2008年9月17日水曜日

雑巾猫



猫は嫌いじゃない。というか好きだ。

昔は断然犬派だった。実家では犬ばかり飼っていたということもある。しかしとあるきっかけで猫を飼うようになってからは猫派になってしまった。

もちろん犬も好きだけど、今の時代、都心部で犬を飼うというのは並大抵のことではない。やはりある程度の広さのある一軒家で、大家族(最低でも5人以上)でないと難しい。そうでないと旅行はおろか散歩もままならない。

その点猫は楽だ。散歩の必要もないし、よほど小さいか老描か、病気でもしていない限り、一泊二泊程度なら旅行にだって行ける。引っ越せない、というかもしれないが、これまたよほど子猫か老描じゃなければ案外大丈夫だったりする。

もちろん飼いやすいから猫が好きなわけじゃない。

猫は気ままというが、そこがいい。犬は人間の顔色を伺う。それがいいところでもあるんだけど、猫はそんなことはしない。こっちが落ち込んでようが、うれしい時であろうが、いつもと同じように振る舞ってくれる。

人間というのは、自分にとって都合のいいものはいつまでも変わらないままでいてほしいという願望があると思う。たとえば遠く離れた故郷が、変に発展してほしくない、とか。他人にたいしてもそうで、久しぶりに会った友人があまり変わっていなかったりすると、何となくうれしいもんだ。

猫は日常のそれを引き受けてくれる。どんな時も、何も変わらない。落ち込んでる時にはホッとするし、浮かれている時には、いい具合に歯止めをかけてくれる。

まぁ能書きをいくら書いても意味ないんだけどね。結局はかわいいから飼いたいと思うわけで。

これだけ書いておいて何だが、今は猫は飼っていない。しかしかつては、もちろん飼っていた。

もう大学を出た頃だったろうか、友人が子猫の引き取り手に困っている、という話を聞きつけ、もらって帰ることにした。

とはいっても元は野良猫だったようで、おなかの中に虫を飼っていた。

ここから少し汚いというか気持ち悪い話になるので、苦手な人は読み飛ばしてほしい。

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その猫、おしりから常に虫が出ていた。太さといい、色といい、ちょうどきしめんのような感じの虫だった。これがいくらでも出てくる。いっかい思い切って引っ張ってみたのだが、一メートルぐらい引っ張り出したところで切れてしまった。

病院に連れて行くと、この蟯虫、数メートルほどの長さがあるらしいのがわかった。なんでこんな蟯虫がおなかの中にいるのか。

それはおそらくカエルでも食べたんでしょうね、とドクターがおっしゃる。そんなもん食うなよ。まったく子猫の時分は何を口に入れるかわかったもんじゃない。

この件は、虫下しを飲ませることで解決した。

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さてこの猫、そろそろ避妊手術をした方がいいかな、と思った頃、逃げて行方不明になってしまった。

三ヶ月ほど経った頃、近所の子供が猫をいじめている。浦島太郎のような光景だが、どうも逃げた猫に似ている。

ただし三ヶ月の苦労のせいか、やたらに汚い。とはいえしっぽの長さといい、顔立ちといいそっくりだ。

あわてて連れて帰って、怪我をしていたので病院に連れていくと、驚くべきことが判明した。

「前に連れてきた猫ちゃんと違いますね。これ、オスですよ」

えええええ?逃げた猫はメスだった。助けた猫はオス。つまりは人違い、いや猫違いということか。

オスかメスかぐらいちゃんと確認しなかったのが悪いし、それにこの模様は汚すぎる。逃げた猫はもっとふつうの茶虎だった。いくら苦労してもこんなに汚い模様になるはずもない。

どうしよう・・・・。しかしだ、いくら猫違い、それも驚くほど汚い雑巾猫だからといって、捨ててしまうのはどうか・・・・。

悩んだ末、この雑巾猫を飼うことにした。

ところがこの猫、驚くほど賢かった。トイレもすぐにおぼえたし、餌の場所が少々変わっても平気。ひとりで2日ほどほっておいても大丈夫だし、何度か引っ越したが、転居先でもふつうに暮らしてる。

よく鳴き、よく遊び、さみしくなるとあまえてくる。

こうなってくると模様が汚いとか関係なくなってくる。

ものすごくかわいがったし、悪いことした時にはキツく怒ったりもした。とにかく自分の中でかかせない存在になっていった。

数年経った。とある事情で猫が飼えなくなってしまった。もう本当に断腸の思いで、猫を実家に預けることにした。

しばらく待っててな。また一緒にいれるようにするから・・・。

それから二年後だろうか。ようやく猫を飼えるようになった。当然引き取ろうとしたが、母親は

「年老いて、引っ越しは無理じゃないか」といいだした。

たしかに以前の元気な時とは全然違う。足下もおぼつかなくなってるし、目もあまり見えてないように感じた。

そっか・・・、無理か・・・・。残念だけど、この猫にとって一番いい状態をキープしてやることの方が大事だ。人間のわがままを通すべきじゃない。あきらめよう。

さらに一年が経った。久しぶりに実家に連絡を入れると、雑巾猫はひと月ほど前に死んだという。

涙は不思議とでなかった。でもいてもたってもいられなくなった。

翌日、無理を押して、遺骨を預けている霊園に行くことにした。

何を思ったか、自分は骨壺を持って帰ってしまった。おかしいのはわかっている。でも、どうしても手元においておきたかったのだ。

ごめんな、ややこしいことばっかりして。でもな、そっちはどうかわらないけど、自分はあんたといれた時間、本当に楽しかったよ。

現在。猫じゃなくて汚れた雑巾を見るたびにあの猫を思い出すし、遺骨と写真は部屋の一番目立つところにかざってある。




2008年9月16日火曜日

タオル



世の中には潔癖性とまでいかなくても、プチ潔癖性の人は結構いる。

そういうことからはほど遠い自分からすると、結構鬱陶しい。もちろん遠巻きに見ている分にはいいのだが、そういう人は他人にもプチ潔癖を強要したがるから困ってしまう。もちろんそうでない人もいるんだけど。

気持ちはわからんでもないが、こっちにもこっちの基準があるわけだし、できれば強要はやめてほしいし、否潔癖な人間としては身構えるというか、遠慮が多くなってしまう。

もし今後、親しい間柄になると予想される人にプチ潔癖の可能性があったとすれば、そういう時はこう質問してみればいい。

「バスタオルは毎日変えますか」

以前なんかのテレビ番組でもいってたけど、バスタオルというのは使い方が難しい。

他のタオルならまず一日も使えば洗濯するけど、バスタオルを一回使っただけで洗濯するのは、何となくもったいない気がしてしまう。

別に汚れているわけでも臭うわけでもない。きれいに洗った身体を拭くだけ。もちろんきれいではないけど、つい2、3日ぐらい使ってしまう。

もし当たり前みたいな顔で「ええ、毎日変えますよ」と答えたら、その人はまずプチ潔癖性だ。

まぁそれでも汚いよりキレイな方がいいわけで、極端に汚いのはやっぱりマズい。いや、実際には汚くなくても、それはマズいんじゃないの、オレにはできないよってことも多々ある。

大学時代、よくお世話になった先輩がいた。少々頭が固いところもあるが面倒見がよく、金欠の時にはメシをごちそうになったこともある。

ごちそうになるといっても、料理が趣味の先輩だから、手料理である。べらぼうに旨いわけでもないが、ちゃんとした味だし、量も多くて、その点でも助かった。

先輩の部屋はいつも整頓されていた。今は使っている人はほとんどいないだろうけど、当時はカセットテープの時代で、これが結構整理に困るのだが、先輩は実に細かいインデックスをつくり、キレイに順番に並べていた。

潔癖性とまではいかないが、キレイ好きな人、という印象だった。

それがとんでもない噂が出回り、先輩の信用が一気に落ちることになる。

とんでもない噂、それは「どうも身体を拭くタオルと、食器を拭くタオルを兼用しているらしい」という噂であった。

先輩に問いただすと、何の否定もしなかった。それどころか、それの何が悪い、全然不潔じゃないじゃないか、と居直った。

彼の主張はこうだ。

洗濯したタオルはまず食器を拭くのに使う。そしてその後、身体を拭くために、バスタオル代わりに使う。そしてそれを洗濯し、また食器拭きに使う。これで何が汚いというのだ、と。

たしかに洗濯したてのタオルならキレイかもしれない。でもそれを身体を拭くタオルと兼用するのは、どうにも心理的に抵抗がある。いくらキレイでもキレイとは言いづらい壁を感じてしまう。

何というか、トイレの水を飲め、に近いものを感じてしまう。もちろんタンクをピカピカにしている前提で、水が便器に触れる前なら、おそらく汚いことは一切ないはずだ。

それでもやっぱり無理だ。心理的な壁が邪魔をしてしまう。

それと同じで、いくら先輩がこのタオルはキレイだ、と主張したところで、その壁は簡単には壊れない。

それ以来、自分はその先輩の家でメシをごちそうになるのを一切やめた。自分だけじゃなくて、他の後輩も彼の家に行くのをためらうようになった。

これはある意味、不潔よりタチが悪いんじゃないかと思う。不潔はある程度矯正することはできるけど、深層心理はそう簡単には変わらないんだから。




2008年9月15日月曜日

アイちゃん



ファッショナブルタウン・神戸、なんていわれると、思わず笑ってしまう。

18歳まで、1968年から1986年まで神戸ですごした人間からいわせれば、神戸のどこがファッショナブルタウンなんだろ思ってしまう。

なるほど百万ドルの夜景はあるし、ハーバーランドあたりはデートにはもってこいだ。

しかし夜景といっても、ただ山と市街地が近いだけの話だし、ハーバーランドもただの人工的な無機質極まる街としか見えない。

自分の記憶にある神戸は震災とともに崩壊した。むろん震災がなかったとしても、神戸市自身がオシャレな街へと変貌を遂げるべく努力していたのだから、総入れ替えになるのは時間の問題だった。

自分のもつ神戸、とくに最大の繁華街のある三宮のイメージは「小便臭い街」である。

形容ではなく、本当に小便臭かった。ポートピア'81が開催された頃、たしか立ち小便を禁止する条例か何かがでたはずだ。それぐらい街中にアンモニアの臭いが立ちこめていた。

1970年代までの神戸はどこか戦後を引きずっているような部分があった。

もうだいぶ変わってしまったが、JR元町駅から神戸駅の高架下にある商店の数々は、いかがわしい商品の宝庫であった。といってもエロだけには限らない。

謎の使用済みのカセットテープから、いったいどこの会社が製造しているのか、本当に最近つくられたのかわからない、とんでもなく時代錯誤な洋服。はては一円の価値もなさそうな、ゴミ捨て場におかれてそうなコップまで、とにかくありとあらゆるものが置いてあった。

自分は高架下を歩くのが大好きだった。もちろん怖いのは怖いのだが、それでも、何かとんでもない世界に入っていく、そんな感覚を味わいたくてつい行ってしまう。「没落を淫する」とでもいうのか、とにかくあの感覚は忘れられない。

いや、高架下に限らず、1970年代までの三宮は、もっと怪しい雰囲気を持っていた。たとえば元町にある中華街(自分たちは南京街と呼んでいた)は、今のように観光客があふれておらず、日曜でも閑散としていて、何か近寄りがたい雰囲気が充満していた。

それでも祖父の家が三宮駅から徒歩10分ぐらいのところにあった関係もあって、小学校に入る前の段階で、“ひとり”で三宮の街を闊歩していた。

昼日中でも薄暗い路地や地下街が多かったのだが、臆することなくひとりで歩き回った。怖いものすらずだったからこそできたのかもしれない。

それでも、どうにも怖い場所もあった。

当時の三宮はまだ浮浪者も多くて、とくに阪急三宮から春日野道の間の高架下に寝床がいっぱいあった。

怖いのだが、この高架下をくぐらないと繁華街の方まではいけない。だから毎回勇気を振り絞るしかなかった。

ただ、子供心に、ひとりだけ気になる浮浪者がいた。

彼女は、いや彼女といっていいのか、とにかく見た目はおばあさんなのだが、なんとオカマだという。

亡くなった祖母の話によると、何でも昭和20年代からいるらしく、たしかみんなから「アイちゃん」と呼ばれていた(違うかもしれないけど、とにかくそんな名前だった)。

独特の風貌であり、しかも明るい。近所の人からもわりと親しまれていたのではないか。愛称で呼ばれていたことからもそれはうかがえる。

自分が見る限り、アイちゃんはとにかく誰かと話していた。同じ浮浪者仲間だったり、近所の人であったり。ただし声が小さいのでよく聞き取れない。

一度でいいからアイちゃんと話がしてみたいと思っていた。向こうも子供なんか相手にすまいが、もし仮にそういうチャンスがあったとしても、おそらく怖くてできなかったと思う。

なんだかんだしているうちに、アイちゃんを見かけなくなった。ちょうどポートピア'81の頃だったか。その頃から急速に浮浪者もいなくなり、街のイメージも変わりつつあった。

神戸市はやたら観光に力を入れだした。閑古鳥が鳴いていた南京町はリトル中華街風になったし、ずっと後の話だが、神戸駅の南口を大規模開発してハーバーランドなるものをつくった。

そんな自称ファッショナブルタウンに浮浪者は不必要なものだったのだろう。

しかし自分は、あの頃の三宮が懐かしい。猥雑で汚くて小便臭くて、浮浪者が街の人と気軽に話せる。でももうそんな三宮はどこにもない。

アイちゃんはどこに行ったのだろう。変わりゆく三宮に見切りをつけたのか、それとも病気にでもなったのか。

あの時点の年齢からいって、二十一世紀の今、この世にいるとは考えずらい。それにしても今になってみると、本当にアイちゃんと話をしておくべきだったと思う。オカマにして浮浪者、いったいそこにたどり着くまでに、どれだけ数奇なことがあったのだろう。そして変化していく神戸をいったいどんな目で見ていたのだろう。




2008年9月14日日曜日

退廃



思えば、数限りなく、いろんなバイトをした。

まぁそんなことは何の自慢にもならない。大学を出たのがちょうどバブルがはじけた頃で、周りからはあと一年早かったらいくらでも就職できたのに、といわれた。どうせ就職できたとして、今もその会社に勤めている、ということは自分の性格からしてありえないと思うが。

就職しないんだったらバイトするしかない。ということで、いろんなバイトに手を出した。

そんな中で、もっとも悪い、というか酷いバイト先はと聞かれると、ひとつしか浮かばない。

バイト雑誌で見た時から、その会社は怪しい臭いがただよっていた。それでも面接を受けにいったのは、単純に日給に惹かれたからに他ならない。

無事面接をパスして、出社当日となった。社員はバイトの自分を含めて三人。そして社長。

業務内容はというと、床下換気扇のセールスと取り付け。まぁ鋭い人なら、これを聞いただけで、おいおい大丈夫か、と思っていただけるんじゃないか。

社長はトッチャン坊やそのもの、ケンちゃんシリーズの宮脇康之のような風貌の男で、メシといえばセブンイレブンの赤飯おにぎりを山ほど買ってきて食らっていた。

社員のふたりは、ひとりはブルドッグのような50すぎのおっさん。もうひとりがソフトリーゼントっぽいヘアスタイルの若い男。ふたりとも善人ではあったが、とにかくふたりとも、いや社長を含めて、まっとうな人生を送ってきたタイプではない、それは初日で充分わかった。

仕事は軽のバンに四人が乗り込み、地区を決めて、現地につくとバラバラになってセールスを始める。

もちろんレクチャーは受けてはいたが、売れるとは到底思わなかった。セールストークはさんざん聞かされたが、床下換気扇の有用性は今もってよくわからない。

こんなんだから売れるわけないし、しかも入社後に聞かされたのだが、どうも完全歩合制という。

バイトにたいして完全歩合制なんて聞いたことがない。社員の男たちは「素人がそんなに簡単に売れない。早くて一ヶ月後じゃないか」とかいってる。

とにかく面接の時と話が全然違う。ずっと後年になって、仕事の都合で労働基準法その他もろもろを勉強させられたが、今考えれば、これは完全にアウトである。

でも、当時の自分は、暢気というか、まぁいいや、一週間ぐらいはやってみようや、と気楽に考えていた。本当、馬鹿にも程があるぞ、当時の自分。

案の定、まったく売れないまま一週間が経とうとしていた。

その日はたまたま社長が同行せず、社員の男ふたりとセールスに出かけた。

どうもブルドッグもソフトリーゼントも、社長がいないこともあってやる気がないらしく、昼の二時には切り上げようや、という話になった。

とはいえ会社に帰るわけにはいかない。するとソフトリーゼントの男が、あいつの家に行こう、この近くなんだ、といいだした。

「あいつ」とは社員のことだった。ブルドッグとソフトリーゼントと、実はもうひとりいたのだ。とはいえ自分がバイトに入ってから一度も出社していない。いったい何をやっているのか。

聞けば「あいつ」は麻雀好きが高じて、多額の借金を背負っているらしい。それも利子だけで一日数万円になるという。いったいいくら借りたら、いやどこで借りたらそんな利子の額になるのか。

「あいつ」の家は小綺麗なアパートで、愛想の良い奥さんが気分よく迎えてくれた。

そして肝心の「あいつ」は、テレビの画面に向かっている。時代的にはプレステの時代だったのだが、スーパーファミコンのコントローラーを握りしめて、麻雀ゲームにいそしんでいた。

自分を除く人たちは、信じられないぐらいなごやかに談笑している。「あいつ」も時々その輪に加わり冗談をいったりしている。

窓からは柔らかい陽射しが入り、まるで桃源郷の如き光景だ。

何なんだこれは・・・。

何故「あいつ」は笑いながら麻雀ゲームをやっていられるのか、何故奥さんは毎日数万もの利子を払わなきゃいけないのに芯から楽天的そうな顔ができるのか、何故ブルドッグもソフトリーゼントも、この状況を当たり前のように受け入れているのか。

狂っている。終末的でさえある。この光景を極限の退廃といわずして何といえばいいのか・・・。

帰社する道すがら、自分は社員ふたりに、今日限り辞めます。社長には適当にいっておいてください、と放り投げた。こんな会社、儀礼をつくすまでもない。

一週間働いて、何も売れなかったんだから、当然給料はなし。だから働いたといえるかどうかも怪しい。まるっきり時間を損した、といえなくもない。

しかし今になってみると、損したかどうか微妙だ。こんな普通では見られない光景を見られたわけだから。

それにしても「あいつ」は今どうしているのだろう。別にたいして気になるわけでもないけど。




2008年9月13日土曜日



胸元の開いた服を着た女性を見ると、つい目がいってしまう。

40をすぎて情けない話だが、まぁ根がスケベだからしょうがない。

スケベにも上手い下手があるようで、上手い人になると、ホントに何気なく、さりげなく、胸元に目をやることができるようだ。

ところが自分ときたら、たいして見てるわけでもないのに、まるで凝視してるかのように思われてしまう。こういうのを「下手なスケベ」というのだろう。見ている秒数は「上手いスケベ」と変わらないはずなのに。

ま、上手かろうが下手であろうが、スケベであることには変わりがない。これは大多数の男性に当てはまることだと思う。

ところがである。中にはスケベでない、というか、性欲が極端に少ない人もいるのだ。というかひとりいた。

彼は大学の後輩にあたるのだが、性欲がほぼ皆無というか、そういうことに超然としていた。

性への対象が一般女性以外にあるタイプでもないし、うち解けた間柄にまで隠すようなとんでもない性癖を持っているわけでもなさそうで、もう単純に性欲が薄いとしかいいようがない。

もちろんまったくないわけじゃないが、携帯電話の電波にたとえるなら、圏外とまでいかなくても、アンテナが0本の状態、と思っていただければいい。

性欲がないだけで、彼はけして無気力な人間ではなかった。

大学時代の彼は映画を撮ることに情熱を燃やしていた。そして趣味への探求心もハンパではなかった。それはハタで見ていた自分からすれば、それだけのエネルギーがよく沸いてくるな、と感心するしかないほどで、うっすらと、もしかしたら性欲が表現欲や探求欲に割り振られているだけなのかもしれない、そう考えるしかないほどのパワーであった。

表現欲や探求欲はけして悪いことじゃない。大学生活においてはむしろ非常に重要なことであるとさえ思う。しかしもうひとつ、彼には困った欲望があった。

「名誉欲」というヤツである。

実際、これには少々閉口させられた。いや、おぼろで見ている分にはいいのだが、何かを一緒にやるとなると、彼の名誉欲がチラチラ顔を出してくる。その結果、うまくいくものもうまくいかなくなる。そういうことが何度かあった。

一度、この名誉欲のおかげで、腹に据えかねる事態が起こったことがあり、まぁそれだけじゃあないんだけど、何となく彼と疎遠になってしまった。

それから10年近い年月が経った。

自分はブログを書いていた。といっても日常を綴る生活雑記ではなく、とある趣味について書き殴っていた。

最初は本当に細々とやっていたのだが、そのうち某巨大掲示板にコピペされるぐらいにはなってきた。

ちょうどその頃だろうか。例の彼からメールが来た。

ブログに書いたことのうち、5分の1ぐらいは同じ趣味だった彼にも話したようなことだった。人間の考えなんて10年やそこらで変わるわけがない。だから偶然自分のブログにたどりついて、読み進めるうちにピンと来たのだろう。

しかし自分はいい先輩になれなかった。

私は●●(※アタシのこと)ではありません、人違いでは?というような返信をしてしまった。といっても本当は●●だけど、というニュアンスを含んで書いたつもりだが。

なぜそんな内容のメールを送ったか、理由はいろいろあるが、正直今更、彼に限らず、昔の知人と交友を復活させたい気持ちになれなかったことが一番大きい。

それなら返信などせずに無視すればよかったんじゃないか、と思われるむきもあろう。それはわかっている。

でもどこかで彼のことが引っかかっていたのだ。はっきりいえば、どうしても聞きたいことがあった。

そう、それこそさっき書いた「欲」に関して。

まだ性欲はあまり持ち合わせてませんか?

名誉欲は薄くなりましたか?

また何か新たな欲望が沸いてきましたか?

彼からさらに返信が来た。そして上記のような質問をしようと思った。けどやめた。

どう考えても、彼を満たすような名誉を彼が手にしているとは思えないし、興味本位で聞いてしまうと、ものすごく彼を傷つけてしまうような気がしたのだ。

もう彼と会うことも、メールでもやりとりすることもあるまい。でも本心はやっぱり知りたい。

なぜなら彼は、今まで出会った中で唯一の性欲がない人間だから。そういう人間がいったいどういう人生を送っていくのか、自分の中にある知りたい「欲」は消えないのである。




2008年9月12日金曜日



子供の頃から手先が不器用で、損ばかりしている。

といっても細かい作業が嫌いかといえばそんなことはなく、世代のご多分に漏れず、中学生の頃はガンプラ作りに熱中したし、さきほどには半分仕事、半分趣味みたいな感じでジオラマ「のようなもの」を作ったりもした。

なにぶん指先を細かくコントロールできないもんで、けしてテクニカルなものではないが、それなりに凝ったつくりで幸い好評を得ることができた。

下手の横好きというやつだ。そういや大学が芸術系だったため、他人の課題がおもしろそうに見えてしかたがなかった。どれも細かい作業を必要とするものばかり。

ついつい「手伝おうか」とかいってしまう。もうそりゃいろいろやった。編み物からコンピュータのプログラミングまで。(BASICをつかったごく簡単なものだが)

挙げ句、原稿用紙にして100枚超の卒業論文まで書き上げた。当人は教授に「よくできている」と誉められたらしいが、自分が誉めてもらったわけではないので別にうれしくはなかった。

それはさておき、自分のことになるとさっぱりで、課題もなかなかやらないし、とくに細かい作業を要する課題は最後まで放置したクチだった。

小学生には夏休みやら冬休みというものがあって、必ず自由工作という宿題がでる。これがイヤでイヤでたまらなかった。

夏休みの自由工作など、適当な虫かごを買ってきて、適当に魚やら海藻を色紙で切って、適当に糸でつるして、はい、水族館のできあがり。それですましている。

難儀なのはお題がある時で、たしか小学五年生の時だったか、冬休みの自由工作のお題が凧だった。凧と決められているわけだからいったいどこが「自由」工作なんだ。いい加減にしろ、とか文句ばかりいって、ますますやる気がしない。

いつものように三学期が始まる寸前まで放置していると、そのことをどこからか聞いた親戚が

「凧か。オレがつくってやる。いいのを作ってやるから任せろ」

といいだした。

まぁ大学時代の自分みたいなもんで、おそらく「凧つくりか、おもしろそうだ」と思ったに違いない。こちらとしても渡りに船で、親戚に丸投げした。

できあがった凧は、作ってもらってこんなことをいうのは申し訳ないが、かなり不格好なシロモノであった。てっきり和風の、ディスイズ凧(和風でディスイズはおかしいか)みたいなのができてくると思ったら、当時流行していたゲイラカイトの出来損ないのような仕上がりだったのだ。

何がみっともないといっても、羽根の部分が水色のゴミ袋を流用してあるところで、正直学校に持っていくのが恥ずかしかった。

とはいえ一から作り直す気などさらさらない自分は、ご勝手にも不満足な気持ちで、その凧を持って始業式に向かった。

始業式の翌日、宿題の凧を実際に飛ばしてみましょうということになった。

みんなの作った凧はそれなりによくできており、カラフルな、それこそゲイラカイトをそっくり模擬したものや、歌舞伎役者風の顔が描かれた和凧まで、立派なものばかりだった。ゴミ袋凧とは雲泥の差だ。

だが他人の凧がうらやましいと思ったのはここまで。見栄えのよい、クラスメイトの凧は全然飛ばない。バランスが悪くクルクル回ったり、そもそもどうやっても空中に浮かないものばかり。

一方我がゴミ袋凧はというと、いとも簡単に舞い上がった。みんなの視線が自分の凧に注がれた。

「●●(※アタシのこと)の凧、すげえな。馬鹿にしてたけど、ゲイラカイトより飛ぶじゃねぇか」

一瞬、凧を作ってくれた親戚のほくそ笑む顔が浮かんだ。さすが「凧なら任せろ!」といっただけのことはある。芸術的センスは皆無だが、飛ぶ凧を作るコツを心得た出来に感心した。

本当にこのゴミ袋凧、驚くほどよく飛ぶ。人生の中でこれほど高いところまで凧を飛ばしたことは後にも先にも一度もない。

だんだん有頂天になってきた。どうだ、すごいだろ!

しかし級友のひとことで、そんな気持ちは吹っ飛んだ。

「おい、●●の凧、コンクールに出すのは決まりだな」

たしか小学生を対象とした自作凧のコンクールがあり、おそらくこの宿題も、その予選を兼ねてのものだったのだろう。

急に汗がでてきた。コンクールはイヤだ。だって自分が作ったものじゃない。もしそんなことになったら恥ずかしくて、とてもじゃないがその場にいれない。

三学期が始まったばかりだから当然寒い。なのに小学五年生の自分は手汗をかいていた。周りが感嘆の声をあげればあげるほど、手に汗が滲んでいく。そして凧はさらに上へ上へとあがっていった。

そんな時だった。プツッと小さな音がした後、ゴミ袋凧は遙か彼方に消えていった。

そう、糸が切れたのだ。

クラスメイトを口々に慰めてくれた。が、いうまでもないが、自分の心持ちは安堵に包まれていた。よかった。これで恥ずかしい思いをしなくてすむ・・・・。

凧の糸が切れた。それは文字通り、心の中の、緊張の糸が切れた瞬間でもあった。




2008年9月11日木曜日

記憶の蓋



人は自分が生まれた時代に興味を持つ、というが、どうも自分はその限りではないらしい。

自分の生まれた時代はといえば、グループサウンズ華やかなりし時代だが、グループサウンズは好きで結構調べたりもしたのだが、それ以外の時代背景にはさして興味が沸かない。

思えばおかしな子供時代で、たしか小学五年生の時だったと思うが、夏休みの自由研究にテレビの歴史年表をつくっていったことがあった。かなり丹念に調べ(むろん小学生にしては、だが)、担任の先生にも「こんなにちゃんとしたものだとは思わなかった」と褒めるとも貶すともつかぬ言葉を吐かれたのを今でも思い出す。

テレビの歴史を調べようと思ったのは、昭和30年代にたいする興味からであった。昭和30年代は昭和50年代からすでに一種の桃源郷めいた興味が人々からもたれており、レトロブームなんて言葉も使われたが、今でも「三丁目の夕日」なんかがあれだけの観客動員を誇っている。

これだけ長期間に渡って人々の興味を惹いてるわけだから、もうブームでも何でもないと思う。

それにしても、いくらレトロブームなんて言葉が横溢していたとしても、昭和30年代に強い関心がある小学生なんて、今考えると不気味だ。しかしこれが太古の昔、たとえば戦国時代とか、そういうのが好きな小学生なら普通なわけで、まぁ大昔か近過去かの違いだけともいえる。

そういうことにはやたら早熟だったせいか、興味の対象はいつしか昭和30年代から昭和20年代へ、そしてここ数年は昭和10年代に移ってしまった。

昭和10年代ともなると、いろいろ調べようと思っても資料が極端に少ない。自分が興味があるのは戦時記録などではなく、エンターテインメントや、ごく普通の暮らしに関してなので、意外とそういうのを克明に記録した書物が少ないのだ。

エンターテインメントに関しては瀬川昌久著「舶来音楽芸能史―ジャズで踊って」と色川武大著「唄えば天国 ジャズソング―命から二番目に大事な歌」の二冊にとどめを指す。前者は客観的かつ網羅的に、後者は徹底的に私的に、当時のエンターテインメントの王様であるジャズを中心にしたエンターテインメントが克明に書かれている。

では昭和10年代の庶民の生活、はというと、これは、というような決定的な著物に出会ったことがない。自分が知らないだけかもしれないが、あんまりないのではないか。

とにかくやたら悲惨さが強調されたものは数多くあるのだが。

こうなってくると、自分で証言を得るしかない。ところが以前ここで書いた叔父に話を聞こうと思っても、なかなか話したがらない。

終戦後のことなら、わりと何でも話してくれる。たとえば神戸の、阪急三宮駅の北口付近が闇市だったことなど。

でも戦中の話になると途端に口が重くなる。叔父は昭和14年生まれだから、それなりに記憶があるはずなのに。叔父に限らず実際こういう人は多い。他のことは多弁でも、戦時中のこととなると口を閉ざしてしまう。

しかしこれはものすごい傲慢なことというか、もちろん傲慢なのは自分で、もう想像を絶するようなことの連続だったのだろう。いわゆる記憶に蓋をしている、ということか。それは簡単には蓋はあくはずもない。

自分は戦争は知らない。当たり前だが。しかしやっぱり記憶に蓋をしている出来事がないとはいえない。とはいえ特別多いわけではないとは思うが。

知人でうつになった人がいる。まずカウンセラーがやったのは記憶の蓋をはがすことだったそうだ。それはとても辛いことだと自分にもいっていたが、それはそうだろう。しかし一度蓋をはがしてやらないと、次へ進めないのだそうだ。

もちろん一生健康で、記憶の蓋をこじ開けることなく、幸せに暮らしていけるなら、それに超したことはない。しかしうつに限らず、目の前の壁が高すぎて、かといって回避することもできず、どうしてもその先に進まなければいけない。

記憶の蓋をこじ開けなければ、どうしようもなくなった時、自分ならどうするのだろうと考える時がある。多くはないとはいえ、40年生きてきた分ぐらいはある。

いや、それが何だといわれればそれまでだけれども、別に昭和10年代のことに限らず、趣味をある程度極めようと思うと、その人の奥に潜む、記憶の蓋にまで思いを馳せなければならないのかもしれない。何だかため息がでてくる。