自炊をしてみて手元に意外なほど「昭和関連本」を持ってたことに気がつきました。
アタシは「三丁目の夕日」(あくまで映画版の話ね)以降の昭和30年代ブームにはほとんど興味を持てなかったのですが(とはいえいろんな<絡み>から調べざるをえなかったんですが)、つくづく2000年代の昭和30年代ブームは1980年代の縮小再生産だったんだなと思い知りました。
1980年代に入って、何のことか突然懐古ブームが始まりました。しかし記憶で書くならこの懐古ブームは「昭和30年代ブーム」ではなく「1960年代ブーム」だったように思います。
時代を括るには実は「昭和30年代」よりも「1960年代」の方が良いのですが、2000年代の懐古が昭和30年代の括りになったのは「三丁目の夕日」第一作の舞台設定が昭和33年だっからでしょう。つまり1950年代後半。
昭和30年代前半=1950年代後半は戦後復興と高度成長の接続部みたいな時代で、これはこれで面白いのですが、面白さがシブめな感じなので本来あんまり一般受けはしないはずなんです。
ところが「1960年代」という括りにすると、恐ろしいくらい時代が動いてるのが感じられますからね。だってアンポからアンポまでなんだもん。
さてさて、前置きが長くなってしまいましたが、1980年代の1960年代ブーム(何かややこしいけどご勘弁を)とはどういうものだったのか。
おそらくブームの仕掛けというか発想の<もと>は映画「アメリカン・グラフィティ」あたりだったんではないでしょうか。
それまで日本には「文明開化の明治時代」や「大正ロマンの大正時代」みたいな、比較的遠い近過去(これまたケッタイな表現ですが)みたいなブームはありましたが、たかだか10年や20年前を懐かしむ風潮はなかったはずなんです。
アメリカン・グラフィティの日本公開が1974年。レトロブームは1980年代に入ってからですからずいぶん寝かせたものです。機が熟すのを待っていたともいえるかもしれませんが。
1981年より平凡パンチに連載された小林信彦著「夢の砦」あたりが基点となり、1985年前後に大挙出版された1960年代大百科的ムック、そして1986年よりスタートしたTBS「テレビ探偵団」でブームは頂点に達したといっていいでしょう。
実際は1970年代後半から「懐かしのテレビ番組」みたいな特番が各局で放送されていたのですが。スタジオ収録でもないのに「うわーっ!」とか「懐かしい!」みたいなSEが特徴的なやつです。(「ドリフ大爆笑」などでお馴染みの笑い声のSEはラフSEっていうけど、こーゆー歓声は何SEっていうんだろ?)
この第一次レトロブーム(と言い切ってしまいます)の強みは何といっても「本物をゲストに呼べる」ことにありました。
「テレビ探偵団」は実際に1960年代にお茶の間で活躍していた人をゲストに呼び、当時の映像を見ながら裏話を語ってもらう、という第二次(2000年代の方ね)では逆立ちしてもできないことをやってました。
第二次の場合、昭和30年代に活躍されていた方々は鬼籍に入っている場合が多かったですからね。
そしてもうひとつ。今より昔の映像が潤沢だったことがあります。
「当時は生放送が多く、またVTR収録の場合もビデオテープが高価だったため上書き録画され映像があまり残っていない」というのが定説です。
しかし今では現存が確認されていない映像がテレビ探偵団をはじめ多くの懐かし系番組で流されていました。
どうも第一次ブームが終わった後でテレビ局の社屋が次々と移転し、その時に大量に処分されたというのが真相のようです。
1990年頃というとすでにVHSビデオは普及していましたが、ソフトといえばほとんど映画(かAV)であり、今日のように懐かし系のテレビ番組がソフト化されることはごく稀でした。
「もうブームも終わったし、将来に渡って希少性がありそうもないし、何より邪魔だから処分してしまえ」てな発想だったのでしょう。
もちろん第二次ブームになってから発掘された映像もあるにはあります。しかし当時の映像も少ない、関係者もゲストに呼べない、しかもいろいろ権利関係の処理もあり(おそらく第一次ブームの頃は今よりおおらかだったのでしょう)、懐かし系番組はブームであるにも関わらず皆無に近い状態です。
もちろんスカパーの普及もあって、断片ではなくまるごと再放送、みたいなことも可能にはなったのですが。
というわけで第二次ブームはまことに味気ないものになったわけですね。
「実際にその時代を知らない、幻想としての昭和30年代」に、まだ幼少であったとしてもリアルタイムで生きていた人たちが違和感を覚えるのも当然で、ビートたけしが人情もへったくれもない果てしなく小汚いリアルな昭和30年代を再現したのは「幻想としての昭和30年代」に吐き気をもよおした、それだけの気がします。
もし第二次ブームが起こるなら本当は「懐古」ではなく「再分析」でなければならなかったはずで、手前味噌ながらアタシが協力させていただいた「植木等ショー!クレージーTV大全」(洋泉社刊)は「再分析」になっていると思います。
しかしこれとてメジャーな本ではないわけで、結局マイナーに再分析するしかないのであって、メジャーな金がかかる方面はまったく手付かずになっています。本当はメジャーどころが再分析しないといけないんだけど。
何か長々書いて最後は結局自慢かい、といわれそうですが、まあそんなもんです。
2012年4月30日月曜日
2012年4月29日日曜日
ひかりごけ事件を読み解かない
どうしてもやめてほしいことがあります。
ほれ、たまにあるでしょ、焼鳥屋とかでやたらかわいい鳥の絵が書いてあるのが。あれ、結構辛いんですよね。焼き肉屋だったら牛の絵とか。
今から食そうってもんなんだからさ、かわいさアピールされたら食う気が減退してしまうのです。
「美味しんぼ」での山岡士郎のセリフで「人間は罪深き生き物なんだ」(うろ覚え)なんてのがありましたが、牛にしろ豚にしろ鶏にしろ、まあいや殺して食しているわけですからね。こんだけ全世界で毎日食ってるってことは膨大な数の牛豚鶏が殺されてることになる。
さすがにこれらとカニバリズム(食人を好む一種の性癖)を一緒にしたらいけないと思うのですが、では人間を殺して食するのと人間以外の動物を殺して食するのと何が違うのか、答えるのは非常に難しい。
今回は「ひかりごけ事件」です。これは太平洋戦争の最中、難破した船から生存した船長が同じく生き延びた若い船員を食したという事件です。しかし殺人事件ではない。真冬の北海道の、人家もない僻地に投げ出されたため食料が何もなく、ふたりとも餓死寸前、先に命を断たれた若い船員の肉を、空腹で錯乱状態になった船長がむさぼり食ったという話です。
そもそもこの事件は戦争中で、しかも軍人ではなかったものの軍に属する人間の犯行ということもありほとんど報道されなかったといいます。それが今日知られることになったのは、武田泰淳が小説にしたためたからで、そのタイトルが「ひかりごけ」だったために現在では「ひかりごけ事件」といわれています。
小説「ひかりごけ」はあくまでこの事件をモチーフにしただけとは作者の弁ですが、船が難破しその船長が食人をした、までは同じなのに、複数の船員を食し、また殺人まで犯すという中途半端な改変が行われています。この小説のせいで事件が誤って記憶される場合が多いといいますが、まあそうでしょう。
でも個人的には小説よりも実際の事件の方がはるかに惹かれる。それは一対一の中での究極の人間の心理状態があると思うからで、これが複数の食人になるとカニバリズムとの差が微細になってしまうような気がするんですよね。第一殺人を犯すと犯さないでは心理が全然違う。
人間は極限状態に置かれるとどうなってしまうのか。
当時、いや今もですが、ある意味殺人よりタブー視される食人という行為までいってしまうというね、この事件は残忍とは何か、罪とは何か、モラルとは何か、喜びとは何か、まで問いかけてくるような気がするのです。
もし自分が極限状態に陥ったら何をしてしまうんだろう。もちろんなりたかないけど、たぶんとんでもないことをするのでしょう。そこには常識とかモラルとかは一切存在しない、キレイゴトでは片づけられない、人間の本性とでもいうのでしょうか、そんなんが出てくるんだろうなと思うし、そして仮にその極限状態を切り抜けられても、この事件の船長のように一生鮮明な記憶として脳裏ならぬ脳の表っ側にこべりつくんだろうなと。
ほれ、たまにあるでしょ、焼鳥屋とかでやたらかわいい鳥の絵が書いてあるのが。あれ、結構辛いんですよね。焼き肉屋だったら牛の絵とか。
今から食そうってもんなんだからさ、かわいさアピールされたら食う気が減退してしまうのです。
「美味しんぼ」での山岡士郎のセリフで「人間は罪深き生き物なんだ」(うろ覚え)なんてのがありましたが、牛にしろ豚にしろ鶏にしろ、まあいや殺して食しているわけですからね。こんだけ全世界で毎日食ってるってことは膨大な数の牛豚鶏が殺されてることになる。
さすがにこれらとカニバリズム(食人を好む一種の性癖)を一緒にしたらいけないと思うのですが、では人間を殺して食するのと人間以外の動物を殺して食するのと何が違うのか、答えるのは非常に難しい。
今回は「ひかりごけ事件」です。これは太平洋戦争の最中、難破した船から生存した船長が同じく生き延びた若い船員を食したという事件です。しかし殺人事件ではない。真冬の北海道の、人家もない僻地に投げ出されたため食料が何もなく、ふたりとも餓死寸前、先に命を断たれた若い船員の肉を、空腹で錯乱状態になった船長がむさぼり食ったという話です。
そもそもこの事件は戦争中で、しかも軍人ではなかったものの軍に属する人間の犯行ということもありほとんど報道されなかったといいます。それが今日知られることになったのは、武田泰淳が小説にしたためたからで、そのタイトルが「ひかりごけ」だったために現在では「ひかりごけ事件」といわれています。
小説「ひかりごけ」はあくまでこの事件をモチーフにしただけとは作者の弁ですが、船が難破しその船長が食人をした、までは同じなのに、複数の船員を食し、また殺人まで犯すという中途半端な改変が行われています。この小説のせいで事件が誤って記憶される場合が多いといいますが、まあそうでしょう。
でも個人的には小説よりも実際の事件の方がはるかに惹かれる。それは一対一の中での究極の人間の心理状態があると思うからで、これが複数の食人になるとカニバリズムとの差が微細になってしまうような気がするんですよね。第一殺人を犯すと犯さないでは心理が全然違う。
人間は極限状態に置かれるとどうなってしまうのか。
当時、いや今もですが、ある意味殺人よりタブー視される食人という行為までいってしまうというね、この事件は残忍とは何か、罪とは何か、モラルとは何か、喜びとは何か、まで問いかけてくるような気がするのです。
もし自分が極限状態に陥ったら何をしてしまうんだろう。もちろんなりたかないけど、たぶんとんでもないことをするのでしょう。そこには常識とかモラルとかは一切存在しない、キレイゴトでは片づけられない、人間の本性とでもいうのでしょうか、そんなんが出てくるんだろうなと思うし、そして仮にその極限状態を切り抜けられても、この事件の船長のように一生鮮明な記憶として脳裏ならぬ脳の表っ側にこべりつくんだろうなと。
2012年4月26日木曜日
カーネーション、世間とアタシの反応
今年の三月まで放送されていた「カーネーション」、何度かちょろちょろとここにも書いていたのですが、実は初回から見ているわけではないんですね。総集編で一応補完はしましたが。
カーネーションにたいする評価は時期でほぼ分類できます。
1.2011年年末まで
2.主人公の不倫騒動(当然劇中で)
3.主役交代まで
4.主役交代以降
こんな感じですか。
昨年中は「えげつない関西弁が飛び交う一風変わった朝ドラ」みたいな感じからの感想が多かったように思います。
「今までの朝ドラにない主人公の言動が新鮮」
「朝からあんなどぎつい関西弁を聴くのは勘弁」
受け取り方はいろいろですがどちらも焦点は同じです。
年が明けて主人公の不倫が物語の中心になると、注目度と視聴率の両方が一気に上がります。
賛否は当然あるものの、否定的な意見も朝ドラの主人公が不倫をすることにたいする否定で、つまりドラマにハマってる状態なんですね。
不倫騒動が終わり、主役が尾野真千子から夏木マリへ交代するまでが、ある意味安定期であり、安定期ってのは批評的な意味で、ですが。
さて主役が夏木マリに代わってからです。
ここから否定論が多数を占めるようになりますが、ほぼ二つに集約できる。
「夏木マリの関西弁が気になる」
「ドラマとしてのパワーが落ちた」
ここまでアタシは自分の意見を抜きに書いてきましたが、実はどっちもおかしいのです。
まずこの物語は実在の人物をモデルにしています。コシノヒロコ、ジュンコ、ミチコ三姉妹(いうまでもなく三人とも名のしれたファッションデザイナー)の母親であり、自身もファッションデザイナーの先駆者的存在であった小篠綾子その人です。
この人の人生を俯瞰で眺めるとよくわかるのですが、「自分の娘を三人とも有名デザイナーに育てた」ことではなく「70歳を過ぎて自身のブランドを立ち上げ、死ぬ直前まで現役だった」ことの方がはるかに凄い。
つまりは主役が夏木マリに交代して以降がこの物語の本編なんです。尾野真千子時代は壮大なプロローグといえなくもない。
「夏木マリ以降の老成した主人公は描くべきではなかった」という意見を見ましたが、もし70歳以降の話がないと前菜だけで終わったことになってしまうし、それでは小篠綾子という人をモデルにした意味がなくなると思うのですね。
最後にループさせたのも素晴らしい。あれは楽屋落ちでも手前味噌でも何でもない。
だって小篠綾子の人生は肉体が死んでも実はまだ終わっていないってことを暗示してるんだから。小篠綾子は自身の人生が朝ドラになることを切望し、死んでから5年も経って実現したんだから本当に終わっていない。
「主人公が死んでからもまだやりたいことやってる」
そんな朝ドラ、いやフィクションありましたか?
夏木マリの関西弁がおかしいってのも変で、晩年マスコミに頻繁に登場していた小篠綾子の当時の映像を見ると結構標準語が混じってるのです。
考えてみれば当たり前の話で、中央に進出して標準語圏の人と接する機会が増えたんだから多少混じって当たり前なんですよ。
それよりアタシは夏木マリの演技を評価したい。
世間的に絶賛された尾野真千子を受け継ぎ、しかも生前の小篠綾子と交流があった、つまり両者の落とし所が非常に難しかったはずで(夏木マリ本人もそこが一番難しかったと語っていましたが)、うまく双方のイメージを取り込み、尚且つ新しい像を作ることに成功したと思います。
反対に尾野真千子は今後ちょっと苦しいかもしれません。
アタシが大絶賛した「ちりとてちん」ね、主役を演じた貫地谷しほりは恐ろしいほどの振り幅を見せましたが、引き出しを全部開けたという感じではなかった。まだ余力があると思わせたというか。
この辺が尾野真千子とは違う。
尾野真千子も貫地谷しほり同様実力派と呼べる人ですが、良くも悪くも一世一代の当たり役という感じが強く残りました。正直いってこれ以上の役に彼女が巡りあえる確率は限りなく低いと思う。
何いってんだ、今までまったく違う役柄を好演していたのを知らないのか、といわれそうですが、もちろん知ってます。しかしあの猛烈な役の前と後とでは絶対世間の見る目が変わるに違いないのです。
この辺はアタシが敬愛する植木等と似てるのかもしれません。植木等が無責任男の呪縛から抜け出したのは「見た目」が変わった50代後半からです。
尾野真千子がそこまでかかるのかはわかりませんが、少なくとも数年は「糸子」の呪縛が解けないんじゃないかな、そう思っています。
個人的な意見としては「カーネーション」は「ちりとてちん」よりも劣ります。しかし圧倒的に画期的なフィクションだったには違いない。今期の「梅ちゃん先生」(未見)の評判が芳しくないようですが、こんな圧倒的な作品の後だと相対的に評価が下がってしまうのはしかたない気がするのですがね。
カーネーションにたいする評価は時期でほぼ分類できます。
1.2011年年末まで
2.主人公の不倫騒動(当然劇中で)
3.主役交代まで
4.主役交代以降
こんな感じですか。
昨年中は「えげつない関西弁が飛び交う一風変わった朝ドラ」みたいな感じからの感想が多かったように思います。
「今までの朝ドラにない主人公の言動が新鮮」
「朝からあんなどぎつい関西弁を聴くのは勘弁」
受け取り方はいろいろですがどちらも焦点は同じです。
年が明けて主人公の不倫が物語の中心になると、注目度と視聴率の両方が一気に上がります。
賛否は当然あるものの、否定的な意見も朝ドラの主人公が不倫をすることにたいする否定で、つまりドラマにハマってる状態なんですね。
不倫騒動が終わり、主役が尾野真千子から夏木マリへ交代するまでが、ある意味安定期であり、安定期ってのは批評的な意味で、ですが。
さて主役が夏木マリに代わってからです。
ここから否定論が多数を占めるようになりますが、ほぼ二つに集約できる。
「夏木マリの関西弁が気になる」
「ドラマとしてのパワーが落ちた」
ここまでアタシは自分の意見を抜きに書いてきましたが、実はどっちもおかしいのです。
まずこの物語は実在の人物をモデルにしています。コシノヒロコ、ジュンコ、ミチコ三姉妹(いうまでもなく三人とも名のしれたファッションデザイナー)の母親であり、自身もファッションデザイナーの先駆者的存在であった小篠綾子その人です。
この人の人生を俯瞰で眺めるとよくわかるのですが、「自分の娘を三人とも有名デザイナーに育てた」ことではなく「70歳を過ぎて自身のブランドを立ち上げ、死ぬ直前まで現役だった」ことの方がはるかに凄い。
つまりは主役が夏木マリに交代して以降がこの物語の本編なんです。尾野真千子時代は壮大なプロローグといえなくもない。
「夏木マリ以降の老成した主人公は描くべきではなかった」という意見を見ましたが、もし70歳以降の話がないと前菜だけで終わったことになってしまうし、それでは小篠綾子という人をモデルにした意味がなくなると思うのですね。
最後にループさせたのも素晴らしい。あれは楽屋落ちでも手前味噌でも何でもない。
だって小篠綾子の人生は肉体が死んでも実はまだ終わっていないってことを暗示してるんだから。小篠綾子は自身の人生が朝ドラになることを切望し、死んでから5年も経って実現したんだから本当に終わっていない。
「主人公が死んでからもまだやりたいことやってる」
そんな朝ドラ、いやフィクションありましたか?
夏木マリの関西弁がおかしいってのも変で、晩年マスコミに頻繁に登場していた小篠綾子の当時の映像を見ると結構標準語が混じってるのです。
考えてみれば当たり前の話で、中央に進出して標準語圏の人と接する機会が増えたんだから多少混じって当たり前なんですよ。
それよりアタシは夏木マリの演技を評価したい。
世間的に絶賛された尾野真千子を受け継ぎ、しかも生前の小篠綾子と交流があった、つまり両者の落とし所が非常に難しかったはずで(夏木マリ本人もそこが一番難しかったと語っていましたが)、うまく双方のイメージを取り込み、尚且つ新しい像を作ることに成功したと思います。
反対に尾野真千子は今後ちょっと苦しいかもしれません。
アタシが大絶賛した「ちりとてちん」ね、主役を演じた貫地谷しほりは恐ろしいほどの振り幅を見せましたが、引き出しを全部開けたという感じではなかった。まだ余力があると思わせたというか。
この辺が尾野真千子とは違う。
尾野真千子も貫地谷しほり同様実力派と呼べる人ですが、良くも悪くも一世一代の当たり役という感じが強く残りました。正直いってこれ以上の役に彼女が巡りあえる確率は限りなく低いと思う。
何いってんだ、今までまったく違う役柄を好演していたのを知らないのか、といわれそうですが、もちろん知ってます。しかしあの猛烈な役の前と後とでは絶対世間の見る目が変わるに違いないのです。
この辺はアタシが敬愛する植木等と似てるのかもしれません。植木等が無責任男の呪縛から抜け出したのは「見た目」が変わった50代後半からです。
尾野真千子がそこまでかかるのかはわかりませんが、少なくとも数年は「糸子」の呪縛が解けないんじゃないかな、そう思っています。
個人的な意見としては「カーネーション」は「ちりとてちん」よりも劣ります。しかし圧倒的に画期的なフィクションだったには違いない。今期の「梅ちゃん先生」(未見)の評判が芳しくないようですが、こんな圧倒的な作品の後だと相対的に評価が下がってしまうのはしかたない気がするのですがね。
2012年4月12日木曜日
カフェのBGM
こういったブログを書くのは大抵カフェでです。とにかく家でブログを書こうという気がしなくてね。家でブログを書いたのなんて数回だけじゃないかな。
旧yabuniramiJAPANは2003年に開始して、一番最初は野球の話だったのですが、これも外で書きました。
当時アタシはサラリーマンを辞めたばかりで、福岡ドーム(現・ヤフージャパンドーム)で日本シリーズを見た後、奄美大島にひとり旅に出かけたのですが、時間潰しに、なつかしのPDA・HP Jornada568にポケットキーボードを取り付けて、それで書いていたのです。つまり2003年の時点で「モバイルでブログを書く」ことをやってたんですな。
外で書くと何がいいといっても気が散らないのです。家で書いた方が気が散らなそうですが、ついつい仕事であったり雑用であったりが気になる。この手のブログは一気にガガーッと書かないと逆に書けないのです。推敲するようなもんじゃないからね。後で何度か読み返してみますけど。
もちろん書きやすいカフェもあるし、逆に書きづらいところもある。ひとことでいえば微妙に静かなところです。
キーボードの打ってる音も気になるような静かなとこだと非常に打ちづらい。でもあんまりうるさいところでも気が散る。やたら声が大きいのがいるところとかね。
話はそれますが、手を叩きながら笑う人、大抵は女子高生とかですが、アレは何とかならんのか。たぶんさんまとか関根勤の影響だと思うけど迷惑極まる。
ほとんどのカフェでは、チェーン店でもそうでなくてもBGMが流れています。基本的には気にならない音量で、ジャンルでいえば圧倒的にボサノバが多い。どこにいってもボサノバボサノバ。別に嫌いなジャンルじゃないんでいいんですが、どこかひとつくらい、昔のスーパーみたいに歌謡曲のインストゥルメンタル流してもよさそうなのに。ま、妙に気取った雰囲気を出したいんでしょ。チェーン店でもね。
そういや昨年イギリスに行きましたが、何度かカフェに入ってみたりしましたけどBGMが流れてる店はなかったな。つかいらないんでしょう。
要はカフェのBGMなんてもんは「お洒落な雰囲気つくり」以外に何も意味もないのです。でもイギリスなんかだとそんなことをしなくても店内も「自然のお洒落さ」があるし、ふと窓の外に目をやると、どこの街でも絵はがきにでもなりそうな感じだからね。
でも日本はそうじゃないからね。洒落た場所もあるけどそんなとこばかりにカフェがあるわけじゃなくて、駅前の、雰囲気もへったくれもない、きったねーだけの味も何もない商店街の中にあったりしますから。せめてカフェの中だけでも「ああ、自分は洒落た空間の中にいるんだ」と思わせてくれたらコーヒー代くらいは安いもんだ、とこういうことでしょう。
ま、そう考えたら延々ボサノバを流し続けるチェーン店のカフェを責めるわけにはいかない。
それにね、無理矢理でも洒落た空気を出そうとしてくれてるおかげで、アホみたいに騒ぐ莫迦も来づらいし。だからこうやって落ち着いてブログも書けるわけでして。
旧yabuniramiJAPANは2003年に開始して、一番最初は野球の話だったのですが、これも外で書きました。
当時アタシはサラリーマンを辞めたばかりで、福岡ドーム(現・ヤフージャパンドーム)で日本シリーズを見た後、奄美大島にひとり旅に出かけたのですが、時間潰しに、なつかしのPDA・HP Jornada568にポケットキーボードを取り付けて、それで書いていたのです。つまり2003年の時点で「モバイルでブログを書く」ことをやってたんですな。
外で書くと何がいいといっても気が散らないのです。家で書いた方が気が散らなそうですが、ついつい仕事であったり雑用であったりが気になる。この手のブログは一気にガガーッと書かないと逆に書けないのです。推敲するようなもんじゃないからね。後で何度か読み返してみますけど。
もちろん書きやすいカフェもあるし、逆に書きづらいところもある。ひとことでいえば微妙に静かなところです。
キーボードの打ってる音も気になるような静かなとこだと非常に打ちづらい。でもあんまりうるさいところでも気が散る。やたら声が大きいのがいるところとかね。
話はそれますが、手を叩きながら笑う人、大抵は女子高生とかですが、アレは何とかならんのか。たぶんさんまとか関根勤の影響だと思うけど迷惑極まる。
ほとんどのカフェでは、チェーン店でもそうでなくてもBGMが流れています。基本的には気にならない音量で、ジャンルでいえば圧倒的にボサノバが多い。どこにいってもボサノバボサノバ。別に嫌いなジャンルじゃないんでいいんですが、どこかひとつくらい、昔のスーパーみたいに歌謡曲のインストゥルメンタル流してもよさそうなのに。ま、妙に気取った雰囲気を出したいんでしょ。チェーン店でもね。
そういや昨年イギリスに行きましたが、何度かカフェに入ってみたりしましたけどBGMが流れてる店はなかったな。つかいらないんでしょう。
要はカフェのBGMなんてもんは「お洒落な雰囲気つくり」以外に何も意味もないのです。でもイギリスなんかだとそんなことをしなくても店内も「自然のお洒落さ」があるし、ふと窓の外に目をやると、どこの街でも絵はがきにでもなりそうな感じだからね。
でも日本はそうじゃないからね。洒落た場所もあるけどそんなとこばかりにカフェがあるわけじゃなくて、駅前の、雰囲気もへったくれもない、きったねーだけの味も何もない商店街の中にあったりしますから。せめてカフェの中だけでも「ああ、自分は洒落た空間の中にいるんだ」と思わせてくれたらコーヒー代くらいは安いもんだ、とこういうことでしょう。
ま、そう考えたら延々ボサノバを流し続けるチェーン店のカフェを責めるわけにはいかない。
それにね、無理矢理でも洒落た空気を出そうとしてくれてるおかげで、アホみたいに騒ぐ莫迦も来づらいし。だからこうやって落ち着いてブログも書けるわけでして。
2012年4月2日月曜日
自炊に苦戦する・その2
アタシは漫画をあまり読みません。つか読まなくなりました。
てな話は以前書きましたが、「自炊」の対象となるのは漫画よりも小説とかノンフィクションとか、まあほぼ文字だけの本ですね、そんなんが大半です。
しかしドキュメントスキャナを買ってみて、さあ部屋のものを整理しようと思って漁ってみたら、本もそうなんだけど書類とかノートとかメモ書きとか名刺がことの他あるのに気がついた。あと説明書とかパンフレットとかチラシとか手紙とか。こーゆー捨てるに捨てられない、でもどう整理したらいいかわからない紙が山ほどあるんですね。
てなわけで断裁っつー最も厄介なもんもあまり発生しないし、まずは本以外の紙モノから処理することにしたんです。
よくよく考えたらアタシが買ったのはドキュメントスキャナでしょ。断裁した本もスキャンできるけど本来の目的は散乱した書類等を整理するためのもんで、実際めちゃくちゃ捗ります。
いや、今ドキュメントスキャナを買おうって人は本の自炊のためって人がほとんどだと思うのですが、書類等の整理のためだけに買うってのも余裕でアリですよ。こんなん通常のスキャナ(フラットベッドってやつ)でなんか到底ヤル気しないけど、ドキュメントスキャナなら本当に簡単に整理できます。しかもそれほど画質とか画像の傾きとかを気にせず、そして一番気を遣う重送(複数枚が重なってスキャンされてしまう)もあんまり気にせずに済む。小説や漫画なら一ページでも飛んだらエライ事ですが、ノートくらいだとまあいいか、と思えますからね。
もうひとつ、これらの書類等からスキャンを始めてよかったのは「ドキュメントスキャナとかこんなもの」ってのがわかったことでした。
本当に大事な希少な本は断裁しようとは思わないし、本当に高画質でやりたい時はドキュメントスキャナでは性能不足でフラットベッドスキャナでシコシコやるしかない。つまりドキュメントスキャナにかける本ってのは
・本としての価値はあまりない
・もう読み終わったし処分してもいいんだけど、もしかしたらもう一回読み返したくなるかもしれない
・もしくは資料的価値だけはある
こういう本に限られる。そして大半の本はこの範疇に入ってしまうことに気がついたのです。
文字中心の本でいえば、とにかく読めればいい、そういう割り切りを持てるかどうかなんですね。別にスキャンしたものを売ろうってんじゃないんだから自分が読めれば充分なわけでね。
本気でキレイな自炊本を作ろうと思えばスキルも手間暇も、そしてそれなりに高価な機材も必要になる。
でも割り切ってしまえば、断裁はディスクカッターで充分だしね。多少斜めになろうが、切り口が汚かろうがお構いなし。
スキャナも低価格機の部類に入るs1300で充分。後処理もグレースケールで取り込んでPDF化して終わりか、やったとしてもPhotoshopのアクションで一括処理してやればそれなりになる。
ただし古い黄ばんだ本の処理はちょっとめんどくさい。これもPhotoshopで一括処理してるんだけど、下手にやると文字がカスれて読みづらいんだよね。かといってカラーのままだとファイルサイズが無駄にデカくなってしまうし。
こればっかりはアクションの設定を詰めざるをえないな。
てな話は以前書きましたが、「自炊」の対象となるのは漫画よりも小説とかノンフィクションとか、まあほぼ文字だけの本ですね、そんなんが大半です。
しかしドキュメントスキャナを買ってみて、さあ部屋のものを整理しようと思って漁ってみたら、本もそうなんだけど書類とかノートとかメモ書きとか名刺がことの他あるのに気がついた。あと説明書とかパンフレットとかチラシとか手紙とか。こーゆー捨てるに捨てられない、でもどう整理したらいいかわからない紙が山ほどあるんですね。
てなわけで断裁っつー最も厄介なもんもあまり発生しないし、まずは本以外の紙モノから処理することにしたんです。
よくよく考えたらアタシが買ったのはドキュメントスキャナでしょ。断裁した本もスキャンできるけど本来の目的は散乱した書類等を整理するためのもんで、実際めちゃくちゃ捗ります。
いや、今ドキュメントスキャナを買おうって人は本の自炊のためって人がほとんどだと思うのですが、書類等の整理のためだけに買うってのも余裕でアリですよ。こんなん通常のスキャナ(フラットベッドってやつ)でなんか到底ヤル気しないけど、ドキュメントスキャナなら本当に簡単に整理できます。しかもそれほど画質とか画像の傾きとかを気にせず、そして一番気を遣う重送(複数枚が重なってスキャンされてしまう)もあんまり気にせずに済む。小説や漫画なら一ページでも飛んだらエライ事ですが、ノートくらいだとまあいいか、と思えますからね。
もうひとつ、これらの書類等からスキャンを始めてよかったのは「ドキュメントスキャナとかこんなもの」ってのがわかったことでした。
本当に大事な希少な本は断裁しようとは思わないし、本当に高画質でやりたい時はドキュメントスキャナでは性能不足でフラットベッドスキャナでシコシコやるしかない。つまりドキュメントスキャナにかける本ってのは
・本としての価値はあまりない
・もう読み終わったし処分してもいいんだけど、もしかしたらもう一回読み返したくなるかもしれない
・もしくは資料的価値だけはある
こういう本に限られる。そして大半の本はこの範疇に入ってしまうことに気がついたのです。
文字中心の本でいえば、とにかく読めればいい、そういう割り切りを持てるかどうかなんですね。別にスキャンしたものを売ろうってんじゃないんだから自分が読めれば充分なわけでね。
本気でキレイな自炊本を作ろうと思えばスキルも手間暇も、そしてそれなりに高価な機材も必要になる。
でも割り切ってしまえば、断裁はディスクカッターで充分だしね。多少斜めになろうが、切り口が汚かろうがお構いなし。
スキャナも低価格機の部類に入るs1300で充分。後処理もグレースケールで取り込んでPDF化して終わりか、やったとしてもPhotoshopのアクションで一括処理してやればそれなりになる。
ただし古い黄ばんだ本の処理はちょっとめんどくさい。これもPhotoshopで一括処理してるんだけど、下手にやると文字がカスれて読みづらいんだよね。かといってカラーのままだとファイルサイズが無駄にデカくなってしまうし。
こればっかりはアクションの設定を詰めざるをえないな。
2012年3月30日金曜日
自炊に苦戦する
自炊、ってやつを始めました。
もちろん飯炊いてオカズ作って云々の自炊ではなく、ザクッと切ってビャッと取り込む、そっちの方の自炊です。
アタシは到底読書家とはいえませんし、部屋が狭いので極力本は買わないようにしているのですが、それでも長いこと生きてきたら本ってもんは溜まるのですね。金は溜まらないけど。
自分ではマメにいらない本を捨てていってるつもりだったんですけど「これはいる。これだけは絶対処分できない」本で溢れかえる結果になってるわけで。まあそんな人も多いのではないでしょうか。
となると「自炊」という選択肢が浮上します。手持ちの本を電子化するってことなんですが、これまでは消極的でした。
何度か電子書籍なるものを読んでみたのですが、はっきりいって読みづらい。電子書籍を読むのに向いた端末を持ってないというのもあるんですが、これで本一冊まるごと読むのは辛いなあとね。
電子書籍はそれでも文字サイズも変えられるし、自炊した本よりはマシなはず、つまり自炊した本とかとてもじゃないけど読めたもんじゃないだろうと。
しかしいろいろ事態は切迫し、ついにドキュメントスキャナなるものを買ったのです。機種はScanSnapシリーズのs1300。定番ともいえるs1500にしなかったのは値段が倍ほど違うし、サイズもだいぶ大きいから。自炊本を上手く取り込めるのか、そしてちゃんと読むことができるのかわからない状態で5万円は勇気が要ります。その点s1300は2万円前後でサイズもコンパクトなので使わない時も邪魔にならないしこれでいいかと、ね。
スキャンの過程の話はまたの機会にして、読めるかどうかでいえば意外と読めました。相変わらず読むのに適した端末を持ってないのですが、iPhoneでも読めないこともない。GoodReaderはPDFの余白をカットできるのでギリギリですが可読できます。
ただiPhone程度の画面サイズでは限界がありますし、意外と大丈夫ということがわかったので、なんか適当な端末を買おうかと思案中です。
本は溜まるけど金は溜まらず、スキャナ買って本は減るけど金も減るのね。
もちろん飯炊いてオカズ作って云々の自炊ではなく、ザクッと切ってビャッと取り込む、そっちの方の自炊です。
アタシは到底読書家とはいえませんし、部屋が狭いので極力本は買わないようにしているのですが、それでも長いこと生きてきたら本ってもんは溜まるのですね。金は溜まらないけど。
自分ではマメにいらない本を捨てていってるつもりだったんですけど「これはいる。これだけは絶対処分できない」本で溢れかえる結果になってるわけで。まあそんな人も多いのではないでしょうか。
となると「自炊」という選択肢が浮上します。手持ちの本を電子化するってことなんですが、これまでは消極的でした。
何度か電子書籍なるものを読んでみたのですが、はっきりいって読みづらい。電子書籍を読むのに向いた端末を持ってないというのもあるんですが、これで本一冊まるごと読むのは辛いなあとね。
電子書籍はそれでも文字サイズも変えられるし、自炊した本よりはマシなはず、つまり自炊した本とかとてもじゃないけど読めたもんじゃないだろうと。
しかしいろいろ事態は切迫し、ついにドキュメントスキャナなるものを買ったのです。機種はScanSnapシリーズのs1300。定番ともいえるs1500にしなかったのは値段が倍ほど違うし、サイズもだいぶ大きいから。自炊本を上手く取り込めるのか、そしてちゃんと読むことができるのかわからない状態で5万円は勇気が要ります。その点s1300は2万円前後でサイズもコンパクトなので使わない時も邪魔にならないしこれでいいかと、ね。
スキャンの過程の話はまたの機会にして、読めるかどうかでいえば意外と読めました。相変わらず読むのに適した端末を持ってないのですが、iPhoneでも読めないこともない。GoodReaderはPDFの余白をカットできるのでギリギリですが可読できます。
ただiPhone程度の画面サイズでは限界がありますし、意外と大丈夫ということがわかったので、なんか適当な端末を買おうかと思案中です。
本は溜まるけど金は溜まらず、スキャナ買って本は減るけど金も減るのね。
2012年3月23日金曜日
昭和30年代を舞台にしたあの作品とあの作品
だいたいアタシは3D映画なんてもんに懐疑的です。
大昔にやたら棒を振り回す体のインチキ極まる3D映画を観に行ったことがありますが、コケオドシという表現がピッタリで、しかもスクリーンが観づらい。ここ数年アバターあたりからですか、やたら3D映画が流行りましたが、絶対に観に行くもんかと思っておりました。
それが今回「ALWAYS三丁目の夕日'64」を3Dで観たのは、やはり大昔に観た時とは技術も違うだろ、一度観てから批判なりなんなりしなきゃな、と思ったからなんです。それに内容的にもやたら「飛び出す」表現もないだろうから目も楽だろうなと。
とにかく泣けました。それも始まって10分もしないうちに。泣けて泣けて。
当然ストーリーで泣けたわけではなく目が痛くて涙が止まらなくなったんですね。いやあ、これは結構拷問でした。途中からさすがに慣れてきたものの、観終わった後の目の疲れは半端ではなく、やはりこれは無理だわ。
もちろんアタシの視力が右と左で極端に違うというハンデもあるのですが、それにしてもこんなおっとりした内容の映画でこんだけ目が疲れるんだから、それこそアバターみたいなのは絶対に無理だわ。
さてそんなことはどうでもいいのです。
思えば「三丁目の夕日」シリーズはすべて劇場で観ました。こんなことは珍しい。そしてそれはこの映画にハマったからではなくとある事情で第一作を観なきゃいけなくなって、後は惰性というか、つまらない意地というか。
はっきりいってこのシリーズには褒める部分もあるけど基本的には批判的なのです。
これは第一作を観た後に書いたものですが、今回の「'64」でも一緒で細かいCGはともかく何も改善されていないといっていい。
まあでもわかるのですよ。これだけ固定ファンがつくシリーズも近年珍しく、となると固定ファンが安心できる内容にしなきゅならない。当然どんどん保守的になっていくってのはね。
原作は第一作でちょろっと使われただけで、それ以降はオリジナルといっていい。ただ第一作の時点で巧かったのは、お馴染みの癒しの昭和30年代の象徴として鈴木家を、激動の昭和30年代の象徴として茶川家を対比で描いたことで、原作でわき役に過ぎない茶川を年齢設定を替えて主役に持ってきたのは間違いなく映画スタッフの功績です。
さっきも書いたように、固定ファンの期待を裏切らないためか、これは「'64」でも踏襲されています。だけどこれは逆転させてもよかったと思うんですよね。せっかく第二作で茶川が結婚したんだから、今度は鈴木家を激動に放り込んでもよかった。
さて「三丁目の夕日」シリーズで鈴木オートの主を務めた堤真一ですが、今年のはじめにNHKで放送された「とんび」でも主役を演じていました。これは昭和30年代がドラマの導入部なのですが、まあ妙に合うというか。
だいたい堤真一がトレンディドラマの残り香のようなドラマに出ていた頃(やまとなでしことか)一応二枚目として出ていましたが、いったいどこが二枚目なんだよと。ただのゴリラじゃねーかと。でも昭和30年代って設定だとゴリラぶりが栄えるんですよ。それにこの人、素はバリバリの関西人なので、真面目な演技でも妙に可笑しいんですよ。それが「三丁目の夕日」シリーズでも「とんび」でも上手く出ています。
さて「とんび」ですが、内容は「'64」よりずっとよかった。内容はベタなんだけど、細かい描写の巧さもあってジンワリいい作品に仕上がっていました。
堤真一演じるのは鈴木オートに近しい昭和の頑固親父なんだけど、実に人間味があってね。鈴木オートはキャラとしての頑固親父だけど、「とんび」のは血の通った人間なんですね。人間として弱い部分がいっぱいあって、それでも必死で頑張ってる一小市民になってた。
「三丁目の夕日」シリーズに話を戻しますが、このシリーズの最大の弱点は「人間味のなさ」なんです。所詮全員キャラでしかない。必死でこの時代を生き抜いた人たちの群像なんだって感じがないんです。
原作が漫画だという言い訳は通用しない。せっかく登場人物の過去を語るエピソードもあるのに、それが人間的な深みになっていない。ただのエピソードで終わっている。
もったいないですよ。お金もいっぱいかけてただ昭和30年代をCGで再現しただけってのは。もっともっといい作品にできただけにね。
大昔にやたら棒を振り回す体のインチキ極まる3D映画を観に行ったことがありますが、コケオドシという表現がピッタリで、しかもスクリーンが観づらい。ここ数年アバターあたりからですか、やたら3D映画が流行りましたが、絶対に観に行くもんかと思っておりました。
それが今回「ALWAYS三丁目の夕日'64」を3Dで観たのは、やはり大昔に観た時とは技術も違うだろ、一度観てから批判なりなんなりしなきゃな、と思ったからなんです。それに内容的にもやたら「飛び出す」表現もないだろうから目も楽だろうなと。
とにかく泣けました。それも始まって10分もしないうちに。泣けて泣けて。
当然ストーリーで泣けたわけではなく目が痛くて涙が止まらなくなったんですね。いやあ、これは結構拷問でした。途中からさすがに慣れてきたものの、観終わった後の目の疲れは半端ではなく、やはりこれは無理だわ。
もちろんアタシの視力が右と左で極端に違うというハンデもあるのですが、それにしてもこんなおっとりした内容の映画でこんだけ目が疲れるんだから、それこそアバターみたいなのは絶対に無理だわ。
さてそんなことはどうでもいいのです。
思えば「三丁目の夕日」シリーズはすべて劇場で観ました。こんなことは珍しい。そしてそれはこの映画にハマったからではなくとある事情で第一作を観なきゃいけなくなって、後は惰性というか、つまらない意地というか。
はっきりいってこのシリーズには褒める部分もあるけど基本的には批判的なのです。
これは根本的な不満なのかもしれないけど、音楽をね、まったく効果的に使ってないのですよ。サントラも主題歌も悪いってわけじゃないんです。ただ、音楽と記憶ってガッチリ結びついてるじゃないですか。なのに「いかにも昭和33年を彷彿させる」という音楽がほとんどない。悲しいほどない。いや、何曲かは挿入歌として入ってるんだけど、使い方が悪いんで、ほとんど印象に残らない。せっかくね、テレビがやってくるってエピソードが入ってるんですよ。だったら当時のいい方でいえばコマソンね。三木鶏朗の曲とかをもっと効果的に使えばいいのに。そうしてこそはじめて、「当時じゃ作れない、昭和30年代を舞台にした映画」になったんじゃないかと思うのです。(2006年1月13日更新「『ALWAYS 三丁目の夕日』のこと」より)
これは第一作を観た後に書いたものですが、今回の「'64」でも一緒で細かいCGはともかく何も改善されていないといっていい。
まあでもわかるのですよ。これだけ固定ファンがつくシリーズも近年珍しく、となると固定ファンが安心できる内容にしなきゅならない。当然どんどん保守的になっていくってのはね。
原作は第一作でちょろっと使われただけで、それ以降はオリジナルといっていい。ただ第一作の時点で巧かったのは、お馴染みの癒しの昭和30年代の象徴として鈴木家を、激動の昭和30年代の象徴として茶川家を対比で描いたことで、原作でわき役に過ぎない茶川を年齢設定を替えて主役に持ってきたのは間違いなく映画スタッフの功績です。
さっきも書いたように、固定ファンの期待を裏切らないためか、これは「'64」でも踏襲されています。だけどこれは逆転させてもよかったと思うんですよね。せっかく第二作で茶川が結婚したんだから、今度は鈴木家を激動に放り込んでもよかった。
さて「三丁目の夕日」シリーズで鈴木オートの主を務めた堤真一ですが、今年のはじめにNHKで放送された「とんび」でも主役を演じていました。これは昭和30年代がドラマの導入部なのですが、まあ妙に合うというか。
だいたい堤真一がトレンディドラマの残り香のようなドラマに出ていた頃(やまとなでしことか)一応二枚目として出ていましたが、いったいどこが二枚目なんだよと。ただのゴリラじゃねーかと。でも昭和30年代って設定だとゴリラぶりが栄えるんですよ。それにこの人、素はバリバリの関西人なので、真面目な演技でも妙に可笑しいんですよ。それが「三丁目の夕日」シリーズでも「とんび」でも上手く出ています。
さて「とんび」ですが、内容は「'64」よりずっとよかった。内容はベタなんだけど、細かい描写の巧さもあってジンワリいい作品に仕上がっていました。
堤真一演じるのは鈴木オートに近しい昭和の頑固親父なんだけど、実に人間味があってね。鈴木オートはキャラとしての頑固親父だけど、「とんび」のは血の通った人間なんですね。人間として弱い部分がいっぱいあって、それでも必死で頑張ってる一小市民になってた。
「三丁目の夕日」シリーズに話を戻しますが、このシリーズの最大の弱点は「人間味のなさ」なんです。所詮全員キャラでしかない。必死でこの時代を生き抜いた人たちの群像なんだって感じがないんです。
原作が漫画だという言い訳は通用しない。せっかく登場人物の過去を語るエピソードもあるのに、それが人間的な深みになっていない。ただのエピソードで終わっている。
もったいないですよ。お金もいっぱいかけてただ昭和30年代をCGで再現しただけってのは。もっともっといい作品にできただけにね。
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