2012年3月30日金曜日

自炊に苦戦する

自炊、ってやつを始めました。
もちろん飯炊いてオカズ作って云々の自炊ではなく、ザクッと切ってビャッと取り込む、そっちの方の自炊です。

アタシは到底読書家とはいえませんし、部屋が狭いので極力本は買わないようにしているのですが、それでも長いこと生きてきたら本ってもんは溜まるのですね。金は溜まらないけど。
自分ではマメにいらない本を捨てていってるつもりだったんですけど「これはいる。これだけは絶対処分できない」本で溢れかえる結果になってるわけで。まあそんな人も多いのではないでしょうか。
となると「自炊」という選択肢が浮上します。手持ちの本を電子化するってことなんですが、これまでは消極的でした。
何度か電子書籍なるものを読んでみたのですが、はっきりいって読みづらい。電子書籍を読むのに向いた端末を持ってないというのもあるんですが、これで本一冊まるごと読むのは辛いなあとね。
電子書籍はそれでも文字サイズも変えられるし、自炊した本よりはマシなはず、つまり自炊した本とかとてもじゃないけど読めたもんじゃないだろうと。
しかしいろいろ事態は切迫し、ついにドキュメントスキャナなるものを買ったのです。機種はScanSnapシリーズのs1300。定番ともいえるs1500にしなかったのは値段が倍ほど違うし、サイズもだいぶ大きいから。自炊本を上手く取り込めるのか、そしてちゃんと読むことができるのかわからない状態で5万円は勇気が要ります。その点s1300は2万円前後でサイズもコンパクトなので使わない時も邪魔にならないしこれでいいかと、ね。

スキャンの過程の話はまたの機会にして、読めるかどうかでいえば意外と読めました。相変わらず読むのに適した端末を持ってないのですが、iPhoneでも読めないこともない。GoodReaderはPDFの余白をカットできるのでギリギリですが可読できます。
ただiPhone程度の画面サイズでは限界がありますし、意外と大丈夫ということがわかったので、なんか適当な端末を買おうかと思案中です。

本は溜まるけど金は溜まらず、スキャナ買って本は減るけど金も減るのね。

2012年3月23日金曜日

昭和30年代を舞台にしたあの作品とあの作品

だいたいアタシは3D映画なんてもんに懐疑的です。
大昔にやたら棒を振り回す体のインチキ極まる3D映画を観に行ったことがありますが、コケオドシという表現がピッタリで、しかもスクリーンが観づらい。ここ数年アバターあたりからですか、やたら3D映画が流行りましたが、絶対に観に行くもんかと思っておりました。
それが今回「ALWAYS三丁目の夕日'64」を3Dで観たのは、やはり大昔に観た時とは技術も違うだろ、一度観てから批判なりなんなりしなきゃな、と思ったからなんです。それに内容的にもやたら「飛び出す」表現もないだろうから目も楽だろうなと。

とにかく泣けました。それも始まって10分もしないうちに。泣けて泣けて。
当然ストーリーで泣けたわけではなく目が痛くて涙が止まらなくなったんですね。いやあ、これは結構拷問でした。途中からさすがに慣れてきたものの、観終わった後の目の疲れは半端ではなく、やはりこれは無理だわ。
もちろんアタシの視力が右と左で極端に違うというハンデもあるのですが、それにしてもこんなおっとりした内容の映画でこんだけ目が疲れるんだから、それこそアバターみたいなのは絶対に無理だわ。

さてそんなことはどうでもいいのです。
思えば「三丁目の夕日」シリーズはすべて劇場で観ました。こんなことは珍しい。そしてそれはこの映画にハマったからではなくとある事情で第一作を観なきゃいけなくなって、後は惰性というか、つまらない意地というか。
はっきりいってこのシリーズには褒める部分もあるけど基本的には批判的なのです。

これは根本的な不満なのかもしれないけど、音楽をね、まったく効果的に使ってないのですよ。サントラも主題歌も悪いってわけじゃないんです。ただ、音楽と記憶ってガッチリ結びついてるじゃないですか。なのに「いかにも昭和33年を彷彿させる」という音楽がほとんどない。悲しいほどない。いや、何曲かは挿入歌として入ってるんだけど、使い方が悪いんで、ほとんど印象に残らない。せっかくね、テレビがやってくるってエピソードが入ってるんですよ。だったら当時のいい方でいえばコマソンね。三木鶏朗の曲とかをもっと効果的に使えばいいのに。そうしてこそはじめて、「当時じゃ作れない、昭和30年代を舞台にした映画」になったんじゃないかと思うのです。(2006年1月13日更新「『ALWAYS 三丁目の夕日』のこと」より)


これは第一作を観た後に書いたものですが、今回の「'64」でも一緒で細かいCGはともかく何も改善されていないといっていい。
まあでもわかるのですよ。これだけ固定ファンがつくシリーズも近年珍しく、となると固定ファンが安心できる内容にしなきゅならない。当然どんどん保守的になっていくってのはね。

原作は第一作でちょろっと使われただけで、それ以降はオリジナルといっていい。ただ第一作の時点で巧かったのは、お馴染みの癒しの昭和30年代の象徴として鈴木家を、激動の昭和30年代の象徴として茶川家を対比で描いたことで、原作でわき役に過ぎない茶川を年齢設定を替えて主役に持ってきたのは間違いなく映画スタッフの功績です。
さっきも書いたように、固定ファンの期待を裏切らないためか、これは「'64」でも踏襲されています。だけどこれは逆転させてもよかったと思うんですよね。せっかく第二作で茶川が結婚したんだから、今度は鈴木家を激動に放り込んでもよかった。

さて「三丁目の夕日」シリーズで鈴木オートの主を務めた堤真一ですが、今年のはじめにNHKで放送された「とんび」でも主役を演じていました。これは昭和30年代がドラマの導入部なのですが、まあ妙に合うというか。
だいたい堤真一がトレンディドラマの残り香のようなドラマに出ていた頃(やまとなでしことか)一応二枚目として出ていましたが、いったいどこが二枚目なんだよと。ただのゴリラじゃねーかと。でも昭和30年代って設定だとゴリラぶりが栄えるんですよ。それにこの人、素はバリバリの関西人なので、真面目な演技でも妙に可笑しいんですよ。それが「三丁目の夕日」シリーズでも「とんび」でも上手く出ています。

さて「とんび」ですが、内容は「'64」よりずっとよかった。内容はベタなんだけど、細かい描写の巧さもあってジンワリいい作品に仕上がっていました。
堤真一演じるのは鈴木オートに近しい昭和の頑固親父なんだけど、実に人間味があってね。鈴木オートはキャラとしての頑固親父だけど、「とんび」のは血の通った人間なんですね。人間として弱い部分がいっぱいあって、それでも必死で頑張ってる一小市民になってた。

「三丁目の夕日」シリーズに話を戻しますが、このシリーズの最大の弱点は「人間味のなさ」なんです。所詮全員キャラでしかない。必死でこの時代を生き抜いた人たちの群像なんだって感じがないんです。
原作が漫画だという言い訳は通用しない。せっかく登場人物の過去を語るエピソードもあるのに、それが人間的な深みになっていない。ただのエピソードで終わっている。

もったいないですよ。お金もいっぱいかけてただ昭和30年代をCGで再現しただけってのは。もっともっといい作品にできただけにね。

2012年3月14日水曜日

対話は本当に必要なのか

「死ねよ。糞が。」という言葉には僕も傷つきますが、しかし一方で、対話の前提条件が既に消失した現代において、無理やりファンとアンチが対話しようとすれば、結局アンチ「ステマ乙」→ファン「死ね」、というようなやり取りにならざるをえなくなるのです。(なぜステマ疑惑でここまで炎上が起きるのか「斜め上から目線」


これはGIGAZINEからリンクが張られていたので読んだブログなのですが、まあ全体の内容はどうでもいい。どうでもいいはいいすぎですが、ステマというものにたいして興味がないアタシからすれば、まあどうでもいいのです。
が、上記の一文、特に「対話の前提条件が既に消失した現代において」という部分は、正直あ、と思ったんです。
ブログでもmixiでもTwitterでも、そして某巨大掲示板でもそうですが、何でそんなこと書くんだろうと思うことは多々あるわけで、それは「コミュ障」という言葉で片づけられてしまうのですが、まあもし「障害」なのであれば本人は多かれ少なかれ本人は悩むもんだと思うのですが、悩んでいる感じが、ごくごく短い文章からも感じられない。むしろ「何でオレが悩むんだよ。悩むのはお前等の方だろ」という開き直りすら感じます。

ネットだけじゃない。現実世界でもハナから対話する気がない、という若い人が結構いるのです。いや、もっとそもそもの話になりますが、対話というのは本当に必要なものなのか、というところに行き着きます。
何いってんだ、いるだろと思われる方の方が正常だとは思うのですよ。でも徹底的に理詰めでいくと、対話で何かを生み出すというのは甚だ非効率です。もっとも成果があがる方法を対話ではなく統計なり科学的根拠なりでベストを導いた方がいいのかもしれない。絶対的正解というものです。
ところが人間は機械じゃないわけで、特に古い人間になればなるほど、いや違うな。学歴が高ければ高いほど、いやいやこれも違うわ。人間であればあるほど、うん、これが一番近いか。とにかく割り切れない部分が出てくるはずなんです。
そしてもっといえば、もう人間は何もしない方がいいという結論になってしまう。人間的な部分は計算では出てこない閃きがある代わりに、論理的な根拠を導くのに邪魔な「感情」というものがありますからね。
「感情」を解決するには「対話」しかないのです。いや、もしかしたら他に方法があるのかもしれないけど、とりあえずは対話は必要なものです。必要なんだけど対話はめんどくさいものでもある。これは間違いない。

アタシ自身、到底コミュニケーションが得意な人間とはいえない。得意ではないけど対話でしか解決しないことがあるのは知っている。知っているからこそ問題が起こった時に、苦手を自認していながら対話を試みるのです。
ここで開き直って「だって対話なんて必要ないでしょ。対話から何が生まれる?」となってしまったら、もう自分は人間ではない、と宣言してしまってるような気がするのです。
もちろんそれはそれでいい。その代わり自分が人間的な扱いをされなくても一切文句をいってはいけないと思うのですよ。だって放棄したのは自分なんだもん。自分の都合で、相手を人間扱いしない、でも自分のことは人間扱いしてくれ、というのはあまりにも勝手すぎます。

もう一回いいますが、対話を拒絶する人にいいたい。本当にいいの?そっちがそのつもりなら、こっちもそっちを人間扱いしないよ、と。

2012年2月21日火曜日

三菱銀行人質事件を読み解かない

去年の大晦日でしたか、平田信が出頭しましたね。実はめちゃくちゃ軽い因縁があるというか。
アタシが音楽をやってた頃の話です。仕事はそこそこに、それこそ友達の家に入り浸っていたわけです。遊んでたんじゃないですよ。ちゃんと「音楽をやってた頃」と前フリしたじゃないですか。そう、音楽の制作をしていたんです。しかしそんなこと表向きには誰もわかりゃしない。いい若者が昼の日中からブラブラしてるようにしか見えないでしょう。
そんな折りにね、来たんですよ。何がってもちろん警官が。時は1997年、場所は大阪の南部。
まあそれだけじゃ、あのオウムと全然関係ないのですが、アタシはどっちかっていうと、どっちかといわなくても濃い顔だからね。平田信に似てないこともない。しかも友人の名前が平田信と紛らわしい名前で。そこにもってきて昼間から何やらガサガサしてると。まあ近所からタレコミでもあったのでしょう。
もちろんまったく関係ないからね。それで済んだんだけど、何となくオウムの逃亡犯の中でも平田だけは早く捕まれよ、と思っておった、と、まあこれだけの話でして。

さて

今まで何回か猟奇事件のことを書いてきましたが、これらはアタシが生まれる前の事件です。厳密にいえば三億円事件は生まれた後だけど、赤ん坊だったアタシが覚えてるわけないわけでして。
ではリアルタイムで初めて戦慄を覚えた事件は何だろう、と考えた時、やはり三菱銀行北畠支店での立てこもり事件は忘れることができないのです。

さくっと三菱銀行北畠支店と書きましたが、これは後年の知識ではなく当時から脳裏に刻みこまれたものです。もう「猪木のリズムタッチ」と同様、三菱銀行といえば北畠支店、というように完全にセットになってインプットされているのです。(リズムタッチネタ、ずいぶん前に書いた気がするけど、まあいいや)
犯人の名前は梅川昭美。これまた強烈に刷り込まれた名前で、一部の人には「江川梅川」とセットで覚えておられるのではないでしょうか。江川ってのはもちろん江川事件の江川卓なのですが、さすがに梅川とセットなのはかわいそうですな。

立てこもり事件の実況中継といえば、アタシより数年年長の方からすれば連合赤軍によるあさま山荘立てこもりになるのでしょうか。さすがにあさま山荘は覚えていない。でも三菱銀行のやつはもう小学生でしたからね。テレビにかじりついて見てました。
何なんだろうね、あの緊張感と集中力。この事件以後大きな立てこもりがない、というのもあるとは思います。けどそれだけじゃないというか。
いったい中で何が行われているんだろうと。すでに死者も出ているわけですからね。とはいえ小学生ですからエロい想像とかはしないんですが、もし自分が人質だったらどれだけ怖いだろう、と。
人質になるなんて嫌に決まっているわけです。でも想像を膨らませるというのは、どこかで人質願望とまではいきませんが、ああいう極限状態への憧憬みたいなものがあったんでしょうね、その頃から。

まあ後年この事件を調べて、あれ?と思ったこともあって。犯人の梅川ね、ずっとベタベタの関西弁だと思っていたんですよ。でも今聞くと結構訛ってるというか純粋な関西弁じゃないんですね。地方出身者が若い頃に関西に住み着いて身につけた関西弁、とでもいうか。実際そうなんだけど。
もしかしたら関西弁イコール怖い、になったのはこの事件からなんかね。アタシは神戸出身という土地柄、そっち系の人が喋ってるのを何度も聞いていましたが、言葉自体は怖いとは思わなかったからね。でも梅川の関西弁は怖かった。やっぱりあれは・・・いややめとく。

2012年2月11日土曜日

才能で得られるもの、努力で得られるもの

昔は打撃は才能、守備は努力といわれたものですが、最近は逆ではないかといわれています。
たしかにそうです。打撃はまれにプロに入って突然変異のように花が開く選手がいます。たとえば元ヤクルトの古田なんか最たるものでしょう。
アマチュア時代の古田は守備はおおいに評価されていましたが、打撃面でプロは厳しいといわれていました。だからこそ大学卒業時にどこからも指名されなかったのです。
が、野村克也監督の指導の元、めきめきと力をつけ首位打者を獲得しましたし、三割30本塁打も記録しました。そして最終的には大卒・社会人出身者としては初の2000本安打を達成したのです。
古田は極端な例だとしても、プロに入って打撃が飛躍的に向上するというのはさほど珍しい話じゃありません。
ところがアマチュアの頃に守備がヘタクソで名手になったって話は聞いたことがない。
現在はさておき、数年前まで阪神の金本の守備を指して「ヘタクソの最高到達点」といわれていました。金本は打撃力と走力はありながら守備はからきしダメで、肩も極端に弱くないのに守備は下手で通っていました。しかし数々の修練を重ねたのでしょう。一応まともな外野手になることができた。
といっても上手い外野手になれたわけじゃない。外野で最も守備力を問われないレフトを過不足なくこなせるようになったにすぎません。

アマチュア時代の守備力なんてプロの二軍選手にも劣るもので、だからいきなり守備で一軍で通用する選手など稀です。が、後年名手になる選手は入ってきた時点からキラリと光るものをもっている。
阪神の平野はアマチュア時代には「プロでもいきなりトップクラスの守備力があるんじゃないか」といわれて入ってきた選手です。が、オリックス時代の平野の守備は惨憺たるもので、早々にショート失格、セカンドにコンバートされた挙げ句大怪我をして、最終的には外野とセカンドを兼任することになります。
阪神にトレードで来た後も、守備範囲は広いがポカが多い選手で、とても名手とはいえませんでした。ところが試合を重ねるにつれモロかった部分が安定し、昨年今年と二年連続でゴールデングラブ賞を獲得したのです。
やはり最初から、というかアマチュア時代から守備の才能があったとしか思えないんですね。

野手に限らず、最近は投手も、スピードボールを投げるのは努力、コントロールは才能、といわれるようになってきました。
スピードボールを投げるのは持って生まれた身体能力も関係ないとはいえませんが、それより「速い球を投げることができるフォーム」を身につけることが肝心なわけで、実際身体作りとスピードボールが投げられるフォームを会得したことで、プロで10キロ以上速くなった投手はゴマンといます。
ところがコントロールはいくらいいいフォームで投げていても、精密機械のようなコントロールはつかないらしいのです。

投手ならコントロール重視、野手なら守備重視というと何となく後ろ向きな感じがしますが、これにプラスして身体の強さと練習嫌いでない、これらの要素があればプロとして通用する気がするのです。
これからはドラフトでその辺を重視して指名してもらいたいのですがね。え?どこがって?もちろん阪神がですよ。

2012年2月7日火曜日

マネーボール

「マネーボール」を観ました。お、何かyabuniramiJAPANぽいぞ。

ま、改めて書くことじゃないんですが、アタシは大の野球好きです。しかし面白い野球映画に出くわしたためしがない。
たとえば「フィールド・オブ・ドリームス」なんかは野球映画の名作といわれていますが、もうひとつピンとこなかった。一般にはラストのキャッチボールのシーンがいいといわれていますが、それよりもとうもろこし畑からかつての名選手が現れるシーンの方がゾクゾクしました。
この映画を観たのが、ちょうど敬愛する阪神タイガースの暗黒時代でして、かつての名選手が再び現れてボロボロのチームを救ってくれたら、と思うと涙がでてきましたが、それは映画とはあまり関係ないことで。
邦画で野球映画の名作といわれているのは「男ありて」ですが、この映画に関しては昔に書いたことがあります。

部分的に光る場面はあるんだけど、どうしても納得できないところがあって、点数を下げざるを得ないという感じですか。(中略)物語の中盤まで、主役で監督役の志村喬に感情移入されては困るわけで、観客が感情移入すべきキャラクターは、家庭でも職場でも志村喬と関わりを持つ、藤木悠でなければならない。なのに藤木悠のキャラクターが全然わからないんです。(中略)演出もシナリオも大筋は悪くない。お好み焼き屋で復帰が決まった志村喬が手帳を開いてチームのスケジュールを確認するシーンとかもよかったし。だからねぇ、もう本当に惜しい作品というか。ちょっとの差で佳作にもなってない。本当にちょっとの差なんだけどね。(2004年1月13日更新「『男ありて』のこと」より)


ひとことでいえば芳しい作品ではなかった、ということになります。

さて「マネーボール」ですが、この映画の主人公のモデルになったビリー・ビーンはセイバーメトリクス理論を大々的に導入した人物として知られ、要は資金のない球団が豊富な資金を有する球団にどうやったら勝てるか、という理論なのですが、セイバーメトリクス自体賛否両論あり、たとえば攻撃面でいえば「バントや盗塁は御法度、打率や長打力もどうでもいい。とにかく出塁率を重視する」といったもので、野球のもつ爽快感を殺してでも勝つということに拘った理論なので賛否両論があって当たり前なのです。日本では現在オリックスの監督を務める岡田彰布がセイバーメトリクスぽい野球をやることで知られています。

映画そのものに目を転じると、何しろ実話ベースなので煮え切らない部分もある。アタシがイマイチだと思った「ソーシャル・ネットワーク」に似た「現在進行形ゆえの煮え切らない結末」なのは間違いないのです。(製作と脚本家にひとりずつ「ソーシャル・ネットワーク」のスタッフが参加しているし)
が、それでも面白く感じたのは、ブラッド・ピットの予想外の好演によるもので、正直彼の家族の話は蛇足なのですが、全体的に地味な題材をブラッド・ピットが華やかに演じてくれるので、映画がカラフルなものになっているんですね。
特に電話をかけまくって、カマをかけながらトレードを成立させるシーンはブラピの華がなければ成立しなかったでしょう。
こういうのがハリウッド映画の巧さで、ジョナ・ヒル演じるオタク気味の片腕との対照で両者が光っているのです。

絶対面白い、というおすすめはしませんが、野球好き、そしてセイバーメトリクスという言葉に引っかかる方ならDVDででも観る価値はあると思います。逆に野球に興味がない人は止めておいた方が無難です。というか観るとこないと思うしね。

2012年2月1日水曜日

三億円事件を読み解かない

「で、それがその時の集合写真」「・・・いないじゃん」「え?」「おまえ写ってないじゃん」「そんなわけないだろ、いるだろ」「どこ・・・よ?」「ほら、ここにいるだろ」「・・・なんか似てなくね?」「似てないも何もオレだろうが」「もしかして顔変わった?」「たかだか一年で顔変わるかよ!」

みなさんもこのような経験をしたことが一度はあるのではないでしょうか。
同一人物が目の前にいるのに写真に写っている人物と別人に見えてしまう。それはその人の顔の一部分だけを強く認識していて、そこが写ってなかったりはっきりしなかった場合、同一人物と認識できなかったりするわけです。

さてアタシは昭和43年生まれです。昭和43年というとあの三億円事件が起こった年でして、オレ三億円事件があった日に生まれてん、なんて同級生もいたわけです。
三億円事件といえば昭和の未解決事件の中でもとびきりの大事件で、しかもこの事件が特異なのは誰ひとりとして被害者がいなかったというところです。(実際は報道被害はありますが)
まあ警察はだいぶ捜査費用を使っており「♪あれから一年三億円~ 頭抱えた警視庁〜 捜査に使った費用を見たら こんなことあるかしら三億円」と「アッと驚く為五郎」の替詞としてシャボン玉ホリデーの中でも歌われていますが、実際にかかった捜査費は9億円以上だったといわれています。

未解決事件に初動捜査ミスはつきもの、というのは何度もいっていますが、正直今考えても何で未解決なのかさっぱりわからない。というのもですね
・犯人は顔を見られている
・山のような遺留品が残されていた
・犯人は犯行現場に土地勘があった(つまり犯人の居住地や行動範囲を絞りやすい)
・前フリともいえる脅迫事件(三億円事件と同一犯の犯行と判明している)で筆跡と血液型までわかっている
・事件当日は歳末特別警戒の初日で各所で検問を実施していた
・盗まれた札のナンバーが一部にしろ判明していた
・その他計画自体も完璧とは言い難く、というかずさんな部分が多く完全犯罪の要素は微塵もない
これだけ早期に犯人を検挙できる可能性がありながら、初動ミスからまったく容疑者を絞り込めず、最後は遺留品と疑わしい地域での尋問をローラー作戦するしかなくなったのです。

三億円事件と聞いて、大半の人はまずあのモンタージュ写真を頭に浮かべるのではないでしょうか。
今ではよく知られていますが、あの、例の写真、あれは本当はモンタージュではありません。当時疑わしいと思われた人物の顔によく似た、まったくの別人の写真にヘルメットを合成しただけという、正直合成とすらいえないシロモノでした。
しかも当時疑わしかった容疑者はその後謎の自殺をしており、その後の捜査で「真犯人ではない」と発表しています。当然モンタージュ写真も全然意味のないものになり、最終的には警察はモンタージュ写真を撤回する、というお粗末さでした。
初動捜査ミスも痛かった。そして結果的に決定的な容疑者となりえなかった人物に似た人物の顔を「こんな顔です」と発表してしまった。それらも十分失態なのですが、アタシは後々まで検挙できなかったのはこのモンタージュ写真に原因があるような気がしてなりません。

モンタージュ、というのは、今はそれこそPhotoshopなんかで簡単に作れますが、顔の各パーツをつなぎあわせて作成します。しかしそれは「誰かと似ているようで絶対に存在しない顔」なのです。人間が無理矢理作った顔なのですからどうしてもそうなります。
だけれども、だからこそ似ている、という判断ができると思うのです。
仮にモンタージュ写真と似てなかったとしても、それが正規の方法で作成されたモンタージュであれば、その他で「怪しい」部分が多ければね、似ているような気になってくると思うんです。モンタージュの誰かに似ているようで誰にも似てない、というのはそれくらいの認識の幅が広がるはずですから。となるともっと有益な情報提供があったはずなんです。
それが実際に存在した人物の写真を使ってしまった。つまり「本当に存在する顔」になるわけで、となると逆に「似ていても、違う」という判断をしてしまうと思うのですよ。

アタシは人間の脳がいったいどのような仕組みで他人の顔を認識しているのかは知りません。しかし純粋に顔だけみて判別できるのは、よほど親しい人に限られるのではないでしょうか。その人の身体的特徴だったり表情のつくり方だったり雰囲気だったりを加味しながら、あれはあの人だ、と認識しているような気がするのです。
たとえばよーく見ると有名人のダレソレに似ているのに、ぱっと見は全然違う、なんてことも珍しくありません。顔のパーツや配置は似ているんでしょうが、それ以外の部分が違いすぎるので認識できないのでしょう。
なんとなくですが、同一人物かどうか顔で判断する時、似ている部分を探しているのではなく違う部分を探しているのではないでしょうか。となるとモンタージュというのは実に優れた方法で、すべてにおいて曖昧だから相違点の判別がしづらいですからね。

三億円事件は様々な教訓を残しましたが、その中のひとつに「実在の人物をモンタージュです、などという馬鹿なことはしない」も絶対に入ると思うのですがね。