2008年6月24日火曜日

ファッションリーダー



おしゃれなんてもんは資生堂にまかせておけばいいのだが、大人に近づくにつれそうもいかなくなってくる。

高校の頃までロクな私服を持っていなかった。これじゃデートにも行けやしない。ま、そんな男に彼女なんているわけもないのだが。

高校三年の時だったか、見るに見かねたクラスメイトが服を買いに行くのにつき合ってくれた。

とはいえどんなのがいいのか皆目わからない。正直どれも同じに見える。仕方がないのでセレクトは全部友人にやってもらった。

余談だがその年の暮れ、テレビを見ていたら、その時買ったのと同じ服装のプロ野球選手が映っていた。自分より一歳上で、田舎の高校からプロになりたてのあか抜けない選手だったので、うれしくもなんともなかった。ちなみに今その選手は阪神タイガースでコーチをしている。

しかしだ、自分にも一応こだわりというものがあった。

子供の頃から1960年代の映画を浴びるように観た。つまり基準はいつもそこにあった。ああいう服装ならしてみたい。それなりの物を選ぶ自信だってある。

が、いかにも時代が悪かった。1960年代風の服なんてどこにも売っていない。

バブル・・・正確にはバブル前夜のファッションなんて見れたもんじゃなかった。

おニャン子クラブは揃いのトレーナーを着てテレビに出ていた。同じブランドのトレーナーを何故か西川のりおも着ていた。

まったく自分の中にないセンスである。堪えられない。しかし流行っていたのだ間違いなく。

あきらめた。この時代が終わるのを待とう。女性に縁のない高校生はそう堅く心に誓うのであった。

大学に入ると誓いはあっさりと破られる。やっぱりモテた方がいいに決まってる。しょうがない。時代と自分のセンスの妥協点を探ることにした。

いや、時代なんかどうでもよかった。理由は入った大学にある。何しろこの大学、奇抜であればあるほど尊敬されるという特殊な校風だったからだ。

とはいえ狙った奇抜さほどサムいものはない。かといって残念ながらそこまでイカれているわけでもない。またしても道はふさがれた。

ある日大学の先輩の部屋に遊びにいくと「今日ランドセルを拾ったんだけどいらないか」という。ああ、そういえばカバンのひもが切れて困っていたんだ。ちょうどいい、これで大学に通えば。

狂ってるとしかいいようがない。一応20歳にもなろうかという大の男がランドセルを背負って大学に通うのだ。狂気の沙汰とはこのことだ。

それは今だからわかることで、当時は何とも思わなかった。完全に校風に飲まれていたということだろう。

何しろそんな大学だ。ランドセルを背負って歩く男はたちまち話題になった。キャンパスを歩き回っていると「一緒に写真撮らせてくださ~い」と声をかけられる。

挙げ句の果てにはランドセルを真似をする輩まで現れた。それも数名。

いやランドセルだけじゃない。自分の服装のすべてを真似してやがる。

あのな、おまえ等マジで狂ってるぞ。こんなもんがおしゃれなわけないじゃないか。

どういうことだ。高校時代まで友人に服を選んでもらっていた男は、3年も経たないうちにファッションリーダーになってしまった。

大学を出て狂想曲は終わった。当たり前だ。ファッションリーダーなわけないじゃないか。

十年ほど時が流れた。

場所は九州。ある集まりに参加した時のことである。どういうわけか出身大学の話になった。するとひとりの女性が自分の出身大学に関して異様な反応を示した。

「知ってますよ!すごく変わった人が多いみたいですね。10年ほど前は何でもランドセルで学校に通う人がいたとか・・・」

我慢した。それにもう30をすぎたオッサンには、実は・・・なんていう体力はどこにもなかった。




2008年6月17日火曜日

インテリ



先日福島に住む叔父のところへいってきた。

子供の頃から非常にかわいがってくれた人で、生まれてはじめて競馬場へ行ったのもこの叔父に連れていってもらったからだし、生まれてはじめてプロ野球の試合に行ったのも、そして生まれてはじめてバーなるものに行ったのも叔父に連れられてだった。

といってもどれも小学校低学年の頃だから定かな記憶はない。ただバーで出された、果汁シロップで作られたと思われる、甘ったるいジュースの味だけは鮮明におぼえている。

後に聞いた話だが、叔父はかなり意図的にこういう場所に自分を連れていったようだ。子供が絶対に行けないような場所に連れていく、そのことを叔父は楽しみにしていてくれていた。

子供にあまり関心のなかった自分の父親は子供をどこかに連れて行く、ということをしなかった。いわば叔父は父親の代わりに一種の情操教育として「世の中にはこういう場所があるのだ」ということを教えてくれた。

だからだろうか。酒をたしなまない自分だが、そういう「オトナの世界」に足を踏み入れることに物怖じすることはなかった。元来社交的ではない自分にとっては大きなプラスをあたえてくれた。今にしてみるとそう思える。

競馬場やバーなどと書くと、叔父の風貌をなんだかもの凄くがらっぱちのオヤジに想像されるかもしれないが、非常にスマートな人なのだ。

叔父の妹、つまり自分の母親にいわせると若いときは石坂浩二に似ていたそうだ。ま、もちろんたいして似てないのだが、たしかに雰囲気は通じるものがある。

石坂浩二と共通する雰囲気、身内のことを褒めちぎるのもアレだが、つまりインテリなのだこの人は。

インテリといっても高卒。勉強はできたらしいが、家庭の事情、いわゆる貧乏という壁に阻まれて進学できなかった。

とはいえ長男の長男たる、なんともいえないのんびりした、関西弁でいうところの「エエシのボンボン」(良家のお坊ちゃん)のムードがあり、よく知らない人ならとても貧乏で大学をあきらめたようには見えないだろう。

いわゆる趣味人であり、小説はミステリ専門、映画は洋画中心だがめぼしい邦画もチェックしている。特にヨーロッパ映画を好む。映画を観るセンスはこの人に教えられたことが多い。

この間会った時も「黒澤の『羅生門』、今観ると全然違ってみえる。観た方がいい」とかいう。こういうことをさらっといえる人はそうはいない。

ハリウッドは80年代以降は全部ダメ、というのは戦前生まれの人らしい意見だが、それでも話題作はもちろんそうでない作品もきちんと観た上でいっているのだから説得力がある。

記憶力も衰えておらず、あの映画にでていた女優はこの映画にもでていたとか、ビリー・ワイルダーの「熱砂の秘密」が観たいんだけどDVDがあんまり売ってない、といってリアルタイムでしか観たことがない「熱砂の秘密」の筋を語りはじめる。

今叔父はパソコンで自分なりの女優名鑑をつくるのに凝っている。もちろん趣味として。だが範囲が広い。少しだけ見せてもらったが、1920年代以前にしか活躍していない女優の名前があったりする。

「昔は映画は監督と男優でみていた。でも今は女優中心でみている」

自分も映画は好きだが到底この人にはかなわない。観た数はもちろんセンスも。そして何よりフィクションを分解できる力は足もとにも及ばない。

母親はよく「もしうちが金持ちなら兄はもっと趣味人として生きていけただろう」という。自分もそう思う。

叔父は高校を卒業するとすぐに実家を継いだ。そして時は流れたが叔父の持つ映画や小説の知識やセンスが仕事に結びつくことはついになかった。

もったいないな、とつくづく思う。とはいえ叔父も70手前だ。今更どうのということはありえない。

自分が、幼少の頃から父親代わりになってくれたこの叔父のセンスを少しでも受け継いでいれば、と思うことがある。そうなのか違うのか、それはわからない。でもそうであってほしい。それはけして「ええかっこ」したいからではなく、もしそうならうちの家系にも意味がある、そう思えるからだ。




2008年6月15日日曜日

ライター



ライターは100円ライターに限る。

自分はA型の癖に几帳面とはほど遠い性格で、100円ライターか使い捨てボールペンを最後まで使い切るのが夢という寂しい性格をしている。

早い話が使い切るまでに紛失してしまうのだ。ライターなんて今まで何十個なくしたかわからない。

こういう人間が高価なライターを持つのは非常に危険だ。というか意味がない。

それでも5000円以上するライターならそれなりに慎重に取り扱う。でもやっぱりなくす。だからとっても馬鹿らしい。

100円ライターはいい。なくしてもたった100円の話だ。

それに確実に着火してくれるのもいい。もちろんガスがなくなればハイそれまでョだが、どうせ使いきる前になくすのだからそんな心配はいらない。

ところがやっぱり人間、色気というものがあって、ついつい中途半端な、コンビニとかで売ってる1000円程度のライターに手を出してしまったりする。

はっきりいって1000円未満のガスライターほど使えないものはない。まずすぐにガスがなくなる。あっっという間に紛失する自分が使いきれるほどにしかガスが入っていない。

この手のライターはだいたいガスがチャージできるようになっているのだが、これがうまくチャージできた試しがない。

よしんば奇跡的にチャージができたとしても、チャージ以外のメンテナンスができないので、石がなくなれば終わりである。

かくしてただ使えないだけのガスライターが部屋の片隅にじゃらじゃら転がる羽目になるのだ。

でもガスライター全部がダメかというとそんなことはない。

前にプリンスの4000円弱のガスライターを使っていたことがあるが、さすがに少し値段がはるだけのことはあって、きちんとガスチャージができた。もちろん石を変えることもできる。

しかもこれは紛失しなかったこともあって、2年ぐらいはもった。4000円弱で2年ももてばたいしたものである。

それでもガスライターが使いづらいのには違いない。

プリンスのヤツもチャージできるのだが、結構不安定なのだ。チャージしたつもりなのに、逆にガスが抜けているなんてこともしょっちゅうであった。

その点オイルライターなら失敗のおそれがない。

なにしろどくどくオイルをつぎ込むだけでいいのだから。

じゃあジッポーがいいんじゃないのって話になるのだが、やっぱりなくす心配がある。残念ながら数千円のライターを紛失してヘラヘラできるほどのブルジョアではない。

そこで浮上するのがイムコのライターである。何しろ1000円未満で買えるのがうれしい。メンテナンスもジッポーのものが使えるというのもいい。

が、先日これもなくしてしまった。

イムコの難点は取り扱ってる店舗が少ないのだ。

正直1000円未満の商品をネットで取り寄せるのも抵抗がある。

かくして再びライター難民になってしまった。

やっぱ100円ライターだな、それが一番いい、そう思って100円均一ショップ、つまりはダイソーだ。そこで思わぬ掘り出し物を見つけた。

というか前から存在は確認していたのだが、食わず嫌いで試したことがなかった。

その商品とは、ずばり偽ジッポー、である。

これが思いの外調子いい。メンテナンスは完全にジッポーと共通、オイルライターだからチャージ失敗の心配もない。

しかも100円だからなくしても痛くないし、ダイソーにいけばいつでも手に入る。

難点は変な模様が入っていることだが、これは除光液で簡単に落とすことができる。

うん、これぞ究極の100円ライターではないか。

何ともケチくさい話だが、個人的にはものすごく切実だということを理解してほしい。




2007年6月24日日曜日

変人はつらいよ・信頼篇



ここは友人までの公開、という、超閉鎖的なものなので

余計な説明は不要と思うが

ここに書いているのは、ただの繰り事というか

少なくとも日記ではない。

しかも話が連続しているので、途中から読んでも

まったくわけがわからないと思うし

前回分を要約を記す気もないので、ぜひ最初から読んでほしい。

まぁ近いうちに≪友人の友人まで公開≫にしようかと

考えてはいるが、異論がある方はぜひどうぞ。




Eとの話の最終回。

私は音楽スタジオから、市街地である天神に向かって歩き始めた。

家とは真逆の方向に。

勇んで飛び出したはいいものの

いったい何をすればいいのかわからない。

このまま帰っても、モヤモヤが頭を駆け抜けるだけだ。

帰りたくない。その一心で、ただただ足を進めた。

そうこうしているうちに、ミーティングに参加していた

別のカメラマンから電話が入った。

グダグダになり、ミーティングは終わった。

とにかく会いませんか?、と。

まぁ当然だろう。

人生の中でもトップクラスの

かなりサスペンスあふれる事態が起こったのだ。

それは私にとっても、Eにとっても

その場にいた契約カメラマンにとっても

そしてNG社の社長にとっても。

合流したカメラマン(Gとしておく)は

「そういえばEさんは?」

と聞いてきた。

そうだ。まずはEに連絡を取るべきだったのだ。

私もなんだかんだいいながら、結構混乱していたのだと思う。

真っ先にややこしい行動、もとい、勇敢な行動を取った

Eにこそ電話をしなければいけなかった。

さっそく私はEに電話を入れ、Eが飛び出した後の

私の言動を軽く説明した。

「とにかく会いましょう」

Eはそういった。

私、G、E、そして何故か

大阪から出張してきた社員の人(以下H)と

4人で飲もう、という話になった。

Hという人は変わった、というか、何か瓢々としたところがあって

たわいのない会話がおもしろい。

そもそも加害者側(ということにしておく)にありながら

事件直後の、被害者側の飲み会に参加する、というのも

Hのキャラクターがよくあらわれている。

私がレクチャーについたのはこの人だったのだが

同じ関西出身ということもあり、人見知りな私にしては

最初から意気投合できる相手だった。

Hは社長のやり方に批判的だったが

相手がいないからといって罵倒するようなことはなく

この日の飲み会でも、ぼそっと社長を批判する。

それが不快ではなく、おもしろい。

飲み会でのHは、基本的に聞き役だったが

「もう福岡に来ることはないだろう」と、はっきりいった。

これ以上社長の言動に振り回されたくない。

そんなニュアンスが隠されていた。

Hの判断は正解だったと思う。

しかしもうHと会えなくなるのは寂しかった。

私は、おそらくEもだろうが、こんなことがあった以上

もうNG社の仕事は受けないつもりでいた。

というか正直関わりたくなかった。

まぁ向こうも、もうこんなややこしい連中に

発注しようと思わないだろうが。

だが仕事は受けなくても、Hとはまた飲みにでもいける。

勝手にそう思っていたのだが

それも不可能になりつつあった。

会話の内容は、もっぱらそのあたりのことに終始し

今日起こったスリリングな出来事には

不思議と誰も触れようとしなかった。

話が飛んでしまった。

待ち合わせは飲み屋の前だったが

私は少し緊張していた。

Eと顔を合わせるのがなんとなく怖かった。

「落ち着け、落ち着け」

心の中ではそう叫びつつ、先に合流したGを前に

ともすれば暗くなりがちな状況下で、私は必死で明るくふるまった。

Eが来た。笑顔で来た。

不思議と、某カメラ量販店で偶然出会った時に感じた

うさん臭さは感じなかった。

会うなり、Eは突然真顔になって、私に詫びた。

「何か、とんでもない会社(NG社)を紹介してしまって・・・

しかも巻き添えをくわせたみたいになって・・・すいません」

そういうとEは再び笑顔になって

「あなたは絶対にそう(自分と同じ行動を)すると思ってました」

おそらくこの時から、私はEを全面的に信用するようになった。

いや、正確にいえば、Eが怒った演技をした瞬間から

信用したのかもしれない。

Eは、本当は、心底悔しかったと思う。

思えば、いち契約カメラマンでありながら

NG社のためを思って、私をはじめ

数人のカメラマンを紹介していた。

なのにこんな結果になって、最後は自分が泥をかぶって

私をはじめとする契約カメラマンを守ろうとした。

Eはそんな気持ちを押し殺して、私に詫びたはずだ。

そして同調した私の行動にたいして、笑顔を見せた。

Eよ、あんた、これでよかったんだよ。

あんたに怒るわけないだろ。

悪いのはNG社だ。あんたじゃない。

よくやったよ、本当に。

私もあんなことしかできなかったけど

でも、これでよかったんだよ。

こうするしかなかったんだよ。

むしろすごいことをしたんだよ、あんたは。

だって了見の狭い、人見知りの激しい私を

こんだけ信用させたんだから。




8年の月日が流れた。

とっくに福岡を離れた私だが、Eとの交友は今も続いている。

たまにだが、NG社をめぐる事件の話になることがある。

もちろん笑い話として。

「あれから仲よくなったんですよね」

「そうですよねぇ」

なぜかいまだに敬語で話すふたりだが、遠慮はない。

「それまでは、あなた、すごい壁を作っていたから」

私が?そうかね。いわれてみればそうかもしれない。

自分ではうまく演技していたつもりだったのに。

まったく、Eには隠し事ができたもんじゃない。

「それに・・・・あなた、怪しい雰囲気をすごい出してたし」

ええ、それはEの方じゃないの?私がか?

いや実際、その通りだったのだろう。

というか、思い返してみれば

私は「怪しいヤツ」と思われ続けた人生だったように思う。

今だって少しも変わっちゃいない。

でもそれは、E、あんたもだよ。

結局Eも私も怪しい男だったのだ。

年に二回程度、私は福岡に遊びに行く。

Eは普段は(一応)標準語だが、私と話す時は関西弁になる。

しかもお互いに敬語で話す。

福岡という土地で、周りからみればかなり奇異に見えるだろう。

Eは知らないが、私は全然気にしていない。

というか、そんなことは一切気にならない。

なぜなら、Eとの会話に夢中になってしまうからである。




2007年6月20日水曜日

変人はつらいよ・怒声篇



今考えても、福岡での生活は

ツイていたのかツイていなかったのか、さっぱりわからない。

神戸出身の私が、福岡に引っ越したのは29歳の時だった。

最初に勤めたのは、久留米にある某出版社。

ここでの話はまたおいおい書くが

まぁいろいろ、悪い意味で、貴重な体験をさせてもらった。

貴重な体験はその後、市内へ引っ越してからの

おなじみの、超いい加減なスポーツ写真業者もさることながら

そして前回登場した、撮影業者(NG社)も

「引けをとらない」、「負けず劣らず」、「五十歩百歩」

いくらでも形容詞がでてくるぐらい、おかしな会社だった。

そして、同じように貴重な体験をさせてもらうことになる。

NG社は福岡には支社がなく、支社がないのに

福岡での仕事を受ける、というのは

この業界でよくあることかどうか、さだかではないのだが

とにかく月に一回

東京本社にいる社長と、大阪支社にいる社員ひとりが

わざわざ来福し、ミーティングなるものが行われた。

このミーティング、どっかの会議室を借りて、ではなく

わざわざスタジオを借りて行われていた。

撮影業者なのだから、仮に撮影をしなくても

一応スタジオでやったんじゃないの?と思われるかもしれないが

撮影スタジオなら、そりゃ私だって納得する。

私が奇異に感じたのは、そこが

音楽スタジオ

だったからだ。

無駄にドラムやPAの機材が並ぶ中

音楽とは一切関係のないミーティングが行われる。

実際に現場に入って、レクチャーを受けていた時は

さほど感じられなかったが、ミーティングを顔を出してからは

「これは普通じゃない」

霊感というか、ヤマ感というか、第六感というか

私の中で危険音(音楽 山下毅雄)が鳴り響いた。

それでも、同じ幼稚園に通っていたEの存在があったことで

私はだいぶ救われた。

「あれっておかしいですよね」

と言い合うことで、なんとなく不安は解消されたような

そんな気分になっていた。

ところがNG社から一通の封書が送られてきたことで

悪い予感の的中を認識させられることになってしまう。

詳しくは書かないが

私やEといった、契約カメラマン、契約ビデオカメラマンにとって

非常に納得し難いことが、書類に書いてあった。

さっそくEに相談すると

同じく書類を受け取っていたEも憤慨していた。

電話ではラチがあかない。ならば

月に一回のミーティングで、社長にそのことを伝えるしかない。

その日が来た。

社長の説明は、実にのらりくらりとしたもので

まるで「駅前旅館の鉄筋版」を標榜するホテルチェーンの

某社長も真っ青なぐらい、おかしなものだった。

ついにEが怒り出した。

社長はとたんに青ざめ、取りなしはじめたが

私はEの顔を見てわかった。

「あ、演技している」と。

もちろん怒っているのは本当だ。

しかし怒声をあげるのは、あきらかに演技だ。

いきなり送りつけられた書類。

電話のわけのわからない応対。

社長のトンデモ対応。

これらのおかしな状況を打破するには

あの場でEは怒った「演技」をするしかなかったのだ。

その場には、社長と社員以外にも

数人の契約カメラマンがいた。

彼らも納得していなかったはずなのに

なぜかその場の状況に飲み込まれそうになっていた。

でも後々苦しむのは彼らなのだ。

少々大袈裟だが、Eは怒声をあげることで

彼らを、そして自分自身を、救いたかったのだと思う。

Eは怒った演技をして、音楽スタジオを飛び出した。

私は・・・、私にできることといえば・・・

Eひとりでは、おかしなヤツだ、で終わってしまう可能性もある。

でもふたりなら、他の契約カメラマンにも

「あれ、やっぱりおかしいんじゃないか」と

思ってもらえるはずだ。

そう確信した私は、Eの行動を「かぶせる」ことにした。

Eと同じように怒声をあげ、その場を立ち去った。

おそらく周りはEと同じく、本気で激怒しているように

見えたであろう。

しかし、その激怒が演技だったのは、いうまでもない。

次回へ続く。




2007年6月14日木曜日

変人はつらいよ・再会篇



6月も半ばということで天気も安定しない。

が、私はこの季節が好きだ。

夏に生まれたことが関係あるのか、梅雨になると

「あと少しで夏の空が広がるんだ」と思うと

むしょうにわくわくしてくるのだ。

反対に冬は嫌いだ。

出かけることすら億劫になってしまう。

8年前の冬、寒さに弱い私は珍しく

某カメラ量販店にひとり出かけていった。

その頃はたしかに、写真撮影の会社でバイトしていたが

別にカメラに興味を持ってでかけたわけではない。

現在でこそ私は、デザインの仕事をさせてもらってるが

まだ当時は赤ん坊程度の技術しかなかった。

それでもパソコンは昔から好きで・・・と

この話を始めると長くなるのでやめるが

とにかく私は新しいパソコンの購入を検討していた時期で

掘り出し物を探しに、某カメラ量販店に出かけていったのだった。

店内に入るや否や、正面からあやしい顔が近づいてきた。

あの時の、新人バイトだった。

衝撃的な、あの夏の日以来、E(=あやしげな新人バイト)とは

なぜか同じ現場に入ったり、言葉をかわす機会はなく

事務所で顔を合わせることはあっても、会釈する程度であった。

ただでさえあやしげな男は

それを助長するかのような笑顔で近づいてくる。

「ちょうどよかった。話があったんです」

Eが話し掛けてきた。

何がちょうどよかっただ。どう考えても偶然じゃないか。

すぐに穿った見方をする私は

Eを端から信用してなかった。

「今ちょっと急いでいるので、また電話します」

どうせかかってくるわけがない。

Eの言葉を軽く受け流し、その場は終わった。

後日、本当にEから電話があった。

実はビデオカメラマンを探している。

ついてはきちんと説明したいので

いついつ、これこれに、足を運んでほしい。云々。

そういえば、夏のあの日、どういうわけか

私が大学時代、ビデオカメラマンのバイトをやっていた

みたいな話をしたことを思い出した。

しかし私がそのバイトをしていたのは、その時点から数えても

10年も前のことで、私の仕事内容は

「コードが絡まないように『気をつける』」ことだった。

こんな話を聞いておきながら

(というか、半年近く前にしたこんな

世間話をよく憶えていたものだ)

いったいEは、私に何をさせようというのか。

まさか本気でビデオカメラマンなるものを

やらせようと思っているのではあるまいな。

あのな、世間はそんなに甘かないぞ。

たしかに私とEの行っている写真撮影の会社は

極限なまでにテキトーなところだ。

だがしかし、そんな会社、めったやたらにあるはずがない。

もしそんな会社ばかりなら、とっくに日本経済は破綻している。

とにもかくにも、それから数日後、私は待ち合わせ場所に行った。

Eの説明はこうだった。

実は私の出入りしている撮影業者でビデオカメラマンを探しているが

いくら募集をかけても人がこず、どうにも閉口している。

あなたが素人同然なのは承知しているが

一応現場を経験しているので、まったくのビギナーよりは

多少は早く戦力になれるはずだ。

もちろんはじめの数回はプロがレクチャーについて

キチンと教えるので、ぜひやってほしい・・・・

どうにも断りづらい雰囲気になった。

しかもEとは同じ幼稚園に通っていたというよしみもある。

そこまで困っているなら

本当に素人同然ですよ,

どうなっても知りませんよ、

と、念を押して、結局引き受けることになった。

私をビデオカメラマンとして使おうとした無謀な会社

仮にNG社としておこう。

NG社からの仕事の発注は、FAXで行われる。

ところが当時私はFAXを持っていなかった。

ならば事務所に取りに行けばいいものだが、そうはいかない。

なぜならNG社は本社が東京にあり

私やEが住む福岡には事務所がないのだ。

しょうがない。

Eは自分が誘った手前、FAXごときも持ってない私のために

ひと肌脱いでくれることになった。

私宛の発注FAXはEの元に送られる。

私はEからFAXが届いたという電話をもらうと

Eの自宅付近まで取りに行く。

私にとってもEにとっても、面倒にもほどがあるが

これしか方法がなかった。

しかしこのことがあって、警戒心の強い私と

Eとの距離が縮まっていく。

最初は本当に届いたFAXの受け渡しだけだったが

少しずつ会話の量が増えていき

受け渡し場所である、Eの自宅付近のコンビニの前で

小一時間ほど話すことも珍しくなくなっていった。

だが私とEが、もっと本質的な意味で友好を深める事態が起こる。

それは図らずも、Eが私に紹介した撮影業者、NG社絡みの

馬鹿馬鹿しくも切実な、とある事件をめぐって、である。

次回へ続く




2007年6月7日木曜日

変人はつらいよ・驚愕篇



夏の日差しは燦々と照りつけている。

まだ午前中だからいいようなものの

「こりゃ35度はいくな」などと、ひとりごちて

想定される過酷な一日を乗り切るしか手段はなかった。

およそ5人ほどのチームだったか。

私、やはりバイトとはいえ古株が3人、それに新人。

会場が広いため二手に分かれて撮影することになったのだが

似非カメラマン=私は、新人を無理矢理

押しつけられるはめになった。

レクチャーなんてもんはね、本来なら古株がやるもんだ。

「じゃ後、よろしく頼むね」

そうひと言言い残して、古株は古株同士

さっさと別の現場に行ってしまった。

なにがよろしく頼むね、だ。まったくいい気なものである。

いいか、いくらバイトとはいえ、こういうことは

古株がやると神代の昔から決まっているんだよ。

だいたいまだ自分のことで手一杯の私がレクチャーなど

できる余裕があるわけがないではないか。

しかもこの暑さ。なにしろ撮影場所が

だだっ広いグラウンドときたもんだ。

日陰を探すことすらままならないではないか。

それにな、これだけはいいたくないが

私はな、古株のお前さんたちより、だいぶジジィなんだよ。

夏生まれだから、暑さには強い方だが

もしぶっ倒れてみろ。熱射病だか日射病で死んでみろ。

絶対に化けてでてやるからな。ひんやりさせてやるからな。




まぁそれでも今よりは10は若かったから

幸いにして、こうして今もピンピンしているが

当時はパニックに近かった。

今にして思えば

古株のバイトも悪いが、ここの会社が一番悪い。

いくら教えることは簡単とはいえ

まだ新人同然の人間にレクチャーさせちゃいけないよ。

とはいえ、そんなとこでバイトをしている私が

一番悪いかもしれないが。




レクチャーは意外に楽だった。

新人は一応プロとして仕事をしているらしく

「フィルムはどうやって入れるんですか?」という

信じられないような質問をされることはなかった。

それに、新人とは書いたが、やたら落ち着いている。

なんというか変な貫禄がある。

が、どことなくインチキ臭い感じで

たとえるなら

ひと昔前の結婚詐欺師のような雰囲気を醸し出している。

レクチャーが簡単なら、撮影もあっという間に終わった。

午前中にすべての撮影が終わり

私たちはわずかばかりの日陰を見つけ

そこで一段落することになった。

「関西弁ですよね?」

新人が話しかけてきた。

場所が福岡なのだから、そういう指摘は慣れていた。

「実はぼくも関西出身なんですよ」

あ、そうですか。軽く受け流してはみたものの

数ヶ月とはいえ一応先輩として

会話の継続を試みた。

関西ですか、どの辺りに住んでいたんですか?、と。

貫禄からみるに、年上かもしれない、と想定して

とりあえず敬語で返答してみた。

「神戸、といっても田舎の方ですけど・・・」

神戸?こりゃまた奇遇な。

「知ってますかね。○○団地ってとこに住んでたんですよ」

○○団地!?

それは私が幼稚園の年少組の時に住んでいたところじゃないか!

というか、住んでいたのはその一年だけだが。

「ということはもしかして○○幼稚園でした?」

私は信じられなかった。

福岡のこんな場所で

まさか同じ幼稚園に通っていた人間に会うことになるとは!




それから彼とは急接近して友達になった、ということはなかった。

彼は私よりも3歳も年下だった。

にも関わらず、私はなんとなく、彼が怖かった。

妙に落ち着き払ったトークといい

怪しげな、おおよそカメラマンらしくない見た目といい

ただでさえ人見知りな私が、敬遠してしまう要素にあふれていた。




この不思議な男との交流が深まるには

もう少しの時間が必要である。

次回へ続く。