうか。知らんねえ。