2012年2月1日水曜日

三億円事件を読み解かない

「で、それがその時の集合写真」「・・・いないじゃん」「え?」「おまえ写ってないじゃん」「そんなわけないだろ、いるだろ」「どこ・・・よ?」「ほら、ここにいるだろ」「・・・なんか似てなくね?」「似てないも何もオレだろうが」「もしかして顔変わった?」「たかだか一年で顔変わるかよ!」

みなさんもこのような経験をしたことが一度はあるのではないでしょうか。
同一人物が目の前にいるのに写真に写っている人物と別人に見えてしまう。それはその人の顔の一部分だけを強く認識していて、そこが写ってなかったりはっきりしなかった場合、同一人物と認識できなかったりするわけです。

さてアタシは昭和43年生まれです。昭和43年というとあの三億円事件が起こった年でして、オレ三億円事件があった日に生まれてん、なんて同級生もいたわけです。
三億円事件といえば昭和の未解決事件の中でもとびきりの大事件で、しかもこの事件が特異なのは誰ひとりとして被害者がいなかったというところです。(実際は報道被害はありますが)
まあ警察はだいぶ捜査費用を使っており「♪あれから一年三億円~ 頭抱えた警視庁〜 捜査に使った費用を見たら こんなことあるかしら三億円」と「アッと驚く為五郎」の替詞としてシャボン玉ホリデーの中でも歌われていますが、実際にかかった捜査費は9億円以上だったといわれています。

未解決事件に初動捜査ミスはつきもの、というのは何度もいっていますが、正直今考えても何で未解決なのかさっぱりわからない。というのもですね
・犯人は顔を見られている
・山のような遺留品が残されていた
・犯人は犯行現場に土地勘があった(つまり犯人の居住地や行動範囲を絞りやすい)
・前フリともいえる脅迫事件(三億円事件と同一犯の犯行と判明している)で筆跡と血液型までわかっている
・事件当日は歳末特別警戒の初日で各所で検問を実施していた
・盗まれた札のナンバーが一部にしろ判明していた
・その他計画自体も完璧とは言い難く、というかずさんな部分が多く完全犯罪の要素は微塵もない
これだけ早期に犯人を検挙できる可能性がありながら、初動ミスからまったく容疑者を絞り込めず、最後は遺留品と疑わしい地域での尋問をローラー作戦するしかなくなったのです。

三億円事件と聞いて、大半の人はまずあのモンタージュ写真を頭に浮かべるのではないでしょうか。
今ではよく知られていますが、あの、例の写真、あれは本当はモンタージュではありません。当時疑わしいと思われた人物の顔によく似た、まったくの別人の写真にヘルメットを合成しただけという、正直合成とすらいえないシロモノでした。
しかも当時疑わしかった容疑者はその後謎の自殺をしており、その後の捜査で「真犯人ではない」と発表しています。当然モンタージュ写真も全然意味のないものになり、最終的には警察はモンタージュ写真を撤回する、というお粗末さでした。
初動捜査ミスも痛かった。そして結果的に決定的な容疑者となりえなかった人物に似た人物の顔を「こんな顔です」と発表してしまった。それらも十分失態なのですが、アタシは後々まで検挙できなかったのはこのモンタージュ写真に原因があるような気がしてなりません。

モンタージュ、というのは、今はそれこそPhotoshopなんかで簡単に作れますが、顔の各パーツをつなぎあわせて作成します。しかしそれは「誰かと似ているようで絶対に存在しない顔」なのです。人間が無理矢理作った顔なのですからどうしてもそうなります。
だけれども、だからこそ似ている、という判断ができると思うのです。
仮にモンタージュ写真と似てなかったとしても、それが正規の方法で作成されたモンタージュであれば、その他で「怪しい」部分が多ければね、似ているような気になってくると思うんです。モンタージュの誰かに似ているようで誰にも似てない、というのはそれくらいの認識の幅が広がるはずですから。となるともっと有益な情報提供があったはずなんです。
それが実際に存在した人物の写真を使ってしまった。つまり「本当に存在する顔」になるわけで、となると逆に「似ていても、違う」という判断をしてしまうと思うのですよ。

アタシは人間の脳がいったいどのような仕組みで他人の顔を認識しているのかは知りません。しかし純粋に顔だけみて判別できるのは、よほど親しい人に限られるのではないでしょうか。その人の身体的特徴だったり表情のつくり方だったり雰囲気だったりを加味しながら、あれはあの人だ、と認識しているような気がするのです。
たとえばよーく見ると有名人のダレソレに似ているのに、ぱっと見は全然違う、なんてことも珍しくありません。顔のパーツや配置は似ているんでしょうが、それ以外の部分が違いすぎるので認識できないのでしょう。
なんとなくですが、同一人物かどうか顔で判断する時、似ている部分を探しているのではなく違う部分を探しているのではないでしょうか。となるとモンタージュというのは実に優れた方法で、すべてにおいて曖昧だから相違点の判別がしづらいですからね。

三億円事件は様々な教訓を残しましたが、その中のひとつに「実在の人物をモンタージュです、などという馬鹿なことはしない」も絶対に入ると思うのですがね。