昔、知り合いがケーキ屋でバイトをしていました。
そこのケーキは、あまりケーキが好きではない自分が食べても美味しい、非常にレベルの高い店だったんですね。
ところがバイトをしている知り合いに聞いて驚いた。そこの店長というか、経営者というか、職人というか、とにかく当のケーキを作ってる人は、アタシと同じくあんまりケーキが好きでないらしい。
これは大変なアドバンテージだと思ったんです。もちろんいい意味で。
自分が好きで好きで仕方がない物をつくる、といったことを生業にする。それは一見とても幸せなことですが、当人にとっては幸せでも、周囲の人も幸せとは必ずしもならない。
ケーキ屋の例が一番わかりやすいです。
もしケーキが好きで好きで、みたいな人だと、どうしても自分で作ったものにたいして点数が甘くなると思うのです。だってそんだけ好きなんだから、おそらくケーキでさえあれば何を食べても美味しいと思えるはずです。
が、あんまり好きでない物を作るとなると、どうしても点数が辛くなる。そりゃ味見を繰り返さなきゃいけないんだから本人は苦痛でしょうが、ケーキが好きではない自分が食べても美味しいと思えるものを作るというのは、つまりハードルを相当上げた状態なわけです。
要するに「繁盛できるレベルの味に達しやすい」とでもいうか。
好きな物を作って生業にしたい、とか絶対やめておいた方がいい。趣味の範疇で留めるのが無難です。もし「商売になるなら嫌いになってもいい」という覚悟があるか、逆に「どんなことがあっても(極端にいえば自分にとって大切な人の生死を分けるようなことがあっても)好きであり続ける自信がある」というなら別だけど。
よく「好きこそ物の上手なれ」といいますが、これは違うと思う。始めるにあたってのとっつきはいいかもしれませんが、好き、というのが最終的に上達の妨げになる。
好きだから修練が苦にならないんじゃない?という考えもあるでしょうが、「苦」がなければ修練が身にならないと思うんですよね。苦しくて苦しくてしょうがないから、それを乗り越えるためには、苦しいとか感じられないほどの技能を身につけるしかないわけで。言い換えれば楽をしたい一心で力をつける、というか。そうやって身につけた技能は強いです。
何もね、苦手なことをできるようになった方がいいとかいってるんじゃないですよ。苦手と好きじゃないは全然違う。でも人には好きじゃないけど得意、得意とまではいかなくても、妙に軽々とこなせてしまえる、なんてもんがあるはずなんです。
全然好きじゃないけど、これしかできないから、でもどうせやるなら自分が満足できる物が作りたい。
そう思えるような仕事につけたのなら、自分のみならず周囲も幸せになると思うんですがね。どうでしょうか。
2011年11月15日火曜日
2011年11月3日木曜日
もっとも難しい笑い
Tiny2として再開してからはあんまり書いてませんが、旧yabuniramiJAPAN時代はずいぶん「笑い」について書いてきました。
「泣かせるのは簡単、文芸物も簡単。でも笑わせるのは一番難しい」とはクレージー映画の監督だった故・古澤憲吾の言葉ですが(ま、古澤憲吾が泣かせる映画とか文芸物が撮れたとは思わないけど)、ただでさえ難しい「笑い」の中で、もっとも難しい笑いとは何か、と。
これはもうはっきりしている。それは「毒の強い笑い」です。
「毒を吐いて笑いをとる」
いったいどこが難しいのでしょうか。
「毒を吐く」ということは、必ず人であったり組織であったり物であったり、なんらかの攻撃対象が存在するわけです。いくら攻撃対象が万人にとって敵視される存在であれ、何らかの配慮がなければ笑いとして成立しない。
例を上げて説明しましょう。
今の政権に不満を持ってる人はおそらく一定数いると思われますが、それを前提にしても、たとえば
「今の内閣は馬鹿ばっか」
これでは100%笑いは生まれません。
悪口と毒舌で笑いを取るのは似て非なるもので、悪口は自分の思ってることをいえばいいだけなんだけど、毒舌で笑いを取るとなると無数の気配りが必要なのです。
まず攻撃対象となる相手が不快感を覚えるようなら、それは毒舌として失格です。相手が思わず苦笑を浮かべるレベルでないといけない。
そして攻撃対象を好意的に眺める人に嫌悪感を持たれちゃいけない。これまた難しい。
それを考えると有吉のあだ名とか、いかに絶妙かわかると思います。有吉は基本的に「本人の前で」いいます。しかし相手は怒らない。それは笑いとして成立するギリギリのラインを保てているからです。
有吉であれ、たけしであれ、古くは上岡龍太郎であれ、いわゆる「毒舌芸人」といわれる人は、ギリギリのラインをよくわかってました。それでも一部のジョークと捉えられない人からはバッシングされたのです。
実はここからが本題です。
毒舌を売りにする芸人ですら、笑いとして成立させているにも関わらずバッシングされる。
これが素人の場合はどうでしょうか。
はっきりいって素人が毒を吐いて笑いを取るなんて不可能なのです。
毒舌芸人は「この人はそういう芸風だ」と認識されてからでないと、いくら芸になっていても成立させるのは難しい。いわば下駄を履いて初めて成り立つものです。
素人はまず「そういう芸風」とはならない。何故なら芸人ではないから。
まして、です。「本人を目の前に毒を吐いて相手が苦笑するネタ、なおかつ絶妙な呼吸で周囲を笑わせる」そんな高等な能力を持った素人は、いない、と言い切っていい。
ところがここを勘違いしている人がたまにいる。
おそらくこういう人は、毒舌を売りにする芸人のファンなのでしょう。だから、つい、真似したくなる。が、能力がないのに真似するもんだから、毒舌でも何でもなく、ただの悪口にしかなってない。
相手がムッとすると(それが正しい反応)、まるで「何でこの人はジョークが理解できないんだ」というような顔をする。
さっきも書いた通り、世の中には一切ジョークを理解できない人間はいます。しかしそれは極少数であり、大抵の人はジョークを理解しようと試みる。それでもジョークと受け取られないのは、もう単に、ジョークになってないんですね。
もう一度いいます。素人に毒舌芸は無理です。その人がどんな芸人が好きだろうと、どんなタイプの笑いが好きだろうと関係ないわけでね。
「泣かせるのは簡単、文芸物も簡単。でも笑わせるのは一番難しい」とはクレージー映画の監督だった故・古澤憲吾の言葉ですが(ま、古澤憲吾が泣かせる映画とか文芸物が撮れたとは思わないけど)、ただでさえ難しい「笑い」の中で、もっとも難しい笑いとは何か、と。
これはもうはっきりしている。それは「毒の強い笑い」です。
「毒を吐いて笑いをとる」
いったいどこが難しいのでしょうか。
「毒を吐く」ということは、必ず人であったり組織であったり物であったり、なんらかの攻撃対象が存在するわけです。いくら攻撃対象が万人にとって敵視される存在であれ、何らかの配慮がなければ笑いとして成立しない。
例を上げて説明しましょう。
今の政権に不満を持ってる人はおそらく一定数いると思われますが、それを前提にしても、たとえば
「今の内閣は馬鹿ばっか」
これでは100%笑いは生まれません。
悪口と毒舌で笑いを取るのは似て非なるもので、悪口は自分の思ってることをいえばいいだけなんだけど、毒舌で笑いを取るとなると無数の気配りが必要なのです。
まず攻撃対象となる相手が不快感を覚えるようなら、それは毒舌として失格です。相手が思わず苦笑を浮かべるレベルでないといけない。
そして攻撃対象を好意的に眺める人に嫌悪感を持たれちゃいけない。これまた難しい。
それを考えると有吉のあだ名とか、いかに絶妙かわかると思います。有吉は基本的に「本人の前で」いいます。しかし相手は怒らない。それは笑いとして成立するギリギリのラインを保てているからです。
有吉であれ、たけしであれ、古くは上岡龍太郎であれ、いわゆる「毒舌芸人」といわれる人は、ギリギリのラインをよくわかってました。それでも一部のジョークと捉えられない人からはバッシングされたのです。
実はここからが本題です。
毒舌を売りにする芸人ですら、笑いとして成立させているにも関わらずバッシングされる。
これが素人の場合はどうでしょうか。
はっきりいって素人が毒を吐いて笑いを取るなんて不可能なのです。
毒舌芸人は「この人はそういう芸風だ」と認識されてからでないと、いくら芸になっていても成立させるのは難しい。いわば下駄を履いて初めて成り立つものです。
素人はまず「そういう芸風」とはならない。何故なら芸人ではないから。
まして、です。「本人を目の前に毒を吐いて相手が苦笑するネタ、なおかつ絶妙な呼吸で周囲を笑わせる」そんな高等な能力を持った素人は、いない、と言い切っていい。
ところがここを勘違いしている人がたまにいる。
おそらくこういう人は、毒舌を売りにする芸人のファンなのでしょう。だから、つい、真似したくなる。が、能力がないのに真似するもんだから、毒舌でも何でもなく、ただの悪口にしかなってない。
相手がムッとすると(それが正しい反応)、まるで「何でこの人はジョークが理解できないんだ」というような顔をする。
さっきも書いた通り、世の中には一切ジョークを理解できない人間はいます。しかしそれは極少数であり、大抵の人はジョークを理解しようと試みる。それでもジョークと受け取られないのは、もう単に、ジョークになってないんですね。
もう一度いいます。素人に毒舌芸は無理です。その人がどんな芸人が好きだろうと、どんなタイプの笑いが好きだろうと関係ないわけでね。
2011年11月2日水曜日
イトニラミジャパンのイトニです
藪似です、てな書き出しなのは理由があります。
もう一度いいますが、藪似です。今年から一軍に昇格した投手コーチの藪さんに似てるのもあって、んで藪似です。
さてさて
今年のドラフト会議で阪神タイガースは慶応大学の外野手であり大学代表の4番を務めた伊藤隼太を一位指名しました。
ネット界隈では、どうもこの伊藤と藪が似てるんじゃないかと話題になっています。
もし伊藤と藪が似てるのであれば、藪似です、のアタシも伊藤に似てるってことになる。
しかしアタシは伊藤みたいな爽やかは微塵もないな。
隼太、といえば、普通に考えればハヤタ隊員となるわけですが、っーことはアタシはウルトラマンでもあるのか。
試みるか、変身
ウルトラジョークはこれくらいにして、今は便利な時代でして、Youtubeで「伊藤隼太」と検索すればいくらでも動画がでてきます、
阪神のスカウトは「桧山タイプ」、他には「金本タイプ」という声が多いようですが、アタシはズバリ、巨人の小笠原タイプではないかと睨んでいます。
いい打者は大抵フォロースルーの後でバットのヘッドが立っているのですが、伊藤はまさにそれで、一番顕著なのは小笠原です。
ただし伊藤の場合、弾丸ライナーを打てる打者で、逆にいえば打球が上がらないタイプに見えます。
甲子園は浜風がありますので、左打者は弾丸ライナーを打てる方が相応しいのですが、それでもホームランはそれほど期待できないかもしれません。
ただ金本は低い弾道で放り込むコツを身につけましたし、掛布も同様。
話は逸れますが、全盛期の掛布は本当に凄かった。引っ張ったホームランは全部弾道ライナー。それがあの広い甲子園の外野席の中段までいくんだから。
さらに凄かったのが、浜風に乗せるが如く、レフトへ高々と打球を上げて、当時はまだあったラッキーゾーンにポトリと落としたんですから。
伊藤もね、打撃自体はいくらでも向上できると思う。今の時点で開きが早いとかいわれてるけど、克服できると思う。
しかし打球の角度はある程度天性のもんですからね。田淵なんかその典型です。
それでも掛布なんかはもちろん、城島もダイエー時代、特殊な練習方法で打球に角度をつけることを習得しました。
別に伊藤をホームランバッターにする必要はないけど、それくらいのポテンシャルはあると思う。それがアタシが数少ない動画を見ての評価でして。
もう一度いいますが、藪似です。今年から一軍に昇格した投手コーチの藪さんに似てるのもあって、んで藪似です。
さてさて
今年のドラフト会議で阪神タイガースは慶応大学の外野手であり大学代表の4番を務めた伊藤隼太を一位指名しました。
ネット界隈では、どうもこの伊藤と藪が似てるんじゃないかと話題になっています。
もし伊藤と藪が似てるのであれば、藪似です、のアタシも伊藤に似てるってことになる。
しかしアタシは伊藤みたいな爽やかは微塵もないな。
隼太、といえば、普通に考えればハヤタ隊員となるわけですが、っーことはアタシはウルトラマンでもあるのか。
試みるか、変身
ウルトラジョークはこれくらいにして、今は便利な時代でして、Youtubeで「伊藤隼太」と検索すればいくらでも動画がでてきます、
阪神のスカウトは「桧山タイプ」、他には「金本タイプ」という声が多いようですが、アタシはズバリ、巨人の小笠原タイプではないかと睨んでいます。
いい打者は大抵フォロースルーの後でバットのヘッドが立っているのですが、伊藤はまさにそれで、一番顕著なのは小笠原です。
ただし伊藤の場合、弾丸ライナーを打てる打者で、逆にいえば打球が上がらないタイプに見えます。
甲子園は浜風がありますので、左打者は弾丸ライナーを打てる方が相応しいのですが、それでもホームランはそれほど期待できないかもしれません。
ただ金本は低い弾道で放り込むコツを身につけましたし、掛布も同様。
話は逸れますが、全盛期の掛布は本当に凄かった。引っ張ったホームランは全部弾道ライナー。それがあの広い甲子園の外野席の中段までいくんだから。
さらに凄かったのが、浜風に乗せるが如く、レフトへ高々と打球を上げて、当時はまだあったラッキーゾーンにポトリと落としたんですから。
伊藤もね、打撃自体はいくらでも向上できると思う。今の時点で開きが早いとかいわれてるけど、克服できると思う。
しかし打球の角度はある程度天性のもんですからね。田淵なんかその典型です。
それでも掛布なんかはもちろん、城島もダイエー時代、特殊な練習方法で打球に角度をつけることを習得しました。
別に伊藤をホームランバッターにする必要はないけど、それくらいのポテンシャルはあると思う。それがアタシが数少ない動画を見ての評価でして。
2011年11月1日火曜日
朝ドラに大推薦したい女優
朝ドラに不向きの女優というものがあると思う。
以前「どんど晴れ」の比嘉愛未がルックス的に朝ドラの主役には向かない、と書きましたが、今の「カーネーション」の尾野真千子もあまり向いてるとは思えないんですね。
色気がないから、まあいいっちゃいいんですが、それでもね、16歳です、といわれると、やっぱり、え?と思っちゃうわけで。
クサしてばっかりなのもアレなので、提案の方もさせていただきたいのですが、ひとり猛烈に朝ドラ主演女優に推したい人がいます。それが大後寿々花でしてね、ええ。
まずNHKらしいほんわかさがあります。
以前松ケンと「セクシーボイスアンドロボ」をやりましたが、原作ではコギャル風で男を手玉に取りそうなキャラだったのに、大後寿々花が演じると妙にほのぼのしてしまって、松ケンと並ぶと「ほんわかカップル」に見えてしまいました。
そしてこの人の最大の特徴は年齢不詳にあります。
実際には8つも年齢が離れている松ケンが相手でも「年の差カップル」には見えないわけで、「グーグーだって猫である」で猫の幽霊というか化身を演じていましたが、これも年齢不詳だからこそ成立するわけです。
見ようによっては、子供にも見えるし、おばちゃんにも見える。むしろ年相応の若い女性に見えづらいのですが、田舎から出てきた女子大生や女子高生ならいけるでしょう。
朝ドラといえば幼少期は子役がやりますが、少女期から中年になるまでひとりで演じれる方がいいわけで、まさにうってつけだといえます。
そして、不思議なんですが、朝ドラの枠内に収まる、微妙な色気を出せると思うのです。いや、そういう役をやってるのを見たことないんですけど、自分でも何でそう思えるのか不思議でして。
いかがでしょう、NHKの方。いや、でもできればAK(東京)ではなくBK(大阪)の制作でお願いしたい。
関西弁喋れるかわかんない(関東出身)けど、これもできそうな気がするんだよな、不思議に、というか無責任だけど。
以前「どんど晴れ」の比嘉愛未がルックス的に朝ドラの主役には向かない、と書きましたが、今の「カーネーション」の尾野真千子もあまり向いてるとは思えないんですね。
色気がないから、まあいいっちゃいいんですが、それでもね、16歳です、といわれると、やっぱり、え?と思っちゃうわけで。
クサしてばっかりなのもアレなので、提案の方もさせていただきたいのですが、ひとり猛烈に朝ドラ主演女優に推したい人がいます。それが大後寿々花でしてね、ええ。
まずNHKらしいほんわかさがあります。
以前松ケンと「セクシーボイスアンドロボ」をやりましたが、原作ではコギャル風で男を手玉に取りそうなキャラだったのに、大後寿々花が演じると妙にほのぼのしてしまって、松ケンと並ぶと「ほんわかカップル」に見えてしまいました。
そしてこの人の最大の特徴は年齢不詳にあります。
実際には8つも年齢が離れている松ケンが相手でも「年の差カップル」には見えないわけで、「グーグーだって猫である」で猫の幽霊というか化身を演じていましたが、これも年齢不詳だからこそ成立するわけです。
見ようによっては、子供にも見えるし、おばちゃんにも見える。むしろ年相応の若い女性に見えづらいのですが、田舎から出てきた女子大生や女子高生ならいけるでしょう。
朝ドラといえば幼少期は子役がやりますが、少女期から中年になるまでひとりで演じれる方がいいわけで、まさにうってつけだといえます。
そして、不思議なんですが、朝ドラの枠内に収まる、微妙な色気を出せると思うのです。いや、そういう役をやってるのを見たことないんですけど、自分でも何でそう思えるのか不思議でして。
いかがでしょう、NHKの方。いや、でもできればAK(東京)ではなくBK(大阪)の制作でお願いしたい。
関西弁喋れるかわかんない(関東出身)けど、これもできそうな気がするんだよな、不思議に、というか無責任だけど。
2011年10月30日日曜日
魔法使いのいない世界
スティーブ・ジョブズが逝去しました。
最近ようやく落ち着いてきた感はありますが、直後は追悼ツイート(ありゃ、駄洒落になってしまった)が溢れてました。
アタシはジョブズがCEOの退任を発表した時にツイートしたのでもう改めて何か書かなくていいと思ってたのですが、やはりこの人には思い入れがある。
ジョブズの人生のハイライトは、初代iMacの発表の時だったんじゃないかと。いや、アタシが勝手に思ってるだけで、同意してくれる人は少ないだろうけど。
かつてアタシはマイコン少年でした、てな話は以前書いたので割愛しますが、それからしばらく完全にパソコンから離れていたんですね。
ところが某社に入社して、何だかわからないうちにDTPなるものを覚えさせられて、当時は、今もですが、DTPといえばMacだったわけで。
しかし当時、もうMacはダメだろ、みたいな空気が支配的でして。
もしかしたらWindowsでDTPをやらなきゃいけないかもしれない、と。
その空気を一変させたのがiMacだったんです。
アタシがいた会社は、G3機は一台もなく、一応「高性能機」で通っていたマシンでさえ、かろうじてレベルのPowerPC。どころか68KMacすら現役で頑張っていたわけです。
そんな中、G3を搭載し、当時としては安価だったiMacは画期的でした。むろんフロッピーすらないマシンを会社で導入する、なんて話は浮上しませんでしたが、もしかしたらMacが蘇るかもしれない、そう強く予感させるには十分でした。
ジョブズはその後も、いや、iMacは序章に過ぎなかったわけで、後々とんでもなくインパクトのある製品を次々に発表していくわけですが、空気を一変させたという意味においてiMac発表時のインパクトは最強だったと思うのですよ。
一度追い出されたAppleに復帰して、しかし返り咲いたAppleは売り上げでも将来性でも地に落ちていました。
実際iMacにはものすごい新技術が搭載されていたわけではない。むしろ古いインターフェイスをバッサリ切り捨てただけ。
ところがそんな目新しさのない中身を、画期的なデザインと、(あくまで当時とすれば)画期的な値段で、とんでもないものに仕立てあげた。
切り口を変えれば、画期的でなくても画期的に「見せる」ことはできる、これは元任天堂の横井軍平氏の「枯れた技術の水平思考」に通ずるものがあります。
ジョブズは「魔法」という言葉にものすごくこだわっていたんじゃないでしょうか。「まるで魔法のようだ」が最高の褒め言葉だったんじゃないかと。
むろん本当の魔法じゃない。今ある技術をもってして、いかに魔法のように見せるか、それに命をかけていた気がします。
おそらくWindowsユーザーは、そしてマイクロソフトや関連メーカーも、最も望んでいるのは高性能や安定性でしょう。
ジョブズに高性能や安定性の志向がないわけじゃない。でもそれだけじゃ気に食わない。
「魔法のような」高性能だったり、「魔法のような」安定性でないとダメなんですね。(この辺は成功したともいえるし失敗したともいえる)
テレビでiPadを使って手品をやる、なんて人を見たことがありますが、ある意味非常にジョブズの志向を具現化した芸ですよね。
ジョブズ亡き後のAppleがどうなるかの話題は尽きませんが、新たなカテゴリの商品を創る際、Appleの幹部に「それはまるで魔法に見えるのか」を基準にすれば大丈夫な気がします。
スティーブ・ジョブズ、あなたにひとつだけ肩書をつけるなら、技術者でもプロダクトデザイナーでもなく、最も相応しいのは「魔法使い」です。
ホンモノの魔法じゃない。でもホンモノの魔法と同じくらい人々に夢を与えたあなたには魔法使い以外の肩書はないと思うのです。
最近ようやく落ち着いてきた感はありますが、直後は追悼ツイート(ありゃ、駄洒落になってしまった)が溢れてました。
アタシはジョブズがCEOの退任を発表した時にツイートしたのでもう改めて何か書かなくていいと思ってたのですが、やはりこの人には思い入れがある。
ジョブズの人生のハイライトは、初代iMacの発表の時だったんじゃないかと。いや、アタシが勝手に思ってるだけで、同意してくれる人は少ないだろうけど。
かつてアタシはマイコン少年でした、てな話は以前書いたので割愛しますが、それからしばらく完全にパソコンから離れていたんですね。
ところが某社に入社して、何だかわからないうちにDTPなるものを覚えさせられて、当時は、今もですが、DTPといえばMacだったわけで。
しかし当時、もうMacはダメだろ、みたいな空気が支配的でして。
もしかしたらWindowsでDTPをやらなきゃいけないかもしれない、と。
その空気を一変させたのがiMacだったんです。
アタシがいた会社は、G3機は一台もなく、一応「高性能機」で通っていたマシンでさえ、かろうじてレベルのPowerPC。どころか68KMacすら現役で頑張っていたわけです。
そんな中、G3を搭載し、当時としては安価だったiMacは画期的でした。むろんフロッピーすらないマシンを会社で導入する、なんて話は浮上しませんでしたが、もしかしたらMacが蘇るかもしれない、そう強く予感させるには十分でした。
ジョブズはその後も、いや、iMacは序章に過ぎなかったわけで、後々とんでもなくインパクトのある製品を次々に発表していくわけですが、空気を一変させたという意味においてiMac発表時のインパクトは最強だったと思うのですよ。
一度追い出されたAppleに復帰して、しかし返り咲いたAppleは売り上げでも将来性でも地に落ちていました。
実際iMacにはものすごい新技術が搭載されていたわけではない。むしろ古いインターフェイスをバッサリ切り捨てただけ。
ところがそんな目新しさのない中身を、画期的なデザインと、(あくまで当時とすれば)画期的な値段で、とんでもないものに仕立てあげた。
切り口を変えれば、画期的でなくても画期的に「見せる」ことはできる、これは元任天堂の横井軍平氏の「枯れた技術の水平思考」に通ずるものがあります。
ジョブズは「魔法」という言葉にものすごくこだわっていたんじゃないでしょうか。「まるで魔法のようだ」が最高の褒め言葉だったんじゃないかと。
むろん本当の魔法じゃない。今ある技術をもってして、いかに魔法のように見せるか、それに命をかけていた気がします。
おそらくWindowsユーザーは、そしてマイクロソフトや関連メーカーも、最も望んでいるのは高性能や安定性でしょう。
ジョブズに高性能や安定性の志向がないわけじゃない。でもそれだけじゃ気に食わない。
「魔法のような」高性能だったり、「魔法のような」安定性でないとダメなんですね。(この辺は成功したともいえるし失敗したともいえる)
テレビでiPadを使って手品をやる、なんて人を見たことがありますが、ある意味非常にジョブズの志向を具現化した芸ですよね。
ジョブズ亡き後のAppleがどうなるかの話題は尽きませんが、新たなカテゴリの商品を創る際、Appleの幹部に「それはまるで魔法に見えるのか」を基準にすれば大丈夫な気がします。
スティーブ・ジョブズ、あなたにひとつだけ肩書をつけるなら、技術者でもプロダクトデザイナーでもなく、最も相応しいのは「魔法使い」です。
ホンモノの魔法じゃない。でもホンモノの魔法と同じくらい人々に夢を与えたあなたには魔法使い以外の肩書はないと思うのです。
2011年10月29日土曜日
大洋がいっぱい巨人が二敗
Youtubeにね、1976年の大洋対阪神戦のラジオ中継がアップされてて。
いやー、これはすごい。1976年といえばちょうどアタシが野球という摩訶不思議なスポーツを見始めた頃でして、そういえば「1976年のプロ野球について徹底的に調べて書きたい」とかいってたんですよね。いまだに実現できていませんが。
さてさて
エントリタイトルはアラン・ドロン主演の映画タイトルのモジリです。こういうダジャレが昔流行ったんですな。
てなわけで、今回は野球の話でも阪神の話ではなく大洋→横浜ベイスターズについて書きます。
まあ何かとタイムリーだし。
先のYoutubeのラジオ中継の試合、4番を打ってるのは松原誠という選手で、2000本安打を打った大打者です。
他にも当時まだ若手で後に首位打者を獲得する長崎や、ライオン丸の愛称で親しまれたシピンなんかがスタメンで出てるのですが、これらの選手は晩年トレードに出されてるのですよ。
この後も、屋敷や高木豊、石井琢郎、波留、多村、佐伯といった中心選手がトレードに出されていますし、谷繁や相川といった捕手、さらに内川がFAで移籍し、今また村田の去就が注目されています。
現役の最後まで同球団に在籍したのは、古くは秋山登や平松、おそらく三浦大輔もそうなるのでしょうが、投手ばかりです。野手となると二年連続で首位打者を獲った鈴木尚典くらいしか思いつきません。
今年筒香が出てきたように、横浜は伝統的に野手は育つのですよ。だから野手の新陳代謝はしやすいとはいえる。
しかし、まあFAはともかく、いくら晩年とはいえ主力野手が片っ端からトレードされるのはどういうわけでしょう。
横浜ファンのブログや某巨大掲示板を見ると「チームのガン探し」に躍起です。たしかに練習態度その他でチームに悪影響を及ぼしている主力選手が絶対いないとはいいません。実際暗黒時代を形成するのはそういう選手です。
しかし「相川がいなくなったから投手力が上がる」とか考えるのは、いくらなんでも、で、相川が入ったヤクルトのチーム力は明らかに安定しましたし。
何でもかんでもフロントのせいにするのもね。まあやたらファミリームードだったといわれる大洋漁業所有時代もアレだし、全然やる気ないくせにやたら首を突っ込んでくるTBSもね。その辺はモバゲーになっても劇的に解消されないと思います。
何というか、ベイスターズの野球、てなもんがないんですよ、伝統的にね。
ずっと投手力が弱く、打線は打つけどやたら大味。それがハマればいいんだけど、ハマったのなんて過去に一年しかない。(1960年の優勝はちょっと違う)
それもこれも主力野手が晩年にトレードに出されるというのが効いてるんじゃないかと。
松原も高木豊も石井琢郎も、いわゆる「うるさ型」だったといいます。つまり少しでもチームをよくしようとしてフロントとやりやった。ところがそんなチーム愛がフロントから煙たがられて放出される。この繰り返しなんですよ。
そんなんだから「過去から学習した」選手はフロントに何もいわなくなるだけならまだしも、チーム全体に興味を示さなくなる。挙句FAでさっさと逃げ出してしまうんです。
何もベテランを重用しろってんじゃないんです。たとえベンチでも、たとえ二軍でも、本当にチーム全体を考えるベテランがいるといないでは大違いですよ。彼らの存在で厳しいムードが形成され、伝統が作られていくんだから。
アタシは横浜ファンは本当に気の毒だなあと思ってます。それは現在横浜在住だからなおさらです。
この先、若手選手の成長といった楽しみはあるでしょう。(この辺は逆に阪神ファンはあんまりない)
でもね、チーム力が劇的に改善される、という可能性は、たとえ親会社が代わろうとも皆無に等しい。ひたすら50年に一度あるかないかの大爆発を待つしかないわけで。これは辛いです。
ひとつだけいえるのは、今年指揮をとった尾花や、過去にも古葉や森といった実務派の人が監督をやりましたが、これは人選ミスです。こういうチームの監督は、権藤のようなイケイケドンドンの人の方が相応しい。
どうせ大味なんだから緻密にやろうとかしたら持ち味を殺すだけ。采配云々ではなく、とにかく楽しく全力でプレーさせる監督の方がいい。
となると野村とか絶対ダメ。候補を上げるならボビー・バレンタインとか。
そういう意味では、名前があがってる新庄なんかかなりいい線だと思うのですがね。
いやー、これはすごい。1976年といえばちょうどアタシが野球という摩訶不思議なスポーツを見始めた頃でして、そういえば「1976年のプロ野球について徹底的に調べて書きたい」とかいってたんですよね。いまだに実現できていませんが。
さてさて
エントリタイトルはアラン・ドロン主演の映画タイトルのモジリです。こういうダジャレが昔流行ったんですな。
てなわけで、今回は野球の話でも阪神の話ではなく大洋→横浜ベイスターズについて書きます。
まあ何かとタイムリーだし。
先のYoutubeのラジオ中継の試合、4番を打ってるのは松原誠という選手で、2000本安打を打った大打者です。
他にも当時まだ若手で後に首位打者を獲得する長崎や、ライオン丸の愛称で親しまれたシピンなんかがスタメンで出てるのですが、これらの選手は晩年トレードに出されてるのですよ。
この後も、屋敷や高木豊、石井琢郎、波留、多村、佐伯といった中心選手がトレードに出されていますし、谷繁や相川といった捕手、さらに内川がFAで移籍し、今また村田の去就が注目されています。
現役の最後まで同球団に在籍したのは、古くは秋山登や平松、おそらく三浦大輔もそうなるのでしょうが、投手ばかりです。野手となると二年連続で首位打者を獲った鈴木尚典くらいしか思いつきません。
今年筒香が出てきたように、横浜は伝統的に野手は育つのですよ。だから野手の新陳代謝はしやすいとはいえる。
しかし、まあFAはともかく、いくら晩年とはいえ主力野手が片っ端からトレードされるのはどういうわけでしょう。
横浜ファンのブログや某巨大掲示板を見ると「チームのガン探し」に躍起です。たしかに練習態度その他でチームに悪影響を及ぼしている主力選手が絶対いないとはいいません。実際暗黒時代を形成するのはそういう選手です。
しかし「相川がいなくなったから投手力が上がる」とか考えるのは、いくらなんでも、で、相川が入ったヤクルトのチーム力は明らかに安定しましたし。
何でもかんでもフロントのせいにするのもね。まあやたらファミリームードだったといわれる大洋漁業所有時代もアレだし、全然やる気ないくせにやたら首を突っ込んでくるTBSもね。その辺はモバゲーになっても劇的に解消されないと思います。
何というか、ベイスターズの野球、てなもんがないんですよ、伝統的にね。
ずっと投手力が弱く、打線は打つけどやたら大味。それがハマればいいんだけど、ハマったのなんて過去に一年しかない。(1960年の優勝はちょっと違う)
それもこれも主力野手が晩年にトレードに出されるというのが効いてるんじゃないかと。
松原も高木豊も石井琢郎も、いわゆる「うるさ型」だったといいます。つまり少しでもチームをよくしようとしてフロントとやりやった。ところがそんなチーム愛がフロントから煙たがられて放出される。この繰り返しなんですよ。
そんなんだから「過去から学習した」選手はフロントに何もいわなくなるだけならまだしも、チーム全体に興味を示さなくなる。挙句FAでさっさと逃げ出してしまうんです。
何もベテランを重用しろってんじゃないんです。たとえベンチでも、たとえ二軍でも、本当にチーム全体を考えるベテランがいるといないでは大違いですよ。彼らの存在で厳しいムードが形成され、伝統が作られていくんだから。
アタシは横浜ファンは本当に気の毒だなあと思ってます。それは現在横浜在住だからなおさらです。
この先、若手選手の成長といった楽しみはあるでしょう。(この辺は逆に阪神ファンはあんまりない)
でもね、チーム力が劇的に改善される、という可能性は、たとえ親会社が代わろうとも皆無に等しい。ひたすら50年に一度あるかないかの大爆発を待つしかないわけで。これは辛いです。
ひとつだけいえるのは、今年指揮をとった尾花や、過去にも古葉や森といった実務派の人が監督をやりましたが、これは人選ミスです。こういうチームの監督は、権藤のようなイケイケドンドンの人の方が相応しい。
どうせ大味なんだから緻密にやろうとかしたら持ち味を殺すだけ。采配云々ではなく、とにかく楽しく全力でプレーさせる監督の方がいい。
となると野村とか絶対ダメ。候補を上げるならボビー・バレンタインとか。
そういう意味では、名前があがってる新庄なんかかなりいい線だと思うのですがね。
2011年10月25日火曜日
ギャグ漫画に最終回は必要か
いやね、もし「ギャグ漫画に最終回はいるのかいらないのか、今すぐ答えないと殺すぞ」と迫られたら、もう「いらない」と答えるしかないのですが、ちゃんと考えたら結構複雑な気がしてね。
最終回とは、つまり大団円的な内容が最後に必要かってことでして。以前「聖おにいさん」について触れたエントリで「ギャグ漫画の場合は無限に続けられる方がベストだと思う」てなことを書きました。
前言撤回するつもりはさらさらない。「聖おにいさん」のような純粋ギャグ漫画なら、間違いなくそうなのです、と思っておるのです。
「天才バカボン」もね、ギャグとしての最終回はあるけど、アニメの第一作のような大団円最終回は存在しない。大団円がないから、時系列関係なく、またいつでも続きを始めることができる。
もしギャグ漫画で大団円的最終回をやるなら、もう「ガキデカ」方式というか、ああいうメタフィクションしかないと思うのですね。
しかしですね
ギャグ漫画として始めたものの、途中で路線が変わった漫画はどうなんだ、となるわけでして。
具体的にいえば「うる星やつら」あたりです。
「うる星やつら」は、元々短期集中連載として描かれ、本格連載になってもしばらくはギャグ漫画志向で進められました。が、長く連載を続けるにしたがってラブコメの要素が強くなっていきます。
完全に想像だけど、作者として結構面倒くさいことだったんじゃないかなあ。
だって、何度もいいますが初期はギャグ漫画だったわけです。つまり話の展開や設定はすべてギャグのために存在したといっても過言ではないわけです。
ところがラブコメとなると話が違う。整合性てもんがある程度必要になる。自らの意思でめちゃくちゃに突散らかしたものをキチンと整理しなきゃいけない。これは面倒ですよ。
初期の設定では将来あたるとしのぶが結婚して「こける」という子供ができることになっていたのですが、もしラブコメになることを想定していたら、こんなネタは絶対やらなかったでしょう。ましてや「こける」なんてフザケタ名前にはしなかったはずです。
もうこれだけで、後先考えずギャグ優先で描いてたと言い切れます。
結局終盤になって「こける問題」←こんな言い方しないけど、も無理矢理収拾をつける話がでてきます。タイムパラドックスといえば聞こえはいいけどね。
ギャグ漫画で整合性をとる、というのはかくも難しいことなんです。「聖おにいさん」みたいに異様に整合性がとりやすい設定ならともかく、つか整合性を考えてたらギャグなんて作れないと思うのですよ。
バカボンのパパなんて何人もの人を殺してると思ってるんですか。あんなの整合性なんてとれるわけないでしょ。
とはいえ「うる星やつら」の場合、やっぱり大団円が必要だったとも思うわけで。面倒だっと思うけどね。
最終回とは、つまり大団円的な内容が最後に必要かってことでして。以前「聖おにいさん」について触れたエントリで「ギャグ漫画の場合は無限に続けられる方がベストだと思う」てなことを書きました。
前言撤回するつもりはさらさらない。「聖おにいさん」のような純粋ギャグ漫画なら、間違いなくそうなのです、と思っておるのです。
「天才バカボン」もね、ギャグとしての最終回はあるけど、アニメの第一作のような大団円最終回は存在しない。大団円がないから、時系列関係なく、またいつでも続きを始めることができる。
もしギャグ漫画で大団円的最終回をやるなら、もう「ガキデカ」方式というか、ああいうメタフィクションしかないと思うのですね。
しかしですね
ギャグ漫画として始めたものの、途中で路線が変わった漫画はどうなんだ、となるわけでして。
具体的にいえば「うる星やつら」あたりです。
「うる星やつら」は、元々短期集中連載として描かれ、本格連載になってもしばらくはギャグ漫画志向で進められました。が、長く連載を続けるにしたがってラブコメの要素が強くなっていきます。
完全に想像だけど、作者として結構面倒くさいことだったんじゃないかなあ。
だって、何度もいいますが初期はギャグ漫画だったわけです。つまり話の展開や設定はすべてギャグのために存在したといっても過言ではないわけです。
ところがラブコメとなると話が違う。整合性てもんがある程度必要になる。自らの意思でめちゃくちゃに突散らかしたものをキチンと整理しなきゃいけない。これは面倒ですよ。
初期の設定では将来あたるとしのぶが結婚して「こける」という子供ができることになっていたのですが、もしラブコメになることを想定していたら、こんなネタは絶対やらなかったでしょう。ましてや「こける」なんてフザケタ名前にはしなかったはずです。
もうこれだけで、後先考えずギャグ優先で描いてたと言い切れます。
結局終盤になって「こける問題」←こんな言い方しないけど、も無理矢理収拾をつける話がでてきます。タイムパラドックスといえば聞こえはいいけどね。
ギャグ漫画で整合性をとる、というのはかくも難しいことなんです。「聖おにいさん」みたいに異様に整合性がとりやすい設定ならともかく、つか整合性を考えてたらギャグなんて作れないと思うのですよ。
バカボンのパパなんて何人もの人を殺してると思ってるんですか。あんなの整合性なんてとれるわけないでしょ。
とはいえ「うる星やつら」の場合、やっぱり大団円が必要だったとも思うわけで。面倒だっと思うけどね。
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