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2009年8月15日土曜日

2009・夏の納涼特別編 4



某大手事務所。名前を書けば誰でも知ってるところだ。

音楽に限らず、売れるための要素として、芸能プロダクションが果たす役割は大きい。

もちろん、事務所の規模が大きければ大きいほどいい、とはいわないが、ふつうならステップアップのチャンスととらえていいはずだ。

しかしだ、Y先輩、というか、彼のグループ全員の総意だと思うが、まったくメジャー指向はなく、わかる人がわかればいい、というスタンスで活動していたように思う。

だからなのか、少なくとも喜んでいるようには見えなかった。

彼のグループは特にリーダーという役割は決められてなかったようだが、あきらかにY先輩主導というか、その線で動いていることは明白であった。

きっと自分にこの話を持ち出す前、グループ内で話し合いは行われたはずだが、最終的にY先輩の決断に委ねられたのではないか。

冷静に考えると、そういうことは推測できるのだが、その時はあまりに突然のことで言葉に詰まってしまった。

沈黙の時間はつらい。いつまでも考えてばかりいるわけにもいかない。しかし、自分ごときがこんな重大な話に言葉をつっこんでいいものだろうか。

いろんな顛末があって、だいぶ経ってから自分もレコード会社の人と話す機会を得たり、芸能界の「それとない事情」を知ることもあった。

しかしこの時点では、大学をでて、就職もせず、かといって実現不可能な夢を見るばかりで、そこに向かって何かをやるわけでもない、布をちぎってウエスをつくるだけの男だ。

こんな男がアドバイスめいたことなどできるわけがなく

「でも(その事務所に入ったら)ウエスはつくらなくてよくなりますね」

とつまらない冗談をいうしかなかった。

「○○(有名芸能人の名前)も先輩いうことになるしな」

とY先輩も冗談でかえしてきた。

その芸能事務所に所属するタレントの名前を何人かあげ、もし○○に会ったら何と挨拶するか、どういう敬称で呼べばいいのか、ひとしきり冗談をいいあった。

結局その時は冗談に終始し、具体的な話になる前に別れた。

それにしても・・・Y先輩はこの話をするために、わざわざプールに誘ったのか、それにしても何故市民プールだったのか、疑問が頭を駆けめぐった。

秋になる前だろうか、Y先輩は某大手芸能事務所に所属することが決まった。

自分は喜んでいいのかわからなかった。いったいどういう経緯で決断したのだろう。

しかしどうしても、Y先輩にそのことを聞くことはできなかった。

チャンスがなかったこともある。自分の冗談の通り、Y先輩はバイトにこなくなっていった。たまに電話で話すことはあったが、バイト先でマジメな話ばかりしてた頃とは打って変わって、お互い自虐的な冗談をいうばかりだった。

それから自分にとってのバイト・・・は、ひたすらつまならいものになった。

殿様もいなくなった。Y先輩もいなくなった。

彼らだけではない。ちょうど不況の色が濃くなりはじめた時期だけに、バイトの数も目に見えて減っていた。

そのうち自分もすっかりお呼びがかからなくなり、新しいバイト先を見つけることになる。

が、年があけると、そのバイトも辞めた。

このままじゃいけない、という切迫感が、思い切った行動を加速させた。

自分は関東への引っ越しを決意する。そして実行した。

関東へ行っても具体的に何かあるわけではない。殿様との出会いと別れ、Y先輩の決断が大きく関係していたのかどうかもわからない。しかし何か行動しなくてはならない。そういう思いこみが、他人の目から見たら「なかば無意味な、無茶苦茶な行動」に走らせた。

この引っ越しも、結果的にはさほど意味もないものに終わり、運命に導かれるように再び関西へ帰ることになるのだが、それはまた別の話だ。

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以上。やたら「月日が流れる」ので、少しわかりづらかったかも知れない。

ちなみに「別の話」を含めて、今後更新する予定はない。また気が向いた時にでも。




2009年8月14日金曜日

2009・夏の納涼特別編 3



春が近づいてきた。

殿様がバイトにこなくなって、また孤独との戦いがはじまっていた。

もうひとりの心の支えであるY先輩が一緒の時は、まだマシなのだが、マシというレベルであり、殿様の時と同じ「会話の弾み具合」は到底望めなかった。

Y先輩は大学の先輩であり、同じサークルの先輩でもあった。

しかし大学在学中はそれほど接点があったわけではない。

そんなに大規模なサークルではなかったので、もちろんそれなりに話す機会はあったのだが、ひとことでいえば、どうも合わない人だった。

遊びにいく時も、他の先輩や同期、後輩とはいろんなところにいったが、Y先輩とはかなり大人数ので遊んだ時に、たまたま一緒になるといった程度だった。

だからバイトで一緒になっても、たいして会話のネタがない。

一緒にいて苦痛というほどではないが、自分は何となくY先輩が怖かった。本当はやさしい人というのはわかっていたのだが、どうしても遠慮がちになり、向こうもそれを感じていたのか、こっちにたいして遠慮がちになっていた。

これでは会話が弾むわけがない。

春がすぎた頃、うららかな日があった。

日差しがやわらかく、ぼーっとしていると睡魔が襲ってきそうなぐらい、気持ちのいい天気だった。

その日は妙に仕事が少なく、昼を過ぎたころ、特別することがなくなった。

「しょうがないな。じゃあウエスでもつくってて」

困り果てた顔で社員のひとりが指示をくれた。

元々あまり仕事がないのはわかっていたのだろう。この日はバイトの人数も少なく、Y先輩と自分だけだった。

ふたりは、いらなくなった布をちぎりはじめた。

説明の必要もないと思うが、ウエスとは雑巾の簡易版、ティッシュペーパーの丈夫版みたいなもんで、汚れがあった場合、ウエスでふき取る。

だから本当に布をちぎったものでしかなく、こんなもんつくるとかいうたぐいのものではない。

それでもふたりは黙々とウエスをつくりはじめた。

ビリッ、ビリッ。ひたすら不要になった布類をちぎっていく。

何をしてるんだ、オレは、という気分にもなってくる。

するとY先輩が声をかけてきた。

「オレらもこんなことしてる場合ちゃうで」

まったくその通りである。ふたりとも20代半ば、こんなとこで布をちぎっている場合ではないのは明白だった。

Y先輩は音楽をやっていた。ちょうどその頃CDがでたばかりだったのだが、バイトにくる、ということは音楽だけでは食えなかったのだろう。

CDといってもインディーズなのだが、大手レコードメーカーのインディーズレーベルなので、自分からすればかなりたいしたものだった。少なくとも人に何も誇れることがない自分とは比べものにならない。だからこそ、Y先輩のつぶやきは印象に残った。

それから少しずつY先輩と話すようになった。

比較的マジメな内容がほとんどで、それこそ殿様との時と違い盛り上がりのようなものはないが、Y先輩としんみりトークも、それはそれで楽しいというか必要な時間となっていた。

Y先輩は気遣いの人だった。外見的には荒っぽい感じなのだが、自分に気を遣ってくれているのは痛いほどわかったし、こちらが聞いたことにはキチンと答えてくれた。

そういえばCDのライナーノーツの最後に、スペシャルサンクスとして自分の名前があった。

「ぼく、何にもしてませんよ」

本当に何もしてなかった。一切CDの制作にはタッチしていない。しかもCDができた時点では特別仲がいいわけでもなく、大学の先輩後輩で一緒のバイトというだけだ。

「まあええやん。記念になるやろ」

いつもは何でもキチンと答えてくれるY先輩も、この件についてはひと言だけだった。それがY先輩流の気遣いだった。

夏になった。

その日はバイトがなく、自分はクーラーのない暑い部屋の中でくたばっていた。

電話がなった。Y先輩からだ。

「プールでもいかへん?」

まったく意外な誘いだった。Y先輩とプールがどうしても結びつかない。

「水着持ってないんですよ」

断る口実ではなく、本当に持ってなかった。

「オレ2つあるから、貸したるから行こうや」

プールといっても市民プールで、何故そんなとこに行ったのか今もってわからない。

しかもY先輩とは「しんみりトーク」をする関係で、プールではしゃぐような関係じゃない。だいた野郎ふたりで市民プールに行くこと自体異常だ。

夏真っ盛りということもあって、市民プールはいっぱいだった。

結構長い滑り台のようなものもあって、さすがにその時はそれなりにはしゃいだが、泳ぐわけでもなく、ナンパするわけでもなく、だいたい市民プールでナンパなんかするやついるわけないけど。

プールから出て、お茶を飲みにいった。

いつものようにしんみりトークをはじめると

「実は某大手事務所からお誘いがあるんやけど、どう思う?」

あまりに突然の相談事に自分はたじろいだ。

続く




2009年8月13日木曜日

2009・夏の納涼特別編 2



真冬の寒空の中、デリヘルのポスティング、そして極貧生活の果て、ある材料だけで目一杯の工夫をし、料理の「のようなもの」をこしらえる。

本質的にはどちらも同じだった。

できるだけ惨めな気分にならないように・・・要はプライドとの戦いなのだ。

新しいバイト先に行くことによって、上記の悩みはとりあえずなくなった。

何せ「全額日払い」なので、初日から貧困からは抜け出せた。

仕事もディスプレイの会社なので・・・説明するまでもないが、ディスプレイとは飾り付けのことである。ショーウインドウの中であったり、でっかいモニュメントであったり、そういうのを制作したり設置したりする。

しかも顧客は大手デパートなので、大掛かりなものが多かったし、何より華やかだ。

プライドもフトコロも満たされ、自分は満足だった。

社員は皆いい人だった。大学の先輩とは意外と接点はなかったが、社員の年齢も若く、雰囲気も明るい。

他のバイト連中は自分とほぼ同じか、やや下。自分はこのころから、世間一般の若者とはやや外れた人間だったので、彼らとは話が合わない。が、この会社に就職した人とは別の、やはり大学の先輩(以下Y先輩)もバイトに来ていたのは心強かった。

そのY先輩の他にもうひとり、年上の人物がいた。

27、28歳というところだが、正確な年齢は今持ってわからない。とにかく妙に浮き世離れした雰囲気で、わりと整えられた口髭を生やしており、何となくタイムスリップした殿様の様にみえた。

殿様はスポーツ好きだった。自分が初出社した時、彼は、自分よりは年下とおぼしい、やはり古株のバイトと思われる男に、きのう見た陸上の試合について、熱く、といった感じでもなく、しかしやけに詳細に語っていた。

年下の古株の男は、それなりに笑顔で応対していたが、ありありと面倒くさいという色が浮かんでいた。

ややこしそうな人だな、というのが殿様への第一印象だった。

相手のことをまるで気にせず、自分がしゃべりたいことをしゃべる。しかも強引とも違う。もっとノンシャランというか、少し後の流行り言葉でいえば「自然体」なのだ。

どっちにしろ積極的に関わりたい人物ではないな、と直感し、殿様とは無意識に距離をとるようになった。

自分は社員から「特攻隊」と呼ばれていた。

何だか妙にカッコいいニックネームだが、理由はかなりなさけない。

例の極貧生活から抜け出したとはいえ、払うものを払ってしまうと残金は微々たるもんだ。しかも基本的に節約家ではないので、ある分だけ使ってしまう。

バイトのある朝に手元にあるのは、バイト先までの電車賃と、500円足らずの昼食代だけ。つまり当日のギャラがでないと家に帰ることもできない。

何ともみっともない特攻隊だが、そんな生活も少し前のプライドがズタズタになった日々を思うと天国に感じる。

Y先輩が一緒に入ってない時は暇というか孤独だった。同年代は話が合わないし、あとひとりは殿様だ。社員の人は愛想はいいが、仕事に忙殺されバイトにかまってる時間はない。

夏前だったから、おそらくバーゲン関係のディスプレイの制作をしていたのだろう。不意に殿様が話しかけてきた。

たしか野球の話だったと思う。あまりに不意に、あまりに自然だったので、つい「ふつう」の受け答えをしてしまった。

自分もスポーツ観戦は好きなので、殿様の話す意味はわかる。わかるどころか「お、いいところに目をつけてるな」といつしか感心してしまうほどだった。

あれだけ何かにつけ避けていた殿様と、気がつくといつも喋るようになっていた。

彼も自分ほどスポーツ観戦が好きなバイトがいなかったこともあって、より一層饒舌になっていた。

自分と殿様はあくまでバイト先で喋るだけの関係であった。

どこかに遊びにいったこともないし、外でお茶を飲んだこともない。

でもそれでいいのだと思っていた。殿様がいることでバイトに行くことが楽しみになっていたのは間違いないのだ。それだけで充分すぎる。

この後に及んでも私生活は一切知らないし、聞くこともない。ただスポーツの話題で盛り上がるだけ。まあでも、知らなくいいという心境だった。あんまり深入りしたいと思える人物でなかったのも事実だし、殿様は正体不明でいた方がいいという気もしていた。

冬になると、またバーゲンの季節である。社員の人は半分泊まり込み状態でやっている。こっちはバイトなのでお気楽なもんだが、残業が増えてきたし、バイトの数もいつの間にか倍ちかくに増えていた。

メインイベントともいえる仕事があった。

デパートの営業終了後、一階の吹き抜けのフロアに、10mはあろうかという馬鹿デカい木のモニュメントを設置するのだ。

とにかく重い。木そのものも重いのに、そこに山ほど飾り付けをしてあるのだから、よけいに重い。

ここまでデカいといくら人手があっても重く感じてしまう。が、さすが殿様は殿様だ。暢気そうに木に手を添えるだけ、どれだけ贔屓目に見ても持ってるとはいえない状態で、となりのバイトに何やらぺちゃくちゃ話しかけている。

怒ってもしかたがない。何しろ相手は殿様なのだ。

その日の帰る道すがら、コートのポケットに手を突っ込んだ自分は、ぼんやり殿様のことを考えていた。

きっとこの人は一生こんな感じなのだろう。彼に関わる大多数の人にとって、彼はよくわからない存在として生き続けるのだろう。

それは卑下とあこがれが奇妙な同居した感情が沸き上がった。

非常に寒い、星の綺麗な夜だった。

年があけたと同時に殿様の姿が見えなくなった。

他のバイトに聞くと「あの人は、そういう人ですよ」という。

そういう人、か。ま、殿様だもんな。

またそのうち姿を表すだろう。だって、殿様だから。

続く




2009年8月12日水曜日

2009・夏の納涼特別編 1



ひさびさにここに書いてみたりしてみる。

題して夏の納涼特別編。別に怪談話をするわけじゃないんだけど。

思えばここには、わりと衝撃的というか、自分の中でインパクトのあったことを書いてきた。

が、今回はあえて何もない、ただ自分の記憶を弄るだけの行為に走ろうと思う。

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金がなかった。とにかく見事なくらい金がなかった。

2年前に大学を中退し、就職するわけでもなく、かといって死ぬ気でバイトするわけでもなく、そんなんで金がある方がおかしいというものだ。

とはいえずっと遊び呆けていたわけではない。

直前までちょっとヤバ目のバイトをしていた。いわゆるデリヘルの送迎というやつだ。

女の子を客のマンションまで送りとどける。そして彼女たちの「お仕事」が終わるのを待つ。

ただ待ってるわけじゃない。ポスティング、つまりはビラを客のマンション周辺のポストに投函していく。

「お仕事」が終わるころ車に戻ると、女の子が戻ってくる。そしてまた次の現場へと向かう。これを繰り返すわけだ。

時給も悪くない。ま、こういう系のバイトなのだから当然っちゃ当然なのだが、ただ基本、運転しているだけなので肉体的に疲れるようなこともない。

冬だったので、ポスティングは寒くて閉口したが、寒いよりもっとイヤなのが、何かすごく惨めなことをしてる気がした時だった。

何しろ仕事内容が仕事内容なので、あまり人におおっぴらにいえない。大学を出たのに就職しない自分に親は怒っていたが、さすがにこのバイトのことはいえず、体裁を取り繕うのに苦労した。

ふつうこの手の話には艶っぽいことがつきものなのだが、はっきりいって何もなかった。

中には向こうから誘ってくる女の子もいたが、そういうのでさえスルーしていた。

別に彼女たちに偏見があったからではない。何となくそういうことをするとヤバいんじゃないかという空気が事務所に漂っていたからだ。

そこは事務所とは名ばかりのマンションの一室だった。

そこで女の子を拾っていくわけだが、当然事務所には男性もいる。その男性が、もろそっち系の人なのだ。そっち系というのは、つまりはカタギじゃない人という意味だ。

だから、まあ、もし仮に女の子とモメたりすると、どうなるかわからない、そういう恐怖心から自重したわけだ。

この話にはとんでもないオチがつく。

いつものように事務所に行くと、いや、事務所のあるマンションの前は、いつもと違って物々しい雰囲気に包まれていた。

パトカーが、ざっと3台は来ていただろうか。きっとかなりの数の警察関係の方もいたと思う。

推測なのは、結局事務所の中には入れなかったからだ。

そりゃそうだ。家宅捜索中に事務所に入れるわけがない。

いわゆる「手入れ」が入ったのだ。

当然その月のギャランティはもらえなかった。が、まあ巻き添えを食らうよりは全然マシなのだが。

こんなことがあって、ますますバイトをする気分が失せた。

安く見積もって20万円近い金が未払いなのだから金がないのは当然で、しかもやる気まで奪い取られてしまったのだからかなわない。

貧困は限界を極めた。

食料の棚を見ると、小麦粉と乾燥ネギしかなかった。

しょうがない。小麦粉を水で溶き、薄くフライパンで焼いた。その上から乾燥ネギを振りかける。

この奇天烈な食い物にソースを塗り、むさぼるように食べた。自分はそれをネギ焼きと称していた。

自分は神戸出身なので、ホンモノのネギ焼きもイヤというほど食べたことがある。無論こんな奇天烈なものをネギ焼きとはいわない。

それでも、もう、そうでも思わないとやってられないのである。

貧困で困るのは、空腹よりもプライドなのだ。

「自分は今、こんなもんしか食うもんがない」と思うと冗談じゃなく死にたくなってしまう。

だからどんな食い物でも、できる限りのアレンジを加えようとした。

金がないからこんなもんを食ってるんじゃない。オレの趣味は料理なのだ。今ある材料で最高の工夫を施し、そしてオレはそれを楽しんでやっているんだ。

それは自分なりの精一杯の見栄だった。もっとも「冷蔵庫の残り物でおいしいレシピ」というのは聞いたことはあるが、「食器棚にあるものでおいしいレシピ」というのは聞いたことがないが。

そんな時だった。突然バイトの口が舞い込んだ。大学の先輩が就職した会社がバイトを募集しているという。

何がうれしいといっても、全額日払いだという。しかも大学の先輩の就職先となれば、そこまでいい評判は聞いてなかったとはいえ、まさか「手入れが入る」ことはなかろう。

こうして自分は、とあるディスプレイの会社でバイトすることになった。

24歳の春であった。

続く




2008年9月30日火曜日

流転



京都は嫌いだが、「祇園小唄」は好きだ。

1930年の歌だが、何というか、京都のもってるムードの、いいところだけをうまく抽出してある。80年近く経っているが、まったく古びていない。というか、未だにこの歌にすべてが集約されているよな気がする。

「祇園小唄」や「ちゃっきり節」、「東京音頭」などは厳密にいえば<新民謡>といわれる民謡を模してつくられたもので、昭和初期に量産されている。

新民謡を含めた民謡とは、いわゆるご当地ソングなのだが、長年生きながらえただけあって、どれも本当によくできている。ただ名物・名産を歌詞に織り込んでいるだけでなく、土地の持つ空気感を見事に再現してあるものが多い。

たとえば「黒田節」なんかもそうで、数年とはいえ福岡に住んでいた身としては、何というか、実に福岡っぽい。「♪さぁ~けぇはぁ~」という出だしを聴くだけで、福岡の、あの街並みを思い出してしまう。

街には歌がある。歌が記憶をつなぎ止める。時間が経っても、歌を聴くと、その時の記憶や街の空気が、頭の中にさっとよみがえる。

思えば、生まれて早40年。いろんなことがあった。いろんなことは誰にだってあるが、本当に、流転の人生だった、と思う。流転も形容ではなく、実際に何度も何度も引っ越した。成功のプロセスとしての引っ越しではない。まさに、流れ流れて、そして今に至る。

福岡に住んでいたことは、何度か書いた。生まれ育った神戸のことも、もちろん書いた。しかし住んだのはその二箇所だけではない。東京も住んだし、大阪も住んだ。他にも住んだ街はいくつかある。

どれも思い出深いところばかりである。絶望して離れた街もあるし、泣く泣く離れた街もある。

それでも、歌は偉大だ。どんなに辛い思い出しかない街でも、土地の歌を聴くと、悪い記憶が浄化されていくような気がする。良い記憶は、さらに美化されていく。

流転も悪くないな、と最近になって思い始めた。今から土地ごとの流転は、さすがにちょっとしんどいが、30代までの流転なら、やっておいてよかったと思えるようになってきた。

これが活かされるか否かは、これから次第なのはもちろんだが、しかし、思うのだ。

おそらく、もう一度人生をやり直しても、また同じような人生になるのだろうな、と。細部は異なっても、やっぱり流転の人生になるのだろう。

でもそれもいいかな、と思う。大変と退屈、二択しかないのなら、大変を選んでしまう、それが自分なんだと思う。

京都も福岡も、街の空気は、何十年、何百年経とうが変わらない、ということは歌が証明している。

人間も一緒だろう。もし子供の時に自分のテーマソングができてたとしたら、おそらく40年近く経った今でもテーマソングとして通用するはずである。

そのテーマソング、歌詞にはきっと「流転」という言葉が編み込まれているはずだ。




さて、ひと月近くがんばって日記を更新してきたが、それも今日でおしまいである。

そういうマメなことができるタイプではないのだが、自分を試す意味で、あえてやってみた。

もうひとつのチャレンジ、それは「自分について書く」ことだった。

何度か名前が出てきたEから「秘密主義」呼ばわりされているが、自分は秘密主義でもなんでもない。説明するのがめんどくさかったり、何でそんなこと聞きたがるの?と訝しがってるだけの話だ。本当に秘密にしておきたいことなら、もっと巧妙にやる。

とはいえ自分のことを書くのは、何となくイヤだった。文章にするからには過去の出来事を整理しなければならない。書いてあることは基本的に本当だが(一部に誇張と補足はあるけど)、ただ事実を書き連ねていけば冗長になりすぎるので、事象やら人物を削っていかなければいけない。その整理が面倒だった。今更、という気持ちもあった。

「過去を整理したい」という気持ちなども、さらさらなかった。そんな面倒なことはしょっちゅうやるもんじゃない。せいぜい生きているうちに一、二度やればいい方だ。

それでも、秘密主義とまでいわれたら黙っていられない。そこまでいうならチャレンジしてやろうじゃないか、という気持ちで始めた。

三年以上ブログをやってたが、このひと月の方がよほど疲れた。やはり自分のことを書くより、他人が作った作品なんかについて、うだうだ書いてる方が向いてるようだ。




2008年9月29日月曜日

最後の晩餐



母親に聞くと、子供の時の自分はわりと父親になついていたらしい。

そうなのか、と不思議な気持ちになる。今はもちろん、子供の時でさえ父親にたいして好意的な感情を持ったことなどなかったはずなのに。

中学一年の時、両親は離婚した。離婚したといっても父親だけが出て行った状態だったし、名前も変わることがなく、何一つ生活の変化はなかった。

前年ぐらいから父親が帰ってこない日が多くなった。たまに帰ってきても深夜に近い時間であり、枕元から両親の激しい口論が耳に入ってきた。

だから離婚ときいて、正直ホッとしたのをおぼえている。もうあの、子供ながらに感じる醜い言い争いを聞かなくて済むと思ったからだ。だがそれだけではない。

両親の離婚イコール、ある種の恐怖心の消滅をも意味していた。だから心の底からホッとしたのだ。

あれは小学六年の時だった。珍しく早く父親が帰ってきた。そして久しぶりに近所の店にメシでも食いにいくか、と言い始めた。

すでに父親にたいしての悪意が芽生え始めていた時期なので、別段うれしくはなかった。

しかしはっきりおぼえている。自分は必要以上にはしゃいだ。はしゃがなくてはいけない、何かそういう空気が横溢していた。

父親、母親、自分、そして妹と弟。家族五人は近所の、何て事無い中華料理屋に入った。

普段皮肉な目付きの薄ら笑いしかしない父親も、何故かこの日は上機嫌で、たしかビールかなんかを注文し、好きなものを頼め、と見せたことのないような笑顔で子供三人に促した。

そんな父親とは対照的に、母親は妙に緊張した顔をしているし、妹と弟もどことなく堅い。それは思い違いかもしれないが、小学六年の自分にはただならぬ雰囲気に思えてしかたがなかった。

自分は注文した若鶏の唐揚げをぱくつきながら「♪若鶏、若鶏、カ・ケ・フ~」と、この時をさかのぼること数年前に関西地区でかすかにヒットした、阪神タイガースの掛布雅之選手の応援ソングの替え歌を口ずさんだ。(本当の歌詞は若鶏ではなく若虎)

まったくつまらない駄洒落である。しかし必死だったのだ。何とかこの張りつめた雰囲気を和ませよう、子供の浅知恵だが、そんなことでもしないといたたまれなかった。

父親も母親も薄く笑ってみせたが、空気は変わらない。

もうどうしていいかわからなくなっていった。

少し話が横道に逸れる。

子供の頃「ウィークエンダー」という番組があった。漫画家の加藤芳郎が司会で、桂ざこばが桂朝丸という名前で出ていたのをおぼえておられる方もいると思う。自分が見始める前には横山やすしや泉ピン子もレポーターとして出ていた。

番組が中盤にさしかかった時、毎回必ず再現VTRのコーナーがあった。再現VTRとは事件をドラマ仕立てで文字通り再現する。扱うのはエロネタから悲惨な事件まで様々だが、出てくるのが無名の役者ばかりというのも手伝って、やけにリアルで、子供が見るには刺激が強すぎる代物だった。

それでも毎週見ていたのは、大人の世界の覗きみたいという好奇心からであろう。

家族で中華料理屋に行った数週間前だと思う。「ウィークエンダー」の再現VTRで一家心中を取り扱った回があった。

つまらない駄洒落もむなしく響き、身動きが取れなくなった自分の頭に、この再現VTRがよぎっていった。

一家心中・・・・?

必死で想像を打ち消そうとした。しかしいくらあがいても「一家心中」という言葉が頭から消えない。

いや、大人になった今だから余計にわかる。あの不自然な空気、まったくもって一家心中直前の家族の様子そのものではないか!

まぁ本当にそうなっていたら今こうしてこんな文章も書いてないわけで、結局何事もなかったかのように家路についた。

その日から約半年後、両親は正式に離婚した。

もう一度、最初の母親の言葉を書く。あなたは父親になついていた、と。

そしてこうも書いた。両親の離婚はある種の恐怖心の消滅だと。

そういうことだったのだ。たぶん自分は父親になつくような行為をしていたのだろう。それはけして情愛からではない。はっきりいえば怖かったのだ。

殴られるとか叱られるとか、そういう怖さとは次元が違う。適度になついたり甘えたりしなければ、自分はこの世にいられない。そう考えて、いや考えたんじゃなくて、無意識の行動だったのだろう。

あの時父親が何を考えて家族を食事に連れ出したのか、そしてあの時の出来事が現在の自分にどういう影響をもたらしているか、どちらもよくわからない。

でもひとつだけわかることがある。自分はどんなことがあっても、最後の晩餐には若鶏の唐揚げは選ばないということだ。

それはいくら今の自分が唐揚げが好きだからといっても変わることはない。




2008年9月28日日曜日

クソ真面目



どうも自分は真面目人間らしい。

友人Eからいわれたのだが、まったくピンとこない。自分ではいい加減この上ない人間だと思っている。

部屋はいつもちらかっている。ほっておいたら何日も食器を洗わない。仕事なんかしなくていいなら、一生遊んで暮らしたいと思っている。

辛いことが嫌い。疲れることが嫌い。楽なように楽なように物事を持っていこうとする。

気分が乗るとものすごいスピードで何でもやるが、乗らないとまったく何もやる気がおきない。

こんな人間のどこが真面目なのだろう。

Eが自分を真面目だと評したのは初めてではない。ちょっと考え方が合わない時に、すぐに言葉を吐く。それって真面目に考えてしかるべき問題じゃね?って思うこともしばしばだ。

Eとのつき合いもかれこれ10年になる。Eと親交を深めるきっかけは、過去ログの「変人はつらいよ」を読んでいただければわかるが、まぁEは自分のことを本当に理解してくれる人のひとりであるのは間違いない。そのEが真面目だというのだから、たぶん真面目なのだろう。

会話の続きで「では不真面目なのは誰か」とEに問うた。すると「Rじゃないか」と、Rの話をはじめた。

Rは自分とEの共通の友人である。つき合いの長さはEと似たようなもんだが、Rは自分より10歳も若い。だからいわば後輩にあたるわけだが、職種も違うし、学校や職場から発展した関係でもない。

Eが不真面目と評したRは、一見どこからどう見ても真面目人間に見える。Rが個人事務所を立ち上げる際、社名をEを含めた三人で話し合ったことがあったが、自分は「オフィス・クソ真面目」はどうか、と提案したぐらいだ。もちろんジョークで。

Eとのつき合いが10年になるということは、Rとのつき合いも10年になるわけで、その間、いろんなことがあった。

仕事の相談にものったし、恋愛の相談にものった。むろんたいしたアドバイスができるわけではないが、せめて話だけでもちゃんと聞いてあげようと思った。そういう「ちゃんとしてあげなければ」というムードを持っている男なのだ、Rは。

あれは二年ほど前だったか。様々なことが重なり、Rと険悪な雰囲気になったことがある。

Rは自分にたいしていいたいことがいっぱいあったようだった。自分もRにいいたいことがいっぱいあった。ことが終わってひと月ほど経った頃、激論を戦わせたが、物別れに終わった。というか、仲違い寸前までいった。

Eを介してRのことはちょくちょく聞いていたが、会うこともなく、電話することもなくなった。

その後、Eの仲介でRと会うことになった。

Rは深刻な問題をかかえており、自分との間にあったいざこざはどこかに吹っ飛び、「深刻な問題」の話に終始した。

いきがかりを捨て、というとオーバーだが、真剣に悩むRを目の前にして、こっちも真剣に耳を傾け、自分なりの意見をいった。

今から三ヶ月ほど前、不意にRから電話があった。

昔と変わらず明るい口調だった。あいかわらず冗談はつまらないが、それでも自分はRの気持ちがうれしかった。

いいヤツなんだよ、Rは。いろいろあったけど、何かあると心配してくれる。そういうヤツなんだ。だから自分もRが好きだし、ついかまってしまう。

時にはうっとおしく感じる時もあるだろうと思う。でも、まあ、それも含めて自分なんだ。ちょっとだけ我慢してくれないかね。

ホームパーティーをやった話はこの間書いた。Rは夫人を伴ってきてくれたのだが、ほんの少しだけど、Rとふたりで話す時間があった。

この間誕生日で、40歳になった、という話をした。するとRは「僕も30歳になったんですよ」と云った。

そうか、ちょうど10歳違うわけだから、そういうことになるのか。

「30代は早いぞ、あっという間に40になる」と実感を込めて話した。そんな何千年前からの繰り言を、Rはちゃんと聞いてくれた。

「でも僕、30代が楽しみなんですよ。ずっと30代になりたかったから」

楽しみ、か。いや、楽しめ。気楽すぎる気もするけど。

話を戻す。自分は真面目人間、そしてRは不真面目人間か、という話だ。

真面目人間といわれるとアレだが、神経質、または理屈っぽいといわれると、自分は間違いなく神経質であり理屈っぽい人間だ。

細かいところに気がつく代わりに、過剰に遠慮がちになったり、些細なことでイライラしたりする。その結果、人を遠ざけたりもする。

Rは正反対とまでいわないまでも、少なくとも神経質な人間ではないし理屈っぽい人間でもない。もちろん「深刻な問題」に直面すれば真剣に悩むが、基本はおおらかで、根っから明るい。だから誰からも好かれる。反面、かなり鈍感なところもある。

もし<真面目=神経質・理屈っぽい>、<不真面目=神経質ではない・理屈っぽくない>という意味でEが云ったとするなら、当たっているのかもしれない。

自分は真面目だ。言い切るにはまだちょっと自信がないが、とりあえず納得することにする。そしてRは不真面目だ。だからこそ、真面目な自分はRが心配だし、不真面目なRも自分を心配してくれるのではないか。

だけど、まあ、Eがこの日記を読んだら「真面目な人だなぁ」というのだろう。自分もEもどっちもどっちだと思うが。




2008年9月27日土曜日

悪魔の結託

女性は悪魔である。異論は一切認めない。
「え~、女性は天使ですよ。たとえば私」なんていうヤツは、おそらく一番タチの悪い悪魔だ。
しかし、悲しいかな、悪魔と知りつつ女性に魅せられていく。そして最後には、やっぱりヤツも悪魔だったんだ、と再認識させられることになる。
とはいえ悪魔もひとりだとかわいいものである。もちろんひとりでも酷いのはいるが、たいていの女性は、キャンディーズの歌の如き(古いね)「かわいい悪魔」なのである。
が、悪魔が本性を発揮するのはツルんだ時だ。これはコワい。
たとえばあるグループの中で、ひとりの女性と揉めたとする。別に艶っぽい話でなくてもいい。たわいのない口論で充分だ。
そうするとその女性は、同じグループの中の女性に相談する。それが広がっていく。尾ひれも背びれもいっぱい付随していきながら。
かくして自分は女性陣から総スカンを食らう、という事態に発展する。
きっと男性なら大なり小なり、そういう経験をしたことがあるのではないか。

実のところ、自分は二回もこれを経験している。いずれも場所は会社。ふたつの会社で同じようなことが起こった。
一度目は、これが不思議な会社で、内勤は自分以外すべて女性だった。まるでハーレムみたいだが、正直まったく恋愛の対象じゃない人たちばっかりで、しかも全員因循な感じであった。
最初はそれなりに順調だったが、ま、最初はたいがい順調なものだが、自分のとある仕事のミスをきっかけに、どうも空気が変わってきた。
そのミスも、詳しくは書かないが、今考えると自分のミスだとは言い難いものだったのだが、何かすべての原因がこっちにあるような態度を「全員」がしてきた。
それ以降も基本的には同じで、やりにくいこと甚だしかった。
別に悪魔たちが原因ではなく、まったく別のことが原因でその会社を辞めたが、次の会社でも同じようなことが起きた。
ここも同じく最初は順調、しかもわりとトントン拍子にそれなりの立場になることができた。
それなりの立場になったということは部下ができるというわけで、何の因果か、全員が女性であった。
面接は自分が担当していた。本当は男性がほしかったのだが、これがろくなのがこない。一度かなり無理矢理ひとり男性を入れたのだが、これが相当の問題人物で、遅刻を毎日のように繰り返し、それ以外にもあまりにも問題が多かったので、クビにするしかなかった。
面接で使えそうなのはすべて女性ばかりであった。しかも採用した女性は皆、それなりに仕事をこなした。

自分はテンパる癖があるようで、どうしようもなく忙しい時にノロノロやってる部下の女性を、かなりキツイ口調で叱った。
どうもこれがマズかったらしい。
これ以降はさっきの話の繰り返しである。

悪魔は結託する。まぁそれはしょうがない。しかし文句があるなら自分に直接いえばいい。悪魔はそれをしない。自分の上司に、いわば直談判してくる。
これをされると完全に自分の立場がなくなってしまう。向こうは「どうせ話なんか聞いてくれない」というが、話ぐらいは聞くに決まってる。話しづらい、というのがわかるが、直談判されると間の人間がどうなるか想像がつかないのだろうか。

しかしそれも悪魔の悪魔たる所以だろう。結託することによって、まるでゲッターロボ(どうも古いな)のように、どんどん巨大化した悪魔になる。
だから悪魔がいっぱいいる職場は苦手だ。しかし悪魔自体が嫌いかというと、やっぱり嫌いになれない。どうもその辺が自分の弱いところかもしれない。

2008年9月26日金曜日

隔離



もっとも酷いバイトの話を以前に書いたので、今回は「もっとも危険なバイト」というテーマで書こうと思う。

危険なバイトというと必ずでてくるのが「ホルマリン漬けの死体を洗うバイト」。やったことがあるヤツに出会ったことがないし、そもそも実際にそんなもんがあるのがどうかわからない。

もうひとつ「新薬の人体実験」というものがあるが、これは本当にやったことがある。

その時のことは口外しないように誓約書まで書かされたのだが、だいぶ時間がたってるし、詳細に触れなければ大丈夫だろう、という判断で書かせていただく。

1996年の話だ。いや、テストには1995年からいってただろうか。

新薬の人体実験といっても誰でもできるわけじゃない。どういうルートでそういう話がきたのかは忘れたが、とにかくそういうバイトがあるということで、まずはテストを受けに行った。

テストといっても難しいことをするわけではない。要するにかなり詳しい身体検査をする。実際に新薬の実験を行っても大丈夫かどうか調べるわけだ。

この身体検査、かなり厳密なもので、後年になって会社の身体検査を受けたが、あんなもん子供の手遊びみたいなもんだ。それぐらいちゃんとしていた。

おまけに身体検査を受けるだけで、わずかばかりの謝礼も発生する。これは貧乏な当時の自分にはかなり助かった。

が、なかなか本戦(人体実験ね)には入れない。どうも白血球の数がどうちゃらこうちゃらという問題があったらしい。

何度も何度もテストを受けて、あきらめかけた頃になって、二泊三日の短期間のコースに入れることになった。

入所は夕方からで、その日の夕食にはステーキがでた。さすがにステーキはその時限りだったが、食事はどれもおいしく満足できた。

が、食事は朝・昼・夜の三回のみ。間食も一切できない。ドリンクも備え付けのお茶しかダメ。途中外出はいかなる理由があろうとも厳禁だった。

起床後は何度も何度も採血と血圧を測られる。それが午前中まで続く。

こう書くと不自由きわまりないが、後は何をしようが自由である。その建物の中にいる限り、寝てようが、漫画を読んでようが、ゲームをしてようが、テレビを見てようが、かまわない。

さすがに長期コース(10日間)ともなると外出できない不便さから苦しくなるようだが、二泊三日ぐらいだと、まったくもってどうってことはない。

ここで簡単なQ&Aを。

・ギャラがいいときいたけど

よくこういうバイトはギャラがいい、というが、実はそれほどでもない。時給にすると全然たいしたことがないのだが、24時間分支払われるのでかなり大きな額になる、というわけだ。

・新薬の危険性は

実はこれがよくわからない。一応説明してくれるのだが、こっちに薬物についての知識があまりない以上、それがいったいどれほど危険なものなのかの見当がつかないのだ。

動物実験済みであるのはいうまでもないが、人体への投与は初めてなわけで、後遺症がでないとも限らない。やはりそれなりの自己責任が必要ではないか。

さて記憶力の悪い自分がはっきりと「1996年の話」と書けるのは、ちょうどアニメの「こち亀(こちら葛飾区亀有公園前派出所)」の第一回の放送を、入所中に見たからだ。

とにかく入所中はヒマなので、館内には漫画の本が山ほどおいてある。とくに「こち亀」はほぼ全巻揃っており、それまであまり読んだことがなかった「こち亀」を一気に読んだ。

この時たまたま友人も入所しており、漫画に飽きたらその友人と話をした。

「両さんの声、ラサール石井らしい」、「どんな風になるかまったく見当つかんな」と結局「こち亀」の話になる。そしてまた漫画の「こち亀」を読む、といった具合だ。

詳細を書かなければ大丈夫だろう、とは書いたが、本当のところ、細かいことはあまり覚えてないのだ。覚えているのは「こち亀」に関することだけ。何しろこの漫画を読んだのは後にも先にも、この時だけ。

だから「新薬の人体実験ってどんな感じなんですか」と聞かれれば、突然狂ったように「こち亀」のことを話す。でもそれはけして新薬の副作用ではない。

2008年9月25日木曜日

狂人ゲーム



友人のE宅に行くと、部屋にこもって遊んでいる。

40前後の男どもが何をやってるかというと、延々ウイニングイレブンというサッカーゲームをしている。

しかしそれは「ゲームをしている」といえるのかどうか。

基本的にふたりともコントローラーを握っていない。試合中はただぼーっと見ているだけ。つまりはコンピューター同士に戦わせて観戦しているのだ。

しかも「ぼーっと見ている」と書いたが、実際には熱い歓声をおくっている。下手したら本物の、日本代表の試合を見ている時より熱くなってるかもしれない。

前はウイニングイレブンではなくベストプレープロ野球であった。

ベストプレープロ野球というゲーム、自分で操作はできない。監督となりサインを送ったりはできるが、それもやらない。

このゲームの最大の特徴、それは「名前を含む選手のデータを自由に変更できる」という点にある。

それを利用して全選手のデータを書き換えた。つまり全チーム、オリジナルチームで構成されているのである。

オリジナルチームのメンツは多岐に渡る。Eと関連のある人ばかりで集めたチームや自分と関連のある人ばかりのチームはもちろん、業者の人、芸能人やスポーツ選手、文化人をカテゴリ分けしてチームを作る。

その分け方がセンスの問われるところで、「こういう括りでチームを作ればおもしろいんじゃない?」という雑談の中から新しいチームが生まれていく。

しかも一チームあたり20人以上必要なわけだから、たとえばドリフターズでチームを作ろうと思っても足りない。そこで「荒井注は当然オッケーでしょ」、「坂本九も昔ドリフにいたらしいな」みたいな感じで埋めていくのだ。

ベストプレープロ野球は簡素きわまるグラフィックなのだが、だからこそ想像力が働きやすい。「おい、今の仲本工事、片手でライト前まで運んだぞ」みたいに。もちろん画面ではそんな細かいことは一切表示されていない。

これが5年ほど続いたろうか。EがPS2を買ったのをきっかけにウイニングイレブンに変わった。

ウイニングイレブンはベストプレープロ野球と違って自分で操作できる。しかしこれまた「選手のデータを自由に変更できる」という特色を活かしてイジりにイジりまくっている。野球ゲームからサッカーゲームになっただけで、結局やってることは変わらない。

しかもこのウイニングイレブン、時代が時代なだけに美麗なグラフィックなのだが、それに合わせてモンタージュ形式で「顔」も作ることができる。

Eは完全に職人のようになっていて、パーツが用意されておらず、通常非常に難しいとされる女性の顔まで作成できるようになってしまった。

顔だけでなく当然身長なんかも設定できるわけで、デカい人はデカく作れる。さきのドリフチームでいえば「じゃキーパーはジャンボマックスだな」みたいなことも可能になった。(もちろん制限があるので本物のジャンボマックスよりはだいぶ小さいが)

楽しそうでしょ?え、楽しそうじゃない?いったい何がおもしろいのかわからない?

うーん、やっぱりそうきたか。実際こんなに理解されない遊びも珍しい。Eなんか高校生の時からこういう遊びをやってみたかったが、誰も同調してくれる人がいなかったというし。

しかし、ひとりだけわかってくれそうな人がいる。といってもリアルの知り合いではない。

130Rの板尾創路氏だ。

さすがにオリジナルチームでやってるかどうかは知らないが、この人も野球ゲームでコンピューター同士に戦わせて観戦しているという。

おそらく自分たちの「遊び」に何の抵抗もなく、ふつうに入ってきてくれそうな気がする。とはいえ板尾氏と知り合いになる術があるわけではないが。

実はもうひとりいる。これまたリアルの知り合いではなく、しかもすでに故人だが。

その人とは、作家の色川武大氏。阿佐田哲也名義で「麻雀放浪記」を書いた、といえばピンとくると思う。

この色川氏、生前に対談でこんなことを告白している。

(以下「恐怖・恐怖対談」より引用)

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いつごろからか、カードをつくる癖がつきましてね。相撲でも野球でも、代議士でも、とにかく人の名前が利用できるものなら何でもいいんです。カードをつくりまして、トランプ類とかサイコロとかで一定の方式をつくって勝負をやらせたり、ゲームをやらせたりするわけです。

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いわば遊戯王などのハンドメイド版か。しかしこのハンドメイドという行為が限りなく自分たちのやってる「遊び」に近い。つまり自分たちのやってることは、このカード遊びの二十一世紀版というかハイテク版なのかもしれない。

それにしても、色川氏-板尾氏というラインの延長線上に自分たちもいるのだとすると、やはり自分もEも「かなりの変人」ということになるのだろう。

板尾氏がどういう人かはおなじみだと思うが、色川氏はもっとすごい。どこがどうすごいのかは数ある著書を読んでもらうのが一番てっとり早い。自身をモデルにした「狂人日記」といった書名をみるだけでも、ふつうの人とは全然違う。

たしかに自分たちのやってることは変を通りこして「狂」の部類に入るのだろう。だからこそ誰にも理解されなくてもしょうがない。だって板尾氏や故・色川氏のような人とやすやすと知り合いになれるわけがないわけで。

しかし、ウイニングイレブンの発売元であるコナミにだけはわかってほしい。何でかって?だってコナミがわかってくれたら、もっと顔のパーツを増やしてもらえそうだから。




2008年9月24日水曜日

犬に飼われた猫



この間は個人で飼っていた猫の話を書いたから、今度は実家で飼ってる猫について書く。

震災の時、母親が犬も連れて大阪へ疎開していた、とは前回書いたが、この犬、この時点で15歳ほどだったからかなりの老犬だった。

もうだいぶ足下がおぼつかなくなっていたが、それでもそれなりに元気で食欲も旺盛だった。しかし震災で車で連れ回され、たとえ一週間とはいえ見知らぬ土地で暮らしたのがよほど堪えたと見え、これ以降急速に老け込んだ感じになってしまった。

結局震災から半年後に、この犬は死んだ。自分が中学に入る頃にもらわれてきた犬なので、思い入れも強く、たいそう悲しかった。

しかしもっと悲しんでいたのは母親だった。いわゆるペットレス症候群というヤツである。そしてそれから半年ほど経ったころ、保健所から一匹の小型犬をもらって帰ってきた。

もう自分はすでに実家に住んでいなかったし、母親が何をしようが勝手なのだが、正直この犬が好きでなかった。

もともと小型犬をあまりかわいいと思えないのもあるが、母親の溺愛が酷く、こっちが愛情を持つ隙がないのが大きかった。

この小型犬をもらってきて、さらに半年経った頃、”犬が猫を飼い”だした。

嘘でも誇張でもなく、本当に犬が猫を飼い始めた。経緯を詳しく書きたいが、あとで電話で聞いただけで、その場にいたわけではない。自分が聞いた範疇で書く。

母親が小型犬を散歩させていると、一匹の子猫が寄ってきた。どうも捨て猫らしいが、母親にではなく「犬」についてきた。

あんまりしつこく犬に寄ってくるので、まあいいか、ということで実家で飼うことになったらしい。

とはいえ餌は母親があげてるわけだし、トイレだってそう。

しかし断じて飼い主は母親ではなく、犬だった。それは実家に帰った時に嫌がうえにでも認識させられた。

とにかくこの子猫、すべて犬に右へ倣え、なのである。

後をついて行くのはもちろん、犬が喜ぶ人には自分も懐く、犬が嫌がる人は自分も逃げる、といった具合で、寝るポジションからくつろぐ場所まで、すべて犬の真似をしていた、といっても過言ではない。

挙げ句、散歩にまでついてくる。所詮猫だから行動範囲から外へは出ないが、範疇のぎりぎりまでついていって、散歩から帰ってきてもそこで待っており、一緒に帰ってくる。

だから何だか、およそ猫らしくなく、犬が二匹いるようなもんだった。

三年前、小型犬が死んでから猫の様子が変わった。何しろ飼い主が死んだのだ。おそらくどうしていいのかわからなくなったのだろう。

とにかく狷介になった。今までふつうに接してきた近所の人から逃げるようになった。大丈夫なのは母親と自分だけ。不思議なのは、この猫とまったく一緒に暮らしたことがない妹も大丈夫だったそうだ。何かわかるのかねぇ。

どうも狷介になった理由は、飼い主である犬がどこかに連れていかれたと思っているぽい。だから身内以外の人間に異様な警戒を示すようになったのではないか。

ただ狷介になったのと同時に、猫らしい行動が増えた。

全然甘えてこなかったのに、ゴロゴロいいながらすり寄ってくるようになったし、それまで家のどこかで寝ていたのが、今では母親と一緒にベッドで寝ているようだ。

おそらく今でも飼い主の犬が帰ってくるのを待っているのだろう。いくら猫らしさが出てきても、やっぱり母親を飼い主の飼い主にしか思ってないっぽい。

天気がいい日はひなたぼっこをしている。ずーっとしている。まるで何かを待っているように。

でもな、お前さんの飼い主はもうこの世にいないんだよ

見てただろ?飼い主が死ぬところを

しかしあれだ、安心しろや

誰もお前さんをどこかへ連れて行ったりはしないから

のんびりとな、身体だけは気をつけてな

何しろお前さんは病院嫌いだからな

また気が向いたら甘えてくればいいからさ

まあ、猫らしくても猫らしくなくても

飼い主が誰でも、そんなことどうでもいいや

とにかくさ、まだまだ生きてていいんだよ

お前さんがもういいって思うまでな




2008年9月23日火曜日

ホームパーティー



一度でいいからホームパーティーなるものをやってみたかった。

アチラ製のドラマを見ていると、やたらホームパーティーを開いている。てかそんな場面が多い。

いや、アチラまで行かずとも、数年前ヒデがホームパーティーを開いている体のCMがあった。ヒデはデジカメでその様子を撮影し、すぐさまプリントアウトしてやる。

ホームパーティーの定義はよく知らないが、こんなことを実際にしたらまず嫌われるだろう。後でやれよ後で。相手がヒデだからみんなあきらめているのか?まぁ日本代表の合宿で、みんなでトランプとかしてるのに、ひとりだけ参加しないヒデのことだ。この程度の行動では皆ビクともしないのだろう。

ヒデの話はどうでもいい。ホームパーティーの話だ。

先日友人のEのところへ遊びに行った際、共通の友人であるR夫妻を呼ぼうという話になった。

メンツとしてはE、Eの彼女、R、Rの奥さん、そして自分の五人。五人かぁ。

その瞬間、頭に閃光が走った。線香ではない。閃光だ。

ほーむぱーてぃーができるじゃないかびっくりまーく

とはいえEの部屋は広いとはいえ、所詮うさぎ小屋にたとえられる日本国内のマンションだ。さすがに立食パーティーは無理で、ふつうにテーブルとイスを用意した。

これじゃただの食事会と変わらないのだが、違う。断じて違う。これはホームパーティーなんだ!そう自分に言い聞かせた。ついでにEにも言い聞かせた。

言い出しっぺの責務として料理を担当することになった。メシを食う以外、パーティーっぽいイベントは何もない。メシがすべてだ。つまり最大の任務を自ら志願したのだ。

志願兵はまず買い出しに行った。近所のスーパーとは置いてあるものがかなり違い、かなり苦労したが、それなりの食材が用意できた。

R夫妻が来る30分ほど前、おもむろに調理を開始した。各料理の調理時間を計算し、30分もあれば十分だ、そう認識していた。

30分後、ほぼ時間ぴったりにR夫妻がE宅に現れた。

ところがである。まだ全然料理ができていないのだ。

いったいどういうことだ!志願兵は焦りに焦っていた。

一人暮らしが長かったせいもあって、料理には慣れているはずだった。しかしこれが落とし穴で、今まで作っていたのはほとんどひとり分、多くてもふたり分でしかない。

今回は五人分だ。しかも一応ホームパーティー風にしたかったので、最低でも五品は必要だと考えたのだ。

五品を五人分。これは完全に想像を越えていた。大変なんてもんじゃあない。尽力しても全然終わらない。すでにR夫妻が到着してから30分以上経過している。

Eがせかしにきた。当たり前だ。おそらくみんな腹ぺこだろう。だからこんなに必死のパッチでやっているのだ。でもできないものはしょうがないじゃないか!

焦りと理不尽な怒りが空気を悪くしていたのはたしかだが、志願兵にそんなことを考える余裕は一縷の隙も残ってなかった。

やっと料理が完成した。自分が料理を作るというもの珍しさと気遣いもあって、幸いみんな喜んで食べてくれたが、志願兵は作り疲れで、もうお腹いっぱいの状態であった。

とりあえず一服しよう。たばこに火をつけた瞬間、忘れていた!パンを切ってだすのを忘れていたのだ。

急いでたばこの火を消して、再びキッチンに向かう。買ってきたフランスパンを包丁でスライスする。

それは鬼気迫る姿だったようで、後で聞いた話ではキッチンから「ウー!ウー!」とうなり声が聞こえていたそうだ。

R夫妻が帰り、死ぬほどあこがれていたホームパーティーが終わった。

祭りの後のなんとやらではないが、心身ともに疲れ果てていた。

ホームパーティーってこんな大変なものだったのか。もちろん甘い計算をして調理を志願した自分が悪い。

しかし、思うのだ。ホームパーティーではないにしろ、毎日家族分の食事を用意している主婦の、なんとエラいことよ!

大人数の料理作りは肉体労働である、と改めて認識させられた。今も昔も大家族の主婦は肉体労働をしているのである。

実際にやってみたホームパーティーで学んだのは、そんなことであった。




2008年9月22日月曜日

ポピュラス



神戸出身だけあって、震災のことは何度も聞かれる。んで何度も話す。だから自分の中で完全にネタとして出来上がってしまった。

震災のことは、不謹慎だけど、ネタにするのは飽きている。もちろん思い出したくないという気持ちも存在するが。

なのであんまり人に話さないことを書こうと思う。

震災の当日、自分は実家にいた。当時大阪に住んでいた自分は、その日の夕方にかけつけたのだ。

実は家に着くまでに驚くべき体験をいくつもしたのだが、それは省く。

とにかく実家には自分、母親、弟、自分の彼女、弟の彼女、年老いた犬がいた。自分の彼女は一緒に車に乗っていったからだが、弟の彼女が何故うちの実家にいるかは不明。

前日は一睡もしてなかったので、とにかく一眠りする。目が覚めると、家に到着した時にはまだきてた電気は消えていた。そして真っ暗な中、母親が電池式のラジオを聞いていた。

まだ余震は続いていた。今後大きな余震がきたら、たぶん家は潰れるだろう。ここにいては危ない。そういう空気が流れていた。

逃げよう。しかし大きな問題があった。ガソリンがないのだ。まさか神戸がこんな状態になってると思わずのミスだが、それにしても、こんなことならもっとガソリンを入れてくるべきだったがどうしようもない。

とはいえしょうがない、では済まない。四の五のいってる状況ではないのだ。どこか開いてるスタンドがないか探しにいくことにした。とはいえ近所にあるガソリンスタンドはすべてダメだ。比較的被害の少ない北の方に向かうしかない。

どんどん北へ向かった。しかし走れば走るほど、被害が少ないのと同時に、ガソリンスタンドがない。あっても閉まってたりする。もう全然知らない場所まで走ってきてしまった。そして残りわずかのガソリンもついに底をつきはじめた。

もうダメか、と思った瞬間、一件の、営業しているガソリンスタンドを見つけた。

別にアテがあって走っていたわけではない。ただ当てずっぽうで、こっちの方にくればあるんじゃないかと思って走ってただけだ。

それが当たった。まさに奇跡の瞬間だった。

とんぼ返りで家に着くと、すでに母親他は支度を完了していた。

犬も含めて車に乗り込んだ。完璧に乗車定員数違反だが、この非常事態にそんなことをいってる場合ではない。

さっきまで自分はガソリンを入れるために車で走り回っていた。しかしわずか30分ぐらいの間に、また街の様子が変わっている。

信じられないぐらい空が赤かった。きっと夜になってあちこちで火災が発生したのだろう。それにしても赤い。

ふと祖母の言葉を思いだした。

戦時中、近くで空襲があると見に行ったそうで、とにかくキレイだった、といっていた。打ち上げ花火など問題にならないぐらいキレイだったそうだ。

なんて不謹慎な!と思う方もおられよう。しかしその時の自分もそうだった。あんなにキレイな空は見たことがない。

一週間ぐらい経った。余震もほぼおさまり、電気も復活、電車はダメなものの家も大丈夫のようだ。

この間親戚の家に世話になってた母親と弟は家に帰りたい、と言い始めた。おそらく犬も帰りたかったに違いない。

再び家族を車に乗せ、神戸へ向かった。とはいっても道路事情が壊滅的だったので、かなり大回りして神戸方面へ向かった。

途中、新興住宅地の造成中のそばを通った。

少し話はズレるが、当時、自分は「ポピュラス」というゲームに凝っていた。プレイヤーは神となり、土地を耕したり、地震などの天災を起こしたりすることができる。

なんだ、まさにポピュラスの世界じゃないか・・・。

こうやって住宅地を造成しているところもあれば、地震で築き上げた街があっという間に崩壊する。

でもこれはゲームじゃないんだ。現実なんだ。でもゲームに「神からのコマンド」があるように現実にも「神からのコマンド」があるのかもしれない・・・・。

現在。街は復興した。元通りではないが、神戸はそれなりに活況を取り戻した。

しかしそれも「神からのコマンド」がうまくいってゲームが順調に運んでいるだけなんじゃないか。神の手のひらで遊ばされてるのだろう、きっと。そしてまたいつかとんでもない「神からのコマンド」が発生するかもしれない、と思うと少しだけ恐ろしくなってくるのである。




2008年9月21日日曜日

運転



車の運転をしていると、いろんなことがある。

大学生の時の話。朝、駐車場に行くと車のフロントガラスが割れていた。なんとも悪質なイタズラだ。

とりあえずガラスの破片を拾いまくる。車のガラスが割れた経験のある方ならわかると思うが、車のガラスは普通のガラスとはかなり違う。

ひとことでいえば破片が小さいのだ。普通のガラスのような10センチ前後の不規則な形で割れるのではなく、文字通り粉々になってしまう。

ただでさえ物を拾いづらい車内、結局ほぼ全部の破片を拾い集めるのに二時間もかかってしまった。

とりあえずこの状態はマズい。世話になってる修理工場に電話をし、その工場まで持っていく、というか運転していくことになった。

当時大阪に住んでおり、工場のある神戸までは阪神高速を使っても一時間近くかかる。いつもなら何てことない距離だが、フロントガラスなしで運転するなんて初めてのことだ。さすがに高速道路は怖い。しょうがないので下道(一般道)で行くことにする。

しかしそれでも怖い。とくに鳥が低空飛行で飛んできた時の怖さは形容しがたい。

不思議なことに原チャリなら別段怖くはない。それが「フロントガラスのない車」だと怖くてたまらない。

渋滞もあって、三時間ぐらい、つまりいつもの1.5倍ぐらいかかったろうか。何とか無事、修理工場までたどり着いた。

ガラスをはめてもらう前にもう一度ガラスの破片を掃除機で吸い出してもらった。自分が拾い集めたのと同じぐらいの量の破片が見つかった。

そうだよ、掃除機で吸い出せばよかったんだよ。家から駐車場まで、いくら目の前とはいえそんな長い延長コードなんて持ってなかったけど。

27歳ぐらいの時の話。車が急に必要になった。レンタカーというわけにもいかず、久しぶりに車を買うことにした。

そうはいってもいい車はいらない。乗れれば十分、ということで、諸経費込みで一番安い軽の乗用車を買った。

総額15万円。安い。安すぎる。値段相応のポンコツだったが、動けば何でもよかった。

そのポンコツで東京-神戸間を往復しようとしたのが間違いだった。

行き、つまり神戸から東京へ向かう道中は順調そのものだった。

ところが帰り、名古屋をすぎたあたりからだろうか、突然車の調子がおかしくなった。

この状態で名神高速を走るのは怖いので、名阪国道を使うことにした。

やっぱり調子が悪い。アクセルを踏んでもスピードが出ない。それよりヘッドライトが何だか暗い。ただでさえ暗いことで有名な名阪国道だ。これは怖すぎる。

とりあえずガソリンスタンドに入った。少し調べてもらうとバッテリが空に近いという。

あれだ、つまりダイナモがイカれたのだ。ダイナモというのは発電装置みたいなもんで、ガソリンを電気に換えてくれる。電気はヘッドライトはもちろんパワステやエアコン、カーステなど、車のあらゆるところで必要になる。電気がないと車はまともに走ってくれなくなる。

しょうがない。バッテリを充電してもらう。この間約一時間。

そして一時間ほど走る。バッテリが弱ってくる。またガソリンスタンドに入って充電。これを繰り返した。

途中、全然ガソリンスタンドがない区間があって、あのときほど肝を冷やしたことはない。

あ~あ、こんなことならJAFに入っとくんだった。

ポンコツ軽で東京なんか行くんじゃなかった。

それよりもっと奮発して、まともな車を買えばよかった。

後悔先に立たずである。

車はきちんと整備してナンボである。とくに自分のような車オタクでない人間はそれを痛感する。

いや、そんなことより、痛切に感じておきながら、何度も同じ失敗をする自分の頭の中を整備する方が先かもしれない。




2008年9月20日土曜日



酒を飲める人はエラいと思っているようなところがある。

飲んで飲めないことはない。御返杯ぐらいなら大丈夫だし、特定の種類のアルコール、たとえばウォッカとかなら2、3杯はいける。

でもそれだけだ。だいいち気持ちよくならない。気分の昂揚もあるにはあるが、ほんの一瞬で終わってしまう。飲んでいる間、ほとんどの時間は気持ちが悪い。

記憶がなくなったためしがない。その前に気分が悪くなって嘔吐してしまう。

酔っぱらって女性に告白したり、なんてのもやったことがない。

その上金もかかる。酒飲みでないから、乾き物だとアテにならない。だからおかずっぽいものをアテにしてしまう。酒が進まない分、箸は進む。腹はふくれるが、結局は吐いてしまう。支払いもかさんでしまう。これ以上の無駄遣いはない。

まったく何のために酒を飲んでいるのかわからない。いつも、これなら喫茶店でコーヒーでも飲んでいた方がマシだと思ってしまう。

ところがまわりを見回すと、実に楽しそうに、皆酒を酌み交わしている。何がそんなに楽しいのだろう。自分には苦痛なだけなのに。

こんなんだから飲み会とか大嫌いだ。とくに会社の飲み会なんて最悪だ。こっちは酒なんかおごってもらっても少しもうれしくないんだよ。ましてや割り勘とか、もっと酷くなると会社の下の子を連れて行って、勘定はこっち持ちなんて地獄じゃないか。

それでもやっぱり、酒を飲める人はいいな、と思ってしまう。自分にとっては苦行でしかない時間が、至福の時間になるわけだから。エラいな、と。いやエラいか?

これでも未成年の時までは、わりと普通に飲めた。まったく自慢することじゃないが。

血族に特別アルコールに弱い人間がいるわけじゃないし、今ここまで弱くなったのは、あの日が原因としか考えられない。

大学に入学してサークルなんかに入ると、必ず新入生歓迎コンパなるものが催される。

それはいいのだが、一発芸みたいなものを要求されるのは閉口した。それを何とかクリアしてホッとしていると、新入生早飲み大会なるものが始まった。

早飲みとはもちろん酒である。それも日本酒。

こういう行事は、数年前急性アルコール中毒で倒れる、最悪の場合死に至ることもあって問題になったから、今でも行われているかどうか定かではないが、当時は当たり前のように行われていた。

要するに新入生の男子のみで、一気飲みをさせるのである。

当時の自分はさほどアルコールにたいする拒否反応がなかったから、日本酒コップ一杯ぐらいわけなかった。

しかし罠はここからである。

「うーん、どっちが早かったかな。もう一回やってみよう」と、再度一気飲みが始まる。

一度や二度ではない。結局10杯は飲まされただろうか。

それでもそこまで堪えず、その後も、わりと普通に先輩たちと談笑していた。

ところが、突然のように、猛烈な吐き気がおそってきた。

トイレに行こうと思うのだが、足下がフラついてまともに歩けない。

ボロボロになりながら、トイレにたどりつくと、神でも宿ったかのように、出るわ出るわ。

その後の記憶はおぼろだ。たしか先輩の車で家まで連れて帰ってもらい、死んだように眠った。この時点でまだ夕方だったが、目が覚めた時には翌日の午後になっていた。

これ以降、急速にアルコールにたいして恐怖心が芽生えるようになった。さらにこの年の秋、学祭でビールと日本酒、その他もろもろのチャンポンを飲まされたことが決定打になって、とうとうほとんど飲めなくなってしまった。

半分は精神的な問題だと思う。酒を飲むイコール気分が悪くなる、という図式が自分の中に染み着いてしまっている。

でも、どうしても、というシチュエーションになったら飲めるのだから、先天的に弱いわけじゃなんだろうな、とも思う。

だからといって、もう今更克服しようという気もない。一時期ひとりでいる時に、自分のペースで飲めるようになろうとチャレンジしたことがあったけど、それも頓挫した。

まぁいい。損かもしれないけど、その分他に楽しみをみつければいいや、と思えるようになった。そして酒を飲むよりも「酔える」ことも見つかった。

酔えればいいんだよ、酒なんか飲まなくても。酒の力がないと酔えないなんて悲しいねぇ!と負け惜しみをひとりごちたりするのである。




2008年9月19日金曜日

パチンコ



ギャンブルはしない。といっても真面目とか堅物とかとは一切関係がない。ただ単に興味がないだけだ。

但し競馬だけはちょっとおもしろいかな、と思っている。でも実際には馬券を買うわけでもテレビ中継を見るわけでもない。

そんな中、別格のギャンブルがある。もちろん悪い意味での別格である。正確にはギャンブルと呼べるかどうかわからないが、とにかくパチンコは好きでない。

すんごい正直にいえばパチンコをやる人自体、あまり好きでない。険悪になるに決まっているので口のは出さないけれど。

しかしだ、これだけ好きでないのに、どうもパチンコには縁がある。

数年前、とある会社にて、パチンコ店のチラシを約三年に渡ってデザインしていた。パチンコ業界というのは不景気に強いようで、次から次へと仕事が増えていった。

地域でいえば神戸・大阪と関東で、ここらへんに住んでいた方は自分の作った折り込みチラシを見ておられたのかもしれない。

とにかく毎日毎日おびただしい数のチラシを作っていた。そんなんだから自然とパチンコには詳しくなる。

「お、海物語の新機種がでるのか」

「このメーカー、ホント羽根物にこだわるよなぁ」

「あそこのメーカー、スロットはいいのにパチンコになるとダメだな」

そんなフレーズがポンポン出てくる。

東京は上野にある各メーカーのショールームとか毎週のように通っていたし、幕張でやったパチンコの見本市みたいなのもいった。

この見本市、やたらと派手なもので、自分をフューチャーした台が出ている芸能人なんかもいっぱい来ていた。

こんなんだからパチンコ店の店長なんかとも仲良くしゃべるし、ルールや規制についてだって、その辺の素人より知っている。

でも、それでも、自分はパチンコをやらなかった。

会社の人にも、それこそ毎日のように誘われた。上司からは「実地研修だと思え」とさえいわれた。それでも行かなかった。

たしかにパチンコという遊技自体、いいイメージがなかったのはたしかだが、それ以前に、自分の中で「パチンコはもう終わった」と思っていたことが大きい。

小学校低学年ぐらいまで、親戚に連れられてよくパチンコ屋にいっていた。

ただ見てるだけではつまらないので、少し玉を分けてもらい、自分でも打ってみる。

おもしろい。そして難しい。なかなかチューリップの中に入ってくれない。

そのうち親戚から小銭をもらい、自分で玉を買い、打つようになった。もちろん子供がパチンコに興じるのは、厳密にいえばアウトだが、時代的にも店的にもおおらかで、誰も気にとめなかった。

一度、恐ろしいほど馬鹿勝ちをしたことがあった。まぁせいぜい一万円ぐらいだが、子供にとって一万円は大金である。

子供の自分は何を思ったのか、全部ガムに換えた。十箱以上はあっただろうか。別にガムが好きでもなかったのに、何故そんなことをしたのか、まったく理解に苦しむが。

たしかそのガムは全部食べきれず(当たり前だ)、処分したと思う。

こんな子供時代をすごしておきながら、大人になってからはパチンコには興味が持てなかった。いや、大人になる前、小学校高学年ぐらいから興味がなくなっていた。

自分が子供の頃のパチンコといえば、レバーを指で弾くものだった。それが少しずつ、電動式の台が出回りだし、あっという間に電動式の方が主流になってしまった。ちょうど過渡期だったのだろう。

初めて電動式で遊んだ時の感覚は未だに忘れない。

「こんなんつまらない・・・・」

レバーを指で弾く、というのは、どれだけ同じ力加減のつもりでも、やっぱりズレが生じる。そこがおもしろかった。しかし電動式の場合、一度頃加減でレバーを固定すれば、まったく同じ弾道で玉が飛んでいく。

まだ規制もゆるく、みんな十円玉かなんかでレバーを固定して、あとはたばこを吸いながら台を眺めている。

何か電動式の台が出回ってからが、ゲームとしての面白さは半減してしまい、パチンコが正真正銘のギャンブルになった瞬間のような気がする。

だから自分にとって、パチンコはもう「終わったゲーム」でしかないのだ。そして今のパチンコ台がいくら進化して、でっかいディスプレイをつけて、派手なリーチ予告があったとしても、何だか退化しているような気がしてならないのである。




2008年9月18日木曜日

ひとり旅



小学生の頃、藤子不二雄A氏の「フータくん」という漫画にハマりにハマった。

内容はというと、小学生ぐらいの少年ながら、家族を持たず学校へも行かず、今様にいうならバガヴォンドとでもいうのか、まさに足の向くまま気の向くまま、気楽な旅をしている、そんな少年を主人公にした漫画だった。

面白い、というよりも、あこがれた、といった方がいいかもしれない。大人になってからも何度も読み直したが、もちろん面白いことには違いないのだが、やっぱり主人公であるフータくんの姿は何度見てもいい。

だからか、未だに「ひとり旅」という言葉にあこがれているフシがある。ひとり旅なんてとんでもなく寂しいみたいだが、自分にとってはそうではない。誰に気兼ねすることもなく、足の向くまま気の向くまま、まさにフータくんのような旅ができるかと思うだけでゾクゾクしてくる。

そういや子供の頃「もしこのままひとり旅に出るなら」という体で、ヒマさえあればリュックの中を引っかき回していた記憶がある。好きな漫画、好きなカセットテープ、ゲーム&ウォッチ・ダブルスクリーンのドンキーコング、といった遊びの道具はもちろん、とっておきの、2099年までのカレンダーが表示できる、カシオの高機能電卓なんかも詰めてある。

さらにはもし怪我をしたらどうするのか、と考え、当時日本では入手が困難だったタイガーバームを根こそぎ他の容器に移して、それがバレて、こってり絞られた記憶もある。

あの頃、リュックこそ自分にとっての、フータくんの持っているズタバッグであり、ドラえもんでいうところの四次元ポケットであった。もっともこっちは自分でアンコを詰めるのだけれども。

じゃあ実際どこに「旅」に行くか、だが、たかが小学生だからお金もないし、やっぱりちょっと怖いし、せいぜい電車に乗り継いで、神戸から大阪難波ぐらいが関の山である。どうも難波より南は大人とでさえ行ったことがなかったからか、完全に未知の世界であった。

昭和54年、小学五年の時の話だ。ついにこの禁は破られる。

この年、近鉄が初めてリーグ優勝するチャンスを迎えていた。自分は別に近鉄ファンでも何でもなかったが、藤井寺球場で行われる試合で優勝が決まる、とわかるといてもたってもいられなくなった。

この日は土曜日で、いつもなら母親が昼食として焼きそばか何かをつくってくれるのだが、何故か母親は出かけており、学校から帰るとどっかで買ってきた、パックに入ったお好み焼きが置いてあった。

よし、このお好み焼きをお弁当にして藤井寺球場に行こう。幸いお小遣いはまだ残っている。何とかなるぞ、と意気込んで、自慢のリュックにお好み焼きを詰め込んだ。

足取りは軽かった。はじめてのひとり旅である。背中のリュックを実際に持ち出したのも初めてだ。中身はさんざん練り込んだものばかり。どんなことがおこっても大丈夫だ。時間を潰すことも、怪我をしても何とかなる。たとえこの旅が二十一世紀まで続いたとしても、高機能電卓さえあればいつでも何曜日か知ることができる。

気分は高揚しきっていた。電車の中でも、自分がニヤついているのがわかるぐらいであった。

電車を乗り継ぎ、未知の土地である天王寺に着いた。ところが近鉄あべの橋駅ではあちこちにこんな張り紙がしてあった。

「本日の藤井寺球場で行われる近鉄の試合は入場券がすべて売り切れました」

自分は入場券なんて持っていない。つまり今から球場に行っても入れない、ということに他ならない。

いきなり冷や水を掛けられてしまった。もう目的がなくなった。どうしよう・・・。

とはいえ、あんだけ浮かれまくった、初めてのひとり旅だ。このまま帰るわけにはいかない。なにしろ二十一世紀になっても旅を続けられる準備をしてきたのだ。たかだか二時間ちょいで帰ってたまるか!

とりあえず、本当にとりあえず、目の前にあった天王寺公園で、家から持ってきたお好み焼きを食べることにした。もう14時をまわっている。腹が減ってるなら、まず食えばいい。そして後のことは食後に考えよう。

この天王寺公園、今は様々な事情があると思われ有料になっているが、当時は無料で誰でも入れた。ただしかなり浮浪者も多かったと思うが、まぁそういう人は三宮で見慣れているので、そこまで抵抗はない。

ベンチに腰を下ろした。リュックを広げて弁当であるお好み焼きを取り出す。

しかしそれはお好み焼きといえるのだろうか。どう見ても黒いカタマリにしか見えない。

冷めたお好み焼きほどマズいものはない。だから出発前、電子レンジでお好み焼きをこれでもか、と親の敵のように熱した。もう燃えるんじゃないかと思えるほど熱した。

家を出てからすでに二時間は経っている。当たり前だがどれだけチンチンに熱くしようが、二時間も経てば冷めるに決まっている。

しかも熱しすぎたせいで、お好み焼きはおぞましい姿に変わり果てていた。

とはいえこの物体がお好み焼きであったことは間違いないし、腹も減ってる。食って食えないことはないだろうと口に入れてみた。

食って、食って、食って・・・・・食えない・・・・こんなもん食えるか!

堅い。とにかく堅い。しかもおそろしく臭い。とてもじゃないが人間の食う代物ではない。

何か知らんが一時の情熱に突き動かされて、天王寺なんてとこまでやってきてしまった。が、よくよく考えたら、すでに何の目的もない。もしあるとするなら、このお好み焼きを食うことだけだ!

吐きそうになった。でも我慢した。気持ち悪くなった。それでも我慢した。食いきった。というか口の中に押し込んだ。

・・・どんどんむなしくなってきた。何でこんなところで、死ぬほどマズいお好み焼きを食っているんだろう。さっきまでの、ひとり旅にたいする、燃えさかるような情熱はお好み焼きの如く冷め切っていた。

帰ろう。ひとり旅?なんだそれ?だいたい目的がないんだから帰るのは当たり前じゃないか。

極端に乗り物酔いしやすい自分のことだ。もしかしたら途中で全部嘔吐してしまうかもしれない。でも、もう、帰るしかないんだ。

家に着いた。着くなり便所に駆け込んだのはいうまでもない。

そしてこの日、ご自慢のリュックのチャックを開けたのは、お好み焼きを取り出した、たった一度だけであったことも書き添えておく。




2008年9月17日水曜日

雑巾猫



猫は嫌いじゃない。というか好きだ。

昔は断然犬派だった。実家では犬ばかり飼っていたということもある。しかしとあるきっかけで猫を飼うようになってからは猫派になってしまった。

もちろん犬も好きだけど、今の時代、都心部で犬を飼うというのは並大抵のことではない。やはりある程度の広さのある一軒家で、大家族(最低でも5人以上)でないと難しい。そうでないと旅行はおろか散歩もままならない。

その点猫は楽だ。散歩の必要もないし、よほど小さいか老描か、病気でもしていない限り、一泊二泊程度なら旅行にだって行ける。引っ越せない、というかもしれないが、これまたよほど子猫か老描じゃなければ案外大丈夫だったりする。

もちろん飼いやすいから猫が好きなわけじゃない。

猫は気ままというが、そこがいい。犬は人間の顔色を伺う。それがいいところでもあるんだけど、猫はそんなことはしない。こっちが落ち込んでようが、うれしい時であろうが、いつもと同じように振る舞ってくれる。

人間というのは、自分にとって都合のいいものはいつまでも変わらないままでいてほしいという願望があると思う。たとえば遠く離れた故郷が、変に発展してほしくない、とか。他人にたいしてもそうで、久しぶりに会った友人があまり変わっていなかったりすると、何となくうれしいもんだ。

猫は日常のそれを引き受けてくれる。どんな時も、何も変わらない。落ち込んでる時にはホッとするし、浮かれている時には、いい具合に歯止めをかけてくれる。

まぁ能書きをいくら書いても意味ないんだけどね。結局はかわいいから飼いたいと思うわけで。

これだけ書いておいて何だが、今は猫は飼っていない。しかしかつては、もちろん飼っていた。

もう大学を出た頃だったろうか、友人が子猫の引き取り手に困っている、という話を聞きつけ、もらって帰ることにした。

とはいっても元は野良猫だったようで、おなかの中に虫を飼っていた。

ここから少し汚いというか気持ち悪い話になるので、苦手な人は読み飛ばしてほしい。

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その猫、おしりから常に虫が出ていた。太さといい、色といい、ちょうどきしめんのような感じの虫だった。これがいくらでも出てくる。いっかい思い切って引っ張ってみたのだが、一メートルぐらい引っ張り出したところで切れてしまった。

病院に連れて行くと、この蟯虫、数メートルほどの長さがあるらしいのがわかった。なんでこんな蟯虫がおなかの中にいるのか。

それはおそらくカエルでも食べたんでしょうね、とドクターがおっしゃる。そんなもん食うなよ。まったく子猫の時分は何を口に入れるかわかったもんじゃない。

この件は、虫下しを飲ませることで解決した。

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さてこの猫、そろそろ避妊手術をした方がいいかな、と思った頃、逃げて行方不明になってしまった。

三ヶ月ほど経った頃、近所の子供が猫をいじめている。浦島太郎のような光景だが、どうも逃げた猫に似ている。

ただし三ヶ月の苦労のせいか、やたらに汚い。とはいえしっぽの長さといい、顔立ちといいそっくりだ。

あわてて連れて帰って、怪我をしていたので病院に連れていくと、驚くべきことが判明した。

「前に連れてきた猫ちゃんと違いますね。これ、オスですよ」

えええええ?逃げた猫はメスだった。助けた猫はオス。つまりは人違い、いや猫違いということか。

オスかメスかぐらいちゃんと確認しなかったのが悪いし、それにこの模様は汚すぎる。逃げた猫はもっとふつうの茶虎だった。いくら苦労してもこんなに汚い模様になるはずもない。

どうしよう・・・・。しかしだ、いくら猫違い、それも驚くほど汚い雑巾猫だからといって、捨ててしまうのはどうか・・・・。

悩んだ末、この雑巾猫を飼うことにした。

ところがこの猫、驚くほど賢かった。トイレもすぐにおぼえたし、餌の場所が少々変わっても平気。ひとりで2日ほどほっておいても大丈夫だし、何度か引っ越したが、転居先でもふつうに暮らしてる。

よく鳴き、よく遊び、さみしくなるとあまえてくる。

こうなってくると模様が汚いとか関係なくなってくる。

ものすごくかわいがったし、悪いことした時にはキツく怒ったりもした。とにかく自分の中でかかせない存在になっていった。

数年経った。とある事情で猫が飼えなくなってしまった。もう本当に断腸の思いで、猫を実家に預けることにした。

しばらく待っててな。また一緒にいれるようにするから・・・。

それから二年後だろうか。ようやく猫を飼えるようになった。当然引き取ろうとしたが、母親は

「年老いて、引っ越しは無理じゃないか」といいだした。

たしかに以前の元気な時とは全然違う。足下もおぼつかなくなってるし、目もあまり見えてないように感じた。

そっか・・・、無理か・・・・。残念だけど、この猫にとって一番いい状態をキープしてやることの方が大事だ。人間のわがままを通すべきじゃない。あきらめよう。

さらに一年が経った。久しぶりに実家に連絡を入れると、雑巾猫はひと月ほど前に死んだという。

涙は不思議とでなかった。でもいてもたってもいられなくなった。

翌日、無理を押して、遺骨を預けている霊園に行くことにした。

何を思ったか、自分は骨壺を持って帰ってしまった。おかしいのはわかっている。でも、どうしても手元においておきたかったのだ。

ごめんな、ややこしいことばっかりして。でもな、そっちはどうかわらないけど、自分はあんたといれた時間、本当に楽しかったよ。

現在。猫じゃなくて汚れた雑巾を見るたびにあの猫を思い出すし、遺骨と写真は部屋の一番目立つところにかざってある。




2008年9月16日火曜日

タオル



世の中には潔癖性とまでいかなくても、プチ潔癖性の人は結構いる。

そういうことからはほど遠い自分からすると、結構鬱陶しい。もちろん遠巻きに見ている分にはいいのだが、そういう人は他人にもプチ潔癖を強要したがるから困ってしまう。もちろんそうでない人もいるんだけど。

気持ちはわからんでもないが、こっちにもこっちの基準があるわけだし、できれば強要はやめてほしいし、否潔癖な人間としては身構えるというか、遠慮が多くなってしまう。

もし今後、親しい間柄になると予想される人にプチ潔癖の可能性があったとすれば、そういう時はこう質問してみればいい。

「バスタオルは毎日変えますか」

以前なんかのテレビ番組でもいってたけど、バスタオルというのは使い方が難しい。

他のタオルならまず一日も使えば洗濯するけど、バスタオルを一回使っただけで洗濯するのは、何となくもったいない気がしてしまう。

別に汚れているわけでも臭うわけでもない。きれいに洗った身体を拭くだけ。もちろんきれいではないけど、つい2、3日ぐらい使ってしまう。

もし当たり前みたいな顔で「ええ、毎日変えますよ」と答えたら、その人はまずプチ潔癖性だ。

まぁそれでも汚いよりキレイな方がいいわけで、極端に汚いのはやっぱりマズい。いや、実際には汚くなくても、それはマズいんじゃないの、オレにはできないよってことも多々ある。

大学時代、よくお世話になった先輩がいた。少々頭が固いところもあるが面倒見がよく、金欠の時にはメシをごちそうになったこともある。

ごちそうになるといっても、料理が趣味の先輩だから、手料理である。べらぼうに旨いわけでもないが、ちゃんとした味だし、量も多くて、その点でも助かった。

先輩の部屋はいつも整頓されていた。今は使っている人はほとんどいないだろうけど、当時はカセットテープの時代で、これが結構整理に困るのだが、先輩は実に細かいインデックスをつくり、キレイに順番に並べていた。

潔癖性とまではいかないが、キレイ好きな人、という印象だった。

それがとんでもない噂が出回り、先輩の信用が一気に落ちることになる。

とんでもない噂、それは「どうも身体を拭くタオルと、食器を拭くタオルを兼用しているらしい」という噂であった。

先輩に問いただすと、何の否定もしなかった。それどころか、それの何が悪い、全然不潔じゃないじゃないか、と居直った。

彼の主張はこうだ。

洗濯したタオルはまず食器を拭くのに使う。そしてその後、身体を拭くために、バスタオル代わりに使う。そしてそれを洗濯し、また食器拭きに使う。これで何が汚いというのだ、と。

たしかに洗濯したてのタオルならキレイかもしれない。でもそれを身体を拭くタオルと兼用するのは、どうにも心理的に抵抗がある。いくらキレイでもキレイとは言いづらい壁を感じてしまう。

何というか、トイレの水を飲め、に近いものを感じてしまう。もちろんタンクをピカピカにしている前提で、水が便器に触れる前なら、おそらく汚いことは一切ないはずだ。

それでもやっぱり無理だ。心理的な壁が邪魔をしてしまう。

それと同じで、いくら先輩がこのタオルはキレイだ、と主張したところで、その壁は簡単には壊れない。

それ以来、自分はその先輩の家でメシをごちそうになるのを一切やめた。自分だけじゃなくて、他の後輩も彼の家に行くのをためらうようになった。

これはある意味、不潔よりタチが悪いんじゃないかと思う。不潔はある程度矯正することはできるけど、深層心理はそう簡単には変わらないんだから。




2008年9月15日月曜日

アイちゃん



ファッショナブルタウン・神戸、なんていわれると、思わず笑ってしまう。

18歳まで、1968年から1986年まで神戸ですごした人間からいわせれば、神戸のどこがファッショナブルタウンなんだろ思ってしまう。

なるほど百万ドルの夜景はあるし、ハーバーランドあたりはデートにはもってこいだ。

しかし夜景といっても、ただ山と市街地が近いだけの話だし、ハーバーランドもただの人工的な無機質極まる街としか見えない。

自分の記憶にある神戸は震災とともに崩壊した。むろん震災がなかったとしても、神戸市自身がオシャレな街へと変貌を遂げるべく努力していたのだから、総入れ替えになるのは時間の問題だった。

自分のもつ神戸、とくに最大の繁華街のある三宮のイメージは「小便臭い街」である。

形容ではなく、本当に小便臭かった。ポートピア'81が開催された頃、たしか立ち小便を禁止する条例か何かがでたはずだ。それぐらい街中にアンモニアの臭いが立ちこめていた。

1970年代までの神戸はどこか戦後を引きずっているような部分があった。

もうだいぶ変わってしまったが、JR元町駅から神戸駅の高架下にある商店の数々は、いかがわしい商品の宝庫であった。といってもエロだけには限らない。

謎の使用済みのカセットテープから、いったいどこの会社が製造しているのか、本当に最近つくられたのかわからない、とんでもなく時代錯誤な洋服。はては一円の価値もなさそうな、ゴミ捨て場におかれてそうなコップまで、とにかくありとあらゆるものが置いてあった。

自分は高架下を歩くのが大好きだった。もちろん怖いのは怖いのだが、それでも、何かとんでもない世界に入っていく、そんな感覚を味わいたくてつい行ってしまう。「没落を淫する」とでもいうのか、とにかくあの感覚は忘れられない。

いや、高架下に限らず、1970年代までの三宮は、もっと怪しい雰囲気を持っていた。たとえば元町にある中華街(自分たちは南京街と呼んでいた)は、今のように観光客があふれておらず、日曜でも閑散としていて、何か近寄りがたい雰囲気が充満していた。

それでも祖父の家が三宮駅から徒歩10分ぐらいのところにあった関係もあって、小学校に入る前の段階で、“ひとり”で三宮の街を闊歩していた。

昼日中でも薄暗い路地や地下街が多かったのだが、臆することなくひとりで歩き回った。怖いものすらずだったからこそできたのかもしれない。

それでも、どうにも怖い場所もあった。

当時の三宮はまだ浮浪者も多くて、とくに阪急三宮から春日野道の間の高架下に寝床がいっぱいあった。

怖いのだが、この高架下をくぐらないと繁華街の方まではいけない。だから毎回勇気を振り絞るしかなかった。

ただ、子供心に、ひとりだけ気になる浮浪者がいた。

彼女は、いや彼女といっていいのか、とにかく見た目はおばあさんなのだが、なんとオカマだという。

亡くなった祖母の話によると、何でも昭和20年代からいるらしく、たしかみんなから「アイちゃん」と呼ばれていた(違うかもしれないけど、とにかくそんな名前だった)。

独特の風貌であり、しかも明るい。近所の人からもわりと親しまれていたのではないか。愛称で呼ばれていたことからもそれはうかがえる。

自分が見る限り、アイちゃんはとにかく誰かと話していた。同じ浮浪者仲間だったり、近所の人であったり。ただし声が小さいのでよく聞き取れない。

一度でいいからアイちゃんと話がしてみたいと思っていた。向こうも子供なんか相手にすまいが、もし仮にそういうチャンスがあったとしても、おそらく怖くてできなかったと思う。

なんだかんだしているうちに、アイちゃんを見かけなくなった。ちょうどポートピア'81の頃だったか。その頃から急速に浮浪者もいなくなり、街のイメージも変わりつつあった。

神戸市はやたら観光に力を入れだした。閑古鳥が鳴いていた南京町はリトル中華街風になったし、ずっと後の話だが、神戸駅の南口を大規模開発してハーバーランドなるものをつくった。

そんな自称ファッショナブルタウンに浮浪者は不必要なものだったのだろう。

しかし自分は、あの頃の三宮が懐かしい。猥雑で汚くて小便臭くて、浮浪者が街の人と気軽に話せる。でももうそんな三宮はどこにもない。

アイちゃんはどこに行ったのだろう。変わりゆく三宮に見切りをつけたのか、それとも病気にでもなったのか。

あの時点の年齢からいって、二十一世紀の今、この世にいるとは考えずらい。それにしても今になってみると、本当にアイちゃんと話をしておくべきだったと思う。オカマにして浮浪者、いったいそこにたどり着くまでに、どれだけ数奇なことがあったのだろう。そして変化していく神戸をいったいどんな目で見ていたのだろう。